勝瑞城は、阿波国の中心として栄え、三好氏の天下を支えた。壮麗な庭園と都の文化を誇るも、長宗我部氏の侵攻で落城。今は史跡として、忘れられた戦国の都の記憶を伝える。
日本の戦国時代史において、阿波国(現在の徳島県)に存在した勝瑞城は、単なる地方の一城郭として語られるべきではない。室町時代後期から戦国時代にかけて、この地は阿波の政治・経済・文化の中心地として栄え、「天下の勝瑞」と称されるほどの繁栄を誇ったのである 1 。畿内を席巻し、一時は天下人とも評された三好長慶を輩出した三好一族にとって、勝瑞城はまさにその権力の源泉であり、日本の歴史に深く関与した重要な拠点であった 3 。
しかし、その栄華は長宗我部元親の侵攻によって終焉を迎え、近世には新たな政治中心地として徳島城が築かれたことで、勝瑞は歴史の表舞台から姿を消し、長くその真価は土中に眠ることとなった。その評価が劇的に変わる契機となったのが、平成6年(1994年)から開始された継続的な発掘調査である 5 。この調査によって、壮麗な大名館、趣向を凝らした庭園、そして畿内との密接な交流を示す数多の遺物が出土し、文献資料だけでは窺い知ることのできなかった勝瑞の壮大な姿が、今再び我々の眼前に現れつつある 7 。
本報告書は、この勝瑞城の歴史的意義を再評価する試みである。勝瑞城の盛衰は、中央(室町幕府・織田政権)と地方(四国)の権力構造の変動を映し出す鏡であった。細川氏の守護所としての設立は、幕府体制下における地方支配の在り方を象徴している。続く三好氏による支配は、守護代が主家を凌駕する下剋上と、戦国大名の台頭という時代の潮流を体現する。そして、長宗我部氏による落城は地方勢力間の統一戦争の激化を、蜂須賀氏による廃城は豊臣政権下での新たな支配体制への移行を、それぞれ明確に示している。このように、勝瑞城の歴史を紐解くことは、室町時代後期から安土桃山時代に至る日本の政治体制の大きな転換点を、一つの城郭の運命を通して理解することに他ならない。本稿では、最新の発掘調査成果と文献史料を統合し、この忘れられた戦国の都の全貌を、多角的な視点から解明することを目的とする。
勝瑞城が長きにわたり阿波国の中心たり得た理由は、その戦略的な地理的条件と、室町幕府の地方支配体制の中に明確に位置づけられていた歴史的背景に求めることができる。
勝瑞城は、旧吉野川南岸の自然堤防上に立地し、東を今切川、南を広大な湿地帯に囲まれた、天然の要害であった 1 。この地形は、敵の侵攻を困難にする防御上の利点をもたらした。しかし、勝瑞の真の価値は、その防御性以上に、交通の利便性にあった。
吉野川は「四国三郎」の異名を持つ大河であり、その広範な水系は阿波国内の物資輸送の大動脈であった。勝瑞は、この水上交通ネットワークの結節点に位置しており、内陸部からの産物を集積し、紀伊水道を経て畿内へと送り出すための絶好の拠点であった 2 。遺跡周辺には、現在も「浜」「船戸」「渡り」といった水運に関連する地名が残っており、往時、この地が河川交通の盛んな中世都市であったことを物語っている 8 。
この地理的優位性は、単なる軍事拠点としての城の立地選定とは一線を画す。勝瑞城は山城ではなく平城であり 9 、これは防御一辺倒ではなく、経済活動と政治的交流を重視した拠点であったことを示唆している。阿波守護であった細川氏は、室町幕府の管領を輩出する名門であり、その政治活動の中心は京都にあった。彼らにとって阿波は、自らの権勢を支える経済的基盤であり、阿波の富(特に藍など)を効率的に畿内へ輸送し、中央の政情を迅速に把握することが不可欠であった。その目的を達成するためには、山中の閉鎖的な城砦よりも、交通の要衝に開かれた平城の方が遥かに合理的であった。したがって、勝瑞城の立地は、阿波一国を支配するためだけでなく、阿波と畿内を結ぶ「ゲートウェイ」としての機能を最優先した、極めて戦略的な選択であったと言える。
勝瑞が阿波国の政治的中心地としての歴史を開始したのは、室町時代、阿波守護であった細川氏がこの地に守護所を移したことに始まる。その時期については諸説あるが、南北朝時代の延元2年/建武4年(1337年)に細川頼春が入ったとする説 8 や、正平18年/貞治2年(1363年)頃に秋月城(現在の阿波市)から拠点を移したとする説が伝えられている 11 。いずれにせよ、14世紀中頃には、勝瑞は細川氏による阿波統治の拠点として確立されていた。
