近江八幡城は、豊臣秀次が築きし軍事経済複合都市。安土城の遺産を継承し、八幡堀を開削。秀次事件により廃城となるも、近江商人の礎を築きし。
本報告書は、豊臣秀次によって築かれた近江八幡城(通称:八幡山城)を、単なる一過性の城郭としてではなく、織田信長の安土城を継承・発展させ、豊臣政権の東国戦略と経済政策を体現した画期的な「軍事経済複合都市」として再評価することを目的とする。天正13年(1585年)の築城開始から、文禄4年(1595年)の廃城まで、わずか10年という短い期間にその歴史を終えながらも 1 、その後の近江商人の発展と商都・近江八幡の繁栄の礎を築いたという、その特異な歴史的意義を多角的に解明する。
調査にあたり、提供された研究資料群( 9 ~ 18 、 17 ~ 27 )を網羅的に分析した。なお、調査過程で美濃国郡上八幡城に関する資料 3 が散見されたが、これらは本調査対象である近江八幡城とは異なる城郭であるため、分析対象から明確に除外する。この峻別は、正確な歴史研究における基礎的な手続きである。
八幡城の歴史的意義を深く理解するため、本報告書では、築城の政治的背景、城主たちの動向、城郭と城下町の構造、そして廃城がもたらした影響という多角的な視点から分析を進める。
表1:八幡城関連年表
年代(西暦) |
主な出来事 |
関連人物の動向 |
天正13 (1585) |
八幡山城の築城開始、城下町の造成 |
豊臣秀次、近江43万石の領主となる 9 。 |
天正18 (1590) |
小田原征伐 |
秀次、戦功により尾張清洲へ移封 1 。京極高次が八幡城主となる 11 。 |
文禄4 (1595) |
豊臣秀次、自刃。八幡山城の廃城 |
京極高次、大津城へ6万石で加増移封される 1 。 |
慶長5 (1600) |
関ヶ原の戦い |
京極高次、大津城籠城で功を挙げ、若狭国主となる 11 。 |
慶長9 (1604) |
彦根城の築城開始 |
八幡城ではなく、大津城や佐和山城など周辺の廃城から部材が転用される 14 。 |
天正10年(1582年)の本能寺の変により織田信長が横死すると、彼の天下布武の象徴であった安土城は、その輝きを失い、実質的にその機能を喪失した。城下町は焼き払われ、政治の中心としての役割を終えた 16 。信長の後継者として天下統一を進める豊臣秀吉にとって、旧主の威光が色濃く残る安土城をそのまま利用することは、自らが築く新政権の確立において、むしろ政治的な障害となり得た。安土城を再建すれば信長の威光を復活させることになり、かといって放置すれば、その地に蓄積された経済的・人的資源が失われてしまう。
このジレンマを解決するため、秀吉は極めて戦略的な決断を下す。それは、安土の物理的・人的資源を継承しつつも、織田政権からの明確な脱却を内外に示すため、安土の隣接地に全く新しい城を築くというものであった 17 。八幡城の築城は、単なる新城建設ではなく、「安土の無力化」と「近江の豊臣化」を同時に達成するための、高度な政治的プロジェクトだったのである。秀吉は、安土城下の住民を八幡の新城下へ強制的に移住させ、安土の経済基盤をそっくり奪い取り、豊臣家の城下に組み込んだ 1 。これにより、過去(織田)の遺産を継承しつつもそれを骨抜きにし、未来(豊臣)の権威を確立するという、秀吉の深謀遠慮が具現化された。
天正13年(1585年)、秀吉は関白に任官し、名実ともに天下人の地位を固めつつあった。しかし、その権力基盤はまだ盤石ではなかった。東に目を向ければ、東海には小牧・長久手の戦いで雌雄を決しきれなかった徳川家康、関東には巨大な勢力を誇る北条氏が依然として存在していた 17 。これらの勢力は、豊臣政権にとって潜在的な「東の脅威」であり、これに備えることは喫緊の軍事的課題であった。
八幡城の築城は、この地政学的リスクに対する直接的な回答であった。東国への出口というべき戦略的要衝・近江に、強力な防衛拠点を確保する。そのために、秀吉は自ら普請の指揮を執ったとも言われ、豊臣政権の総力を挙げた一大事業であったことが窺える 18 。この城は、徳川・北条という東の脅威に対する最前線の防衛拠点として、極めて明確な軍事目的を持って計画されたのである 17 。
