最終更新日 2025-08-19

厩橋城

戦国期、関東の要衝として上杉・北条・武田・織田・徳川が争奪。利根川に翻弄され廃城と再築を繰り返した、激動の歴史を刻む城。

関東争乱の枢軸 ― 戦国期上野国・厩橋城の徹底研究

序章:関東の華、その戦略的価値

戦国時代の関東地方において、一つの城が繰り返し歴史の表舞台に登場し、当代随一の武将たちの野望が交錯する坩堝となった。その城こそ、上野国南部に位置する厩橋城(まやばしじょう)、後の前橋城である。この城は、徳川家康をして「関東の華」と言わしめたと伝えられるほど、その戦略的価値は比類なきものであった 1 。本報告書は、戦国時代という激動の時代に焦点を絞り、厩橋城がなぜこれほどまでに重要視され、上杉、北条、武田、そして織田、徳川といった大勢力の争奪の的となり続けたのかを、地政学的見地、戦略的機能、そして支配者の変遷という多角的な視点から徹底的に分析・解明するものである。

厩橋城の価値を理解する上でまず重要なのは、その地政学的な位置づけである。上野国は、北に越後の上杉氏、西に甲斐の武田氏、南に相模の北条氏という三大勢力に囲まれた緩衝地帯であり、同時にそれぞれの勢力が関東平野へ進出するための侵攻ルートが交差する「十字路」であった 5 。厩橋城は、その上野国の中心に位置し、西に「坂東太郎」の異名を持つ利根川を天然の要害としつつ、この大河がもたらす水運の利をも享受できる場所に築かれていた 2 。関東平野の北端を押さえ、越後と関東平野を結ぶ結節点であるこの城を支配することは、関東全体の覇権を握るための絶対条件に等しかったのである 7

この城の支配権を巡る争いは、単なる領土の奪い合いに留まらなかった。越後の上杉謙信が関東経営の拠点とし、織田信長が重臣・滝川一益を「関東管領」として派遣した地であり、徳川家康が譜代筆頭の酒井氏に「関東の華」として与えたことからも明らかなように、厩橋城の領有は関東支配の正統性を示す「政治的シンボル」としての側面を強く帯びていた 3 。それゆえに、この城の歴史は、戦国末期の関東における勢力図の変遷そのものを映し出す鏡と言える。

本報告書では、まず築城の経緯と上杉謙信登場以前の役割を明らかにし、次いで上杉氏の拠点化、城代・北条高広の動向、そして上杉・北条・武田による三つ巴の争奪戦の実態を詳述する。さらに、織田政権による束の間の支配とそれに続く大動乱「天正壬午の乱」、豊臣政権下での終焉、そして徳川の世へと至る支配者の変遷を時系列で追い、その背後にある各勢力の戦略的意図と、城郭構造の変遷を多角的に解明していく。

以下に、本報告書で詳述する厩橋城を巡る戦国期の歴史的変遷の概要を年表として示す。

西暦(和暦)

主要な出来事

関連勢力(城主・城代)

結果・意義

15世紀末

長野氏により厩橋城が築城される(諸説あり)

長野方業(固山宗賢)など

箕輪城の支城として、対後北条氏の最前線となる 2

1534年(天文3年)頃

利根川の洪水で石倉城が壊滅、厩橋城が本格的に整備される

長野賢忠

城の拠点が石倉から厩橋へ完全に移行 5

1560年(永禄3年)

長尾景虎(上杉謙信)、関東に出兵し厩橋城を攻略

長尾景虎、長野賢忠、河田長親

上杉氏の関東経営における最重要拠点となる 13

1563年(永禄6年)

北条・武田連合軍が攻撃し一時落城するも、上杉軍が奪還

上杉輝虎(謙信)、北条高広

三国間の争奪戦が激化。北条高広が城代に就任 13

1567年(永禄10年)

城代・北条高広が後北条氏に内応。城下が焼失

北条高広、後北条氏、武田氏

上杉氏の関東支配に動揺。城の支配権が流動化 3

1578年(天正6年)