これにより、勝瑞は単なる城ではなく、守護の政庁、すなわち「府城」としての性格を帯びることになる。以後、三好氏の時代を経て、天正10年(1582年)に長宗我部氏によって落城するまでの約240年間にわたり、勝瑞は名実ともに阿波国の政治・経済・文化の中心として君臨し続けたのである 11 。
表1:勝瑞城関連年表
西暦(和暦) |
主な出来事(政治・軍事) |
関連人物 |
考古学的知見・推定 |
備考・意義 |
1339年頃 |
細川氏が勝瑞に守護所を設置(諸説あり) |
細川頼春 |
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阿波国の政治中心地としての歴史が始まる。 |
16世紀中葉 |
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三好実休(義賢) |
館跡の池泉庭園、枯山水庭園、大型礎石建物などが造営される 13 。 |
三好氏の権勢と文化的成熟が頂点に達した時期。 |
1553年(天文22年) |
勝瑞事件 :三好実休が主君・細川持隆を勝瑞城内で殺害。 |
三好実休、細川持隆 |
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三好氏が下剋上により阿波の実権を完全に掌握。 |
1564年(永禄7年) |
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濠から「永禄七年」の紀年銘を持つ卒塔婆が出土 1 。 |
当時の信仰や生活を物語る貴重な遺物。 |
1582年(天正10年) |
6月: 本能寺の変 。織田信長が死去。 |
織田信長、長宗我部元親 |
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長宗我部氏による阿波侵攻の直接的な契機となる。 |
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8月28日~9月21日: 中富川の戦い 。 |
長宗我部元親、十河存保 |
館跡の会所建物跡などが焼失(焼土層の年代から推定) 13 。 |
阿波三好氏が事実上滅亡し、阿波の支配権が長宗我部氏に移る。 |
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9月21日:勝瑞城が開城。十河存保は讃岐へ退去。 |
長宗我部元親、十河存保 |
城跡(詰めの城)がこの時期に急造された可能性が指摘される 1 。 |
約240年続いた勝瑞の府城としての歴史が終焉。 |
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戦後:長宗我部元親により城は破却されたと伝わる。 |
長宗我部元親 |
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旧権力の象徴を破壊し、新たな支配体制を示す意図。 |
1585年(天正13年) |
豊臣秀吉の四国征伐。蜂須賀家政が阿波国に入国。 |
豊臣秀吉、蜂須賀家政 |
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阿波の支配者が蜂須賀氏に交代。 |
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蜂須賀家政が徳島城の築城を開始。 |
蜂須賀家政 |
勝瑞城の石垣や資材が徳島城築城に転用されたとの伝承がある 1 。 |
阿波国の政治中心が徳島へ移り、勝瑞は廃城となる。 |
1994年(平成6年) |
勝瑞城館跡の発掘調査が開始される。 |
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遺跡の重要性が再認識される契機となる。 |
2001年(平成13年) |
「勝瑞城館跡」として国の史跡に指定される。 |
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貴重な歴史文化遺産として公的に保護される。 |
2017年(平成29年) |
「続日本100名城」に選定される。 |
