人吉城は相良氏が700年居城とした稀有な城。戦国期は島津氏と死闘、豊臣・徳川へ巧みに対応し存続。幕末には西洋技術の石垣を導入。度重なる災禍を乗り越え再生を続ける。
熊本県南部、九州山地の険峻な山々に抱かれた人吉盆地。その中心を流れる日本三大急流の一つ、球磨川とその支流である胸川の合流点に、人吉城は位置する 1 。この地は、天然の要害であると同時に、球磨川の水運を掌握する交通の結節点でもあり、古来より肥後国南部における戦略的要衝であった 3 。
この城が日本の城郭史上、特異な光を放つのは、その驚異的な歴史の連続性にある。鎌倉時代の元久年間(1204年〜1206年)に相良氏初代・長頼が入城して以来、一度の改易もなく、明治維新に至るまで35代、約670年間にわたり相良氏一族が居城とし続けた 5 。これは薩摩の島津氏、対馬の宗氏などと並び、中世から近世まで同一氏族が本拠を動かさずに存続した、日本史上極めて稀有な事例である 8 。
この七百年という長大な歳月は、決して平穏ではなかった。南北朝の動乱、戦国時代の群雄割拠、そして豊臣政権から徳川幕府へと至る天下の激動。相良氏は、その時々の情勢を冷静に分析し、臣従、降伏、そして時には裏切りという非情な決断さえも厭わず、ただひたすらに「家の存続」という至上命題を追求し続けた。人吉城の歴史的変遷は、まさにこの相良氏の巧みで柔軟な「生存戦略」そのものを、石垣や縄張という物理的な形で体現した物証に他ならない。中世山城の面影を残す構造から、近世城郭としての石垣の導入、さらには幕末期における西洋築城技術の採用へと至る城の姿は、相良氏が時代の変化にいかにして適応し、生き抜いてきたかの軌跡を雄弁に物語っている。本報告書は、「戦国時代」を中核に据えつつ、人吉城の誕生から終焉、そして現代における再生までを追い、その歴史と構造に刻まれた相良氏七百年の智略を解き明かすものである。
人吉城と相良氏の長大な歴史を理解するため、まずその主要な出来事を年表で概観する。
年代 |
主要な出来事 |
典拠 |
建久9年(1198年) |
相良長頼が人吉荘の地頭に任じられる。 |
6 |
元久年間(1204-06年) |
長頼が矢瀬氏を謀殺し、人吉城を拡張。築城中に三日月文様の石が出土し「繊月城」と呼ばれる。 |
5 |
天正年間(1573-93年) |
18代当主・相良義陽が、近世城郭化を目指し大規模な改修を開始。 |
1 |
天正9年(1581年) |
島津氏の侵攻を受け、義陽は降伏。その後、響野原の戦いで討死。 |
5 |
天正15年(1587年) |
豊臣秀吉の九州平定に際し、20代当主・頼房(長毎)が降伏。深水長智の交渉により所領を安堵される。 |
5 |
慶長5年(1600年) |
関ヶ原の戦いで当初西軍に属するが、犬童頼兄の働きで東軍に寝返り、本領を安堵される。 |
5 |
寛永16年(1639年) |
21代当主・相良頼寛の代に、近世城郭としての人吉城が完成。 |
5 |
寛永17年(1640年) |
重臣・相良清兵衛(犬童頼兄)を巡るお家騒動「御下の乱」が発生。 |
13 |
文久2年(1862年) |
城下で発生した「寅助火事」により、城の建造物の多くが焼失。 |
5 |
文久3年(1863年) |
火災後の復旧工事で、西洋技術を用いた「はね出し石垣」が構築される。 |
4 |
明治10年(1877年) |
西南戦争で薩摩軍の拠点となり、官軍との戦闘で残存建造物が全て焼失。 |
5 |
昭和36年(1961年) |
国の史跡に指定される。 |
1 |
平成元年(1989年) |
隅櫓が復元される。 |
5 |
平成5年(1993年) |
大手門脇多聞櫓と続塀が復元される。 |
5 |
令和2年(2020年) |
7月豪雨により城跡が被災。人吉城歴史館も長期休館となる。 |
