薩摩島津氏の内城は、貴久が築き三州統一を支えた。簡素な館ながら、詰城との二元構造と外城制度の司令塔として機能。島津氏の広域支配と経済力を象徴し、鹿児島城へ。
本報告書は、薩摩国鹿児島に存在した島津氏の居城「内城(うちじょう)」について、その歴史的意義を多角的に解明することを目的とする。通説では、内城は島津氏が鶴丸城(鹿児島城)を築くまでの約半世紀にわたる一過性の本城と見なされがちである。しかし、本報告は、内城が単なる居城ではなく、中世的領主から戦国大名へと脱皮しつつあった島津氏の統治思想、軍事戦略、そして後の薩摩藩の礎を築く上で決定的な役割を果たした画期的な拠点であったことを論証する。
内城が築かれた天文19年(1550年)頃の薩摩国は、長きにわたる内乱の時代がようやく終焉を迎えつつあった。島津本宗家内部では、第14代当主・島津勝久を擁立する薩州家の島津実久と、相州家の島津忠良・貴久親子との間で守護職をめぐる激しい権力闘争が繰り広げられていた。この抗争を制し、島津貴久が薩摩守護としての実権を掌握し、鹿児島周辺の支配体制を固めたことが、新たな拠点たる内城の築城を可能にした政治的背景であった 1 。
この歴史的転換点において、一つの大きな問いが生じる。すなわち、なぜ島津貴久は、南北朝時代以来の伝統的な山城であり、堅固な防御を誇る清水城を本拠とせず、防御上は不利とも思える平地の「館」を新たに築き、そこを本城としたのか。この問いこそが、内城の本質と、戦国大名・島津氏の戦略思想を解き明かす鍵となる。本報告書は、この問いを中心に据え、内城の実像に迫るものである。
内城の登場を理解するためには、まずその前身である清水城の性格と限界を把握する必要がある。清水城は、至徳元年(1387年)に島津元久が築いて以来、約150年間にわたり島津氏の本拠として機能した城郭である 2 。この城は、有事の際に立て籠もる山城部分と、麓に構えられた平時の政務・居住空間である居館から構成される、典型的な中世の二元構造を持つ城であった 2 。その山がちな立地は防衛には適していたが、島津氏が薩摩一国から大隅・日向へと勢力を拡大し、「三州統一」という国家目標を掲げる段階に至ると、その限界が露呈した。山中にある清水城は、拡大する領国を統治するための政務・経済の中心地としては手狭であり、交通の便も悪かったのである 3 。
こうした状況下で、島津氏第15代当主・貴久は、伊集院城から鹿児島へ帰還するにあたり、旧来の清水城を本拠とせず、全く新しい拠点として内城を築くという画期的な決断を下した 3 。これは単なる居城の移転ではない。島津氏の統治思想が、領地を固守する中世的な「守り」の姿勢から、領国を積極的に拡大し、効率的に支配するという戦国的な「攻め」の思想へと大きく舵を切ったことを象徴する出来事であった。
内城の立地は、この新しい統治思想を明確に体現していた。城は、清水城から南西約500メートルの海岸に近い平野部、後の鹿児島城(鶴丸城)の東北に位置する標高約10メートルの高台に選ばれた 1 。この場所は、山城が主流であった時代において、あえて平地を選んだという点で極めて戦略的な意図が窺える。
第一に、この立地は陸上・海上交通の結節点としての地理的優位性を持っていた 3 。平地に拠点を移すことで、領国各地からの人、物資、情報が効率的に集散するようになり、支配体制の強化に直結した。第二に、広大な平地を確保できるため、計画的な城下町の形成が可能となり、商業の活性化を促すことができた 3 。そして第三に、海岸に近いことは、当時島津氏の重要な経済基盤となりつつあった琉球貿易をはじめとする対外交易の拠点化を明確に視野に入れた選択であったことを示唆している 6 。
この立地選定は、島津氏が軍事力のみならず、経済力をもって富国強兵を図り、領国を「点」ではなく「面」で支配するという、近代的な国家像を構想していたことの現れである。内城への移転は、軍事拠点としての城から、政治・経済・外交の中心地としての「首都」機能を担う都市への移行を目指した、島津氏の統治理念における一大転換点であったと言える。