この戦略的要衝の主として秀吉が選んだのが、甥であり、当時唯一成人していた血縁男子であった豊臣秀次(当時は羽柴秀次)であった 19 。18歳の若さで近江43万石という広大な領地と、国家的なプロジェクトである新城築城を任されたことは、秀吉の秀次に対する期待の大きさを物語っている 9 。秀次をこの地に配置することは、豊臣一門による支配体制を固め、東国大名に対する牽制とする意図があった。
築城地として八幡山(鶴翼山)が選ばれた理由は、複数の利点があったためと考えられる。第一に、安土に隣接しており、その城下町を丸ごと移転させるのに地理的に好都合であった点 1 。第二に、琵琶湖の水運を直接活用できる地政学的優位性である。後に詳述する八幡堀の開削により、八幡は湖上交通のハブとなり、経済的にも軍事的にも重要な拠点となり得た 9 。八幡山の選定は、安土の遺産を継承しつつ、それを超える新たな拠点都市を創造しようとする豊臣政権の野心的な構想の現れであった。
表2:安土城と八幡城の比較分析
項目 |
安土城(織田信長) |
八幡城(豊臣秀次) |
立地 |
琵琶湖に面した独立峰 |
安土に隣接し、琵琶湖と直結する運河を持つ |
構造 |
総石垣、山上主郭部、山麓居館部 |
総石垣、山上主郭部、山麓居館部(二元構造を継承) |
城下町 |
楽市楽座、計画的な町割 |
安土城下を移転、より大規模な碁盤目状都市を建設 9 |
役割 |
天下布武の象徴、政治・経済の中心 |
豊臣政権の東国戦略拠点、軍事経済複合都市 17 |
結末 |
本能寺の変後に焼失、実質的に廃城 |
秀次事件により政治的に破却、10年で廃城 1 |
遺産 |
近世城郭の嚆矢としての技術的遺産 |
近江商人を育んだ商業都市の基盤という経済的遺産 22 |
豊臣秀次は、一般に悲劇の武将として記憶されている。叔父である秀吉に忠実に仕え、山崎の戦いや賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなどで武功を重ね、秀吉の縁者として重用された 19 。ついには関白職を継承するに至るが、秀吉に実子・秀頼が誕生すると、次第に疎まれ、謀反の疑いをかけられて高野山で自刃に追い込まれた 1 。その非業の死は、多くの同情を集めている。
しかし、八幡城主として過ごしたわずか5年間の治績に目を向けると、彼の全く異なる側面が浮かび上がってくる 9 。そこには、時代の変化を鋭敏に捉え、極めて先進的な都市経営を実践した、優れた為政者としての秀次の姿がある。八幡城と城下町の建設は、来るべき統一政権下での「富国強兵」を体現する社会実験であり、彼の理想と実践の場であった。
秀次は八幡城の築城と同時に、安土から移住させた人々を収容するため、大規模な城下町を造成した 9 。その都市計画は、縦12筋、横4筋の道路によって整然と区画された、見事な碁盤目状の構造を特徴とする 9 。これは単なる住民の移転ではなく、商業の活性化を第一に考え抜かれた計画都市の建設であった。さらに、軍略上の必要から、要所に寺院を計画的に移築・配置しており 9 、防御機能と都市機能を巧みに融合させた設計思想が見て取れる。この計画的な都市基盤こそが、城が廃された後も近江八幡が商都として発展を続けるための揺るぎない土台となった 2 。
秀次の都市計画の中でも、特に画期的であったのが、全長6キロメートルにも及ぶ運河「八幡堀」の開削である 9 。この堀は、琵琶湖と城下を直接結びつけることで、複数の戦略的機能を持っていた。第一に、城の南麓を巡ることで、城下町全体を防御する壮大な外堀としての役割を果たした 1 。第二に、そしてより重要なのは、経済的な機能である。秀吉は、琵琶湖を往来する全ての荷船に八幡への寄港を義務付けた 9 。八幡堀は、この政策を実行するための不可欠なインフラであり、人、物、情報を強制的に城下へ集積させるための強力な装置として機能した。