上杉謙信が急死、「御館の乱」が勃発

北条高広(景虎方)

上杉氏の勢力が関東から後退する契機となる 16

1579年(天正7年)

北条高広、武田勝頼に降伏

武田勝頼

厩橋城が一時的に武田氏の支配下に入る 19

1582年(天正10年)3月

織田信長が武田氏を滅亡させ、滝川一益を厩橋城へ派遣

滝川一益

織田政権による関東支配の拠点となる 5

1582年(天正10年)6月

本能寺の変。神流川の戦いで滝川一益が後北条氏に大敗

滝川一益、北条氏直

織田政権の関東支配が3ヶ月で崩壊。後北条氏が上野国を掌握 3

1590年(天正18年)

豊臣秀吉の小田原征伐により落城。徳川家康の関東入府

浅野長政、平岩親吉

後北条氏が滅亡。徳川家康の支配下に入る 10

1601年(慶長6年)

酒井重忠が入封し、厩橋(前橋)藩が成立

酒井重忠

戦国時代が終焉し、近世大名・前橋藩の藩庁となる 5

第一章:厩橋城の誕生 ― 石倉城からの系譜と長野氏の時代

築城の謎と前身・石倉城

厩橋城の正確な築城年代と築城者については諸説存在するが、多くの史料は室町時代中期の15世紀末頃、上野国西部の箕輪城を本拠とする長野氏一族によって築かれたとしている 2 。具体的には、長野左衛門尉方業(法号・固山宗賢)や長野賢忠といった人物の名が挙げられている 2 。一方で、長尾忠房が築いたとする説や 5 、著名な築城家である太田道灌が縄張りを思案したという伝承も残る 5 。道灌が縄張りに悩んでいた際、一匹の赤亀が現れて縄張りの位置を示したため、その霊を祀る赤亀稲荷神社(尾曳稲荷神社)を創建し、城の守護神としたという話は、この城の起源に伝説的な彩りを添えている 5

しかし、厩橋城の歴史を語る上で不可欠なのが、その前身である石倉城の存在である。当初、長野氏の拠点は利根川の対岸(現在の右岸)に位置する石倉城であった 5 。石倉城は利根川を天然の要害としていたが、天文3年(1534年)頃、利根川の大洪水によって城郭が壊滅的な被害を受けた 5 。このため、長野氏は洪水の被害を免れた石倉城の三ノ丸部分を基盤とし、より安定した対岸の前橋台地北西端に新たな城を築いた 5 。これが厩橋城の本格的な始まりとされる。この出来事は、厩橋城の歴史が、単なる人間の戦略だけでなく、利根川という大自然の力によっても大きく規定されていたことを示唆している。城の誕生そのものが自然災害への適応という側面を持ち、その後の歴史においても利根川との絶え間ない闘争が続くという宿命を、この城は当初から内包していたのである。

地名の由来と初期の役割

「厩橋(まやばし)」という地名の由来については、古代の官道である東山道に置かれた駅(駅家、うまや)が近くにあり、そこを流れる川に架けられた橋が「駅家の橋」と呼ばれたことに起因するという説が有力である 10 。戦国時代の文書には「まやばし陣」「まやばし衆」といった記述が見られ、当時は「まやばし」と発音されていたことが確認できる 11

上杉謙信が本格的に関東へ進出する以前、厩橋城は箕輪長野氏の勢力圏の東端を守る「境目城」としての役割を担っていた 11 。当時、関東では相模の小田原を本拠とする後北条氏が急速に勢力を拡大しており、武蔵国を越えて上野国へ北上する圧力を強めていた。厩橋城は、この後北条氏の侵攻に対する最前線の防御拠点であり、長野氏にとって東方の安全を確保するための戦略的要石であった。しかし、後北条氏の勢力は強大であり、天文21年(1552年)頃には、厩橋城も一度その勢力圏に取り込まれたことを示唆する記録も存在する 10 。このことは、上杉氏が登場する以前から、この地が既に大勢力の衝突点となる運命にあったことを物語っている。

