最終更新日 2025-08-19

仏殿城

四国の十字路に築かれし仏殿城は、南北朝より戦乱に翻弄され、長宗我部氏に落城。悲劇を刻み廃城となるも、現代に模擬天守として蘇り、地域の歴史を語り継ぐ。

伊予国東端の要衝・仏殿城(川之江城)の興亡史 ― 四国の十字路が見つめた動乱の三百年間

序章:四国の十字路に築かれた城

伊予国(現在の愛媛県)の歴史を語る上で、その最東端に位置した仏殿城、現代の名で言うところの川之江城の存在を看過することはできない。この城は、単なる一地方の城郭に留まらず、四国全体の政治・軍事動向を映し出す鏡のような存在であった。その理由は、何よりもまず、その特異な地理的条件に求められる。

仏殿城が築かれたのは、伊予、讃岐(香川県)、阿波(徳島県)、土佐(高知県)の四国四カ国の国境が複雑に入り組む、まさに「四国の十字路」とも呼ぶべき交通の要衝であった 1 。瀬戸内海に面し、水陸交通の結節点であるこの地は、平時においては経済的な利益をもたらす一方、乱世においては周辺勢力にとって垂涎の的となる戦略的価値を秘めていた。この地理的宿命こそが、仏殿城を南北朝時代から戦国時代、そして安土桃山時代に至るまで、絶え間ない攻防戦の舞台へと引きずり込み、数多の将兵の血でその土を濡らすことになった根源的な要因である。城の歴史は、その「場所」によって運命づけられていたと言っても過言ではない。四国に中央集権的な支配者が不在であった時代、国境線は常に緊張をはらむ最前線であり、仏殿城はその最前線そのものであった。伊予の守護・河野氏にとっては讃岐の細川氏や土佐の長宗我部氏の脅威を直接受け止める防波堤であり、同時に敵方にとっては伊予侵攻の橋頭堡となりうる、極めて重要な拠点だったのである。そして、この「最前線」としての役割は、天下が統一され国境線の意味が失われた近世において、その存在意義を失い廃城に至るという必然の結末をもたらすこととなる。

本報告書は、この仏殿城について、戦国時代を中心にその歴史を徹底的に調査し、まとめるものである。なお、本城の名称は、築城の経緯に由来する歴史的な呼称である「仏殿城」を主として用い、現代の一般的な呼称である「川之江城」を併記する 4 。また、現在の所在地は愛媛県四国中央市川之江町であり、隣接する東予地域の主要都市である新居浜市ではないことを冒頭で明確にしておきたい 1 。この地域には金子城(新居浜市)など、歴史的に重要な城郭が他にも存在するため、正確な位置の特定は歴史的文脈を理解する上で不可欠である 8

本報告書を通じて、一城郭の興亡史が、いかにして時代の大きなうねりを反映し、またその中で翻弄されていったのかを明らかにしていく。

第一章:仏殿城の起源 ― 名前の由来と南北朝の動乱

仏殿城が歴史の舞台に登場するのは、日本全土が南朝と北朝に分かれて争った南北朝の動乱期である。しかし、その土地の記憶は、城が築かれる以前にまで遡る。城の特異な名称は、その起源を雄弁に物語っている。

第一節:築城以前の鷲尾山と「仏殿」の由来

仏殿城という名称の由来は、城が築かれた鷲尾山(現在の城山)に、もともと仏堂、あるいは仏閣が存在したことによる、というのが通説である 2 。城郭が築かれる際に、既存の仏堂を城内に取り込んだ、あるいはその跡地に築かれたためにこの名がついたと伝えられている。

この仏堂が具体的にどの寺院であったかについては、『伊豫温故録』に示唆に富む記述が見られる。それによれば、鷲尾山には元々「仏法寺」という寺院が存在したが、延元年間(1336年〜1340年)に土肥義昌が城を築くにあたり、現在の場所(四国中央市川之江町)に移されたという 10 。この伝承が事実であれば、「仏殿城」という名は単なる通称ではなく、城の成り立ちそのものを表す固有名詞であったことになる。

