奥州の要衝、二本松城は畠山氏の居城として栄え、伊達政宗との死闘を繰り広げた。人取橋の戦いを経て落城、畠山氏は滅亡。近世城郭として再生するも、戊辰戦争で再び戦火に。
福島県二本松市、阿武隈山系の裾野に聳える標高345mの白旗ヶ峯。その山頂は時に霧に包まれ、城は古くから「霧ケ城」と称された。また、春には満開の桜が全山を覆い、まるで霞に包まれたかのような絶景を呈することから「霞ヶ城」の雅名でも親しまれている 1 。これらの詩的な異名は、単に自然景観の美しさを表すだけでなく、陸奥国南部の要衝として、数多の興亡と悲劇を見つめてきた二本松城の多層的で複雑な歴史を象徴している。
本報告書は、利用者様が提示された「畠山義継の居城」「伊達政宗による落城」という歴史的断片を起点とし、戦国時代という激動の時代を主軸に据えながら、二本松城の築城から構造の変遷、奥州の政治史における役割、そして現代に至るまでの価値を、専門家の視点から徹底的に解き明かすことを目的とする。
二本松城が日本の城郭史上において持つ核心的価値は、中世に築かれた山城が、時代を経て同じ場所で近世城郭へと姿を変え、その変遷の過程を遺構として明確に留めている点にある 4 。これは東北地方では極めて稀有な事例であり、城そのものが日本の築城技術史、ひいては奥州の政治史の変遷を物語る生きた証人であることを示している。さらに、「霧ケ城」「霞ヶ城」という呼称もまた、深い意味を帯びている。かつて奥州探題として権威を誇った畠山氏が戦国末期にはその実態を掴みかねる存在となり、政治的に「霧」の中のようであったこと。そして、江戸時代に丹羽氏によって完成された城郭都市は、外部から城内の様子が全く窺えない巧妙な防御思想に基づいており、物理的にも「霞」に隠された城であったこと 5 。これらの異名は、城の歴史的性格そのものを暗示しているのである。
本論に入るにあたり、まず二本松城が歩んだ長い歴史の概観を以下の略年表で示す。
年代(西暦) |
主要な出来事 |
応永21年 (1414) or 嘉吉年間 (1441-43) |
畠山満泰が白旗ヶ峯に二本松城を築城したとされる 4 。 |
天正13年 (1585) |
10月8日、粟ノ巣の変。畠山義継が伊達輝宗を拉致し、両名が死亡する 6 。 |
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11月17日、人取橋の合戦。伊達政宗軍が佐竹・蘆名連合軍に大敗を喫するも、辛くも撤退に成功する 7 。 |
天正14年 (1586) |
7月16日、二本松城が開城。城主・畠山義綱は会津へ逃れ、二本松畠山氏は滅亡。伊達氏の支配下に入る 6 。 |
天正18年 (1590) |
豊臣秀吉の奥州仕置により、蒲生氏郷の所領となる。以後、上杉氏、加藤氏と会津領主の支城となる 4 。 |
寛永20年 (1643) |
丹羽光重が10万700石で入封し、二本松藩が成立。以後、明治維新まで丹羽氏の居城となる 4 。 |
慶応4年 (1868) |
7月29日、戊辰戦争により落城。二本松少年隊の悲劇が生まれる 6 。 |
明治5年 (1872) |
廃城令により、残存していた建造物がすべて破却される 5 。 |
平成19年 (2007) |
7月26日、「二本松城跡」として国の史跡に指定される 4 。 |
二本松城の歴史は、その初代城主である二本松畠山氏の歴史と不可分である。この一族は、清和源氏足利氏の血を引く名門中の名門であった。その祖は、鎌倉時代の悲劇の名将・畠山重忠(平姓)の死後、その名跡が絶えることを惜しんだ北条氏の計らいにより、足利義純が重忠の未亡人(北条時政の娘)と婚姻して継承したことに始まる 10 。これにより、畠山氏は源姓足利一門となり、室町幕府において斯波氏、細川氏と並び三管領を輩出するほどの高い家格を誇った 11 。