第二章:越後の龍の牙城 ― 上杉謙信の関東経略

関東侵攻の最重要拠点

永禄3年(1560年)、関東管領・上杉憲政を擁して越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が関東へ大軍を率いて出兵(越山)すると、厩橋城の運命は大きく転換する。景虎は沼田城、岩下城に続いて厩橋城を攻略し、ここを関東経営の拠点として接収した 13 。これ以降、十数回に及んだと言われる謙信の関東出兵において、厩橋城は沼田城と共に、越後と関東平野を結ぶ軍事・兵站上の最重要拠点としての地位を確立した 14

謙信がこの城を単なる通過点ではなく、長期滞在を前提とした司令部として重視していたことは、彼自身がこの城で冬を越したという記録からも明らかである 3 。越後から関東への主要ルートである三国峠は、冬になると深い雪で閉ざされる。そのため、関東で軍事行動を継続するためには、冬を越せるだけの兵員と物資を備蓄できる大規模な前線基地が不可欠であった。厩橋城は、まさにその役割を担うための牙城だったのである。地理的に見ても、三国峠を越えて関東平野に入った際の「出口」に位置しており、ここを確保することが、武蔵、相模、下野といった関東各地へ軍事力を展開するための大前提であった 6

この城は、越後からの兵員や物資の集積地であると同時に、謙信に従う関東の諸将が参集する結集地としても機能した。つまり、厩橋城の確保は、謙信の関東経営における最大の課題であった「兵站」の弱点を克服するための生命線であったと言える。しかし、それは裏を返せば、この城を失うことが関東経営全体の瓦解に直結しかねないという構造的な脆弱性をも意味していた。後北条氏や武田氏が執拗にこの城を狙ったのは、ここを断ち切れば謙信の関東における活動を根底から覆せると理解していたからに他ならない。厩橋城は謙信にとって強力な武器であると同時に、常に敵から狙われる最大のアキレス腱でもあったのである。

城代の変遷と在地勢力の掌握

上杉氏による支配が始まって以降、厩橋城の城代は何度か交代している。当初、謙信は旧城主一族である長野賢忠を城代として懐柔し、在地勢力を通じてこの地を安定させようと試みた形跡がある 3 。しかし、長野氏の動きは必ずしも謙信の意に沿うものではなかった。攻防戦への不参加などを理由に、後に長野一族が謙信によって粛清されたという伝承が残っていることは、在地勢力の完全な掌握が容易ではなかったことを物語っている 8

その後、謙信は側近である河田長親を城代として送り込み、上杉氏による直接支配を強化した 13 。これは、在地勢力への不信感と、戦略的要衝をより確実に掌握しようとする謙信の意図の表れであったと考えられる。そして永禄6年(1563年)頃、この重要な城の守りを任されたのが、越後の国人領主であり、家中でも屈指の猛将と謳われた北条高広であった 5

氏名

所属勢力

在任期間(推定)

主要な出来事・経緯

長野賢忠

長野氏→上杉氏

1560年~

上杉謙信の関東出兵後、当初城代に任じられるが、後に粛清されたとの伝承あり 3

河田長親

上杉氏

1560年~1562年頃

謙信の側近。上杉氏による直接支配強化のために派遣された 13

北条高広

上杉氏→後北条氏→武田氏→後北条氏

1563年~1582年頃

謙信に城代として抜擢されるも、後北条氏や武田氏に寝返りを繰り返す 16

(武田勝頼配下)

武田氏

1579年~1582年

北条高広が降伏し、武田氏の支配下に入る 19

滝川一益

織田氏

1582年3月~6月

武田氏滅亡後、織田信長により関東管領として入城するも、本能寺の変後に敗走 5

(北条氏直配下)

後北条氏

1582年~1590年

神流川の戦いの後、後北条氏が上野国を掌握。北条氏邦らが統治に関与 23

平岩親吉

徳川氏

1590年~1601年

小田原征伐後、徳川家康により入封される 5

第三章:揺れ動く忠誠 ― 城代・北条高広の実像

異例の抜擢と度重なる離反

永禄6年(1563年)頃、厩橋城代という重責を担うことになった北条高広(きたじょう たかひろ)は、戦国時代の武将の複雑な生き様を体現する人物である。彼は越後国刈羽郡の国人領主であり、『北越軍談』によれば「器量・骨幹、人に倍して無双の勇士」と評されるほどの武将であった 16 。その軍事的能力は高く評価され、上杉謙信は彼に関東方面の軍事・政治の大権を委ねるほどの信頼を置いた 16