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全国的な知名度が高まり、歴史観光資源としての価値が向上。 |
平成6年(1994年)に始まった発掘調査は、勝瑞城が単一の城郭ではなく、機能の異なる二つの区域から構成される複合的な施設であったことを明らかにした。その構造は、戦国時代の権力者の威光と、時代の緊迫した軍事情勢の両方を雄弁に物語っている。
現在の勝瑞城跡は、県道14号線を挟んで南北に分断されているが、これは単なる後世の改変ではなく、元来の機能分化を反映したものである 9 。
北側に位置するのは、現在、三好氏の菩提寺である見性寺の境内となっている「勝瑞城跡」である 2 。この区域は、東西約84メートル、南北約60メートルの不整方形をなし、周囲を幅13メートルから16メートルにも及ぶ大規模な水堀と、基底部からの高さが約2.5メートルに達する土塁によって厳重に固められている 1 。発掘調査の結果、この城跡は16世紀末、すなわち長宗我部氏による阿波侵攻が現実の脅威となった時期に急造された可能性が高いことが判明した 1 。これは、平時の政庁とは別に、有事の際に立て籠もるための純軍事的な防御拠点、いわゆる「詰めの城」として機能したと考えられる。
一方、県道の南側に広がる広大な芝生公園が「勝瑞館跡」であり、こちらこそが室町時代から戦国時代にかけて、細川氏および三好氏が政務を執り、日常生活を送った政庁兼居館であった 5 。調査により、この館跡は幅10メートルを超える大規模な濠によって複数の区画(郭)に分けられた「複郭式」の構造を持つことが明らかになっている 10 。その規模は、西国随一の守護大名であった大内義隆の居館「大内氏館」(山口県山口市)に匹敵するものであり、勝瑞が守護クラスの大名の本拠地として、壮麗な威容を誇っていたことを示している 13 。
この「館」と「城」の機能分化と築造時期のずれは、戦国時代における戦闘様式の変化を如実に物語っている。比較的開放的で、居住性や儀礼性を重視した守護大名の「館」では、数万の兵を動員する大規模な包囲攻撃には耐えられない。三好氏の治世下で、阿波における戦争の形態が、散発的な豪族間の争いから国家の存亡をかけた総力戦へと質的に変化したことが、新たな防御拠点としての「城」の建設を余儀なくさせたのである。勝瑞城の二元的な構造は、日本の城郭が中世の「館(やかた)」から近世の「城(しろ)」へと移行する、過渡期の姿を留める貴重な事例と言えるだろう。
勝瑞館跡の発掘調査における最大の発見の一つが、様式の異なる二つの大規模な庭園遺構の確認である 14 。これらは、三好氏が単なる武力だけの支配者ではなく、京の公家や将軍家に匹敵するほどの高い文化教養と、それを実現する強大な経済力を有していたことを証明している。
館跡の南西部で発見されたのは、枯山水庭園である 15 。この庭園は、吉野川流域で産出される緑色片岩9個を含む計12個の景石を巧みに配置し、水を用いずに山水の景を表現していた 1 。庭園の北側には、桁行七間(約13.8メートル)、梁間四間半(約8.9メートル)の礎石建物跡が確認されており、庭園を鑑賞するための「会所」であったと考えられている 1 。
さらに東側の区画からは、これを遥かに凌ぐ規模の池泉庭園が発見された 1 。この庭園は、東西約40メートル、南北約30メートルに及び、発掘された中世の池庭としては国内最大級のものである 1 。池は「つ」の字状に屈曲する複雑な形状を持ち、岸辺には拳大の礫を敷き詰めた「州浜」や、三段以上に組まれた石積み護岸など、極めて高度な作庭技術が駆使されていた 1 。この壮大な池に面して、東西八間(約15.8メートル)、南北六間(約11.8メートル)と推定される大型の礎石建物が存在し、ここが館の中心的な施設であった可能性が指摘されている 13 。
これらの庭園と建物群は、出土遺物から16世紀中葉から後半、すなわち三好氏の権勢が最も高まった時期に造営され、機能していたと考えられる 13 。これらは単なる慰安の空間ではなく、訪れる者を圧倒し、主の権威と文化水準の高さを誇示するための、壮麗な政治的舞台装置であった。
発掘調査で出土した膨大な遺物は、勝瑞における生活文化が、当時の日本の最高水準にあったことを裏付けている。