二本松畠山氏は、この源姓畠山氏の本来の嫡流にあたる家系である 11 。南北朝時代の観応の擾乱において、当主であった畠山高国・国氏親子が足利直義派の吉良氏に敗れて自害 10 。その子・国詮が戦禍を逃れて二本松の地に拠点を構えたのが、奥州における二本松畠山氏の直接的な始まりとされる 11 。彼らは当初、室町幕府の出先機関として奥州を統治する奥州管領(後に奥州探題)に任じられ、絶大な権勢を振るった 12 。
二本松城の築城は、この畠山氏が奥州における拠点を盤石なものとする過程で行われた。第4代当主(一説には第7代)とされる畠山満泰が、それまでの居館であった塩沢の田地ケ岡(平地に築かれた館)から、より防御に優れた天然の要害である白旗ヶ峯へと拠点を移したのがその起源である 4 。築城年代については、応永21年(1414年)説と、より確実視される嘉吉年間(1441-1443年)説の二つが伝えられている 6 。
畠山氏によって築かれた当初の二本松城は、戦時の籠城を主目的とした、典型的な中世の山城であった 5 。標高345mの白旗ヶ峯山頂に主郭である本丸を置き、そこから放射状に伸びる東と南の尾根筋に沿って複数の曲輪を階段状に配置する連郭式の縄張りを基本としていた 5 。
防御の要は、自然地形の巧みな利用にあった。唯一、他の山へと繋がる北西方面の尾根は、巨大な堀切(人工的に尾根を断ち切った空堀)を設けることで敵の侵入経路を遮断 5 。急峻な斜面と相まって、容易に攻め寄せることを許さない堅固な構造であった。この時代の城は、まだ石垣を多用せず、土塁や切岸(斜面を削って急にした崖)が主体の「土の城」であり、政治の中心というよりは、有事の際に立て籠もるための軍事拠点としての性格が極めて強かった。
室町時代を通じて奥州探題の職を世襲し、名門としての権威を保ってきた二本松畠山氏であったが、戦国時代が近づくにつれてその力には翳りが見え始める。中央の幕府権力が衰退するのに伴い、奥州探題という「権威」もまた形骸化し、在地国人の自立化や、伊達氏、蘆名氏といった新興勢力の台頭を抑えきれなくなっていった 12 。もはや畠山氏は、奥州の支配者ではなく、数ある地方豪族の一つへと転落していたのである。
第15代当主・畠山義継の時代には、その苦境は決定的となる。南の蘆名氏、北の伊達氏という二大勢力に挟撃され、領地は次々と蚕食された 12 。天正2年(1574年)には伊達・蘆名連合軍の攻撃を受けて降伏を余儀なくされ、安達郡と安積郡の半分を失うという屈辱を味わっている 12 。一族間の内訌も絶えなかったとされ、領主としての求心力も著しく低下していた 15 。
この畠山氏の衰亡は、単なる一地方豪族の没落に留まらない。それは、奥州において「権威の時代」が終わりを告げ、純粋な軍事力と領国経営能力に裏打ちされた「実力の時代」へと移行したことを象徴する出来事であった。足利将軍家と血縁的に近く、幕府の権威を背景に持つ畠山氏が、自力で勢力を拡大してきた伊達氏の前に屈したことは、旧来の秩序が完全に崩壊したことを意味していた。二本松城を巡る攻防は、この新旧秩序の交代を告げる、時代の転換点だったのである。
二本松城の最大の特長は、中世の山城から近世城郭へと、その姿を劇的に変貌させた歴史の地層が、今なお城跡に刻まれている点にある。この変遷は、城主の交代と、彼らが持ち込んだ中央の最新築城思想を明確に反映しており、城が支配者の権力と軍事思想を映す鏡であることを雄弁に物語っている。
時代区分 |
城主・城代 |
主要な改修内容 |
中世 (室町時代) |
畠山氏 |
白旗ヶ峯の自然地形を利用した中世山城を構築。土塁や堀切が防御の主体 5 。 |
近世移行期 (安土桃山時代) |
蒲生氏郷 (城代) |
本丸直下に穴太積みによる大石垣を導入。織豊系城郭の技術により、近世化が開始される 5 。 |
