最終更新日 2025-08-18

丹生島城

豊後の丹生島城は、大友宗麟が築いた海上要塞。南蛮貿易の拠点として栄え、フランキ砲「国崩し」で島津軍を撃退。近世城郭へと変貌するも、明治維新で廃城。今もその石垣は歴史を語る。

豊後の海上要塞、丹生島城 ―大友宗麟の野望と戦国時代の国際性―

序章:丹生島城の歴史的意義

豊後国(現在の大分県)臼杵湾にその威容を誇った丹生島城(にうじまじょう)、後の臼杵城(うすきじょう)は、単なる戦国時代の一城郭に留まる存在ではない。それは、九州の覇権をめぐる激しい攻防の舞台であり、南蛮文化が花開いた国際交流の拠点であり、そして中世から近世へと移行する日本の歴史的ダイナミズムを体現する、生きた史料である 1

この城の歴史は、九州六ヵ国の太守として栄華を極め、やがてキリスト教に深く帰依し、激動の生涯を送った戦国大名・大友義鎮(宗麟)の野望と挫折と分かち難く結びついている。宗麟がなぜ父祖伝来の地である府内(現・大分市)を離れ、海に浮かぶ孤島に新たな本拠を築いたのか。その決断の裏には、毛利氏や島津氏といった外部の脅威、家臣団との確執という内憂、そして南蛮貿易がもたらす富と先進技術への渇望が複雑に絡み合っていた。

丹生島城は、その後の歴史の変遷の中で、豊臣系大名による近世城郭への大改修、江戸時代の臼杵藩稲葉氏による泰平の世の府城としての整備、そして明治維新後の廃城と西南戦争の戦火という、時代の荒波をその身に刻み込んできた。その結果、城跡には異なる時代の築城技術が重層的に残り、あたかも日本の城郭史の変遷を辿る博物館のような様相を呈している 2

本報告書は、この丹生島城を戦国時代という視点から多角的に分析するものである。築城の背景に隠された宗麟の深謀遠慮、海城としての卓越した防御思想、南蛮文化との融合、そして歴史的合戦における役割を詳細に解き明かす。さらに、城主の交代に伴う城郭構造の変容と、それが意味する城の役割の変化を考察し、最終的にこの城が現代に何を物語るのかを明らかにしていく。

表1:丹生島城(臼杵城)略年表

和暦

西暦

主要な出来事

弘治2年

1556年

大友義鎮(宗麟)、家臣の小原鑑元らの反乱を機に丹生島へ拠点を移したとする説がある 3

永禄5年

1562年

宗麟が丹生島城の築城を開始したとする通説。この年、宗麟と号す 5

永禄6年

1563年

丹生島城が完成し、宗麟が府内から移り住む 6

天正4年

1576年

宗麟、ポルトガルよりフランキ砲(国崩し)を入手 9

天正6年

1578年

宗麟、臼杵の教会で受洗し、ドン・フランシスコと名乗る 7

天正14年

1586年

豊薩合戦。島津家久軍が丹生島城を包囲するも、宗麟は「国崩し」を用いてこれを撃退(丹生島城の戦い) 4

文禄2年

1593年

大友義統が改易。福原直高が城主となる 4

慶長2年

1597年

太田一吉が城主となり、近世城郭への大改修を開始。三の丸などを増築 4

慶長5年

1600年

関ヶ原合戦後、稲葉貞通が5万石で入封。臼杵藩が成立し、以後稲葉氏15代の居城となる 4

宝暦13年

1763年

城下で大火が発生し、二の丸などが焼失。その後、「見せる城」として再建が進められる 13

明治6年

1873年

廃城令により、一部の建物を除き破却。城跡は臼杵公園となる 8

明治10年

1877年

西南戦争で戦場となり、薩摩軍により一時占領される 4

昭和41年

1966年

大分県史跡に指定される 1

平成13年

2001年

大門櫓が木造復元される 4

平成29年

2017年

続日本100名城(193番)に選定される 4

令和7年

2025年

国の史跡に指定される 2

第一章:海上要塞の誕生 ―築城の背景と謎

第一節:大友氏の本拠地移転 ―府内から臼杵へ

戦国大名・大友宗麟が、鎌倉時代以来の伝統的な本拠地であった府内から、臼杵湾に浮かぶ丹生島へと拠点を移した決断は、彼の治世における最大の転換点であった。この移転は、単一の理由によるものではなく、当時の大友氏が直面していた対外的、対内的、そして経済的な課題を解決するための、極めて戦略的な一手であった。