このように、軍事的な防御機能と経済的な物流機能を一つのインフラに両立させた八幡堀の設計思想は、秀次の先見性を示すものである。戦国時代が終焉に向かう中、これからの国家経営には軍事力だけでなく、それを支える強固な経済基盤が不可欠であることを見抜いていた。八幡堀という物理的な仕組みで「富」を城下に引き寄せ、それが城の維持と軍事機能を支えるという、持続可能なシステムを構築しようとしたのである。
インフラ整備と並行して、秀次は商業を活性化させるための制度改革にも着手した。織田信長が安土で実施した楽市楽座を継承・発展させ、「掟書十二ヶ条」を公布したのである 9 。これにより、旧来の座といった特権商人組織を排除し、誰もが自由に商売を行える環境を整えた。この徹底した自由商業政策は、八幡堀によって集められた人や物資が円滑に取引され、富が循環し増殖するためのソフトウェアとして機能した。
秀次が八幡に在城したのはわずか5年間であったが、彼が築いたハード(都市計画と八幡堀)とソフト(楽市楽座)は、この地を日本有数の商業都市へと飛躍させる原動力となった。八幡城は、単なる権力者の居住地や軍事拠点といった消費型の城ではなく、富を自律的に生み出す生産拠点としての都市機能を内包していた。これは、戦争の時代から経済の時代へと移行する過渡期における、新しい国家モデルの縮図であったと言える。秀次の治世が、その後数百年続く近江商人と商都・近江八幡の繁栄の基礎を築いたという事実は 9 、この設計思想の卓越性を何よりも雄弁に物語っている。
八幡城の構造は、織田信長の安土城から続く「織豊系城郭」の一つの到達点を示すものである。その最大の特徴は、防衛と象徴性を担う山上の主郭部と、政治・居住空間である山麓の居館部が明確に分離された「二元構造」にある 20 。これは、戦国時代に見られる山城の防衛思想を色濃く残す一方で、城全体を石垣で固める総石垣の採用、礎石の上に建物を建てる礎石建ち、瓦葺きの導入など、近世城郭の先進的な要素を全面的に取り入れている 20 。
この構造は、築城された天正13年(1585年)という時代背景を反映している。小牧・長久手の戦いの翌年であり、徳川家康との講和が成立する以前の、依然として東国に対する軍事的緊張が続いていた時期であった 18 。そのため、居住空間の快適性を確保しつつも、有事の際には山城に立て籠もって徹底抗戦するという、戦国期以来の防衛思想が縄張りに強く表れているのである 20 。
山上主郭部は、標高271.9メートルの八幡山山頂に築かれた、堅固な総石垣の要塞である 1 。
八幡山の南麓、二本の尾根に挟まれた谷筋の地形を利用して、城主の居館や家臣団の屋敷群が計画的に配置されていた 20 。
八幡城に残る石垣は、築城から廃城までのわずか10年間に、豊臣政権の軍事技術と戦略思想が急速に変化したことを示す「生きた証拠」である。
八幡城の石垣は、秀次時代の「国内統一期」の技術と、高次時代の「対外戦争期」の技術が重層的に存在する、極めて貴重な技術史的遺構である。城主の交代という短い期間に、これほど明確に技術の更新が見られる例は稀であり、当時の技術革新の速さを物語っている。
八幡城の第二代城主となった京極高次は、鎌倉・室町時代に北近江の守護大名を代々務めた名門・京極氏の嫡流である 12 。しかし、戦国時代に入ると家中の内紛や、被官であった浅井氏の下克上によってその勢力は著しく衰退し、高次は浅井氏の庇護のもとで生まれるという境遇にあった 13 。
高次の生涯は、まさに波乱万丈であった。本能寺の変後、当初は明智光秀に味方したため、羽柴秀吉に追われる身となった 12 。しかし、彼の運命を劇的に好転させたのが、強力な閨閥(女性たちの縁戚関係)であった。高次の妹・竜子(松の丸殿)が秀吉に見初められて側室となり、さらに正室には、秀吉の側室である淀殿の妹、すなわち浅井三姉妹の次女・初を迎えた 13 。この豊臣家との二重三重の縁戚関係により、高次は罪を許されただけでなく、破格の出世を遂げることになった。そのあまりに幸運な境遇から、自身の功績ではなく縁故によって出世した「蛍大名」と揶揄されることもあったという 13 。
天正18年(1590年)、秀吉が行った小田原征伐での軍功により、高次は豊臣秀次の後任として近江八幡山城2万8千石の城主となった 11 。しかし、八幡城主であった期間は長くはない。わずか5年後の文禄4年(1595年)には、6万石へと大幅に加増された上で、琵琶湖南岸の要衝である大津城へ移封されたのである 1 。