近世前期 (江戸時代初期) |
加藤氏 |
山麓部分に高石垣を整備し、城の防御力と威容をさらに高める 5 。 |
近世 (江戸時代中期以降) |
丹羽光重 |
城と城下町を一体化した広大な「馬蹄型」総構えを完成。近世城郭としての姿が確立される 5 。 |
畠山氏時代の「土の城」は、豊臣政権期に大きな転換点を迎える。天正18年(1590年)以降、会津領主となった蒲生氏郷の支配下に入ると、城域は山麓へと大きく拡大された。山頂の本丸と山麓の居館部が一体化し、本丸を奥に、二の丸、三の丸を前面に配置する「梯郭式」の平山城へと進化したのである 5 。これにより、城は単なる軍事拠点から、政治・経済の中心地としての機能も併せ持つようになった。
そして寛永20年(1643年)、丹羽光重が二本松藩主として入封すると、城は最終形態へと昇華する。光重は、城と城下町全体を一つの巨大な防御施設と見なす「総構え」の発想を取り入れた。まず、城下を貫いていた奥州街道を南へ付け替え、城の南側に東西に連なる観音丘陵を防塁として城域に取り込んだ 5 。この丘陵には数か所の切通しと門を設け、厳重な警戒線を構築。これにより、城と丘陵に囲まれた広大な武家地は、東にのみ開口部を持つ「馬蹄型」の巨大な要塞空間と化した 5 。この縄張りは、外部から城内の様子を全く窺うことを許さず、鎌倉の地勢にも似た、極めて高い防御性能を誇った。
二本松城の近世化を最も象徴するのが、壮麗な石垣である。本格的な石垣が導入されたのは、蒲生氏郷の時代、天正19年(1591年)頃とされる 5 。本丸直下に築かれたこの大石垣は、自然石を巧みに組み合わせる「野面積み」という技法で積まれており、安土城の石垣を手がけたことで知られる近江の石工集団「穴太衆」によるものと伝えられている 9 。これは、織田信長・豊臣秀吉に仕えた氏郷が、中央の最新築城技術を奥州にもたらしたことを示す動かぬ証拠である。
その後、加藤嘉明が会津領主となった時代には、山麓部分にさらに高石垣が築かれ、城の威容は増していった 5 。そして丹羽氏の時代に大規模な修築が行われ、近世城郭としての姿が完成した 4 。この一連の変遷は、支配者の系譜と築城技術の発展史が刻み込まれた、他に類を見ない「歴史の地層」を形成している。畠山氏(在地領主・中世山城)から蒲生氏(織豊大名・石垣導入)、そして丹羽氏(徳川譜代・総構え完成)へと、支配者の出自と城郭構造の進化は見事に連動しているのである。
丹羽氏時代に完成した二本松城は、数々の堅固な建造物と巧妙な防御施設を備えていた。
二本松城の名が戦国史に深く刻まれるのは、奥州の覇権を目指す若き伊達政宗と、滅亡寸前の名門・畠山義継との間に繰り広げられた死闘においてである。この一連の抗争は、奥州の勢力図を根底から覆す、歴史の大きな転換点であった。
天正13年(1585年)、家督を継いだばかりの伊達政宗は、奥州統一に向けて周辺勢力への侵攻を活発化させていた。特に、裏切りを繰り返した大内定綱の居城・小手森城を攻め落とした際、城内の人間を女子供に至るまで皆殺しにする「撫で斬り」を行ったことは、周辺諸大名に強烈な衝撃と恐怖を与えた 21 。
大内氏と縁戚関係にあった畠山義継は、この政宗の苛烈な戦いぶりに戦慄し、伊達氏への降伏を決意する。しかし、政宗が提示した降伏条件は、領地の大部分を没収するという、事実上の滅亡宣告に等しい過酷なものであった 22 。家臣団からも見限られ、進退窮まった義継は、最後の賭けに出る。同年10月8日、降伏の仲介役を務めた政宗の父で隠居の身であった伊達輝宗に謝意を伝えるため宮森城を訪問した際、会談を終えて見送りに出た輝宗を突如として拉致。人質として二本松城へ連れ去ろうとしたのである 6 。
