古河城は関東の要衝。古河公方の本拠として享徳の乱から戦国を動かし、上杉・北条の争奪戦の舞台となった。江戸期には幕府の重要拠点となるも、明治期に河川改修で姿を消した巨城。
関東平野のほぼ中央、常陸、武蔵、上野、下野の四国が境を接する戦略的要地に、古河城は位置していた。この城は、単なる一地方の城郭に留まらず、室町時代後期から戦国時代にかけて、関東全体の政治と軍事の動向を左右する極めて重要な拠点であった。その歴史は、関東における戦国時代の幕開けから終焉、そして近世へと至る時代のうねりを色濃く映し出している。
古河城の名を歴史の表舞台に刻印したのは、室町幕府が関東統治のために設置した鎌倉府の長官、鎌倉公方の後継たる「古河公方」が本拠地としたことによる 1 。享徳の乱の最中、第5代鎌倉公方・足利成氏が幕府および関東管領上杉氏と袂を分かち、鎌倉を追われてこの地に移座したことで、古河城は「古河御所」とも呼ばれる関東の政治的中枢へと変貌を遂げた 2 。この出来事は、単に権力の中心が地理的に移動したことを意味するだけでなく、関東における既存の政治秩序が崩壊し、約30年にわたる大乱、すなわち「関東戦国時代」が本格的に幕を開けたことを告げる画期であった 4 。以後、古河城は関東における反幕府・反上杉勢力の象徴的な中心地として、その存在感を示し続けることとなる。
古河城が歴史の要衝となり得た背景には、その傑出した地理的条件がある。西に渡良瀬川、東に広大な湿地帯を擁する地形は、天然の要害をなし、防御拠点として極めて優れていた 6 。この河川網は、敵の侵攻を阻む自然の堀として機能しただけでなく、後には水運を利用した物流の幹線となり、城と城下町の経済的価値を飛躍的に高める要因ともなった 2 。さらに、関東の主要国が交錯する結節点に位置することから、諸勢力はこの地を制することが関東全体の覇権を握るための鍵であると認識していた 10 。
古河城の歴史的価値は、こうした不変の地理的優位性のみによって規定されるものではない。その価値は、時代ごとの政治的力学、すなわち「関係性」の中で常に再定義され続けた。足利成氏が「鎌倉公方の権威」を携えてこの地を選んだ瞬間、単なる地理的中心は「政治的首都」へと昇華した。やがて後北条氏と上杉氏が関東の覇権を争う時代になると、古河城はその最前線となり、支配の帰趨が関東の勢力図を象徴する「軍事的要衝」へと変貌した 12 。そして徳川の治世下では、江戸の北方防衛と将軍の日光社参を支える「国家的インフラ」の一部として、その役割を再び変えるのである 1 。したがって、古河城の興亡史を紐解くことは、地図上の位置関係だけでなく、関東の政治勢力図という関係性の地図の中で、この城が果たした役割の劇的な変遷を追うことに他ならない。
本報告書では、古河公方の誕生から滅亡、上杉・北条両氏による激しい争奪戦、江戸時代における近世城郭への変貌と城下町の発展、そして近代化の波の中で「失われた巨城」となるまでの全史を、多角的な視点から詳細に分析・叙述する。
古河城が関東の歴史において中心的な役割を担うようになるのは、15世紀半ば、関東全域を揺るがした大乱「享徳の乱」に端を発する。この章では、古河城の起源を概観した上で、初代古河公方・足利成氏がこの地を新たな本拠地とし、古河が一時的に「東国の都」として繁栄するに至った経緯を詳述する。
古河城の起源は、平安時代末期から鎌倉時代初期に遡るとされる。源頼朝に仕えた御家人・下河辺行平が、古河の地に館を築いたのがその始まりと伝わる 14 。ただし、この時期のものは、後世に見られるような大規模な城郭ではなく、在地領主の居館としての性格が強いものであったと考えられる 14 。室町時代に入ると、下河辺氏に代わって小山氏の勢力下に入るなど、地域の政治情勢に応じてその支配者は変遷していった 14 。この時点では、古河城はまだ関東の数多ある城館の一つに過ぎなかった。