5 |
令和7年(2025年) |
人吉城歴史館がリニューアルオープン。 |
18 |
相良氏の人吉支配は、鎌倉幕府の権威を背景としつつも、武力と策略をもって開始された。初代・相良長頼は、源頼朝より人吉荘の地頭に任じられると、この地を実効支配していた平頼盛の家臣・矢瀬主馬佑と対峙する 5 。長頼は主馬佑が城の明け渡しを拒むと、「鵜狩り」と称して誘い出し、謀殺するという非情な手段でこれを排除し、その城を手中に収めた 1 。この矢瀬氏の城を拡張・整備したのが、人吉城の原型である。
相良氏による支配の正当性は、この初期の経緯が持つ暴力性を払拭し、新たな秩序を領民に受け入れさせるための物語によって補強されていった。その一つが、吉兆の物語である。長頼が城の修築を行っていた際、三日月形の文様を持つ奇石が出土したと伝えられる 5 。これは吉兆とされ、これに因んで人吉城は「繊月城(せんげつじょう)」あるいは「三日月城」という雅な別名を持つに至った 4 。この伝承は、相良氏によるこの地の支配が天命であり、神仏に祝福されたものであることを示唆する装置として機能した。
一方で、滅ぼされた者への鎮魂の物語も存在する。謀殺された矢瀬主馬佑の母・津賀は、息子の非業の死を嘆き、相良氏を恨んで自害し、その怨霊が祟りをなしたという 5 。これに対し相良氏は、その霊を鎮めるため、城の三の丸に「お津賀の社」を建立した 5 。これは、旧支配者の怨霊を封じ込め、慰撫することで、新たな支配者としての責任を果たし、領内の安寧を祈念する姿勢を内外に示す行為であった。
この「繊月城」の吉兆伝説と、「お津賀の社」の鎮魂伝説は、いわばコインの裏表の関係にある。前者が新たな支配の神聖性と正当性を語り、後者が旧勢力との断絶に伴う禍根を清算する役割を担った。武力と策略によって始まった支配は、これら二つの物語を通じて、領民の心性レベルで安定し、正当化されていったのである。
戦国時代に入ると、人吉城は肥後南部における政治・軍事の中心として、その重要性を一層高めていく。相良氏は周辺の島津氏や大友氏といった強大な勢力に挟まれ、常に存亡の危機に晒されながらも、巧みな外交と軍事行動、そして城郭の近代化によってこの激動の時代を乗り越えていく。
18代当主・相良義陽の時代、相良氏は八代や水俣、芦北地方まで勢力を拡大し、その最盛期を迎えた 10 。義陽は、室町幕府13代将軍・足利義輝から「義」の一字を賜るなど中央の権威とも結びつき、戦国大名としての地位を固めた 1 。この国力の充実を背景に、義陽は天正年間(1573年〜1593年)に人吉城の大規模な改修に着手する 5 。
この改修は、単なる増改築ではなく、城の設計思想そのものを転換させる画期的なものであった。それまでの人吉城は、丘陵上に独立した曲輪群が点在し、それぞれに有力家臣の館が置かれるといった、中世山城特有の分散的な構造であった 1 。これに対し義陽は、自身の居館である「内城(うちじょう)」、すなわち本丸部分を主郭とし、その周囲に他の曲輪を従属的に配置する、より中央集権的な縄張(城の設計)へと造り替えることを目指した 1 。記録によれば、義陽は自ら風水を考慮して城主の館である「御館(みたち)」の場所を定めたとされ、織田信長の安土城などを意識した、強力な権威を象徴する「強い城下町」の建設を構想していた可能性が指摘されている 22 。この義陽の構想が、人吉城が近世城郭へと脱皮する第一歩となったのである。
相良氏の栄華は、しかし長くは続かなかった。南の薩摩では、島津義久が薩摩・大隅・日向の三州統一を成し遂げ、その強大な軍事力は肥後へと向けられ始めた 10 。天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友氏を破った島津氏の勢いは、もはや相良氏が単独で対抗できるものではなかった 1 。
