伊丹城は伊丹氏の堅城として築かれ、荒木村重が有岡城と改称し惣構えを構築。信長への反旗で黒田官兵衛幽閉、壮絶な攻防の末落城。戦国の悲劇と革新を刻む城郭である。
摂津国(現在の兵庫県伊丹市)の平野にその痕跡を留める伊丹城は、戦国時代の歴史を語る上で、単なる一地方の城郭に留まらない極めて重要な意味を持つ。この城は、伊丹氏が数百年にわたり居城とした「伊丹城」としての顔と、戦国末期に荒木村重がその覇権を懸けて築き上げた「有岡城」としての顔、二つの名を持つ。特に有岡城の時代には、城郭の構造に革新をもたらし、同時に織田信長の天下統一事業において最も凄惨な悲劇の一つとして数えられる「有岡城の戦い」の舞台となった 1 。
本報告書は、この二つの顔を持つ城の全貌を、文献史学と考古学の双方の知見を駆使して解き明かすことを目的とする。伊丹氏の時代における堅城としての黎明期から、荒木村重による革新的な城郭都市への大改修、そして信長への反旗から落城に至る壮絶な攻防、さらには歴史の表舞台から去った後の運命までを多角的に検証し、伊丹城・有岡城が戦国史に刻んだ深い意義を明らかにする。
伊丹城の歴史は、鎌倉時代末期にまで遡る。この地を約300年にわたり支配したのは、摂津国の有力な国人領主であった伊丹氏である 4 。文献における伊丹氏の初見は1309年(延慶2)の『東寺百合文書』とされ、六波羅探題の要職に就く人物を輩出するなど、早くから中央政権とも深く関わる実力者であったことが窺える 4 。
伊丹城は、猪名川西岸に広がる伊丹段丘の東縁という、周囲を見渡せる高台を巧みに利用して築かれた平城であった 1 。築城当初は、領主の居館を中心とした比較的小規模なものであったと推測されるが、応仁の乱以降、戦国時代の動乱が激化する中で、その姿を大きく変えていく 5 。15世紀末から16世紀前半にかけて、畿内の覇権を巡る管領細川家の内紛に巻き込まれる中で、伊丹城は度々攻防戦の舞台となった。この時期の記録には、「伊丹城ばかり堅固なり」とその堅牢さを称賛する記述が見られ、後の荒木村重による大改修の素地となる高度な防御機能が、伊丹氏の時代から既に備わっていたことを示している 7 。
伊丹城は、かつて「日本で最初に天守が築かれた城」として城郭史上で注目を集めた。その根拠とされるのが、『細川両家記』に見られる永正17年(1520年)の記述である。この記録には、細川高国との戦いに敗れた伊丹方の武将らが「天守」に立て籠もり、自刃したと記されている 8 。これは、文献史料において「天守」という言葉が確認できる最古級の事例であり、長らく伊丹城が天守の起源であるとする説の典拠とされてきた 3 。
しかし、近年の研究ではこの説に対して慎重な見解が示されている 10 。この議論の核心は、単に「最初かどうか」という事実関係の特定に留まらない。「天守」という言葉が持つ意味内容の歴史的変遷と、城郭における中核的楼閣建築の機能がどのように発展したかを問う、城郭史研究の根幹に関わる問題なのである。
永正年間(1504年-1521年)の時点で用いられた「天守」という言葉は、後世の安土城に見られるような、権威の象徴として壮麗に飾られた高層建築物、すなわち「天主」とは異なっていた可能性が極めて高い。当時は、城内において最も高く、最後の防御拠点となる物見櫓や大型の櫓を指す、機能本位の呼称であったと解釈するのが妥当であろう。つまり、その役割はあくまで「防御の中核」であり、必ずしも「権威の象徴」ではなかった。
したがって、伊丹城の事例は、「『天守』という言葉の早期の用例」として歴史的に非常に貴重であるが、これを直ちに「近世城郭に見られる天守の直接的な起源」と見なすことはできない。この区別こそが、伊丹城の歴史的価値を専門的に理解する上での鍵となる。伊丹城は、戦国時代前期において、城郭の防御機能が著しく高度化していく過程を具体的に示す、画期的な事例として位置づけるべきなのである。
伊丹城の歴史が大きく転換するのは、戦国武将・荒木村重の登場による。村重は、摂津池田氏の家臣という立場から身を起こし、その武勇と才覚によって頭角を現した。やがて織田信長の家臣となり、その信任を得て摂津一国を任されるに至った、まさに下剋上の時代を象徴する人物であった 11 。