鷹狩りに出ていた政宗のもとに急報が届き、伊達軍は直ちに追撃を開始。阿武隈川のほとり、粟ノ巣(現在の二本松市平石高田)で義継一行に追いつき、包囲した 21 。しかし、父・輝宗を人質に取られているため、伊達勢は手出しができない。膠着状態の中、突如として銃声が響き渡り、輝宗と義継は共に命を落とした。
輝宗の最期については、史料によって記述が異なり、真相は今なお謎に包まれている。「輝宗が覚悟を決め、『構わずに我ごと撃て』と叫んだ」「政宗が苦渋の末に発砲を命じた」「混乱の中、誰ともなく放った銃弾が偶発的に輝宗に当たった」「義継が輝宗を刺殺し、自害した」など、諸説紛々としている 22 。いずれにせよ、この「粟ノ巣の変」は、政宗に「父の仇討ち」という、二本松城を攻めるための絶対的な大義名分を与える結果となった。
父の非業の死を受け、政宗は直ちに全軍を挙げて二本松城を包囲した 8 。しかし、天然の要害に築かれた城は堅固で、容易には落ちなかった 6 。その間に、政宗の急激な勢力拡大に危機感を抱いた常陸の佐竹義重を盟主として、蘆名氏、岩城氏、相馬氏ら南奥州の諸大名が反伊達連合軍を結成。総勢3万ともいわれる大軍を率いて、二本松城の救援へと向かった 7 。
政宗は、二本松城の包囲に一部の兵を残し、自らは主力の約7000を率いてこれを迎撃。現在の本宮市、瀬戸川にかかる人取橋付近で両軍は激突した 7 。兵力差は4倍以上。戦いは終始連合軍の優勢で進み、伊達軍は次々と部隊が崩され、ついに本陣まで攻め込まれた。政宗自身も鎧に銃弾5発、矢1筋を受けるほどの絶体絶命の危機に陥る 27 。この時、73歳の老将・鬼庭左月斎(良直)が、政宗を逃すために殿(しんがり)を務め、「我は鬼庭なり」と敵中に突入し、壮絶な討死を遂げた 27 。
伊達軍は文字通り壊滅寸前であったが、幸運にも日没によって戦闘は中断された。そしてその夜、連合軍の陣中に「佐竹氏の本国・常陸に里見氏らが侵攻の構えを見せている」との報がもたらされる。これにより、連合軍の中核であった佐竹勢が突如として全軍を撤退させたため、他の諸大名もこれに続き、連合軍は一夜にして瓦解した 28 。政宗は、まさに九死に一生を得たのである。
この人取橋の合戦は、戦術的には政宗の完敗であった。しかし、結果として連合軍の侵攻を食い止め、自軍の壊滅を免れたことは、戦略的には彼の「勝利」であった。この絶体絶命の危機を乗り越えた経験は、若き政宗を精神的に大きく成長させ、周辺大名には「3万の兵力をもってしても政宗を滅ぼすことはできなかった」という強烈な印象を植え付けた 31 。人取橋での敗北は、その後の政宗の覇道を決定づける、極めて重要な「通過儀礼」だったのである。
人取橋の合戦で反伊達連合軍の脅威は去ったものの、政宗はすぐに二本松城を攻略することはできなかった。しかし、強力な後ろ盾を失った城内の士気は著しく低下し、畠山家中は分裂状態に陥っていた 14 。
翌天正14年(1586年)7月、相馬氏の斡旋などもあって、ついに二本松城は無血開城した。幼き当主・畠山義綱(国王丸)は会津の蘆名氏のもとへと逃れ、ここに奥州探題の嫡流として200年以上にわたりこの地を治めた名門・二本松畠山氏は、事実上滅亡した 4 。父の弔い合戦を終えた政宗は二本松城に入り、城代として重臣の片倉景綱、次いで伊達成実を配置。この地を南奥州攻略の重要拠点としたのである 6 。
伊達政宗の手に落ちた二本松城であったが、その支配は長くは続かなかった。天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、伊達氏の勢力拡大を抑えるため「奥州仕置」を断行。これにより二本松城は伊達氏から没収され、会津領に組み込まれることとなった 4 。
