出水城は、肥薩国境の要衝に築かれ、薩州島津家の本拠として栄えた。瓦葺きの建物や海外交易品が出土し、その繁栄を物語る。廃城後も「人をもって城となす」薩摩の精神を麓に継承した。
薩摩国(現在の鹿児島県)の最北端、肥後国(現在の熊本県)との国境に位置する出水は、古来より地政学的に極めて重要な意味を持つ地であった。この地に築かれた出水城は、単なる一地方の城郭にとどまらず、南九州の歴史を動かす数々の出来事の舞台となり、その役割を時代と共に変容させながら、後世に多大な影響を残した。本報告書は、戦国時代という激動の時代を主軸に、出水城の築城から廃城、そしてその遺産が薩摩藩最大の「外城(とじょう)」である出水麓(いずみふもと)へと継承されていく歴史の連続性を、構造、戦略、文化の各側面から徹底的に分析・考察するものである。
出水城の戦略的重要性は、まずその地理的条件に起因する。城は、薩摩の鹿児島城と肥後の熊本城を結ぶ主要街道「薩摩街道出水筋」を扼する位置にあり、交通路の掌握と国境防衛という二重の軍事的価値を有していた 1 。さらに、米ノ津川と平良川に挟まれた丘陵地に立地し、天然の地形を巧みに利用した堅固な防御拠点であった 2 。この卓越した立地条件こそが、鎌倉時代の築城から400年以上にわたり、この城が地域の覇権を巡る争奪の的であり続けた根源的な理由である。
本報告書の独自性は、出水城を中世山城としての物理的な存在としてのみ捉えるのではなく、その歴史的遺産が、近世薩摩藩の統治システムの中核をなす「出水麓」へと昇華された点に着目する点にある。元和元年(1615年)の一国一城令による廃城は、出水城の「死」を意味するものではなかった。むしろそれは、物理的な城壁に頼らず、人の結束と武勇によって国を守るという薩摩藩独自の思想「人をもって城となす」を体現した、新たな防衛・統治システムの「誕生」であった。城郭の終焉が、薩摩藩最大規模を誇る麓という新たな軍事・行政共同体の母体となったこの歴史のダイナミズムを解明することこそ、出水城の本質を理解する鍵となる。
出水城の歴史は、源頼朝による鎌倉幕府の成立と、それに伴う島津氏の南九州入部に端を発する。築城年代は建久年間(1190-1199年)とされ、築城者は和泉小大夫兼保(いずみ こだゆう かねやす)と伝わっている 1 。当初は築城者の名にちなみ「和泉城」とも称された 2 。この時期、初代島津忠久が島津荘の地頭職に補任され、南九州における武家支配の礎を築き始めていた 1 。出水城の築城は、こうした大きな歴史的文脈の中で、肥後国との国境地帯における在地勢力による防衛拠点構築の試みとして位置づけることができる。
和泉氏による築城地の選定は、決して偶然の産物ではなかった。肥後からの侵攻に対する最前線であり、かつ交通の要衝でもあるこの地を押さえることは、北薩摩における支配権を確立するための絶対条件であった。この初期の戦略的判断の的確さは、後に出水城が島津氏一門の最重要拠点として400年以上にわたり機能し続けたという事実によって証明されている。物理的な城郭が廃された後でさえ、その麓に薩摩藩最大の防衛拠点が置かれたことは、和泉兼保の築城がいかに優れた地政学的洞察に基づいていたかを物語っている 6 。
鎌倉時代から室町時代にかけて、出水城の城主は変遷を重ねる。南北朝時代の動乱期には、島津宗家の一族である島津忠氏(島津和泉氏)が、先行する伴系和泉氏に代わって城主となった記録も存在する 4 。これは、島津氏が在地勢力を取り込みながら、徐々に国境地帯への影響力を強めていった過程を示すものである。
