最終更新日 2025-08-19

佐和山城

佐和山城は近江の要衝に築かれ、浅井氏、織田氏の重要拠点となった。石田三成が城主となり大改修、豊臣政権の象徴となるが、関ヶ原合戦後に落城。徹底的に破却され、彦根城の資材として転用された悲劇の城である。

近江佐和山城の興亡:戦略拠点から悲劇の城、そして歴史遺産へ

序章:湖東の要衝、佐和山城の歴史的意義

近江国、現在の滋賀県彦根市にその跡を残す佐和山城は、日本の戦国時代を語る上で欠かすことのできない城郭である。琵琶湖東岸に位置し、京と東国を結ぶ中山道と、日本海側へ抜ける北国街道が交差する交通の要衝に築かれたこの城は、その地理的・戦略的重要性から、鎌倉時代から戦国時代の終焉に至るまで、常に歴史の表舞台にあり続けた 1 。支配者は目まぐるしく入れ替わり、その変遷は近江、ひいては天下の権力の動向を映し出す鏡であった。

佐和山城の名は、豊臣政権の五奉行筆頭、石田三成の居城としてあまりにも名高い。「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」という落首は、城の壮麗さと、それを所有する三成への嫉妬や畏敬が入り混じった当時の評価を今に伝えている 2 。しかし、この有名な言説は、佐和山城の持つ複雑で重層的な歴史の一側面に過ぎない。本報告書は、この石田三成の居城というイメージを入り口としながらも、その起源である鎌倉時代にまで遡り、浅井氏、織田氏、豊臣政権下の歴代城主を経て、関ヶ原合戦後の悲劇的な落城と廃城、そして現代に至るまでの全貌を、最新の発掘調査の成果も交えながら、詳細かつ徹底的に解明することを目的とする。佐和山城の運命を追うことは、戦国という時代の権力構造の変遷と、そこに生きた武将たちの興亡を理解する上で、極めて重要な視座を提供するものである。

政治的運命の象徴としての城

佐和山城の歴史を俯瞰すると、その城主の交代が常に時代の大きな政治的変動と密接に連動していることがわかる。この城は単なる軍事拠点ではなく、近江という天下の趨勢を左右する重要地域における、支配の正統性を示す象徴であった。その始まりは、地域の旧来勢力である近江源氏・佐々木氏による館の設置に遡る 1 。やがて佐々木氏が内部分裂すると、城は江南の六角氏と江北の京極氏との間で絶え間ない争奪の的となった 1 。戦国時代に入り、北近江の新興勢力である浅井氏がこれを奪取すると、城は浅井氏の勢力確立を象徴する存在となる 2

時代の転換点となったのは、織田信長の上洛である。信長はこの城を支配下に置き、天下統一事業における近江平定の足がかりとした 1 。続く豊臣政権下では、秀吉の重臣たちが城主を務め、その権威を固める役割を担う 1 。そして、秀吉の最も信頼する腹心、石田三成に与えられたことで、佐和山城は豊臣政権の中枢としての輝きを放つに至った 3 。しかし、その栄華は関ヶ原の戦いと共に終わりを告げる。戦後、城は徳川譜代の筆頭である井伊直政に与えられ、徳川への完全な権力移行が完了した 1 。このように、佐和山城の歴代城主の変遷は、主要な大名や政治体制の盛衰と軌を一にしており、城の運命そのものが時代の趨勢を映す鏡であったと言えるのである。

第一章:黎明期 - 境目の城としての佐和山

鎌倉時代の起源

佐和山城の歴史は、鎌倉時代初期にまで遡る。近江守護であった近江源氏・佐々木定綱の六男、佐保時綱が佐和山の麓に館を構えたのがその始まりと伝えられている 1 。この時点では、まだ山全体を要塞化した山城ではなく、在地領主の日常的な居館としての性格が強かったと考えられる。しかし、交通の要衝を見下ろすこの地が、古くから軍事的な潜在価値を秘めていたことは想像に難くない。