しかし、高広の経歴は平坦ではない。彼は厩橋城代に就任する以前の天文23年(1554年)、武田信玄の調略に応じて謙信に反旗を翻した過去を持っていた 19 。この時は降伏して許され、再び謙信に仕えている。そして、厩橋城代という戦略上の要を任されながら、永禄10年(1567年)、今度は相模の北条氏康に内応し、再び主君を裏切るのである 13 。この二度目の裏切りに対し、謙信は書状の中で「天魔之所業」と激しく非難しつつも、信頼していた武将に裏切られたことで「面目を失い候」と深く嘆いている 35 。この離反は、上杉氏と後北条氏の間で越相同盟が結ばれたことで、高広の立場が宙に浮き、結果的に再び上杉氏に帰参することで収束した 16

なぜ謙信は、一度ならず二度までも裏切った高広を許し、さらには関東経営の生命線である厩橋城の守りを任せ続けたのか。この問いの答えは、後世の武士道的な主従観とは異なる、戦国時代特有の現実的な力学の中に見出すことができる。当時の大名にとって、家臣の価値を測る最大の尺度は、忠誠心以上にその「能力」であった。特に、敵地深くで独立して方面軍を指揮し、後北条氏や武田氏といった強敵と渡り合えるだけの器量を持つ武将は、上杉家中でも極めて限られていた。高広の軍事的能力は、その忠誠心の欠如を補って余りあるほど貴重だったのである。戦国時代において、能力さえあれば裏切り者でも再登用される例は松永久秀など他家にも見られ、大名たちは常に「忠誠」と「能力」を天秤にかけながら、実利的な判断で家臣団を運営していた 36 。謙信が高広を使い続けたことは、義を重んじるとされる彼でさえ、現実には能力を優先せざるを得ない局面があったことを示しており、戦国時代の主従関係の多層性を理解する上で極めて重要な事例と言える。

謙信没後の動乱と没落

高広の運命が決定的に暗転するのは、天正6年(1578年)の主君・上杉謙信の死であった。謙信の後継者を巡って養子の上杉景勝と上杉景虎(北条氏政の実弟)が争った「御館の乱」が勃発すると、高広は景虎方に与して景勝方と戦った 16 。これは景虎の実家である後北条氏との連携を意識した選択であったが、結果的に景虎方が敗北。この内乱で嫡男の景広は戦死し、高広自身も越後における本拠地を完全に失ってしまう 16 。上杉家中の後ろ盾を失った高広は、孤立した状態で厩橋城へと帰還する。もはや彼に残された道は、周辺の大勢力に臣従することで、在地領主として生き残りを図ることだけであった。

第四章:三国鼎立の坩堝 ― 上杉・北条・武田の激突

永禄期の攻防と勢力図の変動

北条高広が城代を務めた永禄年間、厩橋城は上杉・北条・武田の三大勢力が激突する最前線となった。この城の帰属は、三国間の同盟と敵対の関係性を映し出す鏡であり、その支配者の交代は、関東全体の戦略的枠組みの変動を意味していた。

永禄6年(1563年)、武田信玄と北条氏康は甲相同盟に基づき連合軍を形成し、上杉方の厩橋城を攻撃、これを一時的に陥落させた 8 。しかし、上杉謙信は間髪入れずに反撃し城を奪還、この際に北条高広を新たな城代として配置したとされる 17 。この一連の攻防は、厩橋城が三国間のパワーバランスを決定づける係争地であったことを象徴している。

さらに永禄10年(1567年)、城代・北条高広が後北条氏へ内応したことに呼応し、北条・武田の両軍が再び厩橋城に迫った。この戦いでは城下町が焼き払われるほどの激戦となり、当時の町の中心であった天川原、六供方面が大きな被害を受けたと記録されている 3 。この時期、厩橋城と利根川対岸の石倉城は、三国間の勢力が文字通り川を挟んで睨み合う最前線と化していた 40