古河城の運命を劇的に変えたのが、享徳3年(1454年)に勃発した享徳の乱である。この乱の背景には、鎌倉公方足利氏と、その補佐役である関東管領上杉氏との間に長年にわたって蓄積された根深い対立があった 4 。第5代鎌倉公方・足利成氏は、関東における主導権を巡って対立していた関東管領・上杉憲忠を自邸に呼び寄せ、謀殺するという挙に出た 5 。
この暴挙に対し、室町幕府は成氏討伐を決定。幕命を受けた今川範忠の軍勢が鎌倉に迫ると、成氏は本拠地を維持することを断念し、翌康正元年(1455年)、自らの御料所(直轄地)であった下総国古河へとその拠点を移した 3 。成氏が古河を選択したのは、単なる敗走ではなく、関東における新たな権力基盤を構築するための極めて戦略的な判断であった。古河は、上杉氏の本拠地である武蔵・上野から渡良瀬川という天然の要害によって隔てられており、防御に適していた 7 。同時に、自らを支持する勢力が強い北関東・東関東の諸将(下野の小山氏、下総の千葉氏など)に影響力を行使しやすい地理的中心でもあった 11 。
成氏は当初、古河市内の鴻巣地区にあった館(後の古河公方館)を居館としたが、ほどなくして下河辺氏以来の古河城を大規模に修築し、御座所(政庁兼居館)を移した 2 。これ以降、成氏は「古河公方」と称され、古河城は「古河御所」とも呼ばれる、鎌倉に代わる関東の新たな政治的中心地となったのである 1 。
成氏の古河移座により、関東は事実上二分されることとなった。利根川を境界線として、東国は古河公方陣営、西国は幕府が新たに派遣した堀越公方と関東管領上杉氏の陣営が支配し、約30年にも及ぶ泥沼の戦乱が続くことになる 5 。
この対立構造の中で、古河は公方を支持する関東の有力武士団が集結する一大拠点となった。成氏は、失われた鎌倉の権威と正統性を新たな本拠地である古河に移植するため、文化的な基盤整備にも力を注いだ。彼は鎌倉から数多くの寺社を古河に移転させ、あるいは新たに勧請したのである 7 。例えば、明応2年(1493年)には古河城の鬼門除けとして鎌倉の長谷観音を勧請して長谷寺を建立し、また鎌倉の鶴岡八幡宮を城内に勧請して八幡神社を創建した 7 。これらの事業は、単に宗教的な信仰心の発露に留まらず、古河が鎌倉の正統な後継地であることを内外に示す、高度な政治的意図に基づいていた。これにより、古河は軍事拠点としてだけでなく、文化・精神的な中心地としての性格も帯び、さながら「東国の都」の様相を呈するに至ったのである。
初代古河公方・足利成氏が築き上げた権威は、関東における一種の秩序を形成したが、その基盤は決して盤石ではなかった。成氏の死後、公方家内部で発生した対立と、伊豆・相模から急速に勢力を拡大した新興勢力・後北条氏の台頭は、古河城と公方の運命を大きく揺るがしていく。本章では、権威の動揺とそれに乗じた外部勢力の介入が、いかにして古河城を新たな抗争の渦中へと引き込んでいったかを分析する。
成氏の跡を継いだ二代公方・足利政氏の時代、古河公方家は深刻な内紛に見舞われる。政氏とその嫡男・高基が、家督と政治の主導権を巡って激しく対立したのである(永正の乱) 21 。この父子の争いは、単なる一家の騒動に留まらなかった。当時、関東管領であった山内上杉家でも同様に家督争いが起きており、公方家の内紛はこれと複雑に連動し、関東の諸将を二つの陣営に分けて争わせる大規模な争乱へと発展した 21 。
この争いの中で、政氏は一時、高基方に古河城を奪われ、小山氏を頼って落ち延びた後、武蔵国久喜(現在の埼玉県久喜市)の甘棠院に隠居を余儀なくされるなど、公方の権威は地に堕ちた 23 。古河公方の権威の本質は、足利将軍家の分家という血筋の正統性にあり、その軍事力は必ずしも強大ではなかった。諸将は公方を奉じることで自らの行動を正当化しており、公方家自体が分裂したことは、その権威が絶対的なものではないことを露呈させた。この内紛は、外部の有力者が公方家の問題に介入し、その権威を利用する絶好の機会を提供する結果となった。
