千葉城は、平安期からの伝説と中世城郭の史実が重なる地。戦国期には役割を終え、今は模擬天守が市民に親しまれる。歴史の層を刻む、記憶と時間の複合体なり。
千葉市の中心市街地を見下ろす亥鼻(いのはな)台。そこに優美な姿でそびえ立つ天守閣は、多くの市民に「千葉城」の名で親しまれる千葉市立郷土博物館です 1 。春には桜の名所として賑わい、最上階の展望室からは近代的な都市の景観が一望できます。しかし、この天守閣は昭和42年(1967年)に建設されたものであり、その下に眠る「猪鼻城跡」の真の歴史は、一般に流布するイメージとは大きく異なります 3 。
本報告書は、日本の戦国時代という視点を軸に、この千葉城(亥鼻城)の歴史を徹底的に解剖するものです。その歴史は、単一の物語では語り尽くせません。平安時代後期の築城という輝かしい「通説・伝説」、室町時代中期に関東の戦乱の渦中で落城した「中世城郭としての史実」、そして近年の考古学調査によってその姿を現しつつある「新たな歴史像」という、少なくとも三つの側面から多角的に分析する必要があります。特に、「戦国時代」という視点から見たとき、この城はどのような意味を持つのか、その実像に深く迫ります。
千葉城の歴史を調査する上で最も核心的な論点は、「語られる歴史(伝承)」と「発掘される歴史(考古学的事実)」との間に存在する大きな乖離にあります。通説では、大治元年(1126年)に千葉氏の初代・千葉常重によって築かれ、以後約330年間にわたり千葉氏の拠点であったとされています 4 。この年代は、千葉市が自らの「都市としての始まり」と位置づけるほど、地域アイデンティティの根幹をなす物語として定着しています 5 。
しかしながら、近年の猪鼻城跡における発掘調査では、この通説を直接裏付ける鎌倉時代の明確な城郭遺構は確認されていません 6 。むしろ、出土品などから13世紀から15世紀にかけての亥鼻台は、一族の墓域や祭祀的な空間として利用されていた可能性が強く示唆されています 6 。この矛盾をどう解釈すべきでしょうか。それは、「千葉氏の拠点」という言葉の解釈に鍵があります。彼らの主たる居住空間である「館」は亥鼻台の麓の低地にあり、神聖な高台である亥鼻は祖霊が眠る墓域や祭祀の場として利用されていたのかもしれません。そして、関東全域が動乱期に入る15世紀、すなわち享徳の乱の前後に、この戦略的要地が初めて本格的に「城郭化」されたという仮説が成り立ちます。
したがって、本報告書ではこの「乖離」を単なる誤りとして断じるのではなく、なぜそのような物語が生まれ、定着したのかという文化的背景と、考古学が明らかにした物理的な土地利用の変遷の両方を追求し、千葉城の重層的な歴史の実像を明らかにしていきます。
千葉城の歴史を語る上で、その主体である千葉氏の存在は不可欠です。千葉氏は、桓武天皇を祖とする桓武平氏、その中でも坂東(関東)に武士団の礎を築いた平高望の子孫、平良文の流れを汲む名門です 8 。坂東八平氏・関東八屋形の一つに数えられ、平安時代から房総半島に広大な勢力を築きました 9 。11世紀前半に一族の平忠常が起こした反乱(長元の乱)は、朝廷を震撼させましたが、その子孫は罪を許され、房総の地に深く根を下ろし、武士団としての力を蓄えていきました 8 。
一般に広く知られる千葉城の歴史は、平安時代後期の大治元年(1126年)に始まります。千葉氏の系譜において初代当主とされる千葉常重が、それまでの拠点であった上総国大椎城(現在の千葉市緑区)から、都川と東京湾を望む亥鼻の地へ本拠を移し、初めて「千葉」の姓を名乗ったとされています 1 。この出来事は、単なる一族の拠点移動に留まらず、交通の要衝であるこの地に政治・経済の中心が形成される契機となり、今日の千葉市の都市としての起源と見なされています 5 。