しかし、在地領主としての和泉氏の支配は、応永24年(1419年)に終焉を迎える。この年、島津宗家の家督を巡る内乱の一つである川辺松野城の合戦において、和泉氏は時の宗家当主・島津久豊方に与して戦ったが、当主が戦死し、後継者なく断絶した 3 。これにより、出水城は島津宗家の直接的な管理下に置かれることとなり、後の薩州島津家による支配への道筋がつけられることになったのである。
和泉氏の断絶後、出水城は島津宗家の支配下に置かれていたが、15世紀半ば、この城を本拠とする新たな有力分家が誕生する。享徳2年(1453年、一説には1425年)、島津宗家9代当主・島津忠国の弟である島津用久(もちひさ)が、領内の反乱鎮圧における軍功を認められ、出水、阿久根、野田、高尾野といった北薩摩の広大な所領を与えられた 8 。用久は出水城(この頃から亀ヶ城とも呼ばれる)を本拠地と定め、薩摩守を称したことから、彼を祖とする家系は「薩州家(さっしゅうけ)」と呼称されるようになった 2 。これより約140年間にわたり、出水城は薩州家の拠点として、北薩摩に君臨する一大政治・軍事センターとして栄えることになる。
薩州家は、島津一門の中でも屈指の勢力を誇る分家として、宗家と複雑な関係を築いた。時には宗家を支える柱石として機能する一方、その実力ゆえに、時には宗家の地位を脅かす潜在的なライバルともなり得た 11 。特に16世紀前半、薩州家の島津実久は宗家の家督継承問題に深く介入し、後に島津四兄弟の父となる島津貴久と薩摩の覇権を巡って激しく争った 12 。この対立は、薩州家が単なる分家ではなく、宗家と並び立つほどの野心と実力を備えた独立性の高い勢力であったことを示している。
薩州家内部の権力闘争の激しさと、国境地帯の緊張を象徴する事件も起きている。永禄8年(1565年)、薩州家6代当主・島津義虎が、一族であり肥後国との国境に近い野田城の城主であった島津忠兼(近久)を出水城に誘い出し、謀殺するという悲劇が発生した 4 。伝承によれば、忠兼は死に際に自らの腸を掴み出し、傍らの山茶花の枝に投げつけたとされ、その怨念が祟りをなしたという逸話も残っている 16 。この事件は、薩州家が常に内憂外患の中にあったことを如実に物語っている。
天正15年(1587年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、島津氏を討伐すべく20万ともいわれる大軍を率いて九州に侵攻した。この九州平定の過程で、秀吉自身も4月27日に出水城に立ち寄ったという記録が残されており、この地が薩摩攻略における重要な戦略拠点と認識されていたことがわかる 4 。
島津宗家が豊臣軍の圧倒的な物量の前に敗色を濃くしていく中、出水城主であった薩州家7代当主・島津忠辰(ただとき)は、秀吉の軍勢が薩摩国内に侵入すると、抵抗することなく降伏した 17 。これにより出水城は戦火を免れたが、薩州家の運命は、天下人の掌中に握られることとなった。
薩州家の命運を決定づけたのは、文禄2年(1593年)の文禄の役(朝鮮出兵)であった。当主・忠辰は、島津宗家の重鎮である島津義弘の指揮下に入るよう秀吉から命じられたが、これを病と称して従わなかった 1 。この行為は、単なる一武将の命令不服従ではなく、豊臣政権が構築しようとしていた厳格な指揮命令系統に対する挑戦と見なされた。薩州家が長年培ってきた独立性の高い気風が、結果的に致命的な判断へと繋がったのである。
この抗命は秀吉の逆鱗に触れ、薩州家は即座に改易、出水五万石の所領は没収され、豊臣家の直轄領とされた 1 。忠辰自身も、その後まもなく朝鮮の陣中にて28歳の若さで病死し、ここに薩州島津家の血脈は途絶えた 16 。