時を同じくして、関東の政治地図を塗り替える存在が台頭する。伊勢宗瑞(北条早雲)を祖とする後北条氏である 26 。伊豆・相模を平定した北条氏は、武蔵国へと勢力を急拡大し、関東における一大勢力としての地位を確立しつつあった。
三代公方・高基の子、足利晴氏の代になると、北条氏綱は関東における自らの地位をさらに高めるための行動に出る。当時、古河公方家と対立していた分家の小弓公方・足利義明を、天文7年(1538年)の第一次国府台合戦で討ち取ったのである 28 。この戦功は、古河公方家にとって大きな恩義となった。これを契機に、北条氏と古河公方の関係は急速に接近し、翌天文8年(1539年)、氏綱の娘・芳春院が晴氏に嫁ぎ、強固な婚姻同盟が成立した 21 。これにより、新興勢力であった北条氏は「足利氏御一家」という伝統的な権威と高い格式を手に入れ、関東支配の正当性を補強することに成功した 29 。この時点では、北条氏は古河公方の権威を巧みに利用する戦略をとっていた。
しかし、この蜜月関係は長くは続かなかった。氏綱が没し、北条氏康が家督を継ぐと、関東の情勢は再び流動化する。関東管領・山内上杉憲政は、北条氏の勢力拡大を食い止めるため、古河公方・足利晴氏を擁し、扇谷上杉氏とも和睦して、関東の諸将を糾合した反北条大連合軍を結成した 28 。
天文15年(1456年)、約8万ともいわれる連合軍は、北条方の重要拠点である河越城を包囲した。しかし、氏康はわずか8千の兵を率いて奇襲を敢行し、油断していた連合軍を壊滅させた(河越夜戦) 30 。この歴史的な大敗北により、扇谷上杉氏は滅亡し、山内上杉氏と古河公方の軍事力は決定的に失墜した 30 。晴氏は命からがら古河城へと逃げ帰ったが 31 、舅である氏綱との盟約を破り、敵対したことで、義理の弟にあたる氏康の信頼を完全に失った。
この河越合戦の勝利によって、関東における軍事バランスは決定的に北条氏優位へと傾いた。圧倒的な軍事力を背景とした北条氏にとって、もはや古河公方の伝統的権威に頼る必要性は薄れ、むしろ自らの支配の障害とさえなり得る存在へと変わっていった。古河城と公方家は、自らの権威を支えるべき軍事力を失い、巨大な北条氏の圧力の前に、風前の灯火となるのである。
代数 |
氏名(よみ) |
在任期間(西暦) |
主要な出来事と古河城への影響 |
初代 |
足利 成氏(しげうじ) |
1455年 - 1497年 |
享徳の乱により鎌倉から古河へ移座。古河城を修築し「古河御所」として関東の政治拠点とする。 |
二代 |
足利 政氏(まさうじ) |
1497年 - 1512年頃 |
嫡男・高基との内紛(永正の乱)が勃発。一時期、古河城を追われ、公方の権威が大きく動揺する。 |
三代 |
足利 高基(たかもと) |
1512年頃 - 1535年 |
父・政氏との抗争に勝利し公方となる。後北条氏の台頭という新たな脅威に直面する。 |
四代 |
足利 晴氏(はるうじ) |
1535年 - 1552年 |
北条氏綱の娘を娶り同盟を結ぶが、後に離反。河越合戦で大敗し、北条氏による介入を招く。 |
五代 |
足利 義氏(よしうじ) |
1552年 - 1582年 |
北条氏康の甥。北条氏の傀儡として擁立される。嗣子なく死去し、古河公方家は事実上断絶する。 |
河越合戦での決定的勝利を経て、関東における覇権をほぼ手中に収めた北条氏康は、古河公方家が依然として保持する伝統的権威を完全に自らの支配下に置くための最終段階へと移行する。本章では、天文23年(1554年)の古河城陥落という、古河公方の歴史における転換点を中心に、城の武力制圧から公方家の完全な傀儡化、そして事実上の滅亡に至るまでの詳細な経緯を追う。
河越合戦後、北条氏との関係が抜き差しならないものとなった四代公方・足利晴氏は、北条氏からの圧力を排し、公方家の自立を回復しようと試みた。その象徴的な動きが、後継者問題であった。晴氏には、北条氏綱の娘・芳春院との間に生まれた梅千代王丸(後の義氏)と、公方家重臣・簗田氏の娘との間に生まれた嫡男・藤氏がいた 28 。晴氏は、北条の血を引く義氏ではなく、正統な嫡男である藤氏に家督を継がせようと画策したのである。