千葉氏がその名を天下に轟かせたのは、常重の子、千葉常胤の時代です。治承4年(1180年)、伊豆で挙兵し石橋山の戦いで敗れた源頼朝が安房国へ逃れてきた際、常胤は一族を率いていち早く頼朝の麾下に参じ、その再起を強力に支援しました 11 。頼朝も常胤を父のように慕ったとされ、常胤は鎌倉を本拠とするよう進言するなど、鎌倉幕府樹立において筆頭御家人として絶大な貢献を果たしました 5 。この功績により、千葉氏は下総国の守護大名としての地位を確立しただけでなく、北は東北から南は九州に至る広大な所領を与えられ、鎌倉幕府を代表する大御家人へと飛躍を遂げたのです 5 。この輝かしい歴史こそが、「亥鼻城」を千葉氏三百年の栄華の象徴たらしめる物語の源泉となっています。
輝かしい伝承とは裏腹に、近年の考古学的な調査成果は、亥鼻城の歴史像に大きな一石を投じています。猪鼻城跡で繰り返し行われた発掘調査では、通説を裏付ける平安時代後期から鎌倉時代にかけての、城郭としての明確な遺構や大規模な館の跡は確認されていません 6 。もしここが千葉氏累代の拠点であったならば、相応の規模を持つ建物跡や、防御施設、そして当時の生活を物語る遺物が大量に出土するはずですが、現状では決定的な証拠が見つかっていないのです。
むしろ、出土品や検出された遺構から、13世紀から15世紀にかけての亥鼻台は、城郭ではなく一族の墓域や、妙見信仰などに関わる祭祀的な空間として利用されていた可能性が高いと指摘されています 6 。さらに調査を進めると、この地が特別な場所であった歴史はさらに古く、古墳時代の前方後円墳や多数の土壙墓なども確認されており、古代から地域の支配者層にとっての聖地であったことが窺えます 15 。
この考古学的知見と、文献史料に残る千葉氏の活躍という事実をどう整合させるべきでしょうか。そこで有力視されているのが、「千葉氏の主たる居館は亥鼻台の麓の平地にあり、亥鼻台は有事の際の詰城、あるいは祖霊を祀る神聖な墓所であった」とする説です 6 。事実、室町時代に千葉宗家を滅ぼした馬加康胤が、その館跡に菩提を弔うための寺(智光院)を建立したという伝承があり、その智光院は亥鼻台の麓に位置しています 6 。これは、日常的な政治・生活の場が低地にあったことを示唆する有力な傍証と言えます。
そして、堀や土塁といった本格的な城郭遺構は、関東全域が戦乱に突入する15世紀、特に享徳の乱(1455年勃発)の前後に築かれたものである可能性が高いと考えられています 7 。この時期に、それまでの聖地が、緊迫する軍事情勢の中で初めて防御拠点として本格的に整備されたのです。この整備は、千葉氏の一族である弥富原氏の手によるものという見解もあります 6 。
このことから、亥鼻の地の歴史は、単なる軍事・地理的要因だけでは説明できない深みを持っています。千葉氏は、古代からの土地の記憶が宿る聖地を背負うことで、自らの支配の正当性を内外に示そうとしたのかもしれません。そして後の時代に、この「精神的な拠点」としての記憶と、麓にあったであろう「物理的な居館」の存在が混同され、「大治元年に亥鼻に城を築いた」という、簡潔で象徴的な物語へと収斂していったのではないでしょうか。
室町時代中期、康正元年(1455年)、鎌倉公方・足利成氏と関東管領・上杉氏との対立が武力衝突へと発展し、以後30年近くにわたり関東全域を戦乱に巻き込んだ「享徳の乱」が勃発しました 6 。この大乱は、室町幕府の権威が関東で失墜し、各地の武士たちが自らの実力で領国を支配する、いわゆる「戦国時代」の幕開けを告げる画期的な事件でした 17 。鎌倉時代以来の名門であった千葉氏も、この巨大な政治的・軍事的動乱の渦に否応なく巻き込まれていきます。
享徳の乱において、千葉氏一族は深刻な内部分裂に見舞われます。千葉氏宗家の当主であった千葉胤直と、その子・胤宣は関東管領・上杉氏側に与しました。これに対し、胤直の叔父にあたる馬加(まくわり)城主・馬加康胤や、筆頭家老であった原氏の原胤房らは、古河公方・足利成氏を支持し、一族は真っ二つに割れてしまったのです 6 。