内城の具体的な規模や形状、縄張り(城の設計)を示す絵図などの直接的な史料は現存していない 1 。しかし、複数の史料が「簡単な屋形作り」「城というよりは館に近いもの」と記述していることから、その姿を類推することは可能である 4 。内城は、天守閣や高石垣、複雑な虎口(こぐち、城の出入り口)といった戦闘的な設備を持たず、政務と居住を主目的とした、堀に囲まれた簡素な方形館(ほうけいかん)であったと考えられている 3 。東側を流れる稲荷川を天然の外堀として利用していた可能性も指摘されているが、全体として防御機能は極めて限定的であったと見られる 9 。
この実像解明の困難さの一因として、考古学的な知見が乏しいことが挙げられる。内城の跡地は現在、鹿児島市立大龍小学校の敷地となっており、その後の大龍寺建立や学校建設によって遺構はほぼ完全に失われている 9 。後継の鹿児島城(鶴丸城)跡では、国史跡指定を目指した継続的な発掘調査が行われ、御楼門の礎石や大奥に関連する遺構などが発見されているのとは対照的である 11 。これにより、内城の研究は主に文献史料と周辺状況からの推測に依存せざるを得ないのが現状である。
内城の簡素な構造は、一見すると戦国の世における本城としては脆弱に映る。しかし、これは島津氏独自の城郭思想を理解することで、その合理性が見えてくる。戦国期の島津氏は、平時の政務・生活拠点である「居館(きょかん)」と、有事の際の最終防衛拠点である「詰城(つめじろ)」の機能を明確に分離する「二元構造」を基本戦略としていた 3 。
内城の詰城として指定されていたのが、平安時代末期に築かれたとされる要害・東福寺城であった 4 。東福寺城は、島津氏が南北朝時代に鹿児島へ進出する足がかりとして攻略した歴史的な城であり、錦江湾を見下ろす標高約59メートルの丘陵に位置していた 3 。複数の曲輪や堀切、土塁を備えたこの山城は、詰城としての機能を十分に果たしうる堅城であった 17 。平時には交通の便が良い内城で政務を執り、万が一敵の侵攻を受けた際には、全軍が東福寺城に立て籠もって防戦するという体制が確立されていたのである。
この二元構造は、後の鹿児島城(鶴丸城)と城山(上山城)の関係にも引き継がれており、戦国時代から江戸時代を通じて島津氏の拠点設計の根幹をなす思想であった 15 。
【表1】島津氏の鹿児島における主要居城の変遷と比較
項目 |
東福寺城 |
清水城 |
内城 |
鹿児島城(鶴丸城) |
機能した時代 |
南北朝時代~ |
南北朝~戦国時代 |
戦国時代 |
江戸時代~ |
主要城主 |
島津氏久 |
島津元久~勝久 |
島津貴久、義久、忠恒 |
島津家久(忠恒)~ |
城郭分類 |
山城 |
山城・居館 |
平城(方形館) |
平山城・居館 |
立地 |
丘陵上(標高約59m) |
山麓・丘陵 |
平地(標高約10m) |
平地・山麓 |
詰城 |
(単体で機能) |
東福寺城 |
東福寺城 |
城山(上山城) |
主要な役割 |
軍事拠点 |
守護所、軍事拠点 |
政庁、司令塔、経済拠点 |
藩庁、政庁 |
島津氏の二元構造という思想は、他の戦国大名の本拠地と比較することで、その独自性と戦略的合理性が一層明確になる。
例えば、越前の朝倉氏が本拠とした一乗谷は、谷全体を城壁や城戸で囲み、当主の館、重臣の屋敷、町屋、寺院、そして背後の山城までを一体化した巨大な複合防衛都市であった 20 。これは政庁、居住区、防御施設が不可分に結合しており、機能が明確に分離された島津氏の形態とは思想的に対極にある。
一方で、豊後の大友氏が府内に構えた大友氏館は、平地の居館と、詰城である高崎城からなる二元構造を採用しており、島津氏と類似した思想が見られる 23 。これは、戦国期の九州において、二元構造が一つの有力な城郭モデルであった可能性を示唆している。