この「聖地の軍事要塞化」という現象は、中世日本において決して珍しいことではない。寺社はしばしば、見晴らしが良く、人の集まる交通の要地に建立された。それは布教や信仰の場として理想的な立地であったが、同時に軍事的な観点からも極めて有利な地形であった。監視拠点として、あるいは兵站線や支配の結節点として、その価値は計り知れない。築城を命じた河野氏や実行者である土肥義昌は、鷲尾山の軍事的価値を見抜き、既存の宗教施設を移転させることで、効率的に要塞を構築したと考えられる。この行為は、宗教的権威よりも世俗的・軍事的権力が優位に立ち始めた南北朝時代の社会変動を象徴する出来事とも解釈でき、聖地がもはや不可侵の領域ではなく、戦略的資源と見なされるようになった時代の変化を反映している。

第二節:建武の新政と伊予国の情勢

仏殿城築城の直接的な背景には、南北朝の動乱期における伊予国の緊迫した政治・軍事状況があった。後醍醐天皇による建武の新政が破綻し、京を追われた南朝と、足利尊氏が擁立した北朝との対立が全国に拡大する中、伊予国もその渦中にあった。

伊予国の守護であった河野氏は、古くから伊予に根を張る名門であり、この動乱においては南朝方として行動した。一方、四国の東部、特に讃岐国には、足利尊氏に与して幕府の重鎮となった細川氏が強大な勢力を築いていた。北朝方である細川氏は、四国における勢力拡大を目指し、隣国である伊予への侵攻を絶えず窺っていた 1 。伊予の河野氏と讃岐の細川氏との対立は、南朝と北朝の代理戦争の様相を呈し、両国の国境地帯は常に軍事的な緊張状態に置かれていたのである 12

第三節:土肥義昌による築城

このような状況下で、伊予の太守であった河野氏は、讃岐細川氏の侵攻に備えるため、国境防衛線の強化を急務とした。その一環として、伊予の最東端に位置する鷲尾山に新たな城を築くことが決定され、その任に当たったのが部将の土肥義昌であった 1

築城年については、複数の資料で若干の異同が見られる。延元二年/建武四年(1337年)とする説が最も一般的であるが 1 、1334年 4 、暦応元年/延元三年(1338年) 5 などの説も存在する。いずれにせよ、1330年代後半、河野氏と細川氏の対立が激化する中で築かれたことは間違いない。

築城者である土肥氏は、元をたどれば相模国(神奈川県)を本拠とする武士団であり、源平合戦などで活躍した土肥実平が著名である。伊予の土肥氏がその一族の流れを汲むかどうかは断定できないものの、河野氏の有力な配下として、国境防衛という極めて重要な任務を託されるほどの存在であったことが窺える 18

第四節:南北朝の争乱と最初の落城

国境の砦として誕生した仏殿城は、その役目を果たすべく、築城後まもなく戦火に包まれることとなる。築城からわずか5年後の興国三年/康永元年(1342年)、北朝方の細川頼春が七千と号する大軍を率いて讃岐から伊予に侵攻した 5 。その最初の攻撃目標とされたのが、国境にそびえる仏殿城であった。

城主・土肥義昌は、わずか数百の兵で籠城し、果敢に防戦した。金谷経氏らが率いる水軍の支援も得て、十日余りにわたって細川軍の猛攻を凌いだと伝えられている 5 。しかし、圧倒的な兵力差はいかんともしがたく、ついに城は陥落。義昌は城を落ち延びたとされる 11

この戦いの後、細川氏は一時的に伊予から兵を引いたため、仏殿城は再び河野氏の支配下に戻った。しかし、この最初の攻防戦は、仏殿城がその後、両氏による度重なる争奪戦の舞台となる宿命を決定づけるものであった。南北朝の動乱を通じて、仏殿城はその戦略的重要性が故に、常に戦いの最前線に立ち続けることになったのである 5

第二章:戦国乱世の渦中へ ― 城主の変遷と絶え間なき攻防

応仁の乱(1467年〜1477年)を契機に、日本は本格的な戦国時代へと突入する。守護大名の権威は失墜し、各地で国人領主や戦国大名が台頭する下剋上の世となった。四国の十字路に位置する仏殿城も、この乱世の渦に飲み込まれ、城主の目まぐるしい交代と、絶え間ない攻防の歴史を刻んでいく。