南北朝・室町時代の争乱

時代が下り、佐々木氏が琵琶湖を挟んで南の六角氏と北の京極氏に分裂し、対立を深めると、佐和山城の運命は大きく変わる。両勢力の勢力圏のちょうど境界線上に位置したため、佐和山城は「境目の城」として、壮絶な争奪戦の舞台となったのである 1 。応仁・文明の乱(1467-1486年)の頃には、六角高頼がこの地を支配下に置き、小川左近太夫を城主とした記録が残る 1 。その後も、六角氏と京極氏、さらには京極氏の家臣から台頭する浅井氏との間で、城の支配権を巡る攻防が幾度となく繰り返された 1 。この時期の城は、土塁や堀切、簡素な曲輪で構成された、典型的な中世山城の様相を呈していたと推察される。その構造は、後の時代に施される大規模な改修とは比較にならないものの、地域の覇権を争う上で不可欠な戦略拠点として、常に重要な役割を果たし続けた。

時代

西暦

主要な出来事

城主・関連人物

鎌倉時代初期

1190-1199年頃

佐々木定綱の六男・時綱が佐和山麓に館を構える 1

佐々木時綱

室町時代

1467-1486年頃

六角氏が支配下に置き、小川氏を城主とする 1

六角高頼、小川定武

戦国時代

1559年

浅井長政が百々内蔵介を城代に命じる 1

浅井長政、百々内蔵介

1561年

六角氏との攻防の末、百々内蔵介が戦死。浅井長政が磯野員昌を城代とする 1

浅井長政、磯野員昌

1570年

姉川合戦後、磯野員昌が織田軍に対し8ヶ月の籠城戦を行う 2

磯野員昌、織田信長

元亀2年

1571年

磯野員昌が降伏し開城。丹羽長秀が城主となる 1

丹羽長秀

天正10年

1582年

本能寺の変後、清洲会議により堀秀政が城主となる 1

堀秀政

天正13年

1585年

堀秀政の転封に伴い、堀尾吉晴が城主となる 1

堀尾吉晴

天正18年

1590年

堀尾吉晴が浜松へ転封 1

天正19年

1591年

石田三成が代官として入城 1

石田三成

文禄4年

1595年

三成が正式に19万4千石の城主となり、大改修を開始 1

石田三成

慶長5年

1600年

関ヶ原合戦後、東軍の攻撃により落城。石田一族が自刃 1

石田正継、石田正澄

慶長6年

1601年

井伊直政が城主となる 1

井伊直政

慶長11年

1606年

彦根城天守が完成し、佐和山城は廃城となる 1

井伊直継

第二章:浅井氏の興隆と磯野員昌の攻防

浅井氏の最前線拠点

戦国時代中期、北近江において主君であった京極氏を凌駕する勢いで台頭した浅井氏にとって、佐和山城の掌握は宿願であった。江南の六角氏との熾烈な覇権争いにおいて、この城はまさに最前線拠点であり、その支配は北近江の防衛と南進の足がかりとして不可欠であった 2 。浅井長政の時代、この重要な城を任されたのが、浅井家随一の猛将と謳われた磯野員昌である 7 。員昌は、元亀元年(1570年)の姉川の合戦において、浅井軍の先鋒として織田軍の坂井政尚、池田恒興、羽柴秀吉らの部隊を次々と打ち破るなど、その武勇を轟かせていた 15 。彼が守る佐和山城は、浅井氏にとって南の守りの要であった。

元亀年間の攻防戦 - 「難攻不落」の証明

元亀元年(1570年)、浅井長政が越前の朝倉義景に与し、織田信長との同盟を破棄したことで、近江は織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突する主戦場と化した。姉川の合戦で敗走した浅井勢の一部が逃げ込んだ佐和山城に対し、信長は総力を挙げて攻撃を開始する 2 。信長は城の四方に付け城を築いて完全に包囲し、兵糧攻めと波状攻撃を仕掛けた 2 。しかし、城将・磯野員昌の指揮のもと、城兵は驚異的な粘りを見せ、実に8ヶ月にもわたる籠城戦を耐え抜いた 2 。この凄まじい抵抗により、佐和山城は「難攻不落の城」として、その名を天下に知らしめることとなったのである 9