謙信没後の権力真空と支配者の交代

天正6年(1578年)の上杉謙信の急死と、それに続く御館の乱は、関東における勢力図を一変させた。この内乱によって上杉氏の国力は著しく疲弊し、関東への影響力は決定的に低下した 18 。この権力の真空状態を好機と捉えたのが、甲斐の武田勝頼と相模の北条氏政であった。

武田勝頼は、御館の乱で上杉景勝を支援した見返りとして、上野国における支配権の割譲を約束させていた 18 。これにより、武田氏は上野国への影響力を強め、天正7年(1579年)には、後ろ盾を失っていた厩橋城の北条高広を降伏させ、城をその支配下に置いた 19 。しかし、この武田氏の支配も長くは続かなかった。御館の乱を巡る対応で武田氏と北条氏の甲相同盟は破綻しており、両者は敵対関係にあった 18 。武田氏の勢力伸長は、後北条氏にとって新たな脅威となったのである。そして、この複雑な関係性が解消されるのは、外部からの強大な力、すなわち織田信長の登場によってであった。

第五章:束の間の覇権と大動乱 ― 織田政権と天正壬午の乱

滝川一益の入城と織田政権の関東支配

天正10年(1582年)3月、織田信長の甲州征伐によって武田氏が滅亡すると、関東の政治情勢は再び激変する。信長は、武田氏の旧領である上野一国と信濃二郡を重臣・滝川一益に与え、厩橋城に入城させた 3 。一益に与えられた地位は、単なる一国の大名ではなかった。彼は「関東管領」またはそれに準ずる「関東御取次役」に任じられ、厩橋城を拠点として、後北条氏を含む関東の諸大名を統括し、織田政権の秩序下に組み込むという重責を担っていたのである 9

一益は厩橋城に関東の諸将を招いて能興行を催すなど、文化的な威光を示しつつ、精力的に領国支配を進めた 44 。一見すると、信長の絶対的な権威を背景とした一益の支配は順調に進んでいるように見えた。しかし、この中央政権による支配は、信長個人の武威に依存した極めて脆いものであった。関東の在地勢力は、表面上は服従しつつも、その実、中央の動向を注視していたのである。

本能寺の変と神流川の戦い

同年6月2日、京都で本能寺の変が勃発し、織田信長が横死した。この報は、関東で孤立していた滝川一益の立場を一夜にして覆した 5 。信長という絶対的な「重し」が失われた瞬間、関東の地域力学は一気に噴出した。この機を逃さなかったのが、後北条氏当主の北条氏直である。氏直はただちに5万とも言われる大軍を動員し、上野国へ侵攻した 31

一益は厩橋城に兵を集め、約1万8千の軍勢を率いてこれを迎え撃った。両軍は上野国と武蔵国の国境を流れる神流川で激突する(神流川の戦い)。兵力で劣る滝川軍は奮戦するも、地の利と動員力で勝る北条軍の前に大敗を喫した 3 。敗れた一益は、命からがら厩橋城へ退却するが、もはや上野国を維持することは不可能であった 49 。彼は城を放棄し、少数の供回りと共に本国の伊勢長島城へと敗走した 50 。これにより、織田政権によるわずか3ヶ月の関東支配は、あまりにもあっけなく幕を閉じた。厩橋城は、信長の「天下統一」構想が関東に及んだ最前線であり、そしてその構想が崩壊した象徴的な場所となったのである。

天正壬午の乱と後北条氏の支配確立

滝川一益の撤退により、上野・信濃・甲斐の広大な旧武田領は権力の空白地帯となり、この地を巡って徳川家康、上杉景勝、そして後北条氏が激しく争う大動乱、いわゆる「天正壬午の乱」が勃発した。