第一節:妻鳥氏の時代と在地領主の動向

南北朝時代の動乱が収束した後、仏殿城の歴史はしばらく記録の上で静寂を保つが、戦国期に入ると、新たな城主として妻鳥(めんどり)氏の名が浮上する。妻鳥采女(うねめ)や妻鳥友春といった人物が城主であったことが記録されている 3

妻鳥氏は、その姓が現在の四国中央市寒川町に残る「妻鳥」という地名と一致することから、この地域に根を張った在地領主であった可能性が高い 5 。彼らは伊予守護である河野氏の支配下にありながら、国境地帯において一定の独立性を保っていたと考えられる。その軍事力を示す逸話として、元亀三年(1572年)に阿波の三好長治が侵攻してきた際、これを撃退したという記録が残っている 5 。このことは、妻鳥氏が単なる城代ではなく、国境防衛の一翼を担う実力者であったことを示唆している。

第二節:長宗我部元親の影と城主交代劇

16世紀後半、土佐国に長宗我部元親が登場すると、四国の勢力図は一変する。元親は「一領具足」と呼ばれる半農半兵の兵士団を率いて破竹の勢いで土佐を統一し、その矛先を阿波、讃岐、そして伊予へと向けた。仏殿城が位置する伊予東部は、長宗我部氏の侵攻圧力を真っ先に受ける地域となった。

この新たな強大な勢力の台頭は、仏殿城主・妻鳥友春の運命を大きく揺さぶる。主君である河野氏の権威と軍事力は、長年の戦乱により衰退しており、もはや東予の国境地帯を守り切る力はないと判断したのかもしれない。在地領主にとって、遠い主君よりも、目前に迫る強大な軍事力に従う方が、所領と一族の安泰を確保する上で現実的な選択であった。妻鳥友春は、主君・河野氏に背き、長宗我部元親に内通するという道を選ぶ 20

この裏切りは、河野氏にとって東部防衛線の崩壊を意味する重大事であった。激怒した河野氏は、配下の勇将・河上但馬守安勝(かわかみたじまのかみやすかつ)に仏殿城の討伐を命じた 5 。天正七年(1579年)前後のこととされるこの戦いで、仏殿城は河上安勝によって攻め落とされ、妻鳥氏は追放された。そして、城は新たに河上安勝の居城となった 5 。この一連の出来事は、単なる主従関係の破綻や在地領主同士の争いに留まらない。その背後には、衰退する旧来の権力者である河野氏と、勃興する新興勢力である長宗我部氏との間で繰り広げられる、四国の覇権をめぐる代理戦争という側面があった。仏殿城は、その縮図ともいえる舞台となったのである。

第三節:土佐勢の猛攻と落城の悲劇

河上安勝が城主となったものの、長宗我部元親の伊予侵攻の勢いは止まらなかった。天正十年(1582年)、元親は四国統一の総仕上げとして、大軍を率いて伊予に本格侵攻を開始。その進路上に位置する仏殿城は、再び激しい戦火に見舞われることとなった 5

城主・河上安勝は、河野氏の忠臣として城を固守し、長宗我部軍の猛攻に対して奮戦した。しかし、衆寡敵せず、ついに城は陥落。安勝は城に火を放ち、燃え盛る炎の中で自刃して果てたと伝えられている 5 。ただし、安勝の死については、単なる戦死ではなく、謀略によって殺害されたとする説も存在し 5 、その最期は謎に包まれている。

この落城の際に、一つの悲しい物語が生まれている。城の北側に切り立つ断崖は、後世「姫ヶ嶽(ひめがたけ)」と呼ばれるようになった。これは、落城の混乱の中、城主・河上安勝の息女であった年姫(としひめ)が、もはやこれまでと覚悟を決め、この断崖から眼下の燧灘(ひうちなだ)に身を投じたという悲劇の伝承によるものである 10 。その悲話は後々まで語り継がれ、昭和初期にこの地を訪れた歌人・与謝野晶子は、「姫が嶽 海に身投ぐるいや果ての うまして入りぬ 大名の娘は」という一首を詠んで、その運命を悼んでいる 10

この落城により、仏殿城は長宗我部氏の支配下に入り、伊予東部における河野氏の勢力は事実上、一掃されることとなった。戦国乱世の荒波は、仏殿城に最も激しい戦いと、最も悲しい物語を刻みつけたのである。