開城の真相

信長は力攻めでは佐和山城を落とすことができないと判断し、戦略を転換した。姉川合戦後、織田軍は浅井氏の本拠である小谷城と佐和山城との連絡路を遮断し、佐和山城は完全に孤立した 16 。兵糧が尽きかけていく中、信長はさらに情報戦を仕掛ける。員昌が織田方に内通しているという噂を意図的に流し、主君・浅井長政の猜疑心を煽ったのである 2 。援軍の望みも絶たれ、主君からも疑いの目を向けられた員昌は、ついに元亀2年(1571年)2月、信長の降伏勧告を受け入れ、城を開城した 2 。一説には、老母を人質に取られ、その命と引き換えに降伏したとも、小谷城への帰還を許されず、進退窮まった末の決断であったとも伝えられている 15 。この開城劇は、単なる軍事的な勝敗ではなく、戦国時代の武将が直面した兵站の重要性、情報戦の巧拙、そして主家との信頼関係の脆さといった、複合的な要因が絡み合った象徴的な出来事であった。降伏後、員昌はその武勇を信長に高く評価され、近江高島郡を与えられて織田家臣として生き永らえた 16

第三章:織田信長の近江支配と佐和山城の役割

丹羽長秀の入城と戦略拠点化

8ヶ月に及ぶ攻防の末に手に入れた佐和山城を、織田信長がどれほど重視していたかは、その後に城主として送り込んだ人物を見れば明らかである。信長は、織田家臣団の中でも「米五郎左」と称されるほど不可欠な存在であった宿老・丹羽長秀を城主として配置した 1 。これは、佐和山城が単なる占領地ではなく、信長の天下統一事業における中核的な拠点と位置づけられたことを意味する。

天正7年(1579年)に安土城が完成するまでの間、佐和山城は信長の近江における事実上の本拠地の一つとして機能した 2 。美濃の岐阜城と京を結ぶ中継点として、また、依然として抵抗を続ける西国の諸勢力に対する軍事的な最前線として、その役割は極めて重要であった 19

信長の13回にわたる滞在

信長の公式記録である『信長公記』には、元亀2年(1571年)以降、信長自身が佐和山城に13回も滞在したことが記されている 19 。これは単なる行軍の途上での宿泊ではなく、数ヶ月に及ぶ長期滞在も含まれていた。この事実は、佐和山城が信長にとって単なる通過点ではなく、政務を執り、軍事作戦を指揮するための準本拠地であったことを雄弁に物語っている。

琵琶湖水運の拠点

佐和山城の戦略的価値は、陸路の支配だけに留まらなかった。元亀4年(1573年)、信長は佐和山城の山麓、松原の地で巨大な軍船の建造を命じ、自ら指揮を執った 1 。これは、佐和山城が中山道という陸の大動脈だけでなく、琵琶湖という広大な水上交通網をも掌握するための拠点であったことを示す重要な証拠である。後に信長が安土城を中心として構築する、琵琶湖岸の城郭ネットワークによる水陸両面からの支配体制は、この佐和山城での経験が基盤となっていた可能性が高い。また、近年の発掘調査では、この時代のものと見られる瓦片も出土しており、丹羽長秀の時代にはすでに城内に瓦葺きの建物が存在し、城の機能が高度化していたことが窺える 19

安土城のプロトタイプとしての佐和山城

丹羽長秀時代の佐和山城の役割を深く考察すると、それが単なる一過性の拠点ではなく、後に信長が安土で実現する壮大な天下布武の構想の、機能的・戦略的な試作モデル、すなわちプロトタイプであったという見方が浮かび上がる。信長が、後に安土城築城の総奉行という大任を託すことになる最も信頼する家臣の一人、丹羽長秀をこの地に配置したこと自体が、その重要性を物語っている 20 。信長は、安土城が築かれる以前の時期に、この佐和山城を事実上の近江における指揮の中心として活用した。13回にも及ぶ滞在は、ここが単なる軍事拠点ではなく、政治・軍事両面における中枢であったことを示している 2

さらに、信長が佐和山から琵琶湖での大船建造を直接指揮したことは、湖の戦略的水運を支配下に置くことへの強い意志の表れである 1 。この水運の完全な掌握こそ、後に安土城が絶対的な拠点となり得た力の源泉の一つであった。この時代に瓦葺きの建物が存在したという考古学的発見も、城が単なる中世的な砦から、より恒久的で格の高い施設へと格上げされていたことを示唆している 19

したがって、佐和山城は信長にとって単なる「つなぎの城」ではなかった。中央に位置する拠点を確保し、陸路と水路の双方を支配し、そこから広域に権威を及ぼすという、数年後に安土城で革命的な規模で完成させることになる戦略的概念を、信長が実践し、磨き上げた場所だったのである。