政治・軍事的背景

当時の大友氏は、九州六ヵ国の守護職と九州探題を兼ね、名実ともに九州最大の勢力を誇っていた 7。しかし、その権勢は盤石ではなかった。西からは、中国地方を平定した毛利氏が関門海峡を越えて北九州へと侵攻し、大友氏の領国を脅かし始めていた 6。これまでの府内の館と、その詰城である高崎山城という体制では、海を渡ってくる新たな脅威に対して防御が脆弱であることは明らかであった 3。宗麟は、海防の重要性を痛感し、より防御に適した新たな拠点を模索する必要に迫られていたのである。

同時に、宗麟は深刻な内憂にも苦しめられていた。弘治二年(1556年)、府内において重臣の小原鑑元らが謀反を起こす(姓氏対立事件)。これは、大友家内部の権力闘争や、旧来の有力家臣団との根深い対立を象徴する事件であった 4 。府内は、これら守旧派の家臣たちの既得権益が複雑に絡み合う土地であり、宗麟が目指す当主への権力集中や革新的な政策を推し進める上で、大きな足枷となっていた 4

経済的野心と地政学的連携

宗麟は、同時代の他の大名に先駆けて、南蛮貿易がもたらす莫大な富と先進的な文化・技術に強い関心を寄せていた 7。府内も貿易港として栄えてはいたが、より水深が深く、大型の南蛮船が直接寄港できる良港を持つ臼杵は、貿易の拠点として遥かに魅力的であった 5。臼杵に拠点を移すことは、貿易の利益を大友氏が直接掌握し、旧来の荘園制に依存した経済体制から脱却して、強力な財政基盤を築くことを意味した。

さらに、日向の伊東氏や土佐の一条氏といった姻戚関係にある勢力との連携を強化する上でも、海上交通の結節点である臼杵は地政学的に極めて有利な位置にあった 8

これらの要因が複合的に絡み合い、宗麟を府内からの移転へと駆り立てた。臼杵への本拠地移転は、単なる首都移転ではなく、旧来の政治的・経済的しがらみを断ち切り、丹生島といういわば「白紙の状態」の土地に、自らの理想とする国際貿易を基盤とした新たな政治・経済都市をゼロから創造しようとする、壮大な社会実験の幕開けであった。それは、守旧派の抵抗に阻まれる府内を捨て、軍事、政治、経済のすべてにおいて刷新を図るという、宗麟の強い意志の表れだったのである。

第二節:築城年を巡る二つの説

丹生島城の築城が開始された年については、史料によって記述が異なり、現在も二つの説が存在する。

一つは 弘治二年(1556年)説 である。これは、イエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラが1557年に本国へ送った書簡や、ルイス・フロイスの記録に基づいている 4 。これらの記録によれば、宗麟は前述した家臣の反乱(小原鑑元の乱)を避けるため、あるいは乱の後に、丹生島へ避難し、そのまま拠点を移したとされる 1 。この説は、本拠地移転の動機として、家中の内紛という政治的要因を重視する見方である。実際に、この時期以降、宗麟が要人との会談などを臼杵で行ったことを示す文書も確認されており、政治的中枢が徐々に移っていた可能性を示唆している 4

もう一つは、より広く知られている 永禄五年(1562年)説 である 5 。これは、江戸時代の軍記物『陰徳太平記』などに記されており、毛利氏との戦いに敗れた宗麟が、海防の必要性を痛感し、本格的な城郭として丹生島城の築城に着手したとするものである 6 。この説は、対外的な脅威という軍事的動機を強調している。