第三章:天下統一の奔流と城の終焉

長宗我部元親による四国統一が目前に迫った頃、中央では織田信長が斃れ、その事業を継承した羽柴(豊臣)秀吉が天下統一へと大きく歩を進めていた。その巨大な権力の奔流は、やがて四国にも及び、仏殿城の運命を再び大きく変転させる。戦国の論理で生まれ、戦国の論理で存続してきた城は、新たな時代の秩序の中でその役割を終えていくことになる。

第一節:豊臣秀吉の四国平定

天正十三年(1585年)、天下統一を目指す秀吉は、長宗我部元親を討伐するため、大軍を四国へ派遣した。世に言う「四国征伐」である。伊予方面には、毛利輝元を総大将とし、小早川隆景を主将とする軍勢が侵攻した 29 。長宗我部方の拠点となっていた仏殿城も、この圧倒的な軍事力の前に攻略され、開城した 11

四国が平定されると、仏殿城を含む伊予東部の宇摩郡は、秀吉の支配体制下に組み込まれた。しかし、その統治は安定せず、領主は目まぐるしく交代した。戦功のあった小早川隆景に始まり、福島正則、池田秀氏、小川祐忠といった豊臣恩顧の大名たちが次々と入れ替わりでこの地を領した 11 。この事実は、当時の豊臣政権にとってこの地が、安定した支配地というよりは、論功行賞のための一時的な恩賞地、あるいは政権の意向を直接反映させるための管理地として扱われていたことを示唆している。

第二節:加藤嘉明の時代と廃城

関ヶ原の戦いを経て、徳川の世が近づく中、伊予には加藤嘉明が二十万石の領主として入封した 11 。嘉明は豊臣子飼いの武将でありながら、関ヶ原では東軍に与して功績を挙げた実力者であった。

嘉明の時代、仏殿城には近世城郭としての改修が加えられた可能性がある。現在も残る石垣の一部は、この時期に築かれたものと推測されており、城の防御機能が一段と高められたと考えられる 31 。しかし、これは城の最後の輝きであった。嘉明は、伊予国全体の支配拠点として、より大規模で近代的な城郭を平野部に築くことを計画。慶長七年(1602年)、現在の松山市に伊予松山城の築城を開始した 11

新たな本拠地が定まると、国境防衛という中世的な役割を担ってきた仏殿城の戦略的価値は急速に失われた。松山城への機能移転に伴い、仏殿城はその役目を終え、廃城となった 11 。あるいは、その後、慶長二十年(1615年)に徳川幕府によって発布された一国一城令により、正式に廃城処分となったという見方もある 31 。いずれにせよ、南北朝の動乱以来、約270年にわたって伊予東部の要であり続けた城は、歴史の表舞台から静かに姿を消した。

第三節:「うたかたの川之江藩」と再興の夢

廃城から約20年後、仏殿城跡に再び光が当たるかのような出来事が起こる。江戸時代に入った寛永十三年(1636年)、伊勢神戸藩主であった一柳直盛が伊予西条藩へ転封となった。しかし直盛は任地へ向かう道中で病没。その遺領は三人の子によって分割され、次男の一柳直家が宇摩郡など二万八千六百石を相続し、川之江に陣屋を構えて「川之江藩」が立藩した 11

直家は、かつての仏殿城跡に城を再建し、藩の拠点とすることを計画した 30 。それは、戦国時代の価値観、すなわち「城は領主の権威の象徴であり、領国支配の拠点である」という考えに基づいたものであったかもしれない。しかし、その夢は志半ばで潰える。寛永十九年(1642年)、直家は計画の実現を見ることなく病没してしまった 17

さらに不幸が重なる。直家には実子がおらず、家督を継がせるために迎えた養子・直次との関係が、当時幕府によって厳しく禁じられていた「末期養子(大名が死に際に養子を迎えること)」にあたると判断されたのである。これにより、幕府は直家の遺領のうち、川之江を含む一万八千六百石を没収。川之江藩は立藩からわずか6年で消滅し、「うたかたの川之江藩」と後世に呼ばれることとなった 11