この乱において、後北条氏は神流川の戦いでの決定的勝利によって、まず上野国における主導権を完全に掌握した 23 。かつて上杉氏の城代であった北条高広も、この時点で後北条氏に服属している 48 。厩橋城は名実ともに後北条氏の関東における北方支配の拠点となり、ここを足掛かりとして信濃への侵攻が試みられた 22 。この結果、上杉謙信の時代から断続的に続いていた上杉氏の上野国における影響力はほぼ一掃され、小田原征伐までの約8年間、厩橋城は後北条氏の支配下に置かれることとなった。

第六章:戦国の終焉と新たな支配者 ― 豊臣政権から徳川の世へ

小田原征伐と落城

天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、関東に覇を唱える後北条氏を討伐するため、20万を超える大軍を動員した(小田原征伐)。秀吉は軍を複数の方面に分け、小田原城を包囲すると同時に、関東各地にある北条方の支城を次々と攻略していった。

厩橋城もその例外ではなかった。前田利家や浅野長政らが率いる北国方面軍が上野国へ進攻し、4月20日に松井田城を落とすと、その勢いのまま厩橋城にも迫った。そして4月24日までに、厩橋城は豊臣方によって攻略され、落城した 10 。これにより、天正壬午の乱以来、約8年間にわたって続いた後北条氏による支配は終わりを告げ、厩橋城の戦国史は最終局面を迎えることとなる。

徳川家康の関東入府と新たな支配体制

小田原の後北条氏が降伏すると、秀吉は徳川家康に対し、東海地方の旧領に代わって北条氏の旧領である関八州への移封を命じた。これは、家康の力を削ぐと同時に、広大だが未だ安定しない関東の統治を任せるという、秀吉の巧みな戦略であった。

家康は江戸を新たな本拠地と定め、広大な関東の要所に信頼の置ける譜代の家臣を配置していった。かつて上杉、武田、北条が激しく争った戦略的要衝である厩橋城には、徳川十六神将の一人に数えられる重臣・平岩親吉を3万3千石で入封させた 3 。これは、単なる領地配分以上の意味を持つ配置であった。かつて宿敵たちが拠点とした「因縁の地」を、最も信頼できる腹心で固めることにより、過去の記憶を塗り替え、徳川による新たな秩序の確立を内外に強く示すための、極めて象徴的な政治的行為だったのである。

酒井重忠の入封と「前橋藩」の成立

関ヶ原の戦いを経て天下の実権を掌握した家康は、さらなる支配体制の強化を進める。慶長6年(1601年)、平岩親吉を甲府へ転封させると、その後任として、徳川氏と同祖とも言われる譜代筆頭の名門・酒井家の当主、酒井重忠を武蔵川越から3万3千石で厩橋城に入れた 2 。これをもって、近世大名としての厩橋藩(後の前橋藩)が正式に立藩された。

この時、家康は重忠に対し、「なんじに関東の華をとらせる」と述べたと伝えられている 3 。この言葉は、厩橋城が徳川政権下においても、江戸を守る北関東の抑えとして極めて重要な拠点と認識されていたことを明確に示している 2 。戦国時代を通じて争乱の象徴であったこの城は、徳川の威光の下、新たな時代の「華」として、近世の安定した治世の拠点へとその役割を変えていくことになった。ここに、厩橋城の戦国時代は名実ともに終焉を迎えたのである。

第七章:城郭の構造と変遷 ― 利根川と共に生きた要害

戦国期の縄張りと近世城郭への変貌

戦国期の厩橋城は、西に利根川が形成した数十メートルの断崖を天然の要害とし、東には広瀬川を外堀として利用した、防御に優れた平城であった 7 。その縄張り(城の設計)は、本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸が同心円状に広がる輪郭式、あるいは渦巻状に曲輪が続く渦郭式であったとされ、時代と共に水曲輪や金井曲輪といった区画が増設されていったと考えられる 8

戦国時代の終焉後、徳川の世となり前橋藩の藩庁となると、厩橋城はその姿を大きく変える。初代藩主・酒井重忠と、その子で大老も務めた二代・忠世の時代に、城は大規模な改修を受け、中世的な土の城から、石垣や櫓を備えた近世城郭へと変貌を遂げた 2 。この大改修により、城の総面積は15万坪余りに及び、本丸には三層三階の壮麗な天守閣が築かれた 2 。これにより厩橋城は、宇都宮城、川越城、忍城と並び「関東四名城」の一つに数えられるほどの威容を誇るに至った 2