この動きは、古河公方の権威を自らの支配の道具と見なす北条氏康にとって、到底容認できるものではなかった。公方家が反北条の旗印となることを未然に防ぐため、氏康は迅速かつ断固たる行動に出る。天文23年(1554年)、氏康は大軍を率いて古河城へと侵攻した 28 。晴氏と藤氏の父子は、家臣団と共に古河城に籠城して抵抗を試みたが、準備不足は否めず、圧倒的な北条軍の前に敗北を喫した 28 。関東の政治的中枢であった古河城は、ここに陥落した。
この一連の出来事は、単なる城の争奪戦ではない。それは、北条氏による「関東の伝統的秩序の破壊と再編」という、より大きな政治的構想の象 "
"徴的事件であった。氏康の目的は、古河城という物理的な拠点を奪うこと以上に、古河公方という「権威の器」そのものを破壊するのではなく、その「中身」を自らにとって都合の良いものに入れ替えることにあった。正統な後継者である藤氏を排除し、自らの血統である義氏を挿入することで、公方の権威を未来永劫にわたって支配下に置こうとしたのである。これは、室町幕府が作り上げた「鎌倉公方―関東管領」という関東の統治体制を、北条氏が頂点に立つ新たな体制へと力ずくで書き換える、事実上のクーデターであった。
城の陥落後、降伏した足利晴氏の処遇は過酷なものであった。彼は相模国秦野(現在の神奈川県秦野市)へと送られ、幽閉の身となった 31 。そして、公方の地位は、北条氏康の強い圧力のもと、氏康の甥にあたる梅千代王丸(足利義氏)に強制的に譲渡させられた 31 。正統な嫡男であった藤氏は廃嫡され、古河公方家は名実ともに関東管領を自称する北条氏の完全な支配下に置かれることとなった。
晴氏と藤氏の親子は、その後も抵抗の意志を捨てなかった。一度は隙を見て古河城に立てこもることに成功するが、再び北条軍に攻められ、晴氏は栗橋城に、藤氏は安房の里見氏のもとへと逃れるなど、流転の末路を辿った 2 。
北条氏によって擁立された五代公方・足利義氏は、その生涯を通じて北条氏の庇護と監視のもと、名目上の権威を維持するだけの存在であった。その居城も、古河城ではなく、公方家重臣であった簗田氏の関宿城とされるなど、かつての公方が持っていたような独立性は完全に失われていた 2 。
そして天正10年(1582年)、義氏は後継者となる男子がないまま死去した 35 。これにより、初代・成氏が鎌倉から古河の地に関東の新たな火種を移してから約130年間続いた古河公方家は、事実上、その血筋が断絶した。歴史の舞台に残されたのは、義氏の一人娘である足利氏姫ただ一人であった 35 。古河城は主を失い、関東の政治地図は新たな時代の到来を待つこととなる。
古河公方が北条氏の傀儡と化し、その権威が名ばかりのものとなった関東に、新たな風が吹き込む。越後の「龍」長尾景虎、後の上杉謙信である。北条氏に追われた関東管領・上杉憲政を奉じ、関東の旧秩序回復を大義名分として幾度となく関東へ出兵した謙信にとって、古河城は単なる軍事拠点以上の、極めて重要な象徴的価値を持つ場所であった。本章では、謙信の壮大な構想と、それに翻弄される古河城の運命を追う。
北条氏の圧迫に耐えかねた上杉憲政や、反北条を掲げる関東の諸将からの救援要請に応え、永禄3年(1560年)、長尾景虎(謙信)は三国峠を越えて関東平野に進出した 32 。この動きに、古河公方家の旧臣たちは鋭敏に反応した。特に、公方家で重きをなした簗田晴助は、北条氏への反旗を翻し、謙信に呼応した 37 。
永禄4年(1561年)、簗田晴助は、北条氏によって廃嫡されていた足利藤氏を正統な古河公方として古河城に迎え入れた 34 。これにより、北条方が擁立する足利義氏は関宿城からさらに南へと退避を余儀なくされ、古河城は再び反北条勢力の手に渡った 37 。