この一件は、単に一柳家の不運というだけでは片付けられない。そこには、徳川幕府による厳格な武家諸法度と中央集権体制の確立という、時代の大きな論理が働いていた。幕府にとって、特に国境地帯の堅固な城郭は、潜在的な反乱の拠点となりうる危険な存在であった。一国一城令の精神は、大名の軍事力を削ぎ、幕府の絶対的な優位を保つことにあった。幕府が末期養子の禁を厳格に適用し、この地を没収して直轄地(天領)としたのは、四国の要衝に新たな城が築かれる可能性を完全に断ち切り、幕府の直接支配下に置くという明確な意図があったと考えられる。

川之江藩の消滅と仏殿城再建の夢の終わりは、戦国時代の論理が、江戸時代の新たな支配秩序によって完全に否定された象徴的な出来事であった。以後、この地は幕府の代官所が置かれ、城が再建されることはなく、明治維新を迎えることとなる 11

第四章:城郭としての仏殿城 ― 構造と遺構

仏殿城は、その長い歴史の中で、時代の要請に応じてその姿を変えてきた軍事施設であった。南北朝時代の砦として生まれ、戦国時代の山城として発展し、最後には近世城郭の要素も取り入れられた。ここでは、城郭としての仏殿城の物理的な側面に焦点を当て、その構造と現在に残る遺構を分析する。

第一節:縄張と構造

仏殿城は、燧灘に面した標高62メートルの独立丘陵「鷲尾山」に築かれた平山城である 3 。山頂部を主郭(本丸)とし、そこから段々状に曲輪を配置する「階郭式」の縄張りを基本としていた 31 。かつては麓を流れる金生川が現在とは異なる流路をとり、城の三方が水に囲まれていたと推測され、天然の堀として機能する防御に優れた地形であった 17

城の構造には、異なる時代の特徴が混在している。山を区画するように設けられた堀切(尾根を断ち切る堀)や竪堀(斜面に掘られた堀)は、敵の横移動を防ぐためのもので、南北朝時代から戦国時代にかけての中世山城に典型的な防御施設である 31 。これらは、土肥義昌による築城時や、妻鳥氏、河上氏の時代に築かれたものと考えられる。

一方で、城の主要部分には石垣が配されている。これは、戦国時代末期から安土桃山時代にかけての、より高度な築城技術が導入されたことを示している。特に、加藤嘉明の時代に大規模な改修が行われ、近世城郭としての体裁が整えられたと見られている 31 。現在でも、再建された天守台の下や、本丸南側の一段低い腰曲輪に、往時のものとされる石垣の一部が現存しており、城の歴史の重なりを今に伝えている 25

第二節:現存する遺構と考古学的知見

江戸時代初期に廃城となった後、仏殿城の建造物は失われたが、その痕跡は現代にも残されている。城跡は現在、城山公園として整備されているが、注意深く観察すれば、曲輪の平坦面、石垣、そして前述の堀切といった遺構を確認することができる 3 。これらの遺構は、城の歴史的価値を証明するものとして、四国中央市の史跡に指定されている 3

また、限定的ながら発掘調査も行われており、考古学的な知見も得られている。調査では、建物の基礎となった礎石や石垣が確認されたほか、中世から近世にかけての陶器片や、鬼瓦・軒丸瓦といった瓦類が出土している 36 。これらの遺物は、城が活動していた時代の年代を特定し、当時の人々の生活を具体的に復元するための貴重な手がかりとなる。出土品の一部は、後述する再建天守閣内などで展示されている。

第三節:周辺の関連史跡

仏殿城の歴史を深く理解するためには、城跡だけでなく、周辺に残る関連史跡にも目を向ける必要がある。特に、戦国時代末期の悲劇の城主・河上但馬守安勝にまつわる史跡は重要である。

安勝の墓は、四国中央市三島紙屋町に現存する。元々は別の場所(村松村境の沖田井)にあったが、昭和41年(1966年)の工業用地造成に伴い、現在の国道11号線沿いに移転された 37 。この墓は古くから「但しょさん」と呼ばれ、地域の人々によって大切に祀られてきた歴史がある 37

さらに、城の麓にある仏法寺の境内にも、河上安勝の墓所と伝えられるものや、その妻の位牌、そして悲劇の娘・年姫の供養塔が存在するとされる 10 。前述の通り、この仏法寺は元々城山にあったと伝えられており、築城によって移転した後も、城主家と深い関係を保ち続けたことが窺える。これらの史跡は、城と城下、そしてそこに生きた人々の繋がりを物語る、生きた証人と言えるだろう。