天正2年(1574年)、信長の命を受けた村重は、長年この地を支配してきた伊丹氏を追放し、伊丹城を自らの居城とした。そして、城の名を「有岡城」と改める 1 。この改称は、単なる名称の変更ではない。村重が名実ともに摂津の新たな支配者となり、自らの理想とする城郭をこの地に築き上げるという、強い意志の表明であった。
村重は有岡城に大規模な改修を施し、日本の城郭史に画期をなす構造を完成させた。それが「惣構え(そうがまえ)」である。惣構えとは、城の中核部である主郭部だけでなく、家臣団が居住する「侍町」、さらには商工業者が暮らす「町屋地区」までも、広大な堀と土塁で一体的に囲い込む防御構造を指す 1 。
発掘調査や古絵図から推定される有岡城の規模は、南北約1.7km、東西約0.8kmにも及ぶ広大なものであった 3 。城の防御をさらに固めるため、要所には3つの砦が配置された。北には「岸の砦」(現在の猪名野神社境内)、西には「上ろう塚(じょうろうづか)砦」、南には「鵯塚(ひよどりづか)砦」が築かれ、鉄壁の防御網を形成していた 1 。
有岡城の惣構えは、単なる防御施設の規模拡大に留まるものではない。それは、軍事拠点と経済・生活空間を一体化させた「城郭都市」を創造するという、極めて先進的な思想の具現化であった。従来の城が、領主と一部の家臣団が籠る「点」の防御拠点であったのに対し、惣構えは城下町全体を防御線に取り込むことで、領国経営の基盤である経済力(商人・職人)と兵力(侍)を丸ごと保護する「面」の防御思想への劇的な転換を意味した。
この構造は、合戦の規模が拡大し、総力戦の様相を呈し始めた戦国時代後期の状況に的確に対応するものであった。領主が自らの権力基盤である都市そのものを守るという強い意志の表れであり、後の小田原城や大坂城、江戸城といった巨大城郭に見られる惣構えの、先駆的なモデルと高く評価することができる 2 。この革新性こそが、後に織田信長が率いる数万の大軍による10ヶ月もの長期包囲に耐え抜くことを可能にした最大の要因であり、有岡城を城郭史上、特筆すべき存在たらしめているのである 3 。
有岡城の威容は、当時の日本を訪れていたヨーロッパ人の目にも驚きをもって映った。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、天正5年(1577年)に有岡城を訪れた際の様子を記録に残している。その中で彼は、有岡城を「甚だ壮大にして見事なる城」と称賛した 3 。
この記述は、惣構えによって形成された壮大な城郭都市の景観が、ヨーロッパの城塞都市を見知っていた人物の目から見ても、非常に印象的で高く評価されるべきものであったことを示す客観的な証左である。村重が築き上げた城が、当時の日本において最高水準の規模と機能性を誇っていたことを物語っている。
天正6年(1578年)10月、信長の主力武将として羽柴秀吉と共に中国地方の毛利氏攻めに従軍していた荒木村重は、突如として戦線を離脱。居城である有岡城に帰還し、主君・織田信長に対して反旗を翻した 13 。信長はこの謀反の報に驚愕し、にわかには信じられなかったという。彼はすぐさま明智光秀や松井友閑ら重臣を派遣して村重の翻意を促したが、村重の決意は変わらなかった 13 。
信長から絶大な信頼を寄せられ、摂津一国を任されていた村重がなぜ謀反に至ったのか。その理由は単一ではなく、複数の要因が複雑に絡み合っていたと考えられ、現在も定説はない。
村重の謀反は、単一の理由によって引き起こされたものではなく、「信長政権が内包する構造的矛盾」と「村重個人が置かれた心理的葛藤」が臨界点に達した結果と解釈することができる。信長政権は、旧来の身分秩序を破壊し、能力主義で家臣を抜擢する革新性を持つ一方で、一度疑念を抱けば容赦なく粛清するという苛烈な恐怖政治の側面も併せ持っていた。村重は、その体制の中で急成長を遂げた成功者であると同時に、常に粛清の恐怖に晒される不安定な立場でもあった。
