利府城は、奥州留守氏の拠点。家督問題で村岡氏が反発し籠城するも、留守政景に攻略され「利府城」と改名。伊達氏の北の拠点として最前線となり、政景の活躍を支えた。小田原不参により改易され廃城となるが、政景は伊達家臣として生涯を全うした。
宮城県宮城郡利府町にその痕跡を留める利府城は、単なる一地方の城跡として語られるべき存在ではない。この城は、戦国時代の末期、奥州の地政学的な構造が根底から覆される巨大な潮流、すなわち伊達氏による勢力圏拡大という歴史の奔流の中で翻弄され、そして消えていった象徴的な城郭である。その歴史は、留守氏という名門の家中で巻き起こった家督相続問題を発端とし、在地勢力であった村岡氏の滅亡という悲劇と、伊達一門である留守政景による新たな支配の確立という、光と影の二つの側面を内包している 1 。
本報告書は、この利府城の歴史を、単一の事件の解説に終始することなく、その黎明期から終焉までを多角的に検証するものである。特に、これまで伊達氏の視点から描かれがちであった奥州戦国史を、城と共に運命を共にした在地勢力・村岡氏の視点からも再検討し、利府城の興亡が持つ重層的な歴史的意義を解き明かすことを目的とする。城の構造、関わった人々の動機、そしてその結末が意味するものを深く掘り下げることで、戦国末期の奥州に生きた武士たちの選択と、時代の転換点に屹立した一つの城が辿った宿命を明らかにしていく。
年代(西暦) |
元号 |
利府城(村岡城)・留守氏・村岡氏の動向 |
伊達氏・中央政権の動向 |
鎌倉時代 |
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留守氏の一族(または家臣)村岡氏により、村岡城が築城されたと推定される 1 。 |
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1556年 |
弘治2年 |
留守顕宗、弟・孫五郎を擁立しようとする村岡兵衛らと内戦状態となる 4 。 |
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1567年 |
永禄10年 |
留守氏、伊達晴宗の三男・政景を留守顕宗の養子として迎えることが決定。村岡氏がこれに強く反発する 1 。 |
伊達晴宗、周辺勢力への影響力拡大政策を推進。 |
1569年 |
永禄12年 |
村岡氏、政景の入嗣に反発し、居城である村岡城に挙兵・籠城する 1 。 |
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1570年 |
元亀元年 |
留守政景が村岡城を攻略。城は落城し、村岡一族は滅亡する 1 。政景は岩切城から本拠を移し、城と地名を「利府」と改める 7 。 |
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1570年-1590年 |
元亀-天正 |
留守政景、利府城を拠点とし、伊達輝宗・政宗を補佐して各地を転戦。利府城は対大崎・葛西氏の最前線基地となる 1 。 |
伊達輝宗・政宗の時代。伊達氏が奥州での勢力を最大化する。 |
1585年 |
天正13年 |
留守政景、人取橋の合戦に伊達軍の将として出陣し奮戦する 4 。 |
伊達政宗、家督相続。蘆名・佐竹連合軍と衝突。 |
1590年 |
天正18年 |
留守氏(政景)、小田原征伐に参陣せず、豊臣秀吉により所領を没収される(改易)。利府城は廃城となる 1 。 |
豊臣秀吉、小田原北条氏を滅ぼし天下統一を達成。奥羽仕置を実施。 |
1590年以降 |
天正18年以降 |
留守政景は伊達政宗に従い、大谷城へ移る。後、伊達一門に復帰し、一関2万石を領する 6 。 |
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現代 |
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城跡は「館山公園」として整備され、市民の憩いの場となる 6 。 |