第五章:現代に蘇った天守 ― 城跡の保存と活用

廃城から三百数十年、仏殿城跡は静寂の中にあった。しかし、昭和の高度経済成長期を経て、地域社会が自らの歴史や文化に目を向けるようになると、城跡は新たな役割を担って蘇ることになる。それは、歴史的遺構の保存と、地域のシンボルとしての再生という二つの側面を持つものであった。

第一節:城跡から城山公園へ

江戸時代を通じて放置された仏殿城跡は、明治以降も顧みられることは少なく、往時の姿は本丸付近に残る石垣にわずかにその名残を留めるのみという状態であった 7 。しかし、市街地に隣接し、燧灘を望む風光明媚なこの丘は、やがて市民の憩いの場としてその価値が見出されるようになる。昭和後期になると、城跡は「城山公園」として整備され、新たな歴史を歩み始めた。

第二節:昭和の大再建

城山公園の整備における最大の事業は、天守閣の再建であった。昭和61年(1986年)、旧川之江市の市制施行三十周年を記念する事業として、本丸跡に模擬天守が建設されたのである 4

この天守は、鉄筋コンクリート構造の地上4階地下1階建てで 38 、その外観は国宝である犬山城(愛知県)をモデルにしたとされている 2 。これは、仏殿城に実際に存在した天守を史料に基づいて復元したものではなく、あくまで地域のシンボルとして、また観光施設として新たに「創造」されたものである。歴史研究の観点からは「復元」ではなく「模擬」あるいは「復興」天守と位置づけられる。

天守閣の完成に続き、涼櫓(すずみやぐら)、櫓門(やぐらもん)、隅櫓(すみやぐら)、控塀(ひかえべい)といった付属の建造物も順次建設され、園路や広場の整備も進められた。そして、昭和63年(1988年)3月、城山公園全体の整備事業が完了し、現代の川之江城の姿が完成した 20

第三節:現代における川之江城の役割

こうして蘇った川之江城は、現代の地域社会において多岐にわたる役割を担っている。

第一に、地域の歴史を伝えるシンボルとしての役割である。模擬天守の内部は資料館となっており、甲冑や刀剣、古文書、城跡からの出土品、そして江戸時代の川之江の町並みを再現した模型などが展示されている 16 。これらの展示を通じて、訪れる人々は仏殿城が刻んできた歴史や、地域の文化に触れることができる。史実に基づかない外観を持つ模擬天守が、結果として人々の関心を歴史に向けさせ、史跡保存への意識を高めるきっかけとなっている側面は重要である。

第二に、観光資源としての役割である。天守閣の最上階(4階)は展望台となっており、眼下に広がる日本有数の製紙工場群や川之江の市街地、そして燧灘に浮かぶ島々を一望できる 16 。空気が澄んだ日には、遠く瀬戸大橋やしまなみ海道まで見渡せることもあり、その眺望は多くの観光客を惹きつけている 16

第三に、市民の憩いの場としての役割である。城山公園は桜の名所としても知られ、春には満開の桜と天守閣が織りなす美しい風景を楽しむために、多くの家族連れや花見客で賑わう 4

現代の川之江城は、このように「史跡・仏殿城跡」という歴史的遺構と、「観光施設・川之江城」という文化的シンボルという二つの側面を併せ持つ複合的な存在となっている。学術的な厳密さをもって石垣や堀切といった遺構の価値を評価すると同時に、地域文化の振興や歴史教育の観点から模擬天守が果たしている役割も正当に評価する必要がある。この両者を区別しつつも一体として捉えることで、城跡の現代的意義がより明確になるだろう。

終章:歴史の証人として

伊予国東端の鷲尾山に築かれた仏殿城。その歴史は、南北朝の動乱期に国境を守る砦として産声を上げたことに始まる。やがて戦国の群雄が割拠する時代となると、四国の十字路という地理的宿命から、伊予の河野、讃岐の細川、阿波の三好、そして土佐の長宗我部といった強豪たちの間で繰り広げられる、血塗られた争奪戦の舞台となった。城主は目まぐるしく入れ替わり、城兵たちは数えきれないほどの攻防を繰り返した。