地理的に、信長と敵対する石山本願寺や毛利氏との最前線に位置していた村重は、どちらにつくことが自らの家と領国を守る最善の道なのか、究極の選択を迫られていた。彼の謀反は、信長への忠誠と、領国と一族を守るという領主としての責任との間で引き裂かれた末の、破滅的とさえ言える決断であった可能性が高い。
説の名称 |
概要 |
主な論拠・背景 |
反信長包囲網加担説 |
足利義昭、毛利輝元、石山本願寺といった反信長勢力からの調略に応じ、その一翼を担おうとした。 |
村重が毛利氏や本願寺に人質と誓書を提出した記録が残る。地理的に、村重の離反は織田軍の中国方面と畿内を分断する致命的な打撃となり得た 18 。 |
家臣の失態露見恐怖説 |
家臣(中川清秀など)が、信長と敵対する石山本願寺へ密かに兵糧を横流ししており、その事実が発覚した場合の信長の苛烈な処罰を恐れた。 |
信長の部下に対する厳格な処分は広く知られており、露見すれば一族の滅亡に繋がりかねないという恐怖が謀反の引き金になったとする説 20 。 |
信長側近との対立説 |
信長の側近である長谷川秀一らから侮辱を受けるなど、個人的な対立が怨恨に発展した。 |
『当代記』には、秀一が村重に小便をひっかけたという逸話が記されている。逸話の真偽はともかく、信長側近との間に何らかの軋轢があった可能性を示唆する 20 。 |
将来への不安説 |
播磨方面軍の総司令官に羽柴秀吉が就任するなど、織田家中での自らの立場が相対的に低下し、将来の活躍の場が失われることへの焦りや不安があった。 |
自身の功績に見合う評価が得られていない、あるいは将来的に冷遇されるのではないかという不満が、信長への不信感に繋がったとする説 20 。 |
摂津国人衆の動向説 |
織田政権による支配強化に反発する摂津の在地勢力(国人や門徒)の動きに、村重が同調、あるいは突き上げられる形で信長との決別を選択した。 |
村重は、信長の代理人としてだけでなく、摂津の国人たちの利益代表という側面も持っていた。両者の板挟みになった結果、在地勢力側に付くことを決断したとする説 18 。 |
村重の謀反に際し、歴史に深く刻まれるもう一つの悲劇が起こる。村重と旧知の間柄であった羽柴秀吉の軍師・黒田官兵衛(孝高)が、主君・秀吉の命を受け、村重を翻意させるべく単身で有岡城に乗り込んだ。しかし、説得は実らず、官兵衛は逆に捕らえられ、城内の土牢に約1年もの間幽閉されることとなった 3 。
この幽閉により、信長は官兵衛が村重方に寝返ったと誤解し、人質として預かっていた官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の処刑を秀吉に命じるという事態にまで発展した(松寿丸は竹中半兵衛の機転により密かに匿われ、命を救われている)。
官兵衛が幽閉されていた正確な場所は、今なお特定されていない 2 。しかし、彼が牢の中から見た藤の花に生きる希望を見出し、後に黒田家の家紋を「藤巴」に改めたという逸話が残されている。そして、現在のJR伊丹駅北東部には、この逸話にちなむ「藤ノ木」という地名が静かに残り、この悲劇の記憶を現代に伝えている 2 。
天正6年(1578年)12月、信長は5万とも言われる大軍を動員し、有岡城への総攻撃を開始した。しかし、村重が築き上げた堅固な惣構えは織田軍の猛攻をことごとく跳ね返し、信長は万見重元といった有力な側近武将を失うなど、手痛い損害を被った 17 。
この緒戦の失敗により、信長は力攻めによる短期決戦を断念。有岡城の周囲に十数か所の付城を築いて包囲網を固め、兵糧攻めによる長期戦へと戦術を転換した 23 。村重は毛利氏からの援軍に望みを託し、約10ヶ月にわたる籠城戦を耐え抜いたが、戦況は徐々に絶望的なものとなっていく 1 。
戦況を決定づけたのは、村重の与力であった高槻城主・高山右近と茨木城主・中川清秀の離反であった 15 。特に、熱心なキリシタン大名であった右近に対しては、信長は宣教師オルガンティノを通じて巧みな説得工作を行った。信仰と主君への忠誠、そして人質となっていた家族の命との間で苦悩した右近は、最終的に信長に降伏。これに続くように清秀も城を明け渡し、有岡城は戦略的に完全に孤立無援の状態に陥ったのである。