これら二つの説は、必ずしも相互に矛盾するものではない。むしろ、段階的な拠点化と城郭の整備が進められたと解釈するのが最も合理的である。すなわち、弘治年間にまず家臣の反乱を契機として、砦のような比較的小規模な施設が築かれ、宗麟の政治的拠点として機能し始めた 13 。その後、永禄年間に入り毛利氏の脅威が現実のものとなると、その施設を基盤として、島全体を要塞化する大規模な築城工事が行われ、名実ともに宗麟の新たな居城「丹生島城」が完成した、と考えることができる。

第三節:明智光秀縄張り担当説の検証

丹生島城について、しばしば「明智光秀が縄張り(城の設計)を担当した」という説が語られることがある。これは、ユーザーが事前に把握していた情報にも含まれているが、学術的な見地からは、史実として認めることは極めて困難である。

この説は、江戸時代以降に成立した書物に見られるもので、同時代の一次史料の中に、光秀が豊後国に下向し、丹生島城の築城に関与したことを示す具体的な記録は一切存在しない。確かに、光秀が室町幕府15代将軍・足利義昭に仕えていた時期と、宗麟が将軍家と密接な関係を持ちながら築城を進めていた時期は重なる。しかし、それだけをもって両者を結びつけるのは飛躍がある。

この俗説が生まれた背景には、後世の人々が、築城の名手として名高い光秀のイメージと、同じく将軍家と近しい関係にあった宗麟という二人の著名な人物を結びつけ、物語的な面白さを求めた創作の可能性が高いと考えられる。したがって、本報告書においては、明智光秀の縄張り担当説は史実ではなく、後世に生まれた伝説として扱うのが妥当である。

第二章:城郭の構造と防御思想 ―天然の要害と人の知恵

第一節:海城としての地政学的優位性

丹生島城の最大の戦略的価値は、その地形を最大限に活かした「海城」であるという点に尽きる。

地形的特徴と機能

築城当時、丹生島は臼杵湾の最奥部に位置し、北、南、東の三方を完全に海に囲まれ、西側のみが干潮時に現れる干潟によってかろうじて陸地と繋がるという、まさに天然の要塞であった 4。島の周囲は高さ約15メートルにも及ぶ断崖絶壁となっており、兵が容易に取り付くことを許さなかった 5。この地形は、陸からの大規模な攻撃正面を西側の一点に限定させ、防御側が兵力を集中させることを可能にした。

海城の利点は、単に防御面だけに留まらない。平時においては、城に隣接する港が南蛮貿易の拠点として機能し、経済的繁栄をもたらした 20 。そして有事の際には、海路を用いて兵員や兵糧、弾薬といった物資を外部から容易に補給することができた。これは、敵による兵糧攻めを極めて困難にする。さらに、城内には海に直接通じる舟入(船着場)が設けられており、籠城戦が不利になった場合の脱出や、援軍を秘密裏に受け入れるといった戦略的柔軟性をもたらした 19

他の海城との比較

日本の城郭史において、海城は重要な位置を占める。特に「日本三大水城」と称される讃岐・高松城、伊予・今治城と比較することで、丹生島城の独自性がより明確になる。

  • 高松城 は、瀬戸内海の海上交通の要衝を押さえるために築かれ、海水を引き込んだ広大な三重の堀によって城下町までをも防御線に取り込んでいる 24 。政治・経済拠点としての性格が強い、計画的な都市型海城である。
  • 今治城 は、築城の名手・藤堂高虎の設計によるもので、城内に巨大な舟入(港)を設け、海から直接城内の中枢部へアクセスできるという、極めて機能性を重視した構造を持つ 27

    これに対し、丹生島城は、島一つを丸ごと城郭化するという点で、より自然地形への依存度が高い中世的な山城の思想を色濃く残している。一方で、舟入を設けて海を積極的に活用する点は、高虎の今治城にも通じる近世的な海城の先駆けとも言える特徴を併せ持っていた。丹生島城は、まさに中世から近世へと移行する過渡期の思想を体現した、ハイブリッドな海城だったのである。

第二節:縄張と曲輪配置の変遷

丹生島城の縄張(城郭の設計・区画割り)は、約470年の歴史の中で、城主の交代と共にその姿を大きく変えてきた。その変遷は、日本の城郭が持つ意味そのものが、「戦うための砦」から「治めるための政庁、見せるための権威の象徴」へと変化していく過程を如実に物語っている。

