肥後の内牧城は阿蘇氏の牙城として築かれ、島津の猛攻に落城。加藤清正が近世城郭へと改修するも、一国一城令で廃城となる。その遺構は今も阿蘇の地に歴史を語り継ぐ。
熊本県阿蘇市、世界有数のカルデラが広がる阿蘇山の北西麓に、古くからの温泉郷として知られる内牧の町並みが存在する 1 。この穏やかな風景の中心部に、かつて戦国の動乱を生き抜き、時代の変遷を見つめ続けた一つの城があった。「内牧城」である 2 。本報告書は、この城が歴史の舞台に登場した築城期から、その軍事的役割を終えた廃城、そして現代に至るまでの軌跡を、現存する史料と大地に残された痕跡の両面から徹底的に追跡し、その歴史的意義を解明するものである。
内牧城の歴史は、単なる一地方城郭の盛衰に留まらない。それは、阿蘇大宮司家という神威と武威を兼ね備えた特異な権力の興亡、九州の覇権をめぐり南から席巻した島津氏の猛威、そして豊臣政権下で近世的な領国支配体制を肥後の地に確立した加藤清正の経営戦略という、日本の歴史が大きく転換する時代の力学を凝縮した存在である。したがって、内牧城の歴史を多角的に分析することは、戦国時代から近世へと移行する九州の社会変動、ひいては日本の統治システムの変革を、一つの城郭の運命を通して解き明かす試みとなる。
内牧城の歴史を理解する上で、その最初の城主であった阿蘇氏の性格を把握することは不可欠である。阿蘇氏は、古代より阿蘇山の火山信仰を司る阿蘇神社の祭祀を世襲する大宮司家であり、我が国でも有数の旧家として知られている 3 。しかし、その権威は単に宗教的なものに留まらなかった。平安時代後期には在地領主化し、鎌倉、南北朝時代を経て、中世には肥後国を代表する武士団へと成長を遂げた 3 。神を祀る祭司でありながら、広大な荘園を支配し、強力な武力を行使する豪族でもあるという、神威と武威を兼ね備えた特異な存在であった。
戦国時代に入り、阿蘇惟豊(これとよ)が当主となった時代(1493年~1559年)、阿蘇氏の勢力は最盛期を迎える 6 。惟豊は、肥後守護であった菊池氏の内紛に巧みに介入し、兄の惟長(これなが)が菊池氏の家督を継承(菊池武経と名乗る)するなど、肥後国内における政治的影響力を飛躍的に増大させた 6 。この権勢を背景に、惟豊は自らの地位を確固たるものとし、阿蘇氏を肥後における一大戦国大名へと押し上げたのである。
惟豊の子、阿蘇惟将(これまさ)が家督を継いだ時代(1559年~1583年)には、九州の勢力図は大きく変動していた。南からは薩摩・大隅・日向の三州を統一した島津氏が北上の機会を窺い、西からは肥前の龍造寺氏が圧力を強めていた 11 。この二大勢力に挟まれた阿蘇氏は、存亡の危機に立たされる。惟将は、智勇兼備の重臣・甲斐親直(宗運)の補佐を受け、東に位置する豊後の大友氏と連携することで、この危ういバランスの中で巧みに独立を維持する外交戦略を展開した 11 。この時代の阿蘇氏は、常に周辺大国の動向を注視し、自らの存続をかけた綱渡りのような状況にあった。
内牧城が歴史の表舞台に登場するのは、こうした阿蘇氏の権勢と、それをとりまく緊迫した情勢の中であった。築城年代は明確ではないものの、阿蘇氏の勢力が頂点に達した天文年間(1532年~1555年)頃と伝えられている 14 。築城者、あるいは初代城主として記録されているのは、阿蘇氏の家臣であった辺春丹波守盛道(へばる たんばのかみ もりみち)である 1 。
城の構造は、その立地に大きな特徴があった。阿蘇カルデラ内を流れる古川と黒川という二つの河川を天然の水堀として利用した、典型的な平城(ひらじろ)であった 14 。特に、S字状に蛇行する古川の流れを巧みに利用し、東から三の丸、二の丸、本丸を直線的に配置する「連郭式」に近い縄張り(城の設計)が採用されていたと推定される 17 。これは、自然地形を最大限に防御へ活用しようとする、当時の城郭建築における合理的な思想を反映している。山城が主流であった中世初期の城郭とは異なり、平地に築かれたこの城は、軍事拠点であると同時に、周辺地域の経済や交通を掌握する拠点としての機能も期待されていたと考えられる。