第四章:豊臣政権下の城主たち - 三成への序章

堀秀政の時代

天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が斃れると、日本の政治情勢は激動期に入る。信長の後継者を決める清洲会議を経て、佐和山城は羽柴(豊臣)秀吉の配下で、信長の小姓出身の知将・堀秀政に与えられた 1 。秀政は秀吉の主要な戦いに常に従軍し、各地を転戦することが多かったため、佐和山城の統治は弟の多賀秀種が城代として担うことが多かった 2

この時期の佐和山城に関して注目すべきは、「広間之作事」が行われたという記録が残っている点である 19 。これは、城内に大規模な広間、すなわち接客や政務を行うための公的な空間が整備されたことを意味する。この改修は、佐和山城の機能が、純粋な軍事拠点から、地域の統治を担う政庁としての役割を強めていったことを示す重要な変化である。

堀尾吉晴の時代

天正13年(1585年)、秀吉の甥である豊臣秀次が近江八幡43万石の大名となると、その付家老として堀尾吉晴が佐和山城主となった 1 。吉晴は温厚篤実な人柄で知られる一方、数々の戦で武功を挙げた歴戦の武将でもあった。彼が城主であった時代、佐和山城は豊臣政権下における近江支配の安定化を担う重要拠点であり続けた。

天正18年(1590年)、小田原征伐の功により、吉晴は徳川家康が関東へ移封された後の遠江国浜松12万石へと加増・転封となった 1 。こうして、空城となった佐和山城に、やがてその名を不滅のものとする新たな城主、石田三成が入ることになるのである。

第五章:石田三成の居城 - 「三成に過ぎたるもの」の実像

近世城郭への大改修

堀尾吉晴の転封後、天正19年(1591年)に豊臣秀吉の蔵入地(直轄領)代官として佐和山城に入った石田三成は、文禄4年(1595年)には近江国北部で19万4千石を領する正式な大名となり、佐和山城主となった 1 。これを機に、三成は自身の居城にふさわしい、まったく新しい城へと佐和山城を生まれ変わらせるべく、大規模な改修に着手した。

伝承によれば、三成は標高約233mの佐和山山頂の本丸に、白亜の五層(三層説もある)の天守を聳えさせたという 2 。本丸を中心に、西ノ丸、二ノ丸、三ノ丸といった主要な曲輪を配し、さらに尾根続きに太鼓丸、法華丸といった出城を設けることで、山全体を一つの巨大な要塞へと変貌させた 5 。石垣を多用し、壮麗な天守を権威の象徴とするその姿は、もはや中世の山城ではなく、最新の築城技術が投入された「近世城郭」そのものであった。

「佐和山惣構」の普請と城下町

三成の城づくりは、山上の要塞化に留まらなかった。彼は山麓に広大な城下町を計画的に整備した。この一大事業は「佐和山惣構御普請(さわやまそうがまえごふしん)」と呼ばれている 9 。長らくその実態は謎に包まれていたが、近年の国道バイパス建設などに伴う発掘調査によって、その驚くべき姿が科学的に解明されつつある。

  • 外堀の発見 : 城下町の北西端付近で、幅約10mにも及ぶ大規模な外堀の遺構が確認された 28 。文献史料と照らし合わせると、これは文禄5年(1596年)に行われた惣構普請の一環として築かれたものと考えられている。
  • 本町筋と先進技術 : 城下町のメインストリートであった「本町筋」の跡も発見された。特筆すべきは、その道路敷設に「胴木(どうぎ)工法」という先進技術が用いられていたことである 29 。これは、石垣を築く際に土台として丸太を敷き、構造を安定させる技術であり、これを道路建設に応用していたことは、三成の土木技術に対する深い知見を示している。
  • 侍屋敷と出土遺物 : 山麓の侍屋敷地区の発掘調査では、屋敷を区画する堀や橋の跡、門柱の跡などが発見された 1 。また、出土品の中には、豊臣家が用いた「五三桐」紋をあしらった銅製の金具も含まれており、この地が豊臣政権と密接な関係にあったことを物語っている 1