大友氏時代(戦国期)

宗麟が築いた当初の丹生島城は、丹生島の険しい自然地形を最大限に活用した、防御第一の中世的な縄張であったと推定される 13。島の最高地点(現在の二の丸跡)に主郭(本丸)を置き、そこから尾根沿いに曲輪を連ねる連郭式の配置が採られていたと考えられる 3。これは、敵の侵攻を段階的に食い止めることを目的とした、純粋な軍事拠点としての思想に基づいている。

福原・太田氏による大改修(織豊期)

大友氏が改易された後、城主となった豊臣系大名の福原直高と太田一吉は、城に革命的な大改修を施した 3。この改修の核心は、

本丸と二の丸の位置をそっくり入れ替えた ことである 3 。彼らは、大友時代の主郭であった島の最高所を二の丸とし、それよりも約3メートル低い、より広くなだらかな場所(現在の本丸跡)に新たな本丸を造成した。

この一見非合理にも思える配置転換は、城郭設計における思想的な大転換を意味する。それまでの常識であった「最も防御に適した最高地点に主郭を置く」という中世的な軍事合理主義を放棄し、「政務の効率性と権威の視覚的演出」という近世的な政治合理主義を優先させたのである。豊臣政権下の大名には、軍事能力だけでなく、領国を安定的に統治する行政官としての能力が求められた。そのためには、儀礼や政務を行うための広大で壮麗な御殿が必要であり、防御には最適でも手狭な山頂部よりも、広く建物を建てやすい場所が本丸として選ばれたのである。これは、豊臣政権下で確立された新たな大名支配のあり方が、地方の城郭設計にまで具体的に反映された証左と言える。

さらに彼らは、城の西側にあった干潟を埋め立てて三の丸を増築し、大手門を現在の位置に移設するなど、城域を大幅に拡張した 4 。これにより、丹生島城は中世の山城から、壮麗な近世城郭へと生まれ変わった。

稲葉氏時代(江戸期)

関ヶ原合戦後に入封した稲葉氏は、この福原・太田氏による縄張を基礎として、さらに修築を重ねて城を完成させた 4。泰平の世が続いた江戸時代、城の役割は完全に藩政の中心地となった。宝暦十三年(1763年)の大火で二の丸などが焼失した際の復興は、実用的な防御機能よりも、城下からどのように見えるかという「見せる」側面が重視されたことが記録からうかがえる 13。城は、外部の敵から内部を守るための「殻」から、内部の権力を外部に示すための「顔」へと、その本質的な役割を変えていったのである。

表2:城主の変遷と城郭の主要な変化

比較項目

大友氏時代(1556年頃~1593年)

福原・太田氏時代(1593年~1600年)

稲葉氏時代(1600年~1871年)

城の性格

戦闘拠点、国際貿易港

近世的政庁、権威の象徴

臼杵藩の藩庁、「見せる城」

縄張の特徴

自然地形を活かした中世的縄張

本丸と二の丸の入れ替え、三の丸増築による城域拡大

織豊期の縄張を継承・整備

主要な曲輪配置

最高所に本丸、尾根沿いに二の丸

低地に新たな本丸を造成、旧本丸を二の丸(詰の城)とする

本丸に天守、二の丸に藩主御殿を配置

石垣の様式

野面積み(自然石を多用)