この城が築かれた戦略的意図は、阿蘇氏の支配領域全体から考察することができる。阿蘇氏の本拠地は、内牧から南東に位置する矢部(現在の熊本県山都町)にあった 6 。内牧城は、この本拠地から見て北西の最前線に位置する。したがって、その主たる目的は、北方に残存する旧菊池氏の勢力や、西方の諸豪族、そして将来的には最大の脅威となりうる南の島津氏の北上ルートに対する備えであったと見られる 17 。内牧城の築城は、阿蘇氏が単なる在地領主から、広域的な視点で自らの領国を防衛・維持しようとする「戦国大名」へと脱皮していく過程で、その支配圏の境界線を画定するために設けられた、極めて重要な戦略拠点だったのである。
内牧城が築かれてから約30年後、九州の政治情勢は激変期を迎える。その中心にいたのが、薩摩の島津氏であった。天正6年(1578年)、島津義久率いる軍勢は、日向国で長年の宿敵であった豊後の大友宗麟の軍と激突する。この「耳川の戦い」で、大友軍は壊滅的な敗北を喫し、多くの重臣を失った 18 。この一戦は、九州における勢力均衡を根底から覆す決定的な転換点となった。
長年にわたり阿蘇氏の強力な後ろ盾であった大友氏の威信が失墜したことにより、肥後国で孤立を深めた阿蘇氏は、島津氏の直接的な圧力に晒されることとなる 19 。島津氏は、耳川の戦いの勝利を足掛かりに、肥後南部の名和氏や城氏、天草衆を次々と従属させ、さらに相良氏をも屈服させた 13 。これにより、阿蘇氏の領国は南と西から島津方の勢力に包囲される形となり、その存亡は風前の灯火となった。島津氏による阿蘇領への侵攻(阿蘇合戦)は、もはや時間の問題であった 19 。
この絶体絶命の危機的状況にあって、阿蘇氏の独立を辛うじて支えていたのが、筆頭家老であった甲斐宗運(親直)の存在である 11 。宗運は、戦場における武勇のみならず、外交手腕にも長けた稀代の知将であり、彼の存在そのものが島津氏にとって大きな障壁となっていた。
しかし、天正13年(1585年)7月、阿蘇氏にとって最大の支柱であった宗運が病没する 13 。彼の死は、阿蘇氏の軍事・外交戦略に致命的な空白を生じさせた。宗運は死に際し、「島津が攻めてきたならば、御船や甲佐といった平野部の城は捨て、本拠地である山深い矢部に籠り、守りを固めて時を待て。いずれ天下の情勢は変わる」という趣旨の遺言を残したとされる 21 。これは、圧倒的な島津軍との正面衝突を避け、地の利を活かした持久戦に持ち込むことで、豊臣秀吉の中央政権の介入といった外部要因の変化を待つという、極めて現実的かつ大局的な戦略であった。
ところが、宗運の後を継いだ息子の甲斐親英(ちかひで)は、この父の遺言を遵守しなかった。宗運の死からわずか一ヶ月後の同年8月10日、親英は阿蘇氏の旧臣を糾合し、島津方の拠点となっていた花の山城を攻撃するという、父の戦略とは真逆の攻勢に打って出たのである 13 。この行動は、阿蘇領への全面侵攻の口実を探していた島津氏を利する結果となり、島津義弘を総大将とする大軍の侵攻を招いてしまった 13 。
甲斐親英の失策を契機として開始された島津軍の本格的な侵攻は、阿蘇領の諸城を次々と席巻していった。この過程で、阿蘇氏の北西部における最大の防衛拠点であった内牧城も、攻防の舞台となる。城主・辺春盛道は、圧倒的な兵力で押し寄せる島津軍に対し、城に籠って徹底抗戦の構えを見せた 14 。
しかし、大友氏という後ろ盾を失い、甲斐宗運という戦略家もいない阿蘇氏の軍勢が、当時九州最強と謳われた島津軍の猛攻を支えきることは不可能であった。詳細な戦闘の記録は乏しいものの、激しい攻防の末、天正13年(1585年)とも14年(1586年)とも伝えられる年に、内牧城はついに落城する 1 。城主・辺春盛道は最後まで戦い抜き、城と運命を共にして自刃したと伝えられている 1 。