この悲劇は、主君の死だけでは終わらなかった。忠辰の遺骨を携えて故郷の出水に帰還した家臣たちは、主家が断絶し、本拠地である出水城が豊臣家の管理下に置かれているという過酷な現実に直面する。彼らは、主君の亡骸を薩州家の城であった亀ヶ城の近くに葬ることさえ許されず、城から少し離れた大野原(おおのばる)に丁重に埋葬した。そして、帰るべき場所も仕えるべき主君も失った家臣たちは、その場で主君の後を追い、殉死したと伝えられている。この地は、多くの忠臣が眠る場所として後に「三百塚(さんびゃくづか)」と呼ばれるようになり、栄華を誇った薩州島津家の悲劇的な終焉を今に伝えている 16 。
この薩州家の滅亡は、一個人の判断ミスというよりも、強力な分家が宗家と拮抗していた戦国時代の力学が、豊臣政権という中央集権的な新しい秩序と相容れなかった結果と見るべきである。薩州家が140年にわたり育んできた誇りと自律性が、時代の大きな転換点において、悲劇的な結末を招いたのであった。
出水城は、その縄張り(城の設計)と防御施設の構造において、南九州の中世山城の特徴を色濃く反映しつつも、薩州家という一大勢力の拠点にふさわしい独自の発展を遂げた城郭であった。近年の発掘調査は、文献資料だけでは知りえなかった城内の実像を明らかにし、その評価を大きく変えつつある。
出水城の縄張りは、複数の独立性の高い曲輪(くるわ)が、尾根を断ち切る深い堀切や土塁によって厳密に区画された「多郭雑形式」あるいは「群郭式」と呼ばれる形態をとる 1 。これは、火山噴出物で形成されたシラス台地を深く削り込んで防御施設を造成する、南九州型城郭に共通する特徴である 21 。
城内には、それぞれが「城」と称されるほどの規模と独立性を持った曲輪群が配置されていた。
出水城の防御施設は、シラス台地という脆弱な地質を逆手に取り、その特性を最大限に活用して構築されている。
近年の出水市教育委員会による継続的な発掘調査は、出水城が単なる軍事要塞ではなかったことを証明する画期的な成果を上げている。
これらの考古学的証拠は、出水城の性格を根本から見直すものである。この城は、単に国境を守るための防御拠点ではなかった。それは、薩州島津家という一大勢力の政治・経済・文化の中心地であり、海外との交易ネットワークにも連なる、豊かで洗練された生活が営まれる「首都」としての機能をも併せ持っていたのである。瓦葺きの威容を誇る建物群は、薩州家の権威と財力を内外に誇示するための装置であり、城郭そのものが、宗家や肥後のライバルに対する強力な「パワープロジェクション(力の誇示)」の手段であったと考えられる。
シラス台地を深く侵食した谷(ガリ地形)を巨大な空堀として利用する点や、各曲輪が独立峰のように林立する「群郭式」の縄張りは、同じく南九州を代表する国指定史跡である知覧城や志布志城と共通する特徴である 21 。これらの城郭は、シラスという特殊な地質条件に適応した、地域色の強い築城技術の到達点を示している。
しかし、出水城は、瓦の多用や海外交易品の豊富さという点において、これらの城郭とは一線を画す。知覧城や志布志城が純粋な軍事要塞としての性格を強く持つ「戦いの城」であるのに対し、出水城はそれに加えて高度な政治・文化機能を持つ「治世の城」としての側面を兼ね備えていた。この特異性こそが、薩州島津家が築き上げた独自の勢力圏の反映であり、出水城を南九州の城郭史において特筆すべき存在たらしめているのである。
年代(西暦) |
主要な出来事 |
城主/関連勢力 |
典拠 |
建久年間 (1190-99) |
出水城(和泉城)築城 |
和泉兼保 |
1 |
応永24年 (1419) |
和泉氏、川辺松野城合戦で戦死・断絶 |
和泉氏 |
3 |
享徳2年 (1453) |
島津用久が出水城に入り、薩州島津家を興す |
島津用久(薩州家初代) |
3 |
永禄8年 (1565) |