天正9年(1581年)、島津軍は相良氏の重要拠点である水俣城に大軍を差し向け、これを包囲した 10 。城将・犬童頼安は奮戦するものの、衆寡敵せず、相良義陽はついに降伏を決断する 20 。相良氏は、支配下にあった葦北郡を島津氏に割譲し、嫡男の忠房と次男の長毎(後の頼房)を人質として差し出すという屈辱的な条件を飲み、島津氏に臣従することとなった 5 。
相良氏の悲劇はこれで終わらなかった。島津氏の麾下(きか)に組み込まれた義陽は、島津氏の敵対勢力である阿蘇氏を攻撃するため出陣する。しかし、響野原(ひびきのばる)において、阿蘇氏の智将・甲斐宗運(かいそううん)の巧みな奇襲戦法の前に敗北、義陽自身も壮絶な討死を遂げた 12 。当主を失い、領土を削られ、強大な島津氏の支配下に置かれた相良氏は、まさに存亡の淵に立たされたのである 11 。
絶体絶命の状況に陥った相良氏であったが、外部環境の激変を好機と捉え、起死回生の道を模索する。その鍵を握ったのは、当主以上に有能な家臣団の存在であった。
天正15年(1587年)、天下統一を目指す豊臣秀吉が、島津氏を討伐するため九州へ大軍を差し向けた(九州平定)。義陽の子で家督を継いだ相良頼房(さがらよりふさ、後の長毎)は、当初島津方として抵抗したものの、秀吉軍の圧倒的な物量の前に降伏する 5 。ここで家臣の深水長智(ふかみながとも)が、その卓越した外交手腕を発揮する。彼は巧みな交渉の末、秀吉から直接、相良氏が独立した領主として人吉の旧領を安堵されるという、奇跡的ともいえる成果を勝ち取ったのである 5 。この危機からの脱出は、相良氏の歴史における大きな転換点となった。これを機に、人吉城は本格的な石垣造りの近世城郭へと改修が進められ、城下町の整備も開始された 27 。
相良氏の真骨頂が発揮されたのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いである。頼房は、豊臣政権下で恩義のあった石田三成に味方し、西軍として伏見城攻めや大垣城の守備に参加した 5 。しかし、9月15日の本戦で西軍が壊滅したとの報が届くと、事態は一変する。重臣の犬童頼兄(いんどうよりやす、後の相良清兵衛)は、主家存続のため、驚くべき決断を下す。彼は東軍の井伊直政と密かに内通し、同じく大垣城に籠っていた秋月種長らと共に東軍への寝返りを実行。城内にいた西軍の将、垣見一直らを殺害し、その首を徳川家康に差し出して降伏したのである 12 。この土壇場での功績が家康に認められ、相良氏は西軍に与しながらも改易を免れ、2万2千石の所領を安堵された 5 。これにより、相良氏は人吉藩として近世大名の仲間入りを果たし、七百年にわたる支配を継続させることができた。
戦国末期における相良氏の生存は、当主の決断力もさることながら、変化する情勢を的確に読み、主家を生き残らせるためならば非情な手段さえ厭わない、深水長智や犬童頼兄といった極めて有能な家臣団の現実主義的な判断と実行力に大きく支えられていた。人吉城の存続は、彼ら家臣団の智略と胆力の賜物でもあったのである。
人吉城は、その長大な歴史の中で、時代の要請に応じて構造を変化させてきた。そこには、球磨川の自然地形を巧みに利用した中世以来の知恵と、戦国から江戸期にかけての築城技術の進歩、さらには幕末に至って導入された西洋の技術までが、地層のように積み重なっている。
人吉城の縄張は、丘陵上に本丸、二の丸、三の丸といった中枢部を階段状に配置し、山麓の平地に藩主の居館(御館)や家臣屋敷を置く「梯郭式平山城」に分類される 2 。日本三大急流に数えられる球磨川と、その支流である胸川を天然の外堀として活用しており、特に城の北と西は川によって完璧に防御されている 2 。