謙信の狙いは、単に北条氏の領土を削ることだけではなかった。彼は、自らの軍事行動を、関東の秩序を乱す北条氏を討伐する「公戦」として正当化しようとした。そのための壮大な政治的演出の舞台として選ばれたのが、古河城であった。
小田原城を包囲して北条氏康を追い詰めた後、謙信は古河城に、自らが擁立した「正統な古河公方」足利藤氏、北条氏に追われた「正統な関東管領」上杉憲政、そして朝廷の最高権威を象徴する関白・近衛前久という、関東における権威の三者を結集させた 13 。これは、古河を名実ともに関東の「首府」と位置づけ、自らがその秩序の回復者であることを天下に示す、極めて高度な政治戦略であった 13 。北条氏が公方の「血統」を支配することで権威を乗っ取ろうとしたのに対し、謙信は公方の「地位と場所」を確保することで権威を掌握しようとしたのである。古河城は、この謙信の構想の核となるべき場所であった。
しかし、この「関東の首府」構想は、あまりにも儚く潰えることとなる。謙信が越後へ軍を引くと、息を吹き返した北条氏はただちに反撃を開始。日和見をしていた関東の諸将も、次々と北条方へと寝返っていった 13 。
翌永禄5年(1562年)、北条軍の攻撃により古河城は再び陥落。足利藤氏は捕らえられ、伊豆へと幽閉された末にその生涯を終えた 32 。上杉憲政らは古河城を脱出し、上野国の厩橋城へと逃れた 7 。謙信の壮大な構想は、わずか1年足らずで水泡に帰したのである 13 。
その後も、古河城は謙信が関東に出兵するたびに、上杉・北条両軍による激しい争奪の的となった 32 。その支配権の移り変わりは、まさに関東における両雄の勢力争いのバロメーターであった。長きにわたる抗争の末、元亀元年(1570年)に両者の間で越相同盟が成立すると、謙信も北条方が擁立する足利義氏を正統な古河公方として追認せざるを得なくなり、古河城を巡る争いは政治的な決着を見た 34 。
西暦(和暦) |
事件・合戦名 |
主要な当事者(勢力) |
結果と古河城への影響 |
1454年(享徳3年) |
享徳の乱 勃発 |
足利成氏 vs. 上杉氏・室町幕府 |
成氏が鎌倉を追われ、翌年古河に移座。古河城が「古河御所」となる。 |
1506年頃(永正3年頃) |
永正の乱 |
足利政氏 vs. 足利高基 |
公方家の内紛。政氏が一時古河城を追われ、公方の権威が失墜する。 |
1546年(天文15年) |
河越合戦(河越夜戦) |
北条氏康 vs. 上杉氏・足利晴氏連合軍 |
連合軍が大敗。晴氏は古河城へ敗走するも、北条氏との関係が決定的に悪化する。 |
1554年(天文23年) |
古河城の戦い |
北条氏康 vs. 足利晴氏・藤氏 |
北条軍の攻撃により古河城が陥落。晴氏は幽閉され、公方家は北条氏の傀儡となる。 |
1561年(永禄4年) |
上杉謙信の古河城入城 |
上杉謙信・足利藤氏 vs. 北条氏・足利義氏 |
謙信が藤氏を擁立し古河城を奪還。「関東の首府」構想の拠点となる。 |
1562年(永禄5年) |
北条氏による古河城奪還 |
北条氏 vs. 上杉氏 |
謙信の帰国後、北条氏が反攻し古河城を再奪取。藤氏は捕縛され、謙信の構想は頓挫する。 |
1590年(天正18年) |
小田原征伐 |
豊臣秀吉 vs. 後北条氏 |
北条氏が滅亡。古河公方の権威も完全に失墜し、古河城は徳川家康の支配下に入る。 |
戦国時代の動乱が豊臣秀吉による天下統一で終焉を迎えると、古河城もまた新たな時代を迎える。関東の覇権を争うための城から、徳川幕府の統治システムに組み込まれた近世城郭へと、その役割と姿を大きく変えていったのである。本章では、戦国時代の終焉から江戸時代にかけての古河城の変遷と、それに伴う城下町の発展について解説する。