出土品の中でも特に注目されるのが、陶磁器類の豊富さである。中国から輸入された青磁、白磁、染付といった高級磁器や、天目茶碗などが多数発見されており、これらは茶の湯などの文化的活動が盛んに行われていたことを示唆している 5 。また、京都周辺で生産された「かわらけ」(素焼きの土器)も大量に出土しており、京との密接な交流を物語っている 13 。
さらに、漆塗りの椀や、和歌が彫り込まれた硯、遊戯具である羽子板など、多様な生活用品が出土しており、勝瑞に暮らした人々の洗練された日常が垣間見える 1 。
建築技術の面でも、勝瑞は先進的であった。多数の瓦の出土は、重要な建物が瓦葺きであったことを示し、その瓦を分析した結果、畿内の四天王寺系瓦工の技術的影響が指摘されている 16 。また、瓦を巧みに組み上げて作られた井戸(瓦組井戸)も発見されており、これもまた畿内との技術交流の証左である 1 。
一方で、天正10年(1582年)の落城の痕跡も生々しく残されている。会所の建物跡などを覆う焼土層からは、武具や焼けた銭貨が多数出土しており、長宗我部軍による侵攻がいかに激しいものであったかを物語る考古学的な証拠となっている 13 。これらの遺物は、栄華を極めた勝瑞の都が、戦火によって一瞬にして灰燼に帰した悲劇を静かに伝えている。
勝瑞城がその栄華を極めたのは、戦国大名・三好氏の本拠地として機能した時代である。阿波の一家臣に過ぎなかった三好氏は、勝瑞を足がかりに畿内へと進出し、日本の政治を動かす巨大な勢力へと飛躍を遂げた。勝瑞城は、その権力ネットワークを支える上で、不可欠な戦略拠点であった。
三好氏による勝瑞支配の画期となったのが、天文22年(1553年)に起きた「勝瑞事件」である。三好長慶の弟であり、阿波・讃岐方面の軍団を率いていた三好実休(義賢)は、主君であった阿波守護・細川持隆を勝瑞城内の見性寺に招き、謀殺した 15 。これにより、三好氏は名実ともに阿波国の支配者となり、勝瑞城を自らの本拠地として掌握した。
実休は勝瑞を拠点に、阿波・讃岐の国人衆を「阿讃衆」として強力に組織化し、兄・長慶が繰り広げる畿内での覇権争いを軍事・経済の両面から支えた 3 。勝瑞は、畿内へ送り込む兵士と兵糧の供給基地であり、三好政権の安定に不可欠な役割を果たした。
さらに、勝瑞は中央政局に直接影響を及ぼす政治拠点としての側面も持っていた。当時、阿波には室町幕府の将軍継承争いに敗れた足利義維・義栄親子が亡命しており、「平島公方」と称されていた 14 。三好氏は彼らを庇護下に置き、将軍候補として擁立することで、自らの政治的立場を正当化し、敵対勢力に対抗する切り札とした 20 。これにより、勝瑞は事実上、京都と並び立つもう一つの政治的中心地としての機能を担うことになったのである。
三好氏の強大な権勢を支えた経済力の源泉は、国際貿易港として繁栄していた堺との密接な関係にあった。堺は三好氏の重要な拠点の一つであり、日明貿易や南蛮貿易によってもたらされる莫大な富と先進的な技術は、三好氏の経済基盤を潤した 22 。勝瑞は吉野川水運を通じて堺と直結しており、この経済ネットワークの恩恵を直接享受する立場にあった。
この経済的繁栄を背景に、勝瑞では高度な文化が花開いた。その中心にいたのが、武将であると同時に当代一流の文化人でもあった三好実休である。実休は茶の湯に深く傾倒し、茶人・武野紹鷗に師事した 24 。茶人・山上宗二はその著書『山上宗二記』の中で、実休を「武士でただひとりの数寄者」と最大級の賛辞で評している 25 。彼が「実休肩衝」をはじめとする多くの名物茶器を所持していたことも知られており 18 、勝瑞館跡から茶道具が多数出土している事実は、この文化的背景を裏付けるものである 13 。
勝瑞の繁栄は館の中だけに留まらなかった。江戸時代の地誌『阿波志』によれば、勝瑞の城下には27もの寺院が立ち並び、市が賑わい、多くの人々が行き交っていたと記されている 8 。これは、勝瑞が宗教都市、そして商業都市としての一面も併せ持っていたことを示している。三好氏の権力は、阿波の軍事・経済力、堺の商業・国際性、そして畿内の政治的影響力という三つの要素が連携した、広域的なネットワークによって支えられていた。勝瑞城は、そのネットワークの阿波における最重要拠点であり、人材、物資、資金、文化を畿内や堺と双方向にやり取りするための、不可欠なハブであった。
勝瑞城下町の特質をより深く理解するため、同じく守護大名・戦国大名の本拠地として栄えた周防の 大内氏館 (山口)や、越前の 朝倉氏一乗谷遺跡 (福井)と比較することは有益である。