天正7年(1579年)9月2日、籠城戦が10ヶ月に及ぶ中、城主である荒木村重は突如、妻子や家臣たちを城に残し、わずか数名の側近と共に有岡城を脱出。嫡子・村次の守る尼崎城へと移った 8 。この行動の真意については、毛利との直接交渉により援軍を要請するための戦略的判断であったとする説と、絶望的な戦況から自らの命惜しさに逃亡したとする説があり、評価が分かれている。しかし、結果としてこの城主の不在は、城兵の士気を著しく低下させ、落城を早める致命的な要因となった。
城主を失った有岡城に対し、織田軍の将・滝川一益は調略を開始。上ろう塚砦の守将であった中西新八郎らの内応を取り付けることに成功する 18 。同年10月15日、内応者の手引きにより織田軍は城内への侵入を果たし、内部から総攻撃を仕掛けた。惣構えは外部からの攻撃には強固であったが、内部からの崩壊には脆かった。侍町は焼き払われ、城兵は次々と討ち取られ、同年11月19日、有岡城はついに開城した 18 。
信長は、尼崎城と花隈城を明け渡せば、有岡城に残された人々の命は助けると最後の交渉を持ちかけた。しかし、村重がこれを拒絶したため、信長の怒りは頂点に達する。彼は報復として、人質となっていた村重の一族、重臣の妻子ら約670名を処刑するという、戦国史上でも類を見ない苛烈な命令を下した 18 。
『信長公記』には、その凄惨な処刑の様子が克明に記録されている。尼崎の七つ松において、女性や子供を含む122名が磔にされ、鉄砲で次々と射殺された。さらに、身分の低い武士の妻子ら500名以上が4軒の家屋に押し込められ、生きたまま火を放たれ焼き殺されたという 8 。この出来事は、信長の非情さを象徴する事件として、また戦乱に翻弄された人々の悲劇として、後世に長く語り継がれることとなった。
有岡城の悲劇的な落城の後、城は信長方で戦功のあった池田恒興の子・之助(元助)に与えられた 1 。しかし、その支配は長くは続かなかった。天正11年(1583年)、池田氏が美濃国へ転封となると、有岡城は明確な城主を失い、その戦略的価値も低下したため、間もなく廃城とされた 3 。
荒木村重がその威信をかけて築き上げ、ルイス・フロイスが「甚だ壮大にして見事」と讃えた革新的な城郭は、有岡城と名を変えてからわずか10年足らずで、その歴史に幕を下ろしたのである 11 。
一方、一族郎党を悲劇的な結末に導いた荒木村重は、花隈城の戦いにも敗れた後、毛利氏を頼って備後国尾道へと落ち延びた 15 。天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死すると、村重は歴史の表舞台に再び姿を現す 20 。
しかし、彼が選んだのは武将として再起する道ではなかった。名を「道薫(どうくん)」と改め、商都・堺で茶人として生きることを決意したのである 20 。村重は元々、千利休とも親交を持つなど、深い文化的素養を持つ武将であった 11 。その才能は茶の湯の世界で開花し、やがて「利休七哲」の一人に数えられるほどの高名な茶人となった 11 。
村重の後半生は、戦国武将の生存戦略が、武力や領地といった「軍事・経済資本」だけに依存するものではなかったことを示す好例である。戦国時代において、茶の湯は単なる趣味や芸事ではなく、大名間の外交や情報交換の場として機能する、高度に政治的な営為であった。村重は、武将としてのキャリアを完全に失った後、茶人としての卓越した技能と人脈という「文化資本」を最大限に活用し、新たな天下人である豊臣秀吉の周辺で、文化的なブレーンとして自らの存在価値を再構築したのである。これは、武力一辺倒ではない戦国時代の多様な価値観と、敗者が生き延びるためのしたたかな知恵を象徴している。また、乳母の機転で難を逃れた村重の子が、後に「浮世絵の祖」と称される高名な絵師・岩佐又兵衛となったことも、荒木家に流れる豊かな文化的素養の深さを物語っている 27 。
廃城後、有岡城跡は次第に忘れ去られ、江戸時代には地元の人々から「古城山」と呼ばれる丘陵地となっていた 1 。明治26年(1893年)には、鉄道(現在のJR宝塚線)の敷設工事によって主郭部の東半分が削り取られるという危機に見舞われ、その遺構の多くが失われた 1 。