康正元年(1455年)、古河公方側についた馬加康胤と原胤房は、宗家の本拠地である亥鼻城を急襲しました。この時、亥鼻城は15世紀の城郭として整備されていたと考えられますが、同族間の激しい攻防の末、ついに落城します 6 。城を追われた胤直父子は、下総東部の多古城(千葉県多古町)や千田庄(同)へと逃れ再起を図りますが、康胤らの追撃は執拗であり、最期は自刃に追い込まれました。これにより、源頼朝の時代から続いた名門・千葉氏の嫡流は、事実上滅亡するという悲劇的な結末を迎えます 17 。
しかし、この内乱の連鎖はこれで終わりませんでした。宗家の地位を奪った馬加康胤もまた、室町幕府の命を受けて宗家救援のために派遣された同族の東常縁(千葉氏支流)によって討伐されます 17 。最終的に、この混乱を収拾し千葉氏の家督を継承したのは、亥鼻から離れた岩橋(千葉県酒々井町)を本拠としていた系統の千葉輔胤でした 17 。千葉氏の血脈はかろうじて保たれたものの、その権威と本拠地は大きな変革を迫られることになります。
一連の内乱を経て千葉氏の新たな当主となった輔胤は、悲劇の舞台となった千葉(亥鼻)の地を放棄するという重大な決断を下します。そして、内陸の印旛沼を望む本佐倉(現在の千葉県佐倉市・酒々井町)の地に、新たな本拠地として本佐倉城を築城しました 4 。この本拠地の移転に伴い、亥鼻城はその政治的・軍事的中心地としての役割を完全に終え、事実上廃城となったと考えられます 1 。一部には永正13年(1516年)に廃城したとする説もありますが 1 、千葉氏の主要拠点としての機能は、この15世紀半ばの時点で失われたと見るべきでしょう。
この本拠地移転は、単に内紛の記憶から逃れるためだけではありませんでした。亥鼻が東京湾に近く海上からの攻撃に脆弱であるのに対し、本佐倉は広大な印旛沼の水運を押さえ、下総の広大な平野部を防衛・統治するのに適した内陸の要害でした 14 。これは、より大規模で組織的な領国経営が求められる戦国時代の要請に応える、極めて戦略的な判断であったと言えます。
結果として、戦国時代を通じて、亥鼻城が千葉氏やその他の勢力によって主要な軍事拠点として再利用されたという記録はほとんど見当たりません 6 。戦国時代の千葉氏の歴史は、すべて新たな拠点である本佐倉城を舞台に展開されることになります。
この事実は、ユーザーの「戦国時代という視点での千葉城」という問いに対する最も重要な答えを導き出します。それは、「亥鼻城の落城と放棄こそが、千葉氏を旧来の鎌倉・室町期的な権威や体制から脱却させ、戦国大名へと変貌させた決定的な出来事だった」という点です。亥鼻城は戦国時代の「主役」ではなく、「戦国時代を創り出した舞台装置」でした。その喪失は、千葉氏にとって旧体制との決別を意味し、より実力主義的で領国経営を重視する「戦国大名」としての新たなアイデンティティを、本佐倉城という新しい拠点で確立していくことを余儀なくさせたのです。
時代 |
拠点城郭名 |
所在地(現在) |
主な当主 |
拠点移動の背景・理由 |
平安中期~後期 |
大椎城 |
千葉市緑区 |
平常兼・常重 |
房総半島への勢力拡大と支配基盤の確立。 |
平安後期~室町中期 |
亥鼻城(千葉館) |
千葉市中央区 |
常重・常胤~胤直 |
交通の要衝であり、鎌倉への海上アクセスが良好な政治・経済の中心地。 |
室町後期~戦国期 |
本佐倉城 |
佐倉市・酒々井町 |
輔胤~重胤 |
享徳の乱による内紛後、旧勢力からの脱却と、内陸の要害における領国経営の拠点化。 |
表1:千葉氏の主要拠点変遷表