この移封は、単なる高個人の栄転と見るべきではない。これは、豊臣政権の国内における戦略的重心が変化したことを象徴する、極めて重要な人事であった。1590年の小田原征伐によって北条氏が滅亡し、徳川家康が関東へ移封されたことで、八幡城が担っていた「東の脅威」に対する最前線としての軍事的役割は事実上終了した。政権の次の課題は、政治の中心である京都・大坂周辺、すなわち畿内の支配体制を盤石にすることへと移行した。大津城は、琵琶湖の制水権を握り、京都への喉元を扼する最重要拠点である 13 。秀吉は、この最重要拠点に、名門の家柄で、かつ豊臣家と深い縁戚関係にある高次を、石高を倍増させて配置した。これは、高次への信頼を示すと同時に、畿内支配を親族で固めるという政権の方針の現れであった。高次の異動は、豊臣政権の国防方針が「対外(東国)防衛」から「対内(畿内)統制」へとシフトしたことを示す、政権全体の戦略転換の現れだったのである。
「蛍大名」と揶揄された高次が、その真価を発揮したのが慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いであった。当初、西軍に与する姿勢を見せ、人質を大坂城に送るなど複雑な動きを見せた 12 。しかし、最終的には徳川家康率いる東軍に与することを決意し、居城である大津城にわずか3千の兵で籠城した 11 。
これに対し、西軍は立花宗茂、毛利元康といった猛将が率いる1万5千とも言われる大軍を大津城の攻略に差し向けた 13 。高次は10日以上にわたってこの猛攻に耐え抜き、西軍の主力を大津に釘付けにした 11 。大津城が落城したのは、関ヶ原の本戦当日であったため、立花宗茂らの軍勢は決戦に間に合わなかった 13 。結果として、高次の籠城は東軍の勝利に大きく貢献することとなり、戦後、家康からその功を高く評価され、若狭一国8万5千石の大名へと大出世を遂げた 11 。この一戦は、彼が単なる閨閥頼りの大名ではなかったことを証明するものであった。
表3:八幡城の歴代城主
城主名 |
在城期間 |
石高 |
退城理由 |
豊臣秀次 |
天正13年~天正18年 (1585-1590) |
43万石 |
尾張清洲への移封 1 |
京極高次 |
天正18年~文禄4年 (1590-1595) |
2万8千石 |
大津城への加増移封 13 |
八幡城の歴史は、その始まりと同様に、極めて政治的な理由によって突然の終焉を迎えた。文禄4年(1595年)、関白の地位にあった豊臣秀次が、叔父・秀吉から謀反の嫌疑をかけられ、高野山において自刃を命じられた 1 。この「秀次事件」は豊臣政権を揺るがす大事件であり、秀吉は秀次に関連する全てのものを歴史から抹消しようとした。秀次が京都に築いた壮麗な政庁・聚楽第が徹底的に破却されたのと同様に、彼が心血を注いで築いた八幡城もまた、廃城とされ、破却されたのである 1 。築城開始からわずか10年、近江支配の拠点として、また東国への備えとして壮大な構想のもとに生まれた城は、その役割を十分に果たすことなく歴史の舞台から姿を消した。
廃城となった城の建造物は、近隣に新たに築かれる城の資材として再利用されることがしばしばあった。八幡城に関しても、後に徳川幕府の譜代大名・井伊氏によって築かれた彦根城に、その建造物が移築されたという説が語られることがある。しかし、これは誤りである可能性が極めて高い。
彦根城の築城にあたっては、様々な城から部材が転用されたことが記録されている。特に天守は、京極高次が最後に居城とした大津城から移築されたものであることが、解体修理の調査などから定説となっている 14 。その他にも、石田三成の居城であった佐和山城 33 や、秀吉が築いた長浜城 36 など、近江国内の複数の廃城から石垣や用材が利用されたことがわかっている 15 。しかし、これらの記録の中に、八幡城からの移築を明確に示す信頼性の高い資料は見当たらない。むしろ、八幡城を築く際に、信長の安土城に残された施設や石垣が再利用された可能性の方が指摘されている 38 。秀次事件に伴う政治的な破却という性質を考えれば、その建造物が丁重に移築・再利用されたとは考えにくい。