算木積みを用いた高石垣、巨大な築石を使用

加工度の高い切込接、布積み、亀甲積みなど多様化

主要建造物の特徴

実戦的な櫓、板葺きの可能性

瓦葺きの天守や多聞櫓が林立

泰平の世を反映した壮麗な御殿建築

第三節:石垣・櫓・門に見る築城技術

臼杵城跡は、異なる時代の石垣が随所に残り、その技術的変遷を間近に観察できることから「石垣の博物館」とも称される 2

時代を語る石垣

  • 大友・豊臣期(16世紀末): 空堀周辺に残る石垣は、表面をほとんど加工しない大ぶりの自然石を積み上げた「野面積み」で、荒々しくも堅固な戦国時代の気風を伝えている 3
  • 太田期(文禄~慶長期): この時期、日本の築城技術は飛躍的に進歩した。太田一吉によって築かれた天守台や鉄門桝形石垣は、巨大な築石(つきいし)を用い、隅角部には長方形の石を交互に積む「算木積み(さんぎづみ)」が見られる 2 。これは、より高く、より急勾配の石垣を築くことを可能にした画期的な技術であった。
  • 稲葉氏時代(江戸時代): 泰平の世になると、石垣は実用性だけでなく美観も重視されるようになる。石材は精密に加工され、隙間なく積まれた「切込接(きりこみはぎ)」や、横のラインが整然と通る「布積み(ぬのづみ)」、亀甲模様の「亀甲積み(きっこうづみ)」など、多様な技法が用いられた 3 。一方で、崖の表面に薄い石を貼り付けて石垣のように見せかけた「張りぼて」の箇所も発見されており、もはや実戦を想定していなかった時代の城の性格を物語っている 3

謎の刻印

城内の複数の石垣には、「△」やアルファベットの「L」「H」のように見える謎の刻印が残されている 14。これらが何を意味するのかは解明されておらず、①工事を担当した石工集団の印(符丁)であるとする説、②キリシタン大名であった宗麟が信仰のシンボルとして刻ませたとする説、③城の安寧を願う呪術的な記号(呪符)であるとする説などが提唱されているが、今なお謎に包まれている 31。

現存する古式の櫓

明治の廃城令や西南戦争の戦火を免れ、現在までその姿を留める「畳櫓(たたみやぐら)」と「卯寅口門脇櫓(うとのくちもんわきやぐら)」は、建築史的に極めて貴重な遺構である 6。両者に共通する最大の特徴は、一階と二階の平面の大きさがほぼ同じ「総二階造り(そうにかいづくり)」、通称「重箱造り(じゅうばこづくり)」と呼ばれる古い様式であることだ 3。これは安土桃山時代に流行した構造で、現存する例は全国でも数少ない。

  • 畳櫓: 二の丸に現存する櫓。その名の由来として、壁に干したワラビや芋づる、ヨモギといった非常食を塗り込んでおり、籠城戦の際には壁を崩して兵糧にした、というユニークな伝承が残っている 30
  • 卯寅口門脇櫓: 本丸の搦手(からめて、裏門)である卯寅口を守る櫓。火薬庫としても使われたことから「鉄砲薬櫓」とも呼ばれた 23 。半地下式となっており、堅固な造りが特徴である 34

第三章:城主・大友宗麟と南蛮文化の薫り

丹生島城は、単なる軍事拠点や政庁ではなかった。それは、城主・大友宗麟の精神性を反映した、西欧(南蛮)文化との交流の先進地でもあった。

第一節:キリシタン大名の居城

宗麟は、日本における初期の、そして最も影響力のあったキリシタン大名の一人である。彼が丹生島に本拠を移して以降、臼杵の城と城下町は、九州におけるキリスト教文化の一大中心地として、国際的な繁栄を遂げた 5

イエズス会宣教師ルイス・フロイスらが残した詳細な記録によれば、城内には礼拝所が設けられていたとされる 4 。城下には、宗麟の庇護のもと、教会、キリスト教の修練院(ノビシャド)、育児院、当時としては画期的な西洋式の病院などが次々と建設された 14 。天正六年(1578年)、宗麟自身も臼杵の教会で正式に洗礼を受け、「ドン・フランシスコ」という洗礼名を授かっている 7

この新たなキリシタンの都には、宗麟を慕って府内などから移住してきた多くのキリシタンが集い、ポルトガルや明の商人たちが行き交う、国際色豊かな都市が形成された 5 。丹生島城は、物理的な城壁だけでなく、文化や宗教、思想の交流を促す「文明の窓」としての役割をも担っていたのである。

第二節:最強兵器「国崩し」

宗麟の先進性は、宗教や文化の受容だけに留まらなかった。彼は、ヨーロッパがもたらす最新の軍事技術にも鋭い着眼点を持っていた。その象徴が、丹生島城に配備された大砲「国崩し(くにくずし)」である。