内牧城の陥落は、単に一つの城が失われたことを意味するのではなかった。それは、阿蘇氏の北西部における組織的な防衛線が完全に崩壊したことを示しており、阿蘇大宮司家という中世以来の名門の事実上の滅亡を決定づける出来事であった 19 。この落城は、個々の戦闘の優劣だけでなく、九州全体の地政学的変動という外的要因と、指導者の死と後継者の戦略的失敗という内的要因が連鎖した、必然的な帰結だったのである。
島津氏による肥後平定も束の間、日本の政治状況は中央で天下統一を進める豊臣秀吉によって、再び大きく塗り替えられる。天正15年(1587年)、秀吉は自ら大軍を率いて九州に乗り込み、島津氏を降伏させた(九州平定) 26 。戦後処理において、肥後一国(球磨・天草を除く)は、織田信長のかつての重臣であった佐々成政に与えられた 1 。
しかし、この新たな支配者の到来は、肥後の地に新たな混乱をもたらすことになる。肥後には、隈部氏や甲斐氏をはじめとする、中世以来その土地に根を張り、強い独立性を持つ「国衆(くにしゅう)」と呼ばれる在地領主層が数多く存在した 30 。彼らは九州平定の過程で秀吉に恭順し、自らの所領が安堵される(保障される)ものと期待していた 32 。ところが、新領主となった成政は、秀吉から慎重に進めるよう指示されていたにもかかわらず、自らの家臣団に土地を再配分するため、性急かつ強権的な検地(太閤検地)を強行しようとした 28 。これは、国衆たちが長年保持してきた土地の所有権と伝統的な支配体制を根本から覆すものであり、彼らの激しい反発を招くこととなった 28 。
天正15年(1587年)7月、検地に反対する国衆たちは、旧菊池氏家臣団の重鎮であった隈部親永を中心に一斉に蜂起した 28 。これが「肥後国衆一揆」である。この反乱には、阿蘇氏の旧家臣であった甲斐親英らも加わり、一揆は肥後国全土を巻き込む大規模なものへと発展した 28 。
内牧城が位置する阿蘇地域も、この動乱と無縁ではなかった。阿蘇氏に連なる国衆たちも一揆に参加したが、その内情は複雑であった。一揆勢の内部では必ずしも足並みが揃っていたわけではなく、阿蘇衆の一部が途中で離反して成政方に寝返るなど、内部崩壊の側面も見られた 33 。
この一揆に対し、事態を重く見た秀吉は、鍋島直茂や立花宗茂、小早川秀包といった西国の諸大名を鎮圧軍として次々と派遣した 28 。最終的には、加藤清正や小西行長、黒田孝高といった豊臣政権の主力部隊が投入され、国衆たちの抵抗は打ち砕かれた 28 。一揆を主導した国衆の多くは処刑、あるいは滅亡し、肥後における中世的な在地支配はここに終焉を迎える。そして、この大規模な一揆を誘発した責任を問われた佐々成政も、秀吉の命により切腹させられた 29 。
天正16年(1588年)、一揆が鎮圧された後の肥後は、秀吉によって再編されることとなった。国衆の抵抗を排したこの地に、新たな支配体制が構築される。肥後国は南北に分割され、北半国が加藤清正に、南半国が小西行長に与えられた 1 。内牧城を含む阿蘇地域一帯は、加藤清正の所領となったのである。
この一連の出来事は、内牧城の歴史において極めて重要な転換点であった。この城の新たな主となる加藤清正の登場は、肥後の中世が完全に終わりを告げ、豊臣大名による中央集権的な支配という新しい時代の秩序が確立された土台の上にもたらされたのである。内牧城は、これより先、全く新しい役割を担うことになる。
肥後北半国の領主となった加藤清正は、新たな領国経営に着手する。その統治システムの根幹をなしたのが、本城と支城からなる城郭ネットワークの構築であった。清正は、茶臼山に壮大な熊本城の築城を開始する一方、広大な領国を面的かつ効率的に支配するため、領内の要所に支城を配置した 36 。