これらの考古学的発見は、石田三成が単に城を軍事的に強化しただけでなく、計画的な都市設計を行い、政治・経済の中心地として機能する城下町を築き上げた、優れた行政官であったことを証明している。

統治者としての三成

三成は豊臣政権の五奉行筆頭として、その職務の多くを伏見城でこなしていたため、佐和山に常駐することは少なかった 3 。しかし、領内では善政を敷き、領民からは深く慕われていたという伝承も残っている 24 。「三成に過ぎたる城」という言葉は、彼の身分不相応さを揶揄するだけでなく、彼の卓越した行政手腕と、それを具現化させた城と城下町の素晴らしさに対する、畏敬の念が込められた評価であったと再解釈することができよう。

統治能力の表明としての城郭

石田三成が推し進めた「佐和山惣構」は、単なる防御施設の構築という枠を遥かに超えるものであった。それは、豊臣政権の最高行政官僚として、また一人の大名としての三成自身の統治理念を具現化した、壮大な政治的表明であった。加藤清正や福島正則といった武断派の猛将たちとは異なり、三成の真価は戦場での武勇ではなく、卓抜した行政手腕にあった。その彼が築いた城と城下町は、彼のアイデンティティそのものを反映していたのである。

壮麗な天守だけでなく、幅10mの外堀、侍屋敷、そして計画的に配置された大通りを備えた城下町は、まさに都市計画家の仕事である 27 。特に、道路建設に「胴木工法」のような先進的な土木技術を導入したことは、彼が単なる要塞化ではなく、恒久的なインフラ整備に重点を置いていたことを示している 29 。この城下町は、彼の領国の政治・経済の中心地として機能するように設計されており、それは統治と経済の安定を重視する文治派官僚としての彼の役割と完全に一致する。したがって、佐和山城とその城下町は、豊臣の平和の下で、秩序立ち、繁栄し、効率的に管理された理想の領国という、三成の政治哲学が物理的な形となったものであった。その壮大さは、彼が代表する豊臣政権の権威と安定性を天下に示すための、強力な政治的声明だったのである。

第六章:関ヶ原合戦と佐和山城の落日

関ヶ原敗戦後の攻防

慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原における天下分け目の決戦は、わずか一日で西軍の壊滅的な敗北に終わった。西軍を率いた石田三成は戦場から離脱し、伊吹山方面へと逃走した 32 。勝利を確信した徳川家康の次なる標的は、三成の居城であり西軍の近江における本拠地、佐和山城であった。家康は即座に軍を編成し、佐和山へと差し向けた 14

攻撃の先鋒を命じられたのは、皮肉にも関ヶ原の戦場で西軍を裏切り、東軍を勝利に導いた小早川秀秋、脇坂安治、朽木元綱らの部隊であった 14 。これは、家康による戦功への配慮であると同時に、彼らに裏切りの「証」を立てさせるという、極めて老獪な政治的采配であった。

この時、城主三成は不在。城内には父の石田正継を総大将に、兄の正澄、そして三成の舅である宇多頼忠らが、わずか2,800の兵と共に籠城していた 5

落城の経緯

関ヶ原の翌々日、9月17日。小早川秀秋を主力とする1万5千以上の東軍が佐和山城を幾重にも包囲した。徳川家康自身は、城の南方に位置する平田山(雨壺山とも)に本陣を構え、全軍を指揮した 14 。圧倒的な兵力差にもかかわらず、城兵は三成が築いた堅城を頼りに奮戦し、初日の猛攻を凌ぎきった 33

しかし、城の運命を決定づけたのは、外部からの攻撃ではなく、内部からの裏切りであった。籠城軍の中に、豊臣家からの援軍として加わっていた長谷川守知という武将がいた。彼は戦況を悲観し、夜陰に乗じて密かに小早川秀秋に内通したのである 33 。そして翌18日の早朝、城内の構造や守備の手薄な箇所を知り尽くした守知の先導により、東軍は一気になだれ込んだ 33 。この裏切りによって三の丸が突破されると、守備側の防衛線は瞬く間に崩壊し、兵たちは本丸へと追い詰められていった。

石田一族の最期

もはやこれまでと覚悟を決めた城内の人々は、次々と悲劇的な最期を遂げた。総大将であった父・正継、兄・正澄は、敵兵が本丸に迫る中、一族の誇りを守るために自刃して果てた 1 。三成の妻・皎月院をはじめとする一族の婦女子たちは、敵の手に掛かることを潔しとせず、城内の「女郎ヶ谷」と呼ばれる谷に次々と身を投げたという、痛ましい伝承が残されている 1