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利府城の起源は、鎌倉時代にまで遡ると考えられている 3 。正確な築城年は不明であるが、奥州探題であった留守氏の配下、村岡氏によって築かれたのがその始まりとされる 1 。当初の城名は、この築城主の名を冠した「村岡城」、あるいは地名に由来する「森郷城」であった 6 。この名称は、城が村岡氏という一族の存在証明そのものであり、彼らの本拠地として不可分の関係にあったことを物語っている。
城主であった村岡氏は、単なる家臣という言葉だけでは捉えきれない、複雑な立場にあった。留守氏は藤原北家道兼流を祖とする奥州の名門であり 4 、源頼朝から陸奥国留守職に任じられて以来、宮城郡東部を中心に勢力を張った有力領主であった 13 。複数の史料において村岡氏は、その留守氏の「家臣」 1 と記される一方で、「有力な一族」 6 とも表現されている。この記述の揺れは、村岡氏が単に主従関係で結ばれた被官なのではなく、留守一門の中で血縁的にも重要な地位を占める譜代の重鎮であった可能性を強く示唆している。彼らは留守氏の支配体制を内側から支える中核的な存在であり、それゆえに主家の行く末に対して強い当事者意識を抱いていたと考えられる。この立場こそが、後の家督相続問題において、彼らが単なる主命への反発ではなく、一族の伝統と血筋の存続をかけた「内部からの異議申し立て」という、より深刻な行動へと駆り立てた根源的な要因であったと分析できる。
村岡城は、現在の利府町中心部の北側に位置する標高約100メートルの丘陵上に築かれた山城である 6 。この地は戦略的に極めて優れており、東には古代より陸奥国の中心であった国府・多賀城を、そして西から南にかけては仙台平野を一望することができた 7 。この卓越した眺望は、平時においては留守氏の支配領域を俯瞰し統治する拠点として、そして有事においては敵の動きをいち早く察知し、防衛体制を敷くための監視拠点として、絶大な効果を発揮したであろう。
平時、この城は村岡氏一族の生活の場である居館として機能していた。しかし、その本質は軍事拠点であり、戦国時代の緊張が高まる中で、留守氏が宮城郡に張り巡らせた支城ネットワークの重要な一角を担っていたと推察される。近隣の岩切城や高森城と連携し、外部勢力の侵攻に対する防衛線を形成していたと考えられる。村岡城は、村岡氏の拠点であると同時に、留守氏全体の安全保障を支えるための戦略的要衝であったのだ。
戦国時代中期以降、かつて奥州で権勢を誇った名門・留守氏の勢力には陰りが見え始めていた。度重なる内紛や周辺勢力との抗争により国力は疲弊し、南から急速に勢力を拡大してきた伊達氏の圧力を無視できなくなっていた 2 。留守氏は、伊達氏の軍事力を背景とすることでかろうじて命脈を保つという、従属的な立場に追い込まれていたのである 14 。伊達氏から養子を迎えることは、この時期すでに留守氏にとって初めてのことではなかった。過去に二度にわたり伊達家から養子を受け入れており、その血の注入は、留守氏が徐々に伊達氏の衛星勢力へと変質していく過程そのものであった 17 。
一方、伊達氏側では、15代当主・伊達晴宗が、父・稙宗との長きにわたる内乱「天文の乱」を制し、家中を強力に統制していた 19 。晴宗は、武力による直接的な侵攻だけでなく、政略結婚や養子縁組といった外交戦略を巧みに用いて、周辺の国人領主たちを次々と伊達氏の勢力圏へと組み込んでいった 9 。衰退する留守氏への介入は、この晴宗の拡大戦略における必然的な一手だったのである。
人物名 |
所属・役職 |
家督問題における立ち位置 |
備考 |
留守 顕宗 |
留守氏17代当主 |
中立 / 追認 |
病弱で、家中の主導権を握れずにいた 4 。政景に家督を譲り隠居 20 。 |
留守 政景(伊達 政景) |
伊達晴宗の三男 |
親伊達派(当事者) |