慶長年間の国絵図などによれば、清正は熊本城を本城とし、肥後国内に7つの支城を整備したことが確認されている 35 。内牧城は、北の国境を守る南関城(鷹ノ原城)、旧阿蘇氏の本拠地を抑える矢部城、旧小西領の宇土城、肥後南部の要である八代城、芦北地方の佐敷城、水俣城と並び、この支城ネットワークの重要な一角を占めていた 35 。内牧城に与えられた役割は、広大な阿蘇地域の統治と治安維持、そして東に隣接する豊後国(当時は中川氏の所領)方面への戦略的な備えであったと考えられる。
阿蘇氏の時代、内牧城は川を堀として利用した中世的な平城であったが、加藤清正の手によって、その姿は大きく変貌を遂げる。清正は、当時の最先端技術を駆使して城に大規模な改修を施し、石垣を多用した堅固な近世城郭へと生まれ変わらせた 14 。この改修は、単なる補強に留まらず、城の構造と思想を根本から刷新するものであった。
その最も象徴的な改変が、河川の流路変更である。伝承によれば、清正は城の南を流れていた黒川の流路をさらに南に付け替えるという大土木工事を行い、城の南北を完全に堀で囲む形に補強したとされる 1 。自然地形を巧みに利用しつつも、それに飽き足らず、より強固な防御ラインを人為的に創出するこの手法は、まさに近世的な築城思想の表れである。これにより、内牧城は阿蘇氏時代の面影を残しつつも、機能的には全く新しい城郭へと進化した。この変貌は、肥後の支配者が、神威と在地性に根差した中世的権力(阿蘇氏)から、中央政権を背景とする集権的な近世大名(加藤氏)へと移行したことを物理的に証明するものであった。
清正の支城には、彼の信頼篤い重臣が城代として配置され、地域の統治を担った。内牧城の初代城代に任じられたのは、加藤右馬允可重(かとう うまのじょう よししげ)である 14 。彼は7万5千石という破格の知行を与えられ、この地の統治にあたった 37 。可重は善政を敷いたと見え、後世まで領民から「右馬允さん」と呼ばれ親しまれたという逸話が残っている 37 。
可重の後は、その子である加藤正方(まさかた)、そして加藤正直(まさなお)らが城代職を継いだ 1 。特に加藤正方は、後に肥後南部の拠点である八代城(麦島城)の城代へと栄転しており、内牧城代が加藤家臣団の中でも重要な役職であったことが窺える 1 。
加藤氏の支城として約27年間、阿蘇地域の統治拠点として機能した内牧城であったが、その終わりは突如として訪れる。大坂の陣を経て、豊臣家が滅亡し、徳川家康による全国支配体制が確立されると、幕府は地方大名の軍事力を削減させる政策を打ち出した。その一環として、慶長20年(元和元年、1615年)に発布されたのが「一国一城令」である 14 。これは、大名の居城(本城)以外のすべての城(支城)を破却することを命じた法令であった。
この幕府の厳命により、加藤家の領国においても支城の廃城が進められた。内牧城も例外ではなく、南関城や佐敷城などと共に破却の対象となり、その歴史に幕を下ろした 14 。内牧城の存在意義は、あくまで加藤氏の広域支配システムの一部として機能することにあった。それゆえに、徳川幕府という新たな中央権力の政策転換によって、その軍事的価値が否定されると、政治的な論理の下にあっけなくその役割を終えることとなったのである。
一国一城令によって軍事施設としての生命を絶たれた内牧城であったが、その場所が持つ地域の中心としての価値は失われなかった。寛永9年(1632年)に加藤氏が改易されると、代わって豊前小倉から細川忠利が肥後に入部する。細川藩は、内牧城跡を新たな形で活用する道を選んだ。
まず、城の中心であった本丸跡には、藩主が参勤交代の道中や領内巡察の際に宿泊・休憩するための施設である「内牧御茶屋」が設置された 14 。これは、この地が交通の要衝であったことを示している。同時に、行政機能の中心であった二の丸跡には、阿蘇一帯の郡政を司る代官所にあたる「内牧手永会所(てながかいしょ)」が置かれた 14 。これにより、内牧城跡は軍事拠点から、藩政における行政と交通の拠点へとその役割を完全に転換させた。幕末には、坂本龍馬や勝海舟といった歴史上の人物たちもこの地を訪れ、宿泊したとの伝承も残されており、歴史の交差点としての役割を担い続けた 45 。