9月18日、難攻不落を誇った佐和山城はついに落城し、三成が心血を注いで築き上げた壮麗な天守は、紅蓮の炎に包まれ燃え落ちた 8 。こうして、石田三成の栄華の象徴であった佐和山城は、その一族と共に歴史の舞台から姿を消したのである。

第七章:廃城と彦根城への転生

井伊直政の入封と「破城」

関ヶ原の戦いにおける最大の功労者の一人であり、徳川四天王にも数えられる猛将・井伊直政は、その論功行賞として石田三成の旧領である佐和山18万石を与えられ、新たな城主となった 1 。しかし、直政は関ヶ原で島津軍を追撃した際に受けた鉄砲傷が悪化し、慶長7年(1602年)、佐和山城内にてその生涯を閉じた 1

直政の死後、徳川家康は新たな時代の幕開けを象徴する城の建設を決断する。家康の命と、井伊家の家老たちの判断により、石田三成の痕跡が色濃く残る佐和山城は完全に破壊(破城)し、約2km西に位置する彦根山に、徳川の世の泰平を守る新たな拠点として彦根城を築くことが決定された 8

彦根城への部材転用

佐和山城の解体は、徹底的に行われた。山上に聳えていた天守や櫓、門などの建造物はことごとく取り壊され、その部材は彦根城築城のための資材として再利用された 6 。さらに、城の骨格を成していた石垣の石までもが一つ一つ運び出され、彦根城の石垣へと転用されたという 35

この徹底した「破城」と部材転用は、二つの重要な意味を持っていた。一つは、敗者である石田三成の威光の象徴を地上から完全に消し去るという、新時代の支配者による政治的な意思表示である。そしてもう一つは、新たな城をゼロから築くよりも、既存の資材を再利用することで、築城にかかる時間と費用を大幅に削減するという、極めて合理的かつ経済的な目的であった 19

彦根城の太鼓門櫓は、佐和山城から移築されたものという伝承が根強く残っている 39 。しかし、近年の解体修理調査では、別の城の門を縮小して再利用したことまでは判明したものの、それが佐和山城のものであったかを直接証明するまでには至っておらず、今なお謎のままである 40

市内に残る移築伝承

佐和山城の遺構は、彦根城だけでなく、彦根市内の寺社にも移築されたという伝承が残っている。

  • 宗安寺の赤門 : 彦根城下の夢京橋キャッスルロードに面して建つこの朱塗りの巨大な門は、佐和山城の大手門を移築したものと伝えられている 1 。その堂々たる姿は、かつての佐和山城の威容を今に偲ばせる貴重な遺構である 42
  • 専宗寺の太鼓門 : 中山道沿いに建つこの寺の太鼓門は、その天井板に佐和山城の門扉が再利用されていると伝わる 42 。天井を見上げると、明らかに門扉であったことを示す金具の跡などが残っており、伝承の信憑性を高めている。

徳川の正統性の基盤としての解体

佐和山城の組織的な解体と、その部材を用いた彦根城の建設は、単なる建築行為ではなく、極めて象徴的な意味を持つ政治的パフォーマンスであった。三成時代、佐和山城はこの地域における豊臣政権の権威の究極的な象徴であった。関ヶ原の後、新たな支配者となった徳川家は、この戦略的に重要な近江国において、自らの揺るぎない権威を確立する必要があった。

単に佐和山城を占領し、居城とするだけでは、三成と豊臣の影の下で統治を行うことになりかねない。そこで家康は、城の完全な解体を命じ、その資材を用いて最も信頼する将軍・井伊直政のために新たな城を築かせた 19 。これは、古い秩序の象徴を消し去り、その廃墟の上に新しい徳川の秩序を物理的に打ち立てるという、象徴的な征服と権威の横領行為であった。彦根城は、佐和山城の

近く に建てられただけでなく、佐和山城そのもの から 建てられたのである。佐和山から彦根へと運ばれた一つ一つの石は、豊臣から徳川へと権力が完全に移行したことを、誰の目にも明らかな形で示す、具体的な証拠となった。佐和山城の運命は、建築と破壊がいかにして国家建設と心理戦の強力な道具として用いられたかを示す、歴史上の好例と言える。