しかし、島津氏が直接対峙した日向の伊東氏の本拠・都於郡城は、巨大な堀切と多数の曲輪で構成された大規模な山城であり、防御機能を極限まで高めることを主眼としていた 25 。これもまた、内城の簡素な構造とは全く異なる設計思想に基づいている。
この比較から浮かび上がるのは、島津氏の二元構造が単なる伝統の踏襲ではなく、極めて合理的な戦略的選択であったという点である。巨大な一体型城郭の建設と維持には、莫大な費用と労力、時間を要する。当時、三州統一という領土拡大を至上命題としていた島津氏にとって、本拠地の防御に過剰な資源を投下することは、軍事行動や領国経営の足枷となりかねなかった。機能を分離し、詰城には既存の堅城をあてることで、本拠地の建設・維持コストを最小限に抑制し、浮いた資源を領国拡大という「攻め」の戦略に集中させることができたのである。したがって、内城の簡素な構造は、島津氏の「弱さ」ではなく、領国全体を俯瞰したマクロな戦略思想と、攻勢を前提とした自信の表れであったと結論付けられる。
天文19年(1550年)に築かれた内城は、その後約半世紀にわたり、島津氏の飛躍を支える中枢として機能した。その役割は、島津貴久から第16代当主・義久へと引き継がれ、島津氏の宿願であった薩摩・大隅・日向の「三州統一」を達成するための政治・軍事両面における司令塔となった 3 。
貴久の代に薩摩・大隅の大部分を平定し、その遺志を継いだ義久は、内城を拠点に日向への侵攻を本格化させる。元亀3年(1572年)に伊東氏を破った木崎原の戦い、天正6年(1578年)に大友氏に大勝した耳川の戦いなど、九州の勢力図を塗り替えた数々の重要な合戦の戦略は、この内城で練られたものであった 29 。天正5年(1577年)には伊東氏を日向から追放し、名実ともに三州の太守としての地位を確立するに至る 28 。
内城はまた、外交や経済の拠点としての役割も担った。貴久はポルトガル商人から鉄砲をいち早く導入し、実戦で活用した最初の戦国大名とされる 29 。また、フランシスコ・ザビエルに対し、一時的ではあるがキリスト教の布教を許可するなど、内城は海外との文化的な窓口でもあった 29 。これらの活動は、島津氏の軍事力と経済力を飛躍的に高める上で重要な要素となった。
島津氏の強さの源泉としてしばしば挙げられるのが、義久、義弘、歳久、家久の「島津四兄弟」による卓越した役割分担体制である。この体制において、内城はまさにその要として機能した。
当主である義久は内城にあって領国全体の政務、外交、戦略決定を司り、稀代の猛将であった次弟・義弘をはじめ、歳久、家久が各地の戦線で軍事指揮を執るという、見事な政軍分離体制が敷かれていた 32 。内城は、各地の戦況報告が集約され、次の戦略が練られ、指令が発せられる情報と意思決定の中枢であった。この機能的な役割分担と、それを支える内城の存在なくして、島津氏の急速な勢力拡大は成し得なかったであろう。内城は、島津家臣団の結束を象徴する場所でもあった。
三州統一を成し遂げ、九州制覇に王手をかけた島津氏であったが、天正15年(1587年)、豊臣秀吉による20万を超える大軍を前に降伏を余儀なくされる(九州征伐) 33 。この歴史的事件は、島津氏の拡大戦略を頓挫させただけでなく、本城としての内城の地位にも大きな変化をもたらした。
秀吉の命により、当主・義久は隠居させられ、内城を離れて大隅国の富隈城へと移った 36 。これに伴い、内城は義久の甥であり、義弘の三男である島津忠恒(後の初代薩摩藩主・家久)の居城となった 36 。これは、島津家内部における実権が、義久・義弘の世代から忠恒を中心とする次世代へと徐々に移行していく過程を象徴する出来事であった。九州の覇者から豊臣政権下の一大名へと立場を変えた島津氏にとって、内城は新たな政治体制下での再出発の舞台となったのである。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、島津氏と内城の運命を決定づける転換点となった。西軍に与した島津氏は、徳川家康率いる東軍に敗北。義弘が演じた壮絶な敵中突破「島津の退き口」は後世に語り継がれるが、戦後の島津家は改易の危機に瀕し、家康との間に極度の緊張関係を抱えることになった 32 。