留守氏18代当主となる。伊達輝宗の弟、政宗の叔父 9 。 |
伊達 晴宗 |
伊達氏15代当主 |
親伊達派(黒幕) |
自身の三男・政景を留守氏に送り込み、勢力拡大を図る 9 。 |
村岡 左衛門・兵衛 |
留守氏一族・譜代 |
反伊達派(主導者) |
留守氏の血統維持を主張し、政景の入嗣に猛反発。村岡城に籠城する 4 。 |
余目 氏 |
留守氏一族・譜代 |
反伊達派 |
村岡氏に同調し、反伊達派を形成。東光寺城を拠点とした 17 。 |
佐藤 氏 |
留守氏家臣 |
反伊達派 |
村岡氏に同調。駒犬城を拠点とした 17 。 |
花淵 紀伊 |
留守氏家臣(外様) |
親伊達派 |
伊達氏の力を背景とした家の安泰を主張し、政景の入嗣を推進 4 。 |
吉田 右近 |
留守氏家臣(外様) |
親伊達派 |
花淵氏らと共に政景の入嗣を推進した 4 。 |
永禄10年(1567年)、留守氏17代当主・留守顕宗のもとで、かねてから燻っていた家督相続問題が爆発点に達した 1 。顕宗自身、当主就任以前の弘治2年(1556年)に、実弟の孫五郎を擁立しようとした村岡兵衛・左衛門ら一族との内紛を経験しており、その権力基盤は盤石とは言い難かった 4 。家中には、将来への不安と現状への不満が渦巻いていた。
この絶好の機会を伊達晴宗は見逃さなかった。晴宗は、自身の三男であり、伊達輝宗の弟、後の政宗から見れば叔父にあたる政景を、顕宗の養子として送り込むことを画策する 9 。この案は、留守家中の花淵紀伊や吉田右近といった家臣団によって強力に支持された 4 。彼らは、もはや留守氏単独での存続は不可能と判断し、強大な伊達氏の力を背景とすることこそが、家を安泰に導く唯一の道であると考えたのである。しかし、この選択は、留守氏が名実ともに伊達氏の支配構造に完全に組み込まれ、その独立性を永久に失うことを意味していた。
この伊達氏による事実上の「乗っ取り」に対し、留守氏の血脈と伝統を何よりも重んじる勢力が牙を剥いた。その中心にいたのが、一族譜代の重鎮である村岡左衛門・兵衛の兄弟であった 6 。彼らにとって、伊達の血を引く者を当主として迎えることは、留守氏の歴史と誇りを根底から否定する暴挙に他ならなかった。
この対立は、単なる感情的な反発に留まらなかった。それは、戦国期の多くの大名家で見られた構造的な対立、すなわち「外様の家臣団(新興実力派)」と「一族譜代(守旧派)」との深刻な路線対立であった。親伊達派を形成したのが花淵氏や吉田氏といった、主家の血統よりも実利を重んじる傾向のある「外様」の家臣であったのに対し 4 、反伊達派の中核を成したのは、家の伝統を自らの存在意義と結びつける村岡氏や余目氏といった「一族」や「譜代」であった 17 。政景の入嗣は、留守氏が今後「独立を失ってでも大国の庇護下で生き残る」べきか、「滅亡のリスクを冒してでも伝統と独立を守る」べきかという、究極の経営判断を巡る内部対立の起爆剤となったのである。村岡氏は単独で行動したわけではなく、同じ志を持つ余目氏(東光寺城主)や佐藤氏(駒犬城主)らと連携し、反伊達派連合を形成した 9 。彼らの抵抗は、伊達氏による侵食に対する、留守氏旧来の秩序を守ろうとする最後の、そして絶望的な戦いの始まりであった。
外交交渉や家中での権力闘争による抵抗が尽きたと判断した村岡氏は、ついに最終手段に打って出た。永禄12年(1569年)、留守政景の養子縁組が覆らないことを受けて、村岡左衛門・兵衛兄弟はついに挙兵し、一族郎党と共に長年の居城である村岡城に立て籠もった 1 。これは、もはや言葉による説得の段階は終わり、武力によって自らの主張を貫徹するという決死の覚悟の表れであった。彼らは、伊達の威光を笠に着る新当主とその支持者たちに対し、留守一門としての意地と誇りをかけて、城を枕に討死することも辞さない構えを示したのである。