天正18年(1590年)、秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅亡すると、その庇護下にあった古河公方の権威も完全に失墜した 3 。秀吉は、戦後処理の一環として、関東における足利氏の名跡を巧みに利用する。古河公方最後の当主・義氏の娘である氏姫と、かつて対立していた小弓公方の末裔・足利国朝を結婚させ、下野国喜連川に所領を与えて新たな家を創設させた 38 。これが、後に江戸時代を通じて特別な格式を認められる喜連川家の始まりである。この措置には、新たに関東に入封した徳川家康に対し、伝統的権威を持つ足利氏を配置することで牽制する狙いがあったとも言われている 6 。当の氏姫自身は、生涯を古河の鴻巣御所で過ごし、喜連川の地を踏むことはなかったと伝えられる 38 。
関東の新たな支配者となった徳川家康は、古河城を江戸の北方防衛、そして日光街道の要衝と位置づけ、譜代の重臣を城主として配置した 1 。慶長6年(1601年)の小笠原秀政の入封に始まり、松平(戸田)氏、奥平氏、永井氏、土井氏、堀田氏など、江戸時代を通じて11家もの有力譜代大名がめまぐるしく入れ替わりで城主を務めた 6 。特に、大老や老中といった幕閣の最高首脳を輩出した大名が多く含まれていることは、古河城がいかに幕府にとって重要な拠点と見なされていたかを物語っている 1 。戦国時代、独立した権力の拠点であった城は、徳川の治世下では、幕府の統治機構に組み込まれた行政・軍事拠点へとその性格を根本的に転換させたのである。
江戸時代に入ると、古河城は戦国の城から近世城郭へと大規模な改修が重ねられた。特に画期的だったのは、寛永10年(1633年)に16万石という最大の禄高で入封した大老・土井利勝による大改修である 6 。
利勝は、城郭全体を拡張整備し、本丸には天守の代用となる壮麗な「御三階櫓」を建造した 1 。これにより、城は南北約1.8キロメートル、東西約400~550メートルに及ぶ、関東でも有数の規模を誇る巨大城郭へと生まれ変わった 8 。
その縄張(設計)は、西の渡良瀬川を天然の外堀として最大限に活用し、本丸を中心に、二の丸、三の丸、観音寺曲輪、そして将軍の通行路となる御成道を守るための出城である諏訪曲輪などを巧みに配置した、連郭式の平城であった 6 。中でも、御成門と桜門の双方を見下ろすことができる「獅子ヶ崎」と呼ばれる土塁は、大砲が据えられたとも伝わる戦略的要地であった 43 。この完成期の姿は、正保元年(1644年)に幕府が作成させた「下総国古河城絵図」(正保城絵図)によって詳細に知ることができる 44 。
城郭の整備と並行して、城下町も大きく発展した。城の東側には五街道の一つである日光街道が整備され、古河城下は江戸・日本橋から数えて9番目の宿場「古河宿」として、多くの旅人や大名行列で賑わった 45 。
古河城は、徳川将軍が日光東照宮に参詣する「日光社参」の際、二泊目の宿泊城として利用されるという極めて重要な役割を担っていた 8 。将軍は街道沿いに設けられた御茶屋口から城内へと入ったとされ、城下には本陣や脇本陣も整備された 46 。また、渡良瀬川の水運も活発化し、年貢米や地域の産物を江戸へと運ぶための河岸が設けられ、物資の集散地としても大いに栄えた 9 。このように、江戸時代の古河は、城郭と宿場町、そして河川港が一体となった複合的な都市として、その繁栄を謳歌したのである。
在封期間 |
藩主家 |
主要な藩主 |
石高 |
主要な事績 |
1590年 - 1601年 |
小笠原氏 |
小笠原秀政 |
3万石 |
徳川家康の関東入封に伴い初代藩主となる。近世城郭としての整備を開始。 |
1602年 - 1612年 |
松平(戸田)氏 |
松平康長 |
2万石 |
観音寺曲輪や百間堀を築く 48 。 |
1619年 - 1622年 |
奥平氏 |
奥平忠昌 |
11万石 |
曲輪を拡張し、城下町を整備。古河市の基盤を築く 14 。 |
1633年 - 1681年 |
土井氏 |
土井利勝 |
16万石 |
大老。城の大改修を行い、本丸に御三階櫓を建造。城郭を最大規模に拡張 8 。 |