第八章:現代に遺る痕跡 - 考古学的知見と遺構

現在の城跡の状況

関ヶ原合戦後の徹底的な破城により、かつて「三成に過ぎたるもの」と謳われた佐和山城の壮麗な建造物は地上から姿を消し、石垣もそのほとんどが彦根城築城のために持ち去られた 6 。現在の佐和山城跡には、往時の建物を偲ばせるものは何一つ残っていない。

しかし、詳細な地表観察や測量調査によって、城の骨格であった縄張りは極めて良好な状態で残存していることが判明している 1 。山頂の本丸跡をはじめ、西の丸、二の丸などの曲輪跡、斜面の移動を妨げるための竪堀、そして敵の侵攻を阻む堀切や土塁などが各所に確認でき、山全体が要塞化されていた様子を今でも体感することができる 2

  • 千貫井(せんがんい) : 本丸の南西部山腹に残る井戸の跡は、特に重要な遺構の一つである 8 。山城において水の確保は生命線であり、この井戸は「千貫の価値がある」とされたことからその名が付いたと伝えられる 1 。籠城戦を常に想定していた戦国時代の城郭設計思想を今に伝える貴重な痕跡である。
  • 隅石垣 : 大規模な石垣は失われたものの、本丸跡の周囲には、破城を免れた石垣の最下段の石(根石)がわずかに残っている箇所がある 8 。これは、かつて本丸が総石垣で囲まれていたことを示す動かぬ証拠であり、石垣のラインを復元する上で極めて重要な手がかりとなっている。

古絵図の価値と限界

江戸時代中期以降に描かれた「佐和山古城図」などの絵図は、廃城から時を経て、古老の伝承などを基に作成されたものである 46 。これらの絵図には、天守跡や侍屋敷、二重の堀の配置などが描かれており、失われた城郭の全体像を推測する上で非常に貴重な史料である 1 。しかし、作成されたのが廃城から100年以上経過した後であるため、記憶や伝承に基づく不正確な情報が含まれている可能性も否定できない。そのため、これらの古絵図は、近年の考古学的知見と照らし合わせながら、慎重に解釈する必要がある 46

考古学が解き明かした城の実像(総括)

近年の国道バイパス建設事業などに伴って実施された一連の発掘調査は、これまで文献や伝承の世界に留まっていた佐和山城、特に城下町の実態を劇的に解明した 28 。城下町を囲む幅10mの外堀の位置と規模の確定、メインストリート「本町筋」の発見、そして「胴木工法」という先進的な道路敷設技術の確認は、石田三成が築いた城と城下町が、同時代の他の城郭と比較しても極めて高い水準にあったことを科学的に裏付けた。これらの成果は、佐和山城研究に新たな地平を切り開いたと言える。

終章:歴史の中に生きる城

佐和山城の歴史を紐解くとき、我々はそれが単に「石田三成の悲劇の城」という一面的なイメージに収まらない、重層的で重要な存在であったことを知る。その起源は鎌倉時代に遡り、近江の覇権を巡る争いの中で常に戦略拠点として機能し続けた。特に織田信長政権下では、天下統一の拠点・安土城に先立つ中央拠点として、陸路と水運を掌握する先進的な役割を果たした。これは、日本城郭史上でも特筆すべき点である。

石田三成の時代に、佐和山城はその栄華の頂点を迎える。壮麗な天守と堅固な要塞、そして計画的に整備された城下町は、三成の卓越した行政手腕と統治理念の結晶であった。しかし、その栄華ゆえに、城は新時代の到来と共に徹底的に破壊されるという皮肉な運命を辿る。そして、その部材は新たな支配の象徴である彦根城の礎となった。この「破壊による継承」という物語こそが、佐和山城の歴史をより一層深く、印象的なものにしている。

今日、佐和山の山上に往時の建物はない。しかし、そこに残された曲輪や堀切の痕跡は、確かに戦国の世の記憶を刻んでいる。そして、その魂は彦根城の石垣や梁の中に、彦根市内の寺社の門に、そして何よりも「三成に過ぎたるもの」という言葉と共に、歴史の中に生き続けているのである。

引用文献

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