この存亡の機にあたり、当主となっていた忠恒は、防御力の低い内城を本拠とし続けることの危険性を痛感した 2 。徳川幕府という新たな中央権力と対峙し、薩摩77万石の領国を維持するためには、より堅固で、近世大名の居城にふさわしい新たな城郭が必要とされた。
こうして慶長6年(1601年)頃から、忠恒の主導で鹿児島城(鶴丸城)の築城が開始される 2 。そして慶長7年(1602年)、忠恒が完成した鹿児島城へ居城を移したことに伴い、内城は築城から約52年間の歴史的役割を終え、廃城となった 9 。これは単なる本城の移転ではなく、戦国乱世の終焉と、近世大名・薩摩藩としての島津氏の新たな時代の幕開けを告げる象徴的な出来事であった。
内城が山城ではなく平地に築かれたことの大きな利点の一つは、計画的な城下町の形成が可能になった点である 3 。鹿児島における本格的な城下町の整備は、後継の鹿児島城(鶴丸城)の築城と並行して島津家久(忠恒)の代に行われたが、その原型となる都市計画の基礎は、内城の時代にすでに始まっていたと考えられる 42 。
内城の海岸に近い立地は、経済拠点としての機能を強く意識したものであった。坊津や山川といった古くからの貿易港と連携し、琉球や明との交易によってもたらされる富を管理・集積する中枢として、内城とそれに付随する城下町は重要な役割を果たしていた 6 。この経済力が、島津氏の強大な軍事力を支える基盤となっていたことは言うまでもない。
内城の戦略的意義を理解する上で、その「内城(うちじょう)」という名称自体に注目する必要がある。これは単なる通称ではなく、薩摩藩独自の広域支配システムである「外城(とじょう)制度」と密接に関連している。
外城制度とは、藩主の居城である鹿児島城下を除いた領内各地に「麓(ふもと)」と呼ばれる武士の集住地を100箇所以上配置し、それぞれを地方における軍事・行政の拠点とする、他に類を見ない地方支配制度である 44 。これらの麓は、文字通り藩主の居城を守る「外の城(外城)」と位置づけられていた 48 。
この観点から見れば、「内城」という呼称は、この広大な領国支配・防衛ネットワークの中心、すなわち「内なる城」としての役割を明確に示している。内城自体の物理的な防御が簡素であった理由は、ここにも求められる。内城は、単体で敵の攻撃を防ぐことを想定した城ではなく、領国全体に張り巡らされた無数の「外城」群と連携して防衛を行う、巨大な軍事システムの司令塔だったのである。個々の城の堅固さよりも、ネットワーク全体の機能性が重視されるという、極めて高度な戦略思想がそこにはあった。内城は、この広域支配体制のまさに心臓部であったのだ。
慶長7年(1602年)に廃城となった後、内城の跡地には、島津氏の飛躍の時代を築いた第15代当主・貴久と第16代当主・義久の菩提を弔うため、大龍寺が建立された 9 。これは、島津家中興の祖と、三州統一を成し遂げた名君への深い敬意を示すものであり、この地が島津氏にとって特別な場所であったことを物語っている。
しかし、この大龍寺も時代の大きな奔流に飲み込まれる。明治維新後の新政府が神道を国教化する中で、明治2年(1869年)に薩摩藩で断行された徹底的な廃仏毀釈により、大龍寺は廃寺とされ、その歴史に幕を閉じた 9 。
大龍寺が廃された後、内城の跡地は鹿児島市立大龍小学校の敷地となり、現在に至っている 1 。度重なる土地の改変により、城郭や寺院に関連する遺構は完全に失われ、往時の姿を偲ぶことは極めて困難な状況である。現在では、小学校の校庭の隅に、ここが内城の跡地であったことを示す石碑が建てられているのみである 9 。