1681年 - 1685年 |
堀田氏 |
堀田正俊 |
13万石 |
大老。在任期間は短いが、幕閣の重鎮が城主を務めた。 |
1762年 - 1871年 |
土井氏 |
土井利里 ほか |
7万石 |
再び土井氏が入封し、幕末・明治維新まで8代にわたり古河を治める。 |
江戸時代を通じて関東の要衝として、また幕府の重要拠点としてその威容を誇った古河城は、明治維新という時代の大きな転換点において、その歴史的役割を終えることとなる。しかし、この城の終焉は、戦乱によるものではなかった。それは、「近代化」という、より静かで、しかし不可逆的な時代の要請によってもたらされたものであった。本章では、古河城がその姿を消すに至った悲劇的な経緯と、現代に残された僅かな痕跡、そして歴史遺産としての不朽の価値について論じ、本報告書の締めくくりとする。
明治6年(1873年)、新政府によって発布された「廃城令」は、全国の城郭の運命を決定づけた 49 。封建体制の象徴であった城は、中央集権的な近代国家を建設する上で不要と見なされ、その多くが取り壊しの対象となった。古河城も例外ではなく、翌明治7年(1874年)には、御三階櫓をはじめとする城内の壮麗な建造物はことごとく解体された 8 。
しかし、城の記憶が完全に失われたわけではなかった。取り壊された建造物の一部は民間に払い下げられ、形を変えて生き永らえた。その代表的な例が、市内の福法寺に山門として移築された二の丸の「乾門」や、商家「坂長」の蔵として現存する城内の文庫蔵・乾蔵である 8 。これらの移築遺構は、かつての古河城の姿を今に伝える貴重な証人となっている。
古河城にとって、廃城令以上に決定的な打撃となったのが、明治後期から大正、昭和にかけて断続的に行われた渡良瀬川の大規模な河川改修事業であった 2 。頻発する洪水を防ぎ、流域住民の生命と財産を守るという、近代国家の重要な責務を果たすためのこの公共事業は、古河城の中核部分を犠牲にした。
治水のために川の流路が大きく変更され、かつて本丸や二の丸、頼政曲輪などが存在した城の中心部は、根こそぎ削り取られて新たな堤防の土となり、広大な河川敷の下へと姿を消した 17 。戦国の数多の攻防戦を生き延びた巨城は、戦火によってではなく、行政命令と土木工事によって、その物理的な存在をほぼ完全に抹消されたのである。
現在、往時の古河城の広大な城域を偲ぶことができる遺構は、極めて限定的である。古河歴史博物館が建つ諏訪曲輪跡、頼政神社が移転されている観音寺曲輪の北端、そして獅子ヶ崎などに、断片的な土塁や堀跡がわずかに残るのみである 14 。渡良瀬川の堤防上には、寂しく「古河城本丸跡」と記された標柱が建てられており、かつての城の中心が現在のどこにあったかを静かに示している 15 。
物理的な遺構の多くは失われたが、科学的な調査によって往時の姿を解明する試みも続けられている。1982年に行われた赤外線写真による調査では、河川敷の下に御三階櫓の基礎部分の跡が確認された 1 。また、古河市教育委員会による発掘調査も行われており、その調査報告書は、失われた城の実像に迫るための貴重な学術資料となっている 55 。
物理的な城郭は失われたとしても、古河城が関東の歴史、特に戦国史において果たした役割の重要性が揺らぐことはない。古河公方の拠点として関東の政治を動かし、上杉・北条という二大勢力の角逐の舞台として時代の趨勢を左右したこの城は、まさに関東の動乱の中心にあり続けた 1 。その歴史は、中世的な権威が近世的な秩序へと移行していく時代のダイナミズムを象徴している。
古河城の消滅の物語は、日本の近代化が、過去の遺産を乗り越える形で進展したという側面を浮き彫りにする。失われたからこそ、その記憶を正しく継承し、後世に伝えていくことの重要性を、渡良瀬川のほとりに立つ我々に静かに問いかけている。古河城跡は、単なる歴史の舞台であるだけでなく、近代日本が何を選択し、何を失ってきたのかを物語る、雄弁な証人なのである。