これ以降、二本松城は目まぐるしく主を変える。会津の領主となった蒲生氏郷、その後継の秀行。関ヶ原の合戦後は上杉景勝、そして再び蒲生氏(忠郷)、次いで加藤嘉明と、中央政権の動向に翻弄される中で、常に会津若松城の重要な支城として城代が置かれ続けた 6 。この激動の時代こそ、前章で述べた石垣の導入など、城が中世から近世へと大きく姿を変えていった時期にあたる。
長きにわたる支城の時代を経て、二本松城が再び歴史の表舞台に立つのは江戸時代に入ってからである。寛永20年(1643年)、白河藩主であった丹羽光重が10万700石でこの地に移封され、二本松藩が立藩した 4 。ここに二本松城は、初めて独立した藩の政庁「府城」となり、以後、明治維新に至るまでの約225年間、丹羽氏10代の居城として最も安定した時代を迎えることとなる。
初代藩主となった光重は、十万石の大名の居城にふさわしい威容を備えるため、城郭と城下町の大規模な改修に着手した。城内の石垣を修築し、諸門を整備するとともに、城下町の区画整理を断行。第二章で詳述した、観音丘陵を取り込んだ広大な「馬蹄型」総構えを完成させ、現在の二本松市街地の原型を築き上げたのである 4 。
泰平の世を謳歌した二本松藩であったが、その終焉はあまりにも悲劇的であった。慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いを端緒とする戊辰戦争が勃発すると、二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加し、新政府軍と敵対する道を選んだ 16 。
同年7月、板垣退助率いる西軍(新政府軍)が領内に侵攻。この時、藩の主力部隊は白河口などへ出陣しており、城の守りは極めて手薄な状態であった 32 。この兵力不足を補うため、藩は苦渋の決断を下す。本来であれば出陣することのない、数え年12歳から17歳までの少年たちで構成された「二本松少年隊」の動員である 6 。
7月29日、圧倒的な兵力と最新の火器で迫る西軍に対し、少年隊士を含む二本松藩士は必死の防戦を繰り広げた。しかし、衆寡敵せず、城はわずか一日で落城。城内の建造物の多くは戦火で焼失し、家老・丹羽一学らは城内で自刃した 16 。この戦いで、二本松藩は少年隊士14名を含む337名もの戦死者を出し、城は灰燼に帰したのである 6 。
二本松城が歩んだ約450年の歴史は、奥州探題・畠山氏の栄枯盛衰、伊達政宗の覇業の起点、近世大名・丹羽氏による安定統治、そして幕末の悲劇と、日本の歴史における大きな転換点を鮮やかに映し出してきた。
日本の築城史という観点から見れば、その価値は計り知れない。中世の「土の城」から、織豊系の技術を取り入れた「石の城」へ、そして城下町全体を要塞化した近世の「総構え」へと、一つの場所でその構造を劇的に変化させた過程は、日本の築城技術の発展と、中央の政治権力が地方へ浸透していく様を物語る、他に類を見ない貴重な遺産である 4 。
また、戦国史においては、旧時代の権威の象徴であった畠山氏の滅亡と、新時代の覇者・伊達政宗の台頭が交差する、まさに歴史の結節点であった。畠山義継の悲壮な決断が引き起こした「粟ノ巣の変」、そして政宗生涯最大の危機であった「人取橋の合戦」は、奥州の勢力図を塗り替える決定的な出来事であり、二本松城はその中心舞台であった。
戊辰戦争で灰燼に帰した城は、明治以降、製糸工場が建設されるなど近代化の礎となり 6 、現在は「県立霞ヶ城公園」として整備され、市民の憩いの場として、また桜の名所として親しまれている 2 。昭和から平成にかけて復元された箕輪門や本丸石垣は、往時の姿を偲ばせるとともに、平成19年(2007年)には国史跡に指定され、その歴史的価値が公式に認められた 4 。
過去の栄光と悲劇をその身に刻み、二本松城跡は今も白旗ヶ峯に静かに佇んでいる。それは単なる史跡ではなく、時代のうねりの中で生きた人々の記憶を内包し、未来へと継承すべき歴史の証人なのである。