本佐倉城を新たな本拠とした千葉氏は、下総の名族として戦国時代を生き抜いていきます。しかし、その道のりは決して平坦ではありませんでした。西には相模国小田原を拠点に関東の覇権を狙う後北条氏、南には安房国から上総国へと勢力を伸ばす里見氏という二大勢力が台頭し、千葉氏は常に両者の間で難しい舵取りを迫られることになります 20 。
当初、千葉氏は安房の里見氏の圧迫に対抗するため、次第に関東の覇者となりつつあった後北条氏との連携を深めていきました 20 。後北条氏から当主の妻を娶るなど、婚姻関係を通じて同盟は強化されていきます 19 。
この後北条・千葉連合と里見氏との対立が頂点に達したのが、天文7年(1538年)と永禄7年(1564年)の二度にわたって行われた「国府台合戦」です。下総国府台(現在の千葉県市川市)を舞台に繰り広げられたこれらの戦いは、房総の覇権をめぐる雌雄を決する大規模な合戦でした 22 。第一次合戦では、千葉氏は後北条氏と連合して小弓公方・足利義明と里見義堯の軍勢を破り 22 、第二次合戦では、里見軍の猛攻に対し後北条氏の援軍を得てこれを撃退しました 22 。これらの合戦において、千葉氏は後北条氏の重要な同盟者として役割を果たしましたが、注目すべきは、その主戦場が国府台やその周辺であり、かつての拠点・亥鼻城が戦略拠点として歴史の表舞台に登場することはなかったという事実です。
後北条氏との同盟関係は、千葉氏に安定をもたらす一方で、その独立性を徐々に蝕んでいきました。強力な後北条氏の関東支配体制が確立されるにつれて、千葉氏はその一翼を担う存在、事実上の従属大名へと変質していきます 20 。やがて、千葉氏の家督継承にまで後北条氏が介入するようになり、8代当主・邦胤が暗殺された後には、後北条氏当主・北条氏政の子である直重が千葉氏の名跡を継ぐに至ります 19 。これにより、千葉氏の独立性は完全に失われ、その領国は後北条氏の支配下に組み込まれました 24 。
天正18年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、千葉氏は後北条方として小田原城に籠城します。しかし、圧倒的な豊臣軍の前に後北条氏は降伏し、滅亡。運命を共にした千葉氏もまた、秀吉によって所領を没収され、ここに平安時代から約470年にわたって続いた名族の歴史は、その幕を閉じることとなりました 3 。本佐倉城もこの時に廃城となり、千葉氏の領国支配は終焉を迎えたのです 19 。
この戦国時代の動乱期において、物理的な軍事拠点としての価値を失った亥鼻城ですが、千葉一族にとって「鎌倉以来の栄光の地」という象徴的な意味合いは持ち続けていた可能性があります。しかし、戦国時代の合理的な軍事思想は、旧来の伝統や権威といった象徴性を凌駕していきます。後北条氏が千葉氏を支配下に置く過程で、物理的な拠点である本佐倉城を確実に抑える一方、旧都の象徴性には重きを置かなかったであろうことは想像に難くありません。亥鼻城の「不在」は、新たな時代の価値観が古い権威を乗り越えていく、戦国という時代の流れそのものを反映していると言えるでしょう。
千葉氏の滅亡後、城郭としての機能を完全に失った亥鼻城跡は、江戸時代を通じて大きく姿を変えていきます。しかし、その周辺には、千葉氏が建立したとされる智光院や胤重寺、また一族の祈願所であった千葉寺などが点在し、地域の歴史的中心地としての記憶を静かに留めていました 6 。これらの寺社は、亥鼻の地が単なる廃墟ではなく、千葉氏ゆかりの聖地として人々に認識され続けていたことを示しています。
亥鼻城跡が再び脚光を浴びるのは、第二次世界大戦後のことです。昭和42年(1967年)、戦後の復興と市の発展を象徴する事業として、城跡に鉄筋コンクリート造の模擬天守が建設されました 1 。これが現在の千葉市立郷土博物館であり、千葉氏に関する資料を展示する施設として開館しました 6 。