城の中心である本丸には、権威の象徴である天守は築かれなかったと伝えられている 4 。代わりに望楼(物見櫓)や、信仰の場である護摩堂が置かれていたという 8 。これは、華美な天守よりも実利を重んじる相良氏の気風を反映しているとも、あるいは2万石余りの小藩としての財政的制約があったとも考えられる。
特筆すべきは、水運の積極的な活用である。城の北側、球磨川に面した石垣には、「水ノ手門」と呼ばれる城門や複数の船着き場が設けられていた 1 。これにより、城は川を通じて物資の搬入や兵員の移動を容易に行うことができ、兵站線・交通路として球磨川を城の機能の一部に組み込んでいた 36 。
人吉城の遺構の中で、最も独創的で注目すべきものが、御館の北面に残る「はね出し石垣」である 1 。これは地元で「武者返し」とも呼ばれるが、熊本城の石垣のように反り(勾配)で登攀を阻むものではなく、石垣最上部の石(天端石)を庇のように外側へ突き出して積む「槹出(はねだし)工法」が用いられている 15 。
この特殊な石垣は、文久2年(1862年)に城下を襲った「寅助火事」の後に築かれたものである 8 。この大火で石垣の上にあった長櫓が焼失したため、その再建に代わり、防火と防御の機能を兼ね備えた石垣として構築された 2 。敵が石垣を登ってきても、この突出部が物理的な障害となり、上からの攻撃を容易にする構造となっている。
この「はね出し工法」は、幕末期に江戸湾防衛のために築かれた品川台場や、箱館の五稜郭といった西洋式城郭(特に稜堡式城郭)で採用された最新技術であった 2 。日本の伝統的な城郭(在来城郭)の改修にこの技術が応用されたのは、全国で人吉城が唯一の事例であり、その規模においても最大級である 1 。この石垣は、人吉藩が内陸の小藩でありながら、異国船の来航という国際情勢の緊迫化を背景に、西洋の軍事技術に強い関心を持ち、情報収集と導入を進めていたことを示す、極めて重要な物証と言える 41 。
城郭名 |
築造年代 |
主な目的 |
構造的特徴 |
人吉城 |
文久3年(1863年) |
防火、防御(在来城郭の改修) |
石垣最上部に「はね出し」を設置。和式城郭への洋式技術の応用例。 |
品川台場 |
嘉永6年(1853年) |
海防(異国船砲撃への備え) |
稜堡式の洋式砲台。石垣の上部に「はね出し」が見られる。 |
五稜郭 |
元治元年(1864年)完成 |
北方防備、政庁 |
本格的な星形稜堡式の洋式城郭。石垣に「はね出し」を採用。 |
人吉城跡に隣接する人吉城歴史館の敷地内には、全国的にも他に類例を見ない、極めて珍しい遺構が現存している。それは、石造りの「地下室」である 6 。
この地下室は、発掘調査によって発見されたもので、東西約6メートル、南北約5.2メートル、深さ約3メートルという規模を持つ 2 。内部には石積みの階段が二か所設けられ、さらに西側中央部には深さ2.3メートルの井戸が掘られており、常に水を湛えている 2 。
この特異な遺構は、江戸時代初期に藩の権力を一手に握った重臣・相良清兵衛(犬童頼兄)の屋敷跡から発見された 37 。当時の絵図と照合すると、屋敷内にあった二階建ての「持仏堂」と記された建物の真下に位置することが判明している 15 。その用途については、籠城に備えた食料や武具の貯蔵庫であったとする説、藩主に対する謀反などを企てるための秘密の会合場所であったとする説、あるいは井戸が持つ宗教的な意味合いから、特殊な儀式を行うための施設であったとする説など、様々な推測がなされているが、未だ明確な結論は出ていない。いずれにせよ、井戸を備えた石造りの地下室という構造は他に例がなく、人吉城の謎多き一面を象徴する貴重な遺構である。
関ヶ原の戦いを乗り越え、人吉藩として存続を許された相良氏は、江戸時代の泰平の世を迎える。人吉城は藩庁として整備され、城下町は繁栄したが、その一方で藩の内部では深刻な権力闘争も発生した。