導入と性能

天正四年(1576年)、宗麟は布教に訪れたポルトガルの宣教師を介して、大型の火砲を2門(一説には10門)輸入した 9。これは、当時の日本では極めて珍しい、青銅製の大型後装式(こうそうしき)カノン砲であった 39。後装式とは、砲弾と火薬を詰めた「子砲(しほう)」と呼ばれる薬室部分を砲尾から挿入して発射する仕組みで、砲口から弾薬を詰める前装式に比べて格段に速い発射速度を誇った。この種の砲は、その起源から「フランキ砲」と呼ばれる 40。

宗麟は、試射の際に目にしたその絶大な破壊力と、天地を揺るがすほどの轟音に衝撃を受け、この新兵器を「国をも崩すほどの威力」という意味を込めて「国崩し」と命名した 8

歴史的意義と現存する実物

「国崩し」の導入は、日本の合戦史において画期的な出来事であった。種子島に伝来した鉄砲が個々の兵士の戦闘様式を変えたのに対し、「国崩し」のような大砲は、攻城戦や拠点防衛といった、より大規模な戦術思想そのものに影響を与える可能性を秘めていた 41。それは、後の豊薩合戦において劇的な形で証明されることになる。

宗麟が手にした「国崩し」のうちの一門は、明治維新後、旧臼杵藩主稲葉家から国に献上され、現在、東京の靖国神社に併設されている博物館「遊就館」に実物が収蔵・展示されている 40 。遊就館の記録によれば、この砲はインドのゴアで鋳造されたものとされ、全長2.88メートル、口径9.5センチメートルの青銅製である 45 。現在、臼杵城跡に設置されているものは、この現存する実物を基に製作された精巧な複製品である 6

宗麟によるキリスト教の保護と「国崩し」の導入は、単なる個人的な信仰心や新兵器への好奇心からだけではない。それは、宣教師を介して南蛮貿易の主導権を握り、その経済的利益とヨーロッパの優れた軍事技術という実利を一体のものとして手に入れるための、極めて高度な外交戦略であったと言える。

第四章:存亡を懸けた攻防 ―豊薩合戦と丹生島城の戦い

宗麟の先見の明、すなわち海城の選択と新兵器の導入という戦略が正しかったことは、彼の晩年に訪れた最大の危機において、劇的な形で証明されることになる。

第一節:島津氏の豊後侵攻

天正六年(1578年)、キリスト教の理想郷建設を目指して日向国へ侵攻した大友軍は、耳川の戦いで島津軍に歴史的な大敗を喫した 48 。この敗戦により、田原親賢や角隈石宗といった多くの宿老を失った大友氏の勢力は、急速に衰退の一途をたどる 7

一方、この勝利で勢いを得た島津義久は、九州統一の野望を現実のものとするため、天正十四年(1586年)、満を持して大軍を豊後国へ侵攻させた。これが「豊薩合戦」である。島津軍は破竹の勢いで豊後各地の城を攻略し、その一軍を率いる猛将・島津家久が、大友宗麟が隠居する丹生島城へと迫った 4 。大友氏の命運は、風前の灯火であった。

第二節:臼杵城籠城戦の詳説

籠城と「国崩し」の咆哮

宗麟は、わずか2,000名ほどの城兵と共に丹生島城に籠城し、数で圧倒する島津軍を迎え撃った 11。島津軍は城の西側から猛攻を仕掛け、一時は二の丸までを占拠されるなど激しい攻防が繰り広げられた 51。しかし、丹生島城の真価はここから発揮される。

宗麟は、温存していた切り札「国崩し」を本丸から放った。城内から放たれた鉄の砲弾は、島津軍の陣地に撃ち込まれ、兵士たちをなぎ倒した。それ以上に効果的だったのは、その凄まじい轟音であった。『大友興廃記』には、その砲声が山にこだまし、海に響き渡り、薩摩の猛者たちの肝を冷やさせた様子が記されている 8 。経験したことのない兵器による攻撃に、島津軍の兵士たちは大きな心理的恐怖を抱き、戦意を削がれた 8

戦術思想の勝利

この戦いは、日本の城郭史における一つの転換点であった。島津軍が得意とする、兵力差を活かした力攻めや、伝統的な包囲による兵糧攻めといった戦法が、丹生島城に対しては全く通用しなかったのである。