村岡氏の決起に対し、留守氏の家督を正式に継いだ政景は、これを看過しなかった。翌元亀元年(1570年)、政景は自らの権威を確立し、家中の反対勢力を一掃するため、村岡城への攻撃を開始した 1 。この攻城戦は、形式上は留守家の内紛鎮圧であったが、その実態は大きく異なっていた。政景の背後には、伊達本家からの絶大な軍事的支援があった。当時の記録には、政景軍が「圧倒的物量を頼みに猛攻をかけ」たと記されており 14 、籠城側との兵力差は歴然としていたと推測される。
この戦いは、単なる内紛の鎮圧ではなく、伊達氏による「代理戦争」としての側面が色濃い。伊達氏は、直接的な軍事侵攻という手段を避け、養子である政景を前面に立てることで、あくまで「留守家の内部問題」という体裁を保ちながら、自らの意に沿わない勢力を排除するという、極めて巧妙な戦略を用いた。村岡城攻めは、この伊達氏の領土拡大戦略の有効性を試す、最初の試金石であった。後の大崎・葛西仕置などに見られる、内部対立を巧みに利用して影響力を行使し、最終的に支配下に置くという伊達氏の行動パターンの原型が、この時に形成されたのである。
圧倒的な兵力差の前に、村岡氏の抵抗は長くは続かなかった。元亀元年(1570年)、猛攻に晒された村岡城はついに落城し、城主であった村岡一族は滅亡したと伝えられている 1 。この「滅亡」が、一族郎党の根絶を意味するのか、あるいは当主兄弟の討死と残党の離散を意味するのか、史料からは判然としない。しかし、いずれにせよ、この敗北によって村岡氏は政治勢力として完全に歴史の舞台から姿を消した 14 。
この勝利は、留守政景にとって決定的な意味を持った。彼は、自らの家督相続に最後まで反対した最大勢力を武力で屈服させることにより、名実ともに留守氏の当主としての地位を盤石なものとした。留守家中に政景の支配に異を唱える者はもはや存在せず、伊達氏による留守氏の完全な掌握がここに完了したのである。
村岡城を攻略した留守政景は、その拠点を長年留守氏の本城であった岩切城から、この新たに手に入れた城へと移した 1 。彼は落城した城に大規模な修繕・改修を施し、新たな時代の拠点として生まれ変わらせた 14 。そして、この城の再生に際し、政景は極めて象徴的な行動に出る。城の名前を「村岡城」から「利府城」へ、そして周辺の地名も「村岡」から「利府」へと改めたのである 6 。これは、旧勢力である村岡氏の記憶を歴史から抹消し、自らが築く新たな支配体制の確立を内外に宣言する、強力な政治的メッセージであった。
生まれ変わった利府城に与えられた役割は、かつての村岡城とは全く異なっていた。伊達氏の勢力圏の北端に位置するこの城は、北方に敵対勢力として存在する大崎氏や葛西氏に対する、軍事的な最前線基地として極めて重要視された 1 。城の役割が、旧来の「留守領の防衛」という内向きのものから、「伊達領の拡大」という外向きのものへと質的に変化した瞬間であった。
利府城主となった留守政景は、「留守氏当主」と「伊達一門」という二つの顔を持つ、極めて複雑な立場にあった。彼は留守家の安泰を願う家臣団の期待を背負う一方で、実家である伊達家の勢力拡大戦略の尖兵としての役割を遂行しなければならなかった。この二重性が、彼の武将としての生涯を特徴づけている。
伊達晴宗の三男として生まれた政景は、武勇に優れた有能な武将であり、兄・伊達輝宗、そして甥・伊達政宗の二代にわたって軍事面で重補佐役を務めた 9 。天正13年(1585年)の仙道人取橋の合戦では、数的に圧倒的に不利な状況で奮戦し、伊達軍の崩壊を防いだ 4 。また、大崎合戦では軍の総大将を任されるなど、政宗からの信頼は絶大であった 4 。さらに、黒川晴氏の娘・竹乙を妻に迎えるなど 9 、周辺豪族との婚姻政策においても重要な役割を担った。
政景が利府城を本拠とした元亀元年(1570年)から天正18年(1590年)までの約20年間は、彼が武将として最も輝いた時期であり、同時に利府城もまた、その軍事活動の中核拠点として歴史上最も重要な役割を果たした時代であった 7 。彼の生涯は、戦国末期に巨大勢力の論理に飲み込まれていく中小国人領主の運命を、まさに体現していたと言えるだろう。