島津義虎、野田城主・島津忠兼を謀殺 |
島津義虎(薩州家6代) |
4 |
天正15年 (1587) |
豊臣秀吉の九州平定、忠辰は降伏 |
島津忠辰(薩州家7代) |
4 |
文禄2年 (1593) |
朝鮮出兵での不手際により、薩州家改易 |
島津忠辰/豊臣秀吉 |
1 |
慶長4年 (1599) |
島津宗家に返還、本田正親が初代地頭となる |
島津忠恒(宗家) |
6 |
元和元年 (1615) |
一国一城令により廃城 |
江戸幕府/島津家 |
1 |
寛永6年 (1629) |
山田有栄が第3代出水地頭に着任 |
山田有栄 |
18 |
薩州島津家の断絶後、豊臣家の直轄領となっていた出水は、慶長の役における島津宗家の軍功が認められ、慶長4年(1599年)に再び島津家の所領として返還された 6 。時の当主・島津忠恒(後の家久)は、肥後国との国境防衛の最前線として出水の重要性を再認識し、直ちに統治体制の再構築に着手した。その第一歩として、初代地頭に重臣の本田正親を任命し、国境の守りを固めた 6 。
関ヶ原合戦後、出水の国境警備と統治において決定的な役割を果たしたのは、島津家屈指の勇将として知られる山田一族であった。ここで注意すべきは、一般に知られる「山田有信」は、天正6年(1578年)の耳川の戦いにおける高城籠城などで名を馳せた武将であり、関ヶ原後に出水の地頭として赴任したのは、その嫡子である「山田有栄(ありなが)」である 18 。有栄は、父・有信に劣らぬ知勇兼備の将であり、その治世は後の出水の気風を決定づけた。
有栄の武名は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて不動のものとなった。西軍が総崩れとなる中、戦場に取り残された島津義弘の部隊は、敵である徳川家康の本陣正面を突破して撤退するという前代未聞の作戦を敢行した。世に言う「島津の退き口」である 33 。有栄はこの壮絶な撤退戦において、殿(しんがり)部隊の一翼を担い、追撃する東軍の猛攻を食い止める「捨て奸(すてがまり)」戦法で奮戦し、多大な犠牲を払いながらも主君・義弘を薩摩まで無事に帰還させるという抜群の功績を挙げた 18 。
この功績により、有栄は島津家中で絶大な信頼を得る。寛永6年(1629年)、有栄は第3代出水地頭に任命され、肥後との国境防衛の全権を委ねられた 18 。以後、明暦3年(1657年)までの約28年間にわたり、有栄はその卓越した軍事的能力と行政手腕をもって出水の統治に尽力し、後の「出水麓」発展の基礎を築いたのである。
有栄が出水地頭に就任する以前の元和元年(1615年)、江戸幕府は全国の大名に対し、居城以外の城を破却するよう命じる「一国一城令」を発布した。この幕府の政策により、鎌倉時代から400年以上にわたって北薩摩の軍事拠点であり続けた出水城は、公式に廃城となり、その物理的な城郭としての歴史に終止符が打たれた 1 。しかし、城の「死」は、新たな形の防衛システムの「誕生」を意味していた。出水城が担ってきた国境防衛という機能と精神は、形を変えて麓の武士たちへと継承されていくことになる。
一国一城令により、表向きには薩摩藩の城は鹿児島城(鶴丸城)のみとなった。しかし、島津氏は幕府に対し「城を破却すれば土砂が田畑に流出する」などと申し立て、実質的に領内各地の山城を温存した 36 。さらに、それらの城の麓に「外城(とじょう)」または「麓(ふもと)」と呼ばれる地方支配拠点を110余箇所も維持し続けた 37 。これは、郷士(ごうし)と呼ばれる半農半士の武士団を各地に分散配置し、平時は農業に従事させつつ、有事には即座に動員可能な軍事・行政組織として機能させる、薩摩藩独自の地方支配システムであった 36 。この制度の背景には、豊臣秀吉による検地後も多くの武士を召し放たなかったため、全人口に占める士族の割合が他藩に比べて極端に高かった(約4分の1)という事情があった 42 。