しかし、昭和50年(1975年)から始まったJR伊丹駅前の再開発事業に伴う発掘調査が、城の運命を再び転換させる。この調査により、失われたと思われていた主郭部の石垣や建物跡、庭園遺構などが、予想以上に良好な状態で地下に残存していることが判明したのである 1 。この学術的な大発見を受け、遺跡保存の機運が高まり、昭和54年(1979年)には城跡の一部が国の史跡に指定され、恒久的な保存への道が開かれた 1 。
現在、主郭部跡は「有岡城跡史跡公園」として美しく整備され、発掘調査に基づいて復元された石垣、土塁、井戸跡などを間近に見ることができる 1 。また、かつての壮大な惣構えの痕跡は、岸の砦跡である猪名野神社の土塁 15 や、市内に残る水路、不自然な屈曲を持つ道路の区画、そして土地の高低差として今もなお見て取ることができる 1 。これらは、往時の壮大な城郭都市の姿を現代に伝える、貴重な歴史の証人である。
伊丹城、そして有岡城の歴史は、戦国という時代の光と影を凝縮している。伊丹氏の時代に培われた堅城としての基盤の上に、荒木村重という野心的な武将が築き上げた惣構えの城郭都市は、日本の城郭史における技術的・思想的な到達点を示す画期的なものであった。それは、軍事と都市計画を融合させ、領国経営の全てを守り抜こうとする、新しい時代の城の姿であった。
しかし同時に、この城は荒木村重の謀反と、それに続く有岡城の戦いという、戦国時代屈指の悲劇の舞台ともなった。信長の天下統一事業の非情さと、それに翻弄された人々の絶望が、この城の石垣と土塁には深く刻み込まれている。武将でありながら一流の文化人でもあった村重の数奇な生涯は、武力だけが全てではない戦国という時代の複雑さと、人間の多面性を我々に教えてくれる。
今日、史跡公園として市民の憩いの場となっている伊丹城跡は、単なる過去の遺構ではない。それは、日本の都市と城郭がいかにして発展したか、そして動乱の時代を人々がどのように生き、あるいは死んでいったのかを、静かに、しかし力強く現代に語りかける、かけがえのない歴史遺産なのである。
西暦(和暦) |
出来事 |
関連人物 |
南北朝時代 (1336-1392) |
摂津国人・伊丹氏により伊丹城が築城される 1 。 |
伊丹氏 |
1520年(永正17年) |
『細川両家記』に「天守」で伊丹氏の武将らが自刃したとの記述 8 。 |
伊丹氏、細川高国 |
1574年(天正2年) |
荒木村重が伊丹氏を追放して伊丹城に入城。城を「有岡城」と改称し、大改修を開始 1 。 |
荒木村重、伊丹氏、織田信長 |
1578年(天正6年) |
荒木村重が織田信長に謀反。有岡城の戦いが勃発。黒田官兵衛が幽閉される 8 。 |
荒木村重、織田信長、黒田官兵衛 |
1579年(天正7年) |
村重が城を脱出。高山右近・中川清秀らの離反、城内の内応により有岡城が落城 8 。 |
荒木村重、高山右近、滝川一益 |
1580年(天正8年) |
池田恒興の子・之助(元助)が有岡城主となる 3 。 |
池田之助 |
1583年(天正11年) |
池田氏の美濃転封に伴い、有岡城は廃城となる 1 。 |
池田之助 |
1893年(明治26年) |
鉄道敷設工事により、主郭部の東半分が破壊される 1 。 |
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1975年(昭和50年) |
JR伊丹駅前の再開発に伴い、本格的な発掘調査が開始される 1 。 |
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1979年(昭和54年) |
発掘調査の成果に基づき、国の史跡に指定される 1 。 |
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1993年(平成5年) |
有岡城跡史跡公園としての整備事業が完了し、公開される 1 。 |
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