通常、城が廃されれば、その城下町もまた衰退の道をたどるのが戦国時代の常であった。しかし、八幡の町は全く異なる運命をたどった。城という軍事的・政治的な中心を失ったにもかかわらず、町は衰退するどころか、むしろ日本有数の商業都市としてさらなる繁栄を遂げたのである 2 。
その理由は、秀次が築いた都市基盤の卓越性にあった。物流の大動脈である八幡堀と、整然とした碁盤目状の町割りは、城がなくなった後もそのまま残り、経済活動のインフラとして機能し続けた 23 。八幡の町は、城主の権威に依存するのではなく、八幡堀という物流システムと、楽市楽座という自由経済システムという、町そのものが持つ自律的な経済力によって支えられていた。秀次は無意識のうちに、城という「ハードウェア」が失われても機能し続ける、強力な「ソフトウェア(都市システム)」を構築していたのである。この強固な基盤の上で、近江商人(特に八幡商人)は全国を舞台に活躍し、莫大な富を築き、その富を町の発展に再投資した 22 。
八幡城の廃城と近江八幡の繁栄という一見矛盾した事象は、日本の都市史において、時代の大きな転換点を象徴している。それは、城郭の価値が、純粋な「軍事拠点」から、その母体となる「経済都市」の機能へと移行する時代の幕開けであった。
八幡城が後世に残した最大の遺産は、山上に残る石垣や、今はなき御殿の金箔瓦ではない。それは、近江商人の活動を支え、「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」という彼らの商業哲学を育んだ、商業都市の基盤そのものである 22 。城は消え去っても、秀次の先進的な都市経営の思想は、町の営みの中に無形の遺産として生き続け、今日の近江八幡の礎となっているのである。
わずか10年で廃城となった八幡城であるが、その遺構は今日においても良好な状態で保存されている。標高271.9メートルの八幡山山頂には、本丸、二の丸、西の丸、北の丸といった主要な曲輪を区画する壮大な石垣群が残り、往時の縄張りを明確に見て取ることができる 19 。これらの石垣は、ほとんどが後世の改修を受けていないため、秀吉時代の築城技術を今に伝える貴重な遺構である 29 。
山麓には、秀次の居館跡や家臣団の屋敷跡が八幡公園として整備されており、一直線に伸びる大手道の痕跡や、居館跡の雄大な石垣を間近に観察することができる 27 。山上の主郭部へはロープウェイが整備されており、気軽に山頂まで登ることが可能である 1 。
現在、八幡城の本丸跡には、日蓮宗の寺院である瑞龍寺(村雲御所)が建っている 10 。この寺院は、もともと秀吉の姉であり、秀次の母である瑞龍院日秀尼が、非業の死を遂げた息子の菩提を弔うために京都に建立したものである 10 。後にこの地に移築され、城跡は秀次母子の悲劇を今に伝える場所ともなっている 43 。山上の寺院からは、眼下に広がる城下町と琵琶湖の雄大な景色を望むことができ、多くの観光客が訪れている 1 。
八幡山城跡は、その歴史的・学術的価値の高さから、継続的な調査と保存活動が行われている。近江八幡市による昭和56年(1981年)以降の埋蔵文化財調査では、金箔瓦をはじめとする多くの遺物が出土し、城の全容解明が進められている 27 。これらの成果が評価され、平成29年(2017年)には「続日本100名城」の一つに選定された 16 。
近江八幡城は、織田信長の安土城が示した近世城郭の姿を継承しつつ、豊臣政権の新たな戦略思想と、来るべき経済の時代を見据えた先進的な都市計画が結実した、画期的な城郭であった。その歴史は、秀次個人の悲劇と政権の都合によってわずか10年で幕を閉じた。しかし、その短命な歴史とは裏腹に、八幡城が残した都市基盤と経済システムは、近江商人の活躍を促し、日本の近世社会の幕開けに極めて大きな影響を与えた。
山上に残る壮大な石垣群と、それが育んだ麓の歴史的な町並みは、一体のものとして捉えるべき貴重な文化遺産である。八幡城は、戦国時代の終焉と、新たな時代の胎動を今に伝える、歴史の証人として静かに佇んでいる。