これらの都市には、いくつかの共通点が見られる。いずれも守護館を中心とした計画的な都市構造を持ち、京都の文化を積極的に導入していた 26 。壮麗な庭園や数多くの寺社が建立され、地方における文化の中心地として機能した点は、勝瑞とも軌を一にする 29 。また、政治を行う政庁と領主の日常生活の場である居館が一体となった大規模な館が、都市の中核を成していたことも共通している 30 。
しかし、相違点もまた明確であり、そこから勝瑞の独自性が浮かび上がってくる。
第一に、地理的条件と都市構造である。大内氏館が位置する山口や、朝倉氏の本拠地である一乗谷は、いずれも山に囲まれた内陸の盆地にあり、防御を重視した都市計画が見られる 32。特に一乗谷では、谷の両端を土塁と城門で固めた「城戸」を設け、城下町全体を要塞化する構造が特徴的である 28。これに対し、勝瑞は吉野川沿いの平野部に位置し、防御施設は存在するものの、より開放的で、水運を利用した商業・交易を志向した都市であったことが窺える 1。
第二に、政治的志向性の違いである。大内氏や朝倉氏は、それぞれ西国や北陸といった地域ブロックの覇者として、その地方に「西の京」「北ノ京」と呼ばれる独自の文化圏を築くことに注力した。一方、三好氏は勝瑞を足がかりとしながらも、その活動の主眼は常に畿内、すなわち「天下」の中枢にあった 4 。このため、勝瑞は「地方の都」であると同時に、中央政界を窺うための「前線基地」という二重の性格を帯びていた。この中央志向の強さこそが、他の戦国期都市と比較した際の、勝瑞の最大の特徴と言えるだろう。
栄華を極めた勝瑞城であったが、その運命は、土佐の長宗我部元親の台頭と、中央政局の激変によって大きく揺さぶられることになる。天正10年(1582年)の中富川の戦いは、阿波三好氏の支配に終止符を打ち、勝瑞城を落日の舞台へと変えた決定的な戦いであった。
土佐一国を統一した長宗我部元親は、次なる目標として四国制覇の野望を抱いていた。当初、元親は中央の覇者である織田信長と友好関係を結び、その四国平定を半ば黙認されていた 35 。しかし、元親の勢力が阿波や讃岐に及ぶにつれ、その地の領主であった三好一族(当主は三好義賢の子・十河存保)は信長に救援を求めた 35 。天下統一を進める信長は、元親の急成長を危険視し、方針を転換。三好氏を支援し、元親に土佐・阿波南半のみを安堵するという要求を突きつけた 36 。
これを拒否した元親に対し、信長は天正10年(1582年)、三男の信孝を総大将とする大規模な四国征伐軍の派遣を決定する 35 。織田軍の圧倒的な物量の前に、長宗我部氏は滅亡の危機に瀕した。しかし、同年6月2日、京都で本能寺の変が勃発し、信長が横死する 35 。この日本史上の大事件は、四国の情勢を一変させた。織田の四国征伐軍は瓦解し、三好氏が頼みとしていた強力な後ろ盾は消滅した。この中央政権の崩壊という政治的空白は、元親にとって、阿波を完全に手中に収めるための千載一遇の好機となったのである 36 。
本能寺の変からわずか2ヶ月後の天正10年8月、長宗我部元親は満を持して阿波への大侵攻を開始した。
両軍の兵力と布陣: 元親は、土佐の精鋭である「一領具足」に加え、阿波国内の反三好勢力も糾合し、総勢2万3千という大軍を率いて勝瑞城に迫った 36 。対する十河存保は、織田の後ろ盾を失い、兵力の集中を余儀なくされていた。彼は一宮城などを放棄し、阿波・讃岐から動員可能な兵力約5千を勝瑞城に集め、決戦に備えた 38 。兵力差は4倍以上であり、開戦前から長宗我部方が圧倒的に有利な状況であった。
戦闘の経過: 8月28日、両軍は勝瑞城の西を流れる中富川を挟んで激突した 38 。寡兵の十河軍は、地の利を生かして奮戦し、一時は長宗我部軍の猛攻を押し返すほどの抵抗を見せた 35 。しかし、圧倒的な兵力差は覆しがたく、十河軍は次第に押し込まれ、勝瑞城への籠城を余儀なくされた。
自然現象の影響: 9月5日から5日間にわたり記録的な豪雨が降り続き、吉野川と中富川が氾濫、勝瑞城の周囲一帯は湖のような状態と化した 38 。この予期せぬ自然現象は、攻城側の長宗我部軍を苦しめた。兵士たちは民家の屋根や木の上に登って避難するありさまで、籠城する十河軍は小舟を繰り出して水上から長柄の槍で攻撃し、長宗我部軍に損害を与えた 38 。