内城に関する研究は、直接的な発掘調査資料が極めて乏しいという大きな課題を抱えている。今後の研究においては、島津氏家臣が記した一級史料である『上井覚兼日記』の再読解や、鹿児島県歴史・美術センター黎明館、鹿児島大学附属図書館などが所蔵する関連古文書、古地図の精密な分析が不可欠となる 49 。また、現状の土地利用を考慮しつつも、地中レーダー探査などの非破壊的な考古学調査を実施することで、未発見の堀や建物の痕跡を捉えることができる可能性も残されている。これらの多角的なアプローチによって、謎に包まれた内城の実像が、将来的にさらに明らかになることが期待される。
本報告書で詳述してきたように、薩摩・島津氏の内城は、単なる歴史上の一城郭にとどまらない、深い戦略的意義を持つ拠点であった。その歴史的意義は、以下の三点に集約される。
第一に、内城の築城は、島津氏が守旧的な中世領主から、領国経営と経済力を重視する近世的な戦国大名へと脱皮する、思想的転換点を象徴する出来事であった。山城を捨て平地の「館」を選んだことは、守りから攻めへ、そして軍事優先から政治経済を統合した国家経営へと、その戦略思想が大きく進化したことを示している。
第二に、その一見脆弱に見える簡素な構造は、決して弱点ではなかった。それは、有事の際に堅固な山城を詰城とする「二元構造」と、領国全体を一つの要塞と見なす広域防衛ネットワーク「外城制度」を前提とした、極めて合理的かつ先進的な戦略思想の産物であった。限られた資源を本拠地の過剰な防衛に費やすことなく、領土拡大という目標に集中させるという、島津氏の現実的な戦略眼を物語っている。
第三に、内城が本城として機能した約半世紀は、島津氏が三州統一を成し遂げ、その版図を最大にした栄光の時代と完全に重なる。内城は、島津四兄弟を中心とする家臣団の司令塔として、その飛躍の原動力となった。そして、豊臣、徳川という中央政権との対峙を経て、次代の拠点である鹿児島城(鶴丸城)へとその役割を継承することで、近世薩摩藩の礎を準備したのである。
遺構が失われた現在、その姿を直接目にすることはできない。しかし、内城は戦国九州の歴史、そして島津氏700年の歩みにおいて、紛れもなく画期をなした、極めて重要な「館」であったと結論付けられる。
【表2】内城をめぐる歴史年表(天文19年~慶長7年)
西暦(和暦) |
主な出来事 |
1550年(天文19年) |
島津貴久、清水城から移り、 内城 を築城し本拠とする 4 。 |
1554年(天文23年) |
蒲生氏を攻め、大隅平定戦が本格化する(岩剣城の戦い)。 |
1566年(永禄9年) |
島津義久が家督を継ぎ、第16代当主となる 34 。 |
1571年(元亀2年) |
島津貴久が 内城 にて死去。 |
1572年(元亀3年) |
木崎原の戦いで、島津軍が伊東軍に大勝する 30 。 |
1577年(天正5年) |
伊東氏を日向から追放し、島津氏が薩摩・大隅・日向の三州統一を達成する 28 。 |
1578年(天正6年) |
耳川の戦いで、島津軍が大友宗麟軍に大勝する 30 。 |
1584年(天正12年) |
沖田畷の戦いで、龍造寺隆信を討ち取り、九州の覇権に大きく近づく 30 。 |
1587年(天正15年) |
豊臣秀吉の九州征伐により、島津義久が降伏。義久は隠居し富隈城へ移り、 内城 は島津忠恒の居城となる 34 。 |
1599年(慶長4年) |
島津忠恒が家督を相続する 15 。 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦いで西軍に与し敗北。戦後、徳川家康との交渉が始まる 32 。 |
1601年(慶長6年) |
島津忠恒、徳川政権への備えとして鹿児島城(鶴丸城)の築城を開始する 2 。 |
1602年(慶長7年) |
鹿児島城(鶴丸城)へ本拠を移転。これに伴い、 内城 は廃城となる 9 。 |