利府城は、仙台平野の北東端に突き出た丘陵の自然地形を最大限に活用して築かれた、典型的な戦国期の山城である 8 。城域は丘陵の尾根に沿って南西方向へ約1kmに及び、その幅は100メートルから250メートルと、細長い丘陵全体を一つの巨大な要塞として機能させる設計思想が見て取れる 14 。急峻な斜面や谷を天然の防御線とし、最小限の土木工事で最大限の防御効果を得ようとする、中世城郭の合理性が随所に窺える。
この城の最大の特徴は、城内が丘陵を深く切り込む自然の沢によって、大きく5つの郭(曲輪)に分断されている点にある 14 。これは、敵が城内に侵入したとしても、一つの郭を突破されるたびに新たな防御線に直面させることで侵攻速度を遅滞させ、守備側が各個撃破する機会を生み出すための、連郭式縄張りの一種と解釈できる。
各郭は標高差を巧みに利用して配置されている。最も標高が高い北東部から順に104メートル、88メートル、69メートル、32メートル、36メートルと階段状に低くなっており、城の中枢部が最も防御に適した北東の高所に置かれていたことは明らかである 14 。主郭と推定される区画は、約50メートル×40メートルの広さを持ち、その周囲には防御力を高めるための腰曲輪が一段低く巡らされていた 14 。現在でも、往時の姿を偲ばせる土塁や、尾根を断ち切って敵の移動を阻む空堀、そして各郭の平坦面といった遺構が良好な状態で残されている 15 。
城跡は現在、館山公園として整備されているが、その整備事業に伴い、過去に数回の小規模な発掘調査が実施されている 10 。これらの調査によって、文献史料だけでは知り得ない城内の具体的な様子が明らかになってきた。
調査では、郭の平坦面を造成するための整地跡と共に、多数の掘立柱建物跡が確認された 7 。これは、城内に城主の居館のような主要な建物だけでなく、兵士たちの詰所(兵舎)や武具・兵糧を保管する倉庫など、多数の付属施設が整然と計画的に配置されていたことを示している 7 。この城が、単なる領主の館ではなく、多くの兵員を収容可能な大規模な軍事拠点として機能していたことが考古学的にも裏付けられた。
この城の縄張りには、村岡氏の時代と留守政景の時代の二つの歴史的段階が積層している可能性がある。自然の沢で分断された5つの郭という基本的な構造は、在地領主の拠点として段階的に拡張されていった村岡氏時代の名残である可能性が高い。一方で、留守政景による「修繕・改修」 1 は、主郭部を中心とした防御機能の近代化や、伊達氏の北方戦略の拠点として求められる兵員収容能力の増強に重点が置かれたと推測される。発掘調査で確認された「多数の掘立柱建物跡」 10 は、まさしく政景時代にこの城がより大規模な軍事基地として再整備されたことを示す物的な証拠であり、在地領主の城から大大名の支城へと変貌を遂げた歴史を物語っている。なお、城跡から出土した遺物は、利府町郷土資料館に収蔵・展示されており、当時の人々の生活を窺い知る貴重な手がかりとなっている 10 。
天正18年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えた。天下統一事業の総仕上げとして、豊臣秀吉が関東の雄・北条氏を攻めるにあたり、全国の諸大名に小田原への参陣を命じたのである。この「小田原征伐」への参加は、豊臣政権への臣従を意味する、事実上の踏み絵であった。
この時、伊達政宗は参陣の判断を巡って家中が紛糾し、大幅に遅参することとなる。そして、伊達一門として政宗と行動を共にしていた留守政景もまた、この小田原合戦に参陣しなかった 3 。これは、東北地方における「伊達家」という閉じた世界の中の論理で行動した結果であったが、その行動は「豊臣家」という日本全体を覆う新しい秩序の中では許されなかった。結果として、留守氏は秀吉の怒りを買い、所領を全て没収される「改易」という最も重い処分を受けることとなった 1 。