決着: しかし、天は十河軍に味方しなかった。数日後、水が引くと、長宗我部軍は陣容を立て直し、紀州から援軍として駆けつけた雑賀衆の鉄砲隊も加えて、勝瑞城への総攻撃を再開した 35 。城内外で激しい白兵戦が繰り広げられ、双方に多数の死傷者が出た。もはやこれまでと玉砕を覚悟した十河存保であったが、側近の家臣の諫言を受け入れ、9月21日、ついに開城を決断。城兵の助命を条件に降伏し、手勢を率いて讃岐の虎丸城へと落ち延びていった 38 。
この戦いは、単なる兵力差だけでなく、本能寺の変という中央政局の激変を的確に捉え、迅速に行動を起こした長宗我部元親の戦略眼がもたらした勝利であった。それは、戦国後期の戦いが、一地方の軍事バランスだけでなく、天下の情勢と不可分であったことを示す好例と言える。
中富川の戦いの勝利により、長宗我部元親は阿波国の支配権をほぼ手中に収めた。彼は、戦いに協力した阿波の国人・小笠原成助らを、後に謀反の疑いをかけて謀殺するなど、恐怖による支配を徹底し、阿波の平定を進めた 35 。
元親は、阿波三好氏の権威の象徴であった勝瑞城を統治の拠点として再利用することなく、破却したと伝えられている 1 。これは、旧体制の記憶を物理的に消し去り、新たな支配者の到来を領民に強く印象付けるための、戦国時代における常套手段であった。
しかし、元親による四国統一も束の間の夢に終わる。天正13年(1585年)、本能寺の変後の混乱を収拾し、天下人への道を歩み始めた豊臣秀吉が、10万を超える大軍を四国へ派遣した(四国征伐) 42 。圧倒的な物量の前に長宗我部軍は抗しきれず、元親は降伏。土佐一国のみの安堵を余儀なくされた。
秀吉から阿波一国を与えられたのは、腹心である蜂須賀家政であった 43 。家政は、200年以上にわたり阿波の中心であった勝瑞の地を選ばず、吉野川河口により近く、水運と城下町の建設に有利な徳島の地を新たな本拠と定めた 11 。そして、近世的な城郭である徳島城の築城を開始する。この際、廃城となった勝瑞城の石垣や建材の多くが、徳島城の資材として転用されたという伝承が残っている 1 。
この蜂須賀家政による徳島城築城は、阿波における中世の終わりと近世の始まりを画する象徴的な出来事であった。旧時代の権力中枢であった勝瑞を放棄し、新たな支配体制の拠点として徳島をゼロから構築することは、新しい時代の到来を領民に示す最も効果的な方法であった。これにより、勝瑞は政治の中心地としての役割を完全に終え、静かな田園地帯へと回帰していったのである。
長宗我部氏による破却と、蜂須賀氏による徳島への政治中心の移転により、勝瑞城はその歴史的役割を終えた。江戸時代を通じて、かつての城下町は田園地帯へと姿を変え、城跡の中心部は三好一族の菩提を弔う見性寺の境内地として、静かにその記憶を後世に伝えてきた 1 。
その歴史的価値が再び脚光を浴びるのは、20世紀末のことである。平成6年(1994年)から始まった体系的な発掘調査は、土の下に眠っていた壮麗な館や庭園の跡を次々と明らかにし、文献資料だけでは知り得なかった「天下の勝瑞」の実像を我々の前に蘇らせた 5 。これらの学術的成果が高く評価され、平成13年(2001年)には「勝瑞城館跡」として国の史跡に指定された 1 。
現在、史跡地は公有化され、調査・整備事業が継続的に行われている。復元された濠や会所の模擬建物、整備された庭園遺構は、訪れる人々に往時の姿を想像させる 6 。隣接して建てられた「史跡勝瑞城館跡展示室」では、膨大な出土品が展示・公開されており、貴重な歴史学習の場となっている 5 。さらに、平成29年(2017年)には、日本城郭協会によって「続日本100名城」の一つに選定され、その名は全国の歴史愛好家に広く知られることとなった 5 。
勝瑞城の遺跡が我々に語りかけるものは多い。それは、室町幕府の権威が揺らぎ、実力主義の時代へと移行していく中で繰り広げられた、地方権力の興亡のドラマである。畿内の中央政局と地方の動向が、いかに密接に連動していたかを示す、ダイナミックな歴史の証言でもある。そして何よりも、この地に生きた武士たちの、華やかで洗練された文化と、権力を巡る壮絶な生と死の物語を、今に伝えている。土に眠る記憶を丹念に掘り起こし、その声に耳を傾けることで、我々は日本の戦国時代という時代の深層に、また一歩近づくことができるのである。