廃城となった出水城の北麓には、この外城制度のもと、藩内で最初期に、かつ最大規模を誇る「出水麓」が構築された 6 。出水麓は、単なる武士の居住区ではなかった。地頭の役所である「仮屋(かりや)」(現在の出水小学校敷地)を中核とし、碁盤の目のように整然と区画された道路、玉石を積み上げた堅固な石垣、敵の視線を遮る生垣、屋敷と道路の高低差などを巧みに組み合わせ、麓全体がひとつの巨大な城塞都市として設計されていた 1 。各武家屋敷は、門を閉じれば独立した防御拠点となり、敵の侵入を困難にするための様々な工夫が凝らされていた。
出水麓の構築は、物理的な城壁に依存するのではなく、そこに住まう人々の武勇と結束力こそが最大の防御であるとする、薩摩藩の根本思想「人をもって城となす」を最も純粋な形で具現化したものであった 42 。この思想を実践的な人材育成プログラムとして支えたのが、「郷中教育(ごじゅうきょういく)」と呼ばれる薩摩藩独自の青少年教育システムである 49 。
この郷中教育を出水において確立し、その精神的基盤を築いたのが、地頭の山田有栄であった。関ヶ原の死線を越えてきた有栄は、城壁よりも人間の質、すなわち規律、士気、そして技術こそが戦いの帰趨を決することを知り抜いていた。彼は出水において尚武の気風を徹底的に奨励し、やがて薩摩藩内でも最強と謳われる「出水兵児(いずみへこ)」と呼ばれる精強な武士団を育て上げた 52 。
その教育の核となったのが、「出水兵児修養掟」として知られる規範である 56 。この掟は、「口に偽りを言わず、身に私を構えず」「弱い者を侮らず、人の患難を見捨てず」といった厳格な武士道精神に加え、「物の哀れを知り、人に情あるを以て、節義の嗜みと申すもの也」と、武勇だけでなく人間的な情愛や思いやりの重要性をも説いている点に特徴がある 56 。山田有栄は、出水城が担っていた軍事機能を、単に麓という物理空間に移し替えただけではなかった。彼は、城の「魂」とも言うべき防衛の精神を、郷中教育というシステムを通じて人々の心に深く刻み込み、より強靭で持続可能な防衛体制へと昇華させたのである。
有栄の統治は、厳格な軍事教練だけに留まらなかった。寛永14年(1637年)の島原の乱に出陣した後、武士たちの士気を鼓舞し、共同体の結束を高める目的で、郷土芸能「山田楽」を創始したと伝えられている 58 。この踊りは、出征から凱旋までの様子を勇壮に表現するものであり、現在も地域の伝統文化として受け継がれている 58 。山田楽は、有栄が武力だけでなく、文化的な装置をも用いて出水兵児の精神を涵養しようとした、優れた統治者であったことを示す貴重な遺産である。
構成要素 |
出水城の特徴 |
南九州型城郭の一般的特徴(知覧城・志布志城など) |
典拠(比較) |
立地・地形 |
米ノ津川・平良川に挟まれた丘陵地 |
シラス台地の末端や、侵食によって形成された孤立台地 |
2 |
縄張り |
複数の曲輪が林立する「多郭雑形式」。本丸(水夫ヶ城)と他の曲輪の独立性が高い。 |
巨大な空堀で隔てられた曲輪群が林立する「群郭式」。本丸の位置が特定しにくい。 |
1 |
防御施設 |
落差30m級の巨大空堀、大規模な土塁、急峻な切岸、発達した虎口。 |
自然のガリ地形を利用した深さ20-30mに及ぶ巨大空堀と高い切岸。 |
21 |
建造物 |
瓦葺き の格式高い建物が存在した可能性が極めて高い(瓦の大量出土)。 |
基本的に掘立柱建物で、瓦葺きの事例は稀。「土の城」が主体。 |