  1. 力攻めの無力化: 陸からの攻撃は断崖絶壁と堅固な石垣に阻まれ、近づけば城内からの鉄砲や「国崩し」の格好の的となった。
  2. 兵糧攻めの無効化: 三方を海に囲まれているため、完全な海上封鎖を行わない限り、海路からの補給を断つことは不可能であった。

宗麟は、島津軍が得意とする陸戦の土俵で戦うことを避け、自らが築き上げた「海」と「大砲」という新しい戦いの舞台に敵を引きずり込んだ。その結果、島津軍は丹生島城を力攻めすることを断念し、遠巻きに包囲するしかなくなった。

その間に、宗麟からの救援要請を受けた豊臣秀吉が派遣した援軍が九州に上陸。この報を受けた島津軍は、全軍の撤退を余儀なくされ、丹生島城はついに落城を免れた 9 。この籠城戦の成功は、大友氏の滅亡を寸前で食い止め、秀吉による九州平定の道筋をつけるという、極めて重要な歴史的意義を持つ。そして何よりも、それは宗麟の築城思想と技術導入の正しさを証明する、彼の人生の集大成とも言える戦いであった。

第五章:主家の交代と城の変容 ―近世臼杵藩の府城として

豊薩合戦を生き延びた丹生島城であったが、その主は時代の大きなうねりの中で移り変わっていく。城は、戦乱の砦から泰平の世の政庁へと、その役割を大きく変貌させていった。

第一節:豊臣大名による統治と改修

宗麟の死後、家督を継いだ子の大友義統は、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)において敵前逃亡の咎を受け、豊臣秀吉によって改易されてしまう 4 。これにより、鎌倉時代から続いた名門・大友氏は大名としての歴史に幕を閉じた。

大友氏に代わって丹生島城主となったのは、秀吉の家臣たちであった。まず石田三成の縁者である福原直高が、次いで太田一吉が入城した 4 。彼ら豊臣系の大名は、当時の最先端であった織田信長の安土城や秀吉の大坂城を手本とし、丹生島城に大規模な改修を施した 3

この時期、城には瓦葺きの壮麗な天守や多聞櫓が建てられ、石垣はより高く、より堅固なものへと造り替えられた。特に、前章で述べた本丸と二の丸の入れ替えや、三の丸の増築といった縄張の根本的な変更は、この太田一吉の時代に行われたものである 4 。これにより、丹生島城は戦国時代の砦としての面影を残しつつも、大名の権威と統治能力を誇示するための、壮麗な近世城郭へと生まれ変わった。

第二節:稲葉氏十五代の居城

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、天下は徳川のものとなった。戦後、丹生島城には美濃国(現在の岐阜県)郡上八幡から稲葉貞通が5万石で入封し、ここに臼杵藩が成立する 4 。以後、明治維新に至るまでの約270年間、丹生島城(臼杵城)は稲葉氏15代の居城として、藩政の中心地であり続けた 4

稲葉氏の治世は、大規模な戦乱のない泰平の時代であった。城の役割も、軍事拠点としての性格は薄れ、藩の政治と経済を司る行政庁としての機能が中心となった。城郭の維持・修繕は継続的に行われたが、その目的は実戦に備えるためというよりも、藩主の権威を内外に示す象徴的な意味合いが強くなっていった 13

この時代、城下町も大きく整備された。城を中心に、商人たちが住む町人町、その外側を武家屋敷や寺院が取り囲むという、計画的な町割りが進められた 15 。現在も臼杵の市街地に残る、入り組んだ迷路のような道筋は、この稲葉氏の時代に形成された城下町の骨格を今に伝えている 15 。丹生島城は、もはや一人の戦国大名の野望の城ではなく、藩と領民の暮らしの中心に位置する、地域社会の核として存在していたのである。

第六章:時代の終焉と新たな使命

約270年にわたる稲葉氏の治世を経て、丹生島城は幕末、そして明治維新という日本史上最大の変革期を迎える。城としての物理的な命脈は絶たれるが、それは新たな歴史の始まりでもあった。