初代藩主となった相良頼房(長毎)は、藩政の基礎固めに着手。父・義陽が始め、豊臣政権下で本格化した人吉城の近世城郭化事業は、その子である2代藩主・相良頼寛の代に引き継がれた 43 。そして寛永16年(1639年)、ついに城は完成し、現在我々が見ることのできる石垣群を主体とした近世城郭の姿が整ったのである 4 。
藩庁が置かれた人吉城を中心に、城下町も計画的に整備された。武家屋敷や町人地が区画され、その町並みは「九州の小京都」とも称されるほどの発展を見せた 20 。また、相良氏は文化の保護にも熱心で、特に人吉の惣鎮守である青井阿蘇神社を篤く崇敬した 45 。頼房の命により慶長年間(1596年〜1615年)に造営された壮麗な社殿群は、桃山文化の華やかさと球磨地方独自の建築様式が融合した傑作であり、後に熊本県で初となる国宝に指定されている 1 。
藩政が軌道に乗り始めた矢先、人吉藩は深刻なお家騒動に見舞われる。事件の中心人物は、関ヶ原の戦いで主家を救った最大の功労者、重臣・相良清兵衛(犬童頼兄)であった 50 。彼は藩政の確立に絶大な功績を挙げたが、次第にその権勢は藩主を凌ぐほどになり、専横が目立つようになった 13 。
寛永17年(1640年)、2代藩主・頼寛は、もはや制御不能となった清兵衛の専横を幕府に訴え出るという異例の手段に打って出た 14 。これを受けて幕府は清兵衛を江戸へ召喚し、裁定の結果、津軽藩への流罪(事実上の強制隠居)を命じた 42 。
しかし、事件はこれで収まらなかった。国元の人吉では、清兵衛の養子・犬童頼昌らが、これは藩主による謀略であり、一族が誅殺される前触れだと邪推。藩主からの使者を殺害し、清兵衛の屋敷、通称「御下(おしも)屋敷」に一族郎党と共に立てこもったのである 14 。藩は直ちに討伐の兵を差し向け、屋敷を取り囲んで激しい戦闘となった。最終的に、頼昌らは屋敷に火を放ち、女子供を含む一族121名が討死または自害するという凄惨な結末を迎えた 14 。この事件は、屋敷の名を取って「御下の乱」と呼ばれ、藩政初期に大きな爪痕を残した。
江戸時代を通じて、人吉城は二度にわたる大火に見舞われた。一度目は享和2年(1802年)の城内からの出火、二度目は文久2年(1862年)に城下の鍛冶屋から出火し、城と城下の大半を焼き尽くした「寅助火事」である 1 。
特に寅助火事の被害は甚大で、城内の櫓や門、御殿など、建造物のほとんどが焼失した 8 。藩の財政は逼迫し、復旧のために薩摩藩などから多額の借金をすることになった 51 。この火災からの復旧過程で、第三章で詳述した西洋技術を用いた「はね出し石垣」が構築されるなど、人吉城は災禍を乗り越えるたびに新たな姿へと生まれ変わっていったのである。
徳川の世が終わりを告げ、日本が近代国家へと歩みを進める中で、人吉城もまたその役割を終える時を迎える。しかし、城は物理的な終焉の後、新たな価値を与えられ、現代に至るまで地域の象徴として生き続けている。
明治4年(1871年)の廃藩置県により人吉藩は消滅し、人吉城も廃城となった 5 。城としての歴史に幕を下ろした人吉城に、最後の戦いが訪れたのは明治10年(1877年)の西南戦争であった。
熊本城の攻略に失敗し、敗走してきた西郷隆盛率いる薩摩軍は、人吉を新たな拠点とした 8 。廃城となっていた人吉城は薩摩軍の本営の一つとなり、城内では弾薬の製造も行われたという 5 。これに対し、政府軍(官軍)は人吉城の対岸、球磨川北岸の村山台地に砲台を築き、城内めがけて猛烈な砲撃を開始した 55 。市街地は戦場と化し、激しい戦闘の末に薩摩軍は敗走。この戦火により、寅助火事の後に再建された建物も含め、人吉城の建造物は堀や石垣などを残して完全に焼失した 5 。唯一、堀合門(ほりあいもん)だけが市内の民家に移築されて難を逃れ、現存している 1 。