主を失った利府城は、留守氏の改易と時を同じくして、天正18年(1590年)をもって廃城となった 3 。一度の戦闘も経験することなく、城はその歴史的役割を終えたのである。この出来事は、戦国時代を通じて奥州に割拠してきた数多の国人領主たちの時代が、豊臣という中央政権による「奥羽仕置」によって、強制的かつ一方的に終わりを告げられたことを象-徴している。城の軍事的価値や戦略的重要性ではなく、中央の政治的判断によってその運命が決定づけられた瞬間であった。
利府城の歴史は、戦国時代の論理、すなわち地域の軍事力と在地支配の正当性によって始まり、近世の論理、すなわち中央政権への臣従と知行制によって終わった。村岡氏が城に立てこもって滅びたのは、まさしく戦国時代の地域紛争の姿そのものである。一方、その城が何の戦いもなく放棄されたのは、豊臣政権という新たな政治秩序が、遠く奥州の地にまで及んだ結果に他ならない。利府城の歴史は、日本の社会システムが「地域割拠」から「中央集権」へと移行する、激動の時代そのものを凝縮しているのである。
留守氏当主としての地位と領地を失った政景であったが、彼の人生はそこで終わらなかった。改易後、彼は実家である伊達家に戻り、甥である当主・伊達政宗に仕えることとなった 6 。彼は伊達一門の重鎮として正式に復帰し、文禄の役では朝鮮へ渡海して武功を挙げ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、伊達軍の総大将として最上義光の救援に向かうなど、伊達家のために働き続けた 9 。その功績により、最終的には一関に2万石の所領を与えられ、水沢伊達家の祖となった 9 。彼の人生は、留守氏18代当主として始まり、伊達家随一の重臣として全うされたのである。
天正18年(1590年)の廃城後、利府城は歴史の表舞台から完全に姿を消し、静かな丘陵へと還っていった。400年以上の歳月を経て、城跡は現在「館山公園」として整備され、地域住民の憩いの場、そして桜の名所として親しまれている 6 。園内の主郭跡には「利府城址」と刻まれた石碑と、城の歴史を解説する案内板が設置されており 3 、訪れる人々に往時の記憶を静かに語りかけている。
城跡の遺構の保存状態は良好な部分も多いが、場所によっては夏草に覆われてしまうこともあり、文化財としての維持管理には継続的な努力が求められているのが現状である 6 。
利府城が辿った興亡の歴史は、我々に多くのことを教えてくれる。それは、戦国末期における伊達氏の巧妙な勢力拡大戦略の実相であり、留守家中に見られたような伝統と変革の相克であり、そして豊臣政権という巨大な中央集権化の波に抗う術もなく飲み込まれていった地方勢力の宿命である。
留守氏の血統を守るために城に立てこもり、滅び去った村岡氏の悲劇。そして、伊達一門として生まれながら留守氏の当主となり、兄と甥のために戦い続け、最後は伊達家臣として生涯を終えた留守政景の栄光と苦悩。彼らの姿は、歴史の大きな転換期を必死に生きた人々の選択と、その結末を鮮やかに映し出している。利府城は、戦国奥州のダイナミズムと、時代の終焉を一身に体現した、貴重な歴史の証人なのである。
利府城に関する研究は、まだ多くの可能性を残している。利府町郷土資料館に所蔵されている城跡からの出土遺物を、最新の考古学的知見に基づいて再検討することにより、城内で営まれていた具体的な生活様式や、食文化、流通の実態などが明らかになる可能性がある。また、公園として整備されている区域以外の、未調査区域に対するさらなる発掘調査が実施されれば、留守政景による改修の具体的な範囲や手法、あるいは村岡氏時代の遺構が発見されることも期待される。
文献史学の分野では、伊達側の公式記録である『伊達治家記録』などの史料と、現存する可能性のある留守氏関連の古文書や記録を丹念に照合・比較検討することで、これまで伊達氏の視点から語られることの多かった留守氏家督相続問題の経緯を、より客観的かつ詳細に解明できる可能性がある。これらの学際的なアプローチによって、利府城の歴史は、今後さらに豊かな物語を我々に示してくれるに違いない。