第一節:明治維新の動乱

廃城令と公園化

明治四年(1871年)の廃藩置県により臼杵藩は消滅。そして明治六年(1873年)、新政府が発布した廃城令に基づき、臼杵城は城郭としての役割を正式に終えることとなった 8。天守をはじめとする31基もの櫓や門など、城内の壮麗な建造物のほとんどは民間に払い下げられ、取り壊された 4。しかし、その一方で城跡は日本で最も早い時期に公園として指定され、「臼杵公園」として市民に開放されるという、新たな道を歩み始めた 2。

西南戦争の戦火

だが、平和な公園としての歴史は、すぐに戦火によって中断される。明治十年(1877年)に西南戦争が勃発すると、臼杵城跡は再び歴史の表舞台に引き戻された 15。旧臼杵藩の士族たち約800名は、新政府軍側に立って「臼杵隊」を結成し、薩摩軍の侵攻に備えて臼杵城跡に籠城した 8。しかし、野村忍介が率いる薩摩軍奇兵隊の猛攻の前に、臼杵城はわずか一日で落城。臼杵の町は薩摩軍に占領された 4。

この籠城戦は、旧藩士たちが守ろうとしたものが、もはや物理的な「城」ではなく、かつての臼杵藩という共同体の記憶と誇りの象徴であったことを示している。その後、政府軍の海からの援軍も到着し、激しい市街戦の末に臼杵城は奪還された 4 。これが、丹生島城が経験した最後の戦いであった。

第二節:史跡としての保存と活用

近代化の波は、城の景観をも大きく変えた。明治二十年(1887年)、城の周囲の海が大規模に埋め立てられ、市街地が造成された 4 。これにより、かつて三方を海に囲まれていた海城としての面影は失われ、現在の丘の上に立つ平山城のような姿となった。

しかし、その歴史的価値が失われることはなかった。昭和四十一年(1966年)に大分県の史跡に指定されると 1 、保存と活用への気運が高まった。平成十三年(2001年)には二の丸の大手門にあたる大門櫓が往時の姿に木造で復元され 4 、平成二十九年(2017年)には、城郭愛好家や専門家によって選定される「続日本100名城」の一つに数えられた 4

そして、令和七年(2025年)3月10日、臼杵城跡はついに国の史跡に指定された 2 。その価値が国レベルで認められた最大の理由は、この城跡が、

  1. 大友氏による、自然地形を活かした中世的な海城
  2. 豊臣系大名による、石垣と瓦を多用した壮麗な近世城郭への大改修
  3. 江戸時代の稲葉氏による、泰平の世の藩庁としての整備
    という、日本の城郭史における重要な変遷の各段階を、一つの場所で具体的に辿ることができる、全国的にも稀有な遺構であると評価されたためである 1。

終章:丹生島城が物語るもの

豊後の海に浮かぶ孤島に築かれた丹生島城の歴史は、戦国時代の軍事技術、政治思想、国際交流、そして文化の変容といった、多様な要素が凝縮された壮大な物語である。

それは、大友宗麟という一人の戦国大名の先進性と野望を体現した城であった。旧来の権力構造から脱却し、国際貿易を基盤とする新たな国家像を夢見た宗麟にとって、丹生島城は理想を実現するための実験場であり、その戦略思想の正しさは、島津の大軍を退けた「国崩し」の咆哮によって証明された。

宗麟の没後、城は豊臣政権による中央集権化の波に乗り、戦闘拠点から統治の象徴へとその姿を変えた。さらに徳川の泰平の世においては、稲葉氏のもとで藩政の中心として静かな時を刻み、近代化の動乱の中では、共同体の記憶を背負って最後の戦いを経験した。

海は埋め立てられ、天守は失われた。しかし、重厚な石垣や古式の櫓は、今なお時代の証人としてそこに在り続ける。春には桜の名所として多くの人々が集うこの場所は 30 、もはや権力者のための城ではない。それは、日本の歴史の大きなうねりをその身に刻み込み、地域の人々の暮らしに寄り添いながら、その多層的な物語を未来へと語り継ぐ、我々の共有財産なのである。国史跡指定を新たな出発点として、この貴重な文化遺産を保護し、その価値を伝えていくことは、現代に生きる我々に課せられた重要な使命と言えよう。

引用文献

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