この役割の転換は、内牧城跡の歴史における重要な継続性を示している。明治維新後もこの行政機能は途絶えることなく、手永会所の跡地には内牧村役場、そして内牧町役場、戦後は阿蘇町役場が置かれ、平成20年(2008年)に移転するまで、約400年間にわたり阿蘇地方の政治・行政の中心地であり続けたのである 14 。
幾多の変遷を経て、往時の城郭建築の大部分は失われたものの、今なお内牧の地には城の記憶を伝える貴重な遺構や伝承が残されている。
これらの現存遺構と伝承をまとめたものが、以下の表である。
遺構・伝承の種類 |
所在地 |
現状と特徴 |
時代考証・特記事項 |
関連資料 |
石垣 |
阿蘇内牧ファミリーパーク(旧二の丸跡) |
高さ数メートルの石垣が一部現存。加工の程度が低い石材を用いた野面積みに近い様式。 |
加藤氏による近世城郭化の際のものか、後の細川藩手永会所時代のものか、両説あり。 |
14 |
水堀跡 |
阿蘇体育館北西側(旧本丸裏手) |
黒川の旧河道を利用した三日月状の窪地として明瞭に残存。幅も広く、往時の防御ラインを偲ばせる。 |
築城当初から存在し、加藤氏時代に流路変更でさらに明確化されたと考えられる。 |
1 |
移築門(伝承) |
明行寺(阿蘇市小里157) |
薬医門形式の山門として現存。部材の古さや様式から江戸初期の武家屋敷門の特徴が見られる。 |
伝承であり確証はないが、廃城時に部材が払い下げられた可能性は否定できない。 |
16 |
移築門(伝承) |
浄信寺(阿蘇市内牧166) |
四脚門形式の山門として現存。こちらも古様な部材が用いられている。 |
明行寺と同様、伝承に基づく。建築史的な詳細な調査が待たれる。 |
16 |
現在、内牧城跡は、本丸跡が阿蘇体育館、二の丸・三の丸跡が阿蘇内牧ファミリーパーク「あそ☆ビバ」として整備され、市民の憩いの場、そして子どもたちの遊び場として新たな役割を担っている 14 。公園内に設置された大型の遊具には、内牧城をイメージしたデザインが取り入れられるなど、地域の歴史遺産を後世に伝えようとする工夫も見られる 50 。
文化財としては未指定の状態であるが 2 、その歴史的価値は極めて高い。内牧城跡の歴史は、廃城で終わりを迎えたのではない。近世の行政・交通拠点、近代の地方自治の中心、そして現代の市民公園へと、その役割を柔軟に変えながらも、常に地域の中心であり続けた「場所の継続性」こそが、この城跡の特筆すべき価値である。現存する遺構は、単なる過去の断片ではなく、この400年以上にわたる重層的な歴史を静かに物語る証人なのである。
肥後国・内牧城の歴史を辿ることは、阿蘇氏、島津氏、そして加藤氏という三者三様の支配者の下で、一つの城がいかにその性格を変容させてきたかを目の当たりにする旅であった。それは、阿蘇氏という中世的な在地支配の拠点から、九州の覇権を賭けた広域戦争の最前線へ、そして加藤氏が築いた近世的な中央集権体制の末端へと、時代の要請に応じてその役割を変え続けた歴史である。
築城期の内牧城は、阿蘇氏の独立性を象徴する牙城であった。しかし、耳川の戦いを境とする九州全体の地政学的変動と、甲斐宗運の死という内部的要因によって、その運命は暗転し、島津氏の前に陥落する。その後、肥後国衆一揆という中世の終焉を告げる動乱を経て、加藤清正の手によって近世城郭として再生を遂げるが、その存在はあくまで熊本城を頂点とする広域支配ネットワークの一部であった。そして、一国一城令という新たな政治秩序の下で、その軍事的役割を終える。
一つの城のライフサイクルを通して、我々は戦国時代から近世へと至る九州、ひいては日本の社会構造の劇的な変化を読み取ることができる。内牧城は、もはや天守も櫓も持たない。しかし、その大地に刻まれた堀の跡、ひっそりと残る石垣、そして人々の記憶と伝承の中に、時代の転換点を生き抜いた確かな証を留めている。内牧城は、阿蘇の地に刻まれた、戦国九州のダイナミズムを物語る貴重な歴史的証人なのである。