豊臣秀吉による天下統一の奔流は、この城から戦いの意味を奪い去り、徳川の世が確立されると、その存在意義を完全に失って廃城の運命を辿った。以後、三百数十年もの間、城は静寂の中に忘れ去られていたが、昭和の時代に地域のシンボルとして、壮麗な天守閣を持つ姿で蘇った。

築城から現代に至る約670年の歳月は、仏殿城に数奇な運命を強いた。それは、伊予東部という一地域の変遷史に留まらない。中央の政権争いに翻弄された南北朝時代、下剋上が常であった戦国時代、新たな秩序が構築された近世、そして歴史を文化として活用する現代。仏殿城の興亡史は、日本の大きな時代のうねりそのものを映し出す鏡であった。

戦略的要衝であったが故の宿命を背負い続けたこの城は、今も鷲尾山の上から、自らが見つめてきた激動の歴史を、そしてその中で生きた人々の喜びと悲しみを、訪れる者に静かに語りかけている。仏殿城は、過去の遺物ではなく、未来へと歴史を伝える、生きた証人なのである。


巻末資料

表1:仏殿城(川之江城)略年表

年代(西暦/和暦)

出来事

関連人物

1337年(延元2年/建武4年)

河野氏の命により、土肥義昌が鷲尾山に仏殿城を築城。(異説あり)

河野氏、土肥義昌

1342年(興国3年/康永元年)

讃岐の細川頼春が侵攻し、仏殿城は落城。

細川頼春、土肥義昌

戦国時代(16世紀中頃)

妻鳥氏が城主となる。

妻鳥采女、妻鳥友春

1572年(元亀3年)

阿波の三好長治の侵攻を撃退。

妻鳥友春、三好長治

1579年頃(天正7年頃)

妻鳥友春が長宗我部氏に内通。河野氏の命で河上安勝が城を攻略し、新城主となる。

妻鳥友春、長宗我部元親、河上安勝

1582年(天正10年)

長宗我部元親の伊予侵攻により落城。城主・河上安勝は自刃。

長宗我部元親、河上安勝

1585年(天正13年)

豊臣秀吉の四国征伐。小早川隆景の軍により攻略される。

豊臣秀吉、小早川隆景

1602年頃(慶長7年頃)

伊予の領主となった加藤嘉明が松山城へ本拠を移したことに伴い、廃城となる。

加藤嘉明

1636年(寛永13年)

一柳直家が川之江藩を立藩。仏殿城の再建を計画。

一柳直家

1642年(寛永19年)

一柳直家が病没。末期養子の禁により領地は没収され、川之江藩は消滅。城の再建は頓挫。

一柳直家、一柳直次

1986年(昭和61年)

旧川之江市制三十周年記念事業として、本丸跡に模擬天守が完成。

-

1988年(昭和63年)

櫓、門などが完成し、城山公園としての整備が完了。

-

表2:仏殿城(川之江城)歴代主要城主一覧

時代区分

城主(一族名・個人名)

統治期間(推定)

主要な出来事・特記事項

南北朝時代

土肥氏(土肥義昌)

1337年頃 - 1342年

河野氏配下。讃岐・細川氏の侵攻に備え築城。細川頼春に攻められ落城。

南北朝時代

細川氏

1342年 -

北朝方。一時的に城を支配するも、その後河野氏の手に戻る。

戦国時代

妻鳥氏(妻鳥采女、友春)

16世紀中頃 - 1579年頃

河野氏配下の在地領主。阿波・三好氏の侵攻を撃退。後に長宗我部氏に内通。

安土桃山時代

河上氏(河上但馬守安勝)

1579年頃 - 1582年

河野氏配下。妻鳥氏を討伐し城主となる。長宗我部元親の侵攻により落城、自刃。

安土桃山時代

長宗我部氏

1582年 - 1585年

土佐の戦国大名。城を攻略し、伊予東部支配の拠点とする。

安土桃山時代

豊臣系大名

1585年 - 1600年頃

小早川隆景、福島正則、池田秀氏、小川祐忠などが短期間で入れ替わる。

江戸時代初期

加藤氏(加藤嘉明)

1600年頃 - 1602年頃

伊予二十万石の領主。松山城築城に伴い、仏殿城を廃城とする。

引用文献

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