3 |
出土遺物 |
中国・タイ産の輸入陶磁器、碁石など、政治・文化・交易の中心地であったことを示唆。 |
軍事・生活関連の遺物が中心。 |
24 |
中世から近世にかけて、肥薩国境の要衝として重要な役割を果たした出水城とその遺産である出水麓は、現代においてもその歴史的価値を失うことなく、史跡として、また生きた文化遺産として地域に息づいている。
元和の一国一城令によって廃城となった出水城跡は、現在、その大半が保安林に指定されている 26 。長年の風雪により、城内の遺構は樹木や草に覆われ、未整備で危険な箇所も多いため、原則として一般の立ち入りは禁止されているのが現状である 6 。
しかし、見学が全く不可能というわけではない。出水市教育委員会や出水麓歴史館に事前に連絡し、注意事項の説明を受けることで、城内を走る林道沿いを歩いて見学することが許可される場合がある 6 。林道からでも、城を分断する巨大な空堀や、高くそびえる土塁の規模を十分に体感することができ、往時の城の堅固さを偲ぶことができる。市教育委員会による継続的な発掘調査や探検会の開催なども行われており、将来的には安全が確保された形での限定的な公開や、歴史公園としての整備が期待される 23 。
出水城跡の北麓に広がる武家屋敷群は、江戸時代の薩摩藩外城制度の姿を今に伝える貴重な歴史的景観として、1995年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された 1 。約46ヘクタールに及ぶ広大な地区内には、玉石を積んだ石垣、美しく刈り込まれた生垣、そして威厳のある武家門が連なり、400年前の武士たちの暮らしを彷彿とさせる落ち着いた街並みが保存されている 7 。
地区内には、上級武士の屋敷であり、大河ドラマ『篤姫』のロケ地ともなった公開武家屋敷「竹添邸」や、囲炉裏から屋外へ抜けられる通路など防衛拠点としての工夫が見られる「税所邸」があり、内部を見学することで当時の郷士の生活様式を具体的に知ることができる 6 。また、麓の中心に位置する出水麓歴史館では、出水城と麓の復元ジオラマや、発掘調査で出土した瓦、陶磁器などの遺物が展示されており、この地の歴史を体系的に学ぶための拠点となっている 6 。
2019年、出水麓は、鹿児島県内8市の麓と共に、日本遺産「薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群『麓』を歩く~」の重要な構成文化財として認定された 38 。これを契機に、歴史的景観の保存に留まらず、それを積極的に活用し、地域の活性化に繋げる新たな取り組みが加速している。
その象徴的な事例が、近年、空き家となっていた武家屋敷を改修して誕生した分散型ホテル「RITA 出水麓」である 70 。この取り組みは、歴史的建造物を保存・維持しながら、宿泊施設として活用することで、観光客に「武家屋敷に泊まる」という特別な体験を提供し、滞在時間の延長と地域経済への貢献を目指すものである。このような官民連携による文化財の保存と活用の両立は、人口減少や高齢化に直面する他の歴史的町並みが抱える課題に対する、一つの先進的なモデルケースとなりうる。
出水城の歴史は、一つの城郭の盛衰に閉じるものではない。それは、鎌倉時代に国境の軍事拠点として生まれ、戦国時代には薩州島津家の栄華と悲劇の舞台となり、その終焉後は、近世薩摩藩の精神的・制度的支柱たる出水麓の母体として生まれ変わった、壮大な物語である。物理的な「城」から、人の精神性と社会システムに宿る「城」へ――。出水城とその麓が歩んだ道程は、時代を超えて「守り」とは何かを問い続ける、類稀な歴史遺産であると言えよう。