しかし、この天守閣は、史実の亥鼻城とは直接的な関係がありません。発掘調査や文献史料から、本来の猪鼻城は石垣や天守閣を持たず、土塁と堀で構成された中世の「平山城」であったと推定されています 3 。模擬天守は、当時の人々が抱いていた「城=天守閣」という一般的なイメージに基づき、観光資源としての魅力を高める目的で建設されたものでした 6 。
さらに興味深いのは、この模擬天守が、千葉氏を事実上滅亡に追いやった後北条氏の本拠地・小田原城などを参考にして設計されたという点です 26 。これは極めて大きな歴史的皮肉と言えます。千葉氏の栄光を記念するはずの場所に、彼らを支配した勢力の城の姿が、おそらくは無自覚に再現されてしまったのです。これは、地域の歴史に対する深い考察よりも、表層的なイメージや見栄えが優先された時代の産物であり、現代における歴史的建造物の復元や再現のあり方を考える上で、示唆に富む事例となっています。
史実とは異なるものの、この模擬天守は半世紀以上にわたり「千葉城」として市民に親しまれ、桜の名所や市街を望む展望台として、新たな文化的価値と役割を担うようになりました 2 。この「作られた伝統」が持つ意味をどう評価するかは、現代に生きる我々に委ねられた問いと言えるでしょう。
近代的な開発が進む市街地の中にあって、猪鼻城跡には今なお中世の面影を伝える貴重な遺構が残されています。模擬天守の周辺には、馬蹄形に広がる重厚な土塁が見られ、往時の城の規模を偲ばせます 11 。また、主郭と神明社の間にある通路は、敵の侵入を阻むための堀切(ほりきり)の跡と考えられています 11 。
さらに、城跡の範囲内には「七天王塚」と呼ばれる7基の塚が点在しています 7 。これらは北斗七星を祀るもの、平将門の影武者を葬ったものなど多様な伝承を持ち、この土地が持つ文化的な奥行きの深さを示しています 7 。
これらの遺構を含む亥鼻公園一帯は、千葉市指定史跡「猪鼻城跡(含七天王塚)」として保護されており 1 、模擬天守の背後にある、中世城郭としての猪鼻城の本来の姿を伝える歴史の証人として、重要な価値を持っています。
比較項目 |
通説・伝承(文献史料等) |
考古学的知見(発掘調査結果) |
築城年代 |
大治元年(1126年) |
明確な城郭遺構は15世紀以降。 |
築城者 |
千葉常重 |
不明(千葉氏一族の弥富原氏説などあり)。 |
鎌倉時代の土地利用 |
千葉氏累代の居城・本拠地。 |
墓域・祭祀空間であった可能性が高い。 |
城郭の形態 |
不明(天守閣は存在しない)。 |
土塁や堀切で構成された中世の平山城。 |
表2:千葉城(亥鼻城)に関する通説と考古学的知見の比較対照表
本報告書で詳述してきたように、千葉城(亥鼻城)の歴史は、単一の物語では到底語り尽くすことのできない、重層的な歴史の地層から成り立っています。それは、平安・鎌倉期における「千葉氏の精神的拠点」という輝かしい伝説、室町時代中期に一族の内乱の舞台となった「中世城郭」としての厳然たる史実、戦国期には主たる役割を終えた「過去の栄光の象徴」、そして現代における「市民の憩いの場としての模擬天守」という、幾重にも重なった時間と記憶の複合体です。
ユーザーの問いであった「戦国時代という視点」からこの城を最終的に位置づけるならば、その答えは明確です。亥鼻城は、「戦国時代に活躍した城」ではありません。むしろ、「その落城と放棄が、千葉氏を旧時代の権威から脱却させ、戦国大名として生きる道へと押し出した、時代の転換点を象徴する城」と結論付けるのが最も的確です。
戦国時代の千葉氏の歴史は本佐倉城で紡がれ、亥鼻城は沈黙を守りました。しかし、その「不在」こそが、亥鼻城が戦国時代に対して持つ、最も雄弁な歴史的意義なのです。それは、一つの時代の終わりと、新たな時代の始まりを告げる、静かなる証人と言えるでしょう。