「坂東太郎」の脅威と廃城

しかし、城の最大の防御線であった利根川は、皮肉にも城の命運を脅かす最大の脅威でもあった。暴れ川として知られる利根川は、江戸時代を通じて繰り返し洪水を引き起こし、その激しい流れは城の西側の断崖を絶えず浸食していった(川欠け) 2 。18世紀初頭には本丸西側の曲輪群が崩壊し、本丸御殿の移転を余儀なくされるなど、被害は深刻化の一途をたどった 3

度重なる水害は城の維持を困難にし、藩の財政を著しく圧迫した。寛延2年(1749年)、ついに藩主の酒井氏は幕府に願い出て播磨国姫路へ転封となる 5 。代わって姫路から入封した松平氏も、この利根川との闘いに苦しみ、わずか18年後の明和4年(1767年)、幕府の許可を得て居城を武蔵国川越へ移転した 1 。これにより、かつて「関東の華」と謳われた名城は、天守閣や大手門が取り壊され、ついに廃城となったのである 1

幕末の再築と終焉

廃城から約100年後の幕末、厩橋城は再び歴史の舞台に姿を現す。安政の開港以降、前橋領の特産品であった生糸の輸出が活況を呈し、経済的に豊かになった領民たちの間で、藩主の帰城と城の再建を望む声が高まった 55 。この熱意と資金を背景に、文久3年(1863年)に城の再築が開始され、慶応3年(1867年)に完成した 3

この再築された城は、旧三ノ丸を本丸とし、利根川の浸食を避けて東側へ後退した位置に築かれた 53 。天守は造られなかったものの、土塁の要所には砲台が設置されるなど、西洋の築城術を取り入れた近代的な城郭であった 3 。しかし、この日本最後の日本式城郭の歴史はあまりにも短かった。完成からわずか4年後の明治4年(1871年)、廃藩置県によって城は再び廃城となり、その建造物の多くは解体された 3 。厩橋城の構造史は、中世から近世、そして近代へと至る日本の城郭技術の変遷と、それを凌駕する自然の猛威との相克を物語る、稀有な事例と言えよう。

終章:厩橋城が物語る戦国関東史

上野国・厩橋城の歴史は、戦国時代後期の関東地方における権力闘争の縮図である。この城が半世紀にわたり争奪の的であり続けた理由は、本報告書で分析した通り、越後と関東平野を結ぶ地政学的な要衝であり、関東全域への軍事展開を支える兵站拠点としての機能、そして関東支配の正統性を象徴する政治的価値という、三つの要素が複合的に絡み合っていたからに他ならない。

特筆すべきは、厩橋城が特定の戦国大名の永続的な本拠地としてではなく、複数の勢力が絶えず交錯する「係争地」として関東の歴史を動かした点にある。その支配者の目まぐるしい変遷は、関東における大きな歴史の転換点と常に連動していた。上杉謙信の関東経営の拠点化とその頓挫、武田氏の滅亡と織田政権による束の間の支配、本能寺の変を契機とする後北条氏の版図拡大、そして豊臣政権による天下統一と徳川氏による新たな秩序の構築。これら戦国末期のダイナミックな歴史の潮流は、すべて厩橋城の支配権の移転という形で刻まれている。

最終的に、厩橋城の物語は、戦国の動乱がいかにして終焉を迎え、徳川の世の下で近世の安定した社会(前橋藩)へと移行していったのか、その壮大な歴史の過程を、一つの城というレンズを通して鮮やかに描き出している。利根川の流れに翻弄されながらも、関東の枢軸としてあり続けたこの城は、まさに戦国関東史そのものを体現する存在であったと言えるだろう。

引用文献

  1. 幻の名城 前橋城|特集 https://www.maebashi-cvb.com/feature/maebashi-jyo/maboroshi
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