全ての建物を失い、石垣だけが残された人吉城跡であったが、近代以降、その歴史的価値が再評価される。城跡は「人吉城公園」として整備され、市民の憩いの場となるとともに、昭和36年(1961年)には国の史跡に指定された 1 。
史跡指定を契機に、往時の姿を取り戻すための復元整備事業が始まる。平成元年(1989年)には、球磨川と胸川の合流点を見下ろす要所にあった隅櫓が、古写真などの史料に基づいて木造で復元された 5 。続いて平成5年(1993年)には、城の正門であった大手門の脇を固める多聞櫓と、それに続く長塀が復元され、城跡の景観は大きく向上した 2 。さらに平成17年(2005年)には、城跡に人吉城歴史館が開館し、人吉城と相良氏の歴史を総合的に学ぶ拠点となっている 5 。
平成から令和へと時代が移り、人吉城は新たな試練に直面する。令和2年(2020年)7月、記録的な豪雨が人吉・球磨地方を襲い、球磨川が氾濫。甚大な被害をもたらした 58 。
この「令和2年7月豪雨」により、人吉城跡も石垣の一部が崩落するなど大きな被害を受けた 18 。人吉城歴史館も1.5メートルを超える浸水に見舞われ、収蔵品の一部が被災し、長期休館を余儀なくされた 5 。
しかし、この災禍に対し、行政と市民、そして全国からの支援が集まり、懸命な復旧作業が進められた。そして豪雨災害から5年という節目にあたる令和7年(2025年)7月11日、人吉城歴史館は展示内容を一新し、リニューアルオープンを果たした 19 。
人吉城の歴史は、江戸時代の大火、西南戦争の戦火、そして令和の豪雨災害と、度重なる「破壊と再生」の繰り返しであった。しかし、その根底にある石垣や土地の記憶は残り続け、時代時代の価値観に基づいて新たな意味(藩庁、史跡公園、観光・学習拠点)を与えられながら、その都度再生を遂げてきた。物理的な建造物の有無を超え、人吉城は地域のアイデンティティの中核として存在し続ける「永続性」を、その歴史自身が証明しているのである。
人吉城の七百年にわたる歴史は、単一の城郭の物語に留まらない。それは、激動の日本史の縮図であり、相良氏という一族が、いかにして時代の荒波を乗り越えてきたかを示す壮大な叙事詩である。
鎌倉時代の草創期から、戦国の動乱、泰平の江戸期、そして近代の終焉と現代の再生に至るまで、人吉城は常に相良氏の、そして人吉・球磨地方の中心にあり続けた。その歴史は、相良氏の巧みな生存戦略、危機を好機に変えた有能な家臣団の活躍、そして時代の変化に柔軟に対応し続けた驚くべき適応力の物語であった。
城郭の構造に見られる技術の積層性は、この適応力の物証である。中世的な縄張の骨格に、近世的な石垣の肉体をまとい、幕末には西洋技術という新たな鎧を付け加えた。特に「はね出し石垣」の存在は、人吉が単なる山間の「隠れ里」ではなく、常に外部世界と接続し、最新の情報を取捨選択していた先進性の証左に他ならない。
度重なる火災や戦火、そして近年の未曾有の自然災害によって、城の建造物は幾度となく失われた。しかし、そのたびに人吉城は、石垣という不屈の骨格の上に、地域の象徴として蘇ってきた。それは、この城が単なる軍事施設や政治の拠点であっただけでなく、相良氏が育んだ文化(青井阿蘇神社に代表される)や、人々の暮らしの中心として、この地のアイデンティティそのものと深く結びついてきたからに他ならない。
七百年の時を経て、今なお人吉の地にどっしりと根を張る人吉城跡。その石垣の一つひとつが語りかけるのは、力だけでは生き残れない乱世の厳しさと、変化を恐れず未来を見据えることの重要性である。過去を記憶し、未来へと教訓を伝える歴史遺産として、人吉城はこれからも普遍的な価値を放ち続けるであろう。