吉田城は今川・松平・戸田氏の争奪の地。今川義元、酒井忠次が治め、池田輝政により近世城郭へ大改修。戦国時代の変遷を映す要衝。
戦国時代の三河国は、西に尾張の織田氏、東に駿河・遠江の今川氏という二大勢力の狭間に位置する、地政学的に極めて重要な緩衝地帯であった。国内に目を向ければ、安祥松平氏(後の徳川氏)をはじめとする国衆が群雄割拠し、複雑な勢力争いを繰り広げていた。このような情勢下において、東三河の支配権を確立することは、三河全域、ひいては東海地方の覇権を握る上で不可欠な戦略的課題であった。
この東三河の中心に位置し、その支配の鍵を握ったのが吉田城(よしだじょう)である。豊川の水運と、京と東国を結ぶ大動脈である東海道の陸運が交差する結節点に築かれたこの城は、軍事・経済の両面において比類なき価値を有していた 1 。吉田城を制する者は、東三河の物流と交通を掌握し、周辺国衆への影響力を絶大なものとすることができた。
本報告書は、この吉田城を主眼に置き、戦国時代という激動の約一世紀にわたるその歴史を徹底的に詳述するものである。築城から目まぐるしい城主の交代、今川氏による支配体制の確立、徳川家康の三河統一における役割、そして豊臣政権下での近世城郭への大改修に至るまで、その変転の軌跡を丹念に追う。吉田城の歴史は、単一の城の物語に非ず、三河国における勢力均衡の変遷を映し出す鏡であり、戦国時代の権力闘争と国家統一へのダイナミズムを凝縮した縮図に他ならない。
吉田城の歴史は、永正2年(1505年)、今橋城(いまはしじょう)としてその幕を開けた 2 。築城主は、宝飯郡長山一色城主であった牧野古白(まきのこはく、成時)である。彼は、駿河の戦国大名・今川氏親の命を受けて、豊川が入道ヶ淵に臨む strategic な丘陵地に城を築いた 4 。
この築城の背景には、今川氏の極めて高度な戦略的意図が存在した。当時の三河では、西三河の安祥城を拠点とする松平長親が急速に勢力を伸長しており、その東三河への進出は今川氏にとって看過できない脅威であった 4 。今橋城は、この松平氏の東進を阻むための防波堤としての役割を期待されていた。同時に、今橋城の築城は、渥美郡一帯で独自の勢力を築きつつあった国衆・戸田宗光への牽制という、もう一つの重要な目的を担っていた 4 。すなわち、今橋城は単なる防御拠点ではなく、松平氏と戸田氏という二正面の潜在的脅威に対応し、東三河における今川氏の支配権を確立するための、攻勢的な意図を持って打ち込まれた楔であった。
しかし、その誕生からして、吉田城は不安定な情勢の渦中にあった。築城の翌年である永正3年(1506年)には、戸田氏の攻撃を受けて早くも落城し、築城主の牧野古白は討死するという悲劇に見舞われる 6 。城主の座は戸田宣成へと移った。その後、大永2年(1522年)に古白の子である牧野信成が今川氏の支援を得て城を奪還し、この時に城の名を「今橋」から「吉田」へと改めたとされる 1 。この一連の出来事は、吉田城が特定の勢力下に安定して置かれるのではなく、地域の国衆間の力関係の変化によってその帰属が絶えず左右される、係争の最前線であったことを如実に物語っている。城主の変遷は、そのまま東三河における勢力均衡の変動を示す指標、すなわち一種の「バロメーター」として機能していたのである。
吉田城を巡る争奪戦は、享禄2年(1529年)に新たな局面を迎える。西三河から怒涛の勢いで進出してきた松平清康(徳川家康の祖父)が、吉田城を攻略したのである 4 。この戦いで城主の牧野信成は討ち取られ、松平勢は背水の陣で抵抗する牧野一族を打ち破った 6 。清康の武威は東三河を席巻し、在地国衆の戸田氏をも屈服させ、三河一国の支配権をほぼ手中に収めるという快挙を成し遂げた 4 。
だが、その栄光は長くは続かなかった。天文4年(1535年)、清康が家臣の謀反によって尾張守山で陣没する(守山の崩れ)と、松平氏の統制力は急速に瓦解する 4 。この権力の空白は、吉田城を再び不安定な状態へと引き戻した。松平氏の城番が撤退すると、牧野一族の成敏が城主となるが、それも束の間、天文6年(1537年)には戸田宣成がこれを追放して城を奪還するなど、城主は再び目まぐるしく交代した 4 。
この時期の牧野氏や戸田氏の動向は、戦国期の国衆が持つ二面性、すなわち大勢力への従属性と自らの生き残りをかけた自立性の交錯を象徴している。彼らはある時は今川氏の尖兵として動き、ある時は松平氏の威勢に屈服し、そして権力の空白が生まれれば自らの力で失地回復を図る。吉田城を巡る争いは、今川・松平という二大大名間の代理戦争という側面を持ちながら、同時に、地域の国衆が自らの存亡をかけて繰り広げた、主体的で熾烈な闘争の舞台でもあったのである。
表1:吉田城・戦国期主要城主(城代)変遷表
在城年代(和暦・西暦) |
城主/城代名 |
所属勢力 |
石高(判明分) |
主要な出来事・役割 |
永正2年(1505) |
牧野古白 |
今川氏 |
- |
今橋城として築城 |
永正3年(1506) |
戸田宣成 |
戸田氏 |
- |
牧野古白を討ち取り入城 |
大永2年(1522) |
牧野信成 |
今川氏 |
- |
城を奪還し「吉田城」と改名 |
享禄2年(1529) |
(松平氏城番) |
松平氏 |
- |
松平清康が攻略、牧野信成を討つ |
天文4年(1535) |
牧野成敏 |
牧野氏 |
- |
清康死後の混乱に乗じ城主となる |
天文6年(1537) |
戸田宣成 |
戸田氏 |
- |
牧野成敏を追い城を奪還 |
天文15年(1546) |
小原鎮実など |
今川氏 |
- |
今川義元が攻略、城代を派遣 |
永禄8年(1565) |
酒井忠次 |
徳川氏 |
- |
徳川家康が無血開城させ城主に任命 |
天正16年(1588) |
酒井家次 |
徳川氏 |
- |
忠次より家督を相続 |
天正18年(1590) |
池田輝政 |
豊臣氏 |
15万2千石 |
豊臣秀吉の命で入城、近世城郭へ大改修 |
松平氏の混乱と在地国衆の抗争が続く中、駿河・遠江の平定を成し遂げた今川義元は、満を持して三河への本格的な介入を開始する。天文15年(1546年)、義元は軍勢を派遣して吉田城を武力で攻略し、城主であった戸田宣成を討ち取った 7 。この出来事は、今川氏の東三河支配が、国衆を介した間接的な影響力行使から、拠点を直接掌握する段階へと大きく転換したことを示す画期であった。
義元は、吉田城の支配を確固たるものとするため、伊藤左近、そして後にその名を知られることになる小原鎮実(おはらしずざね)といった、駿河出身の譜代の重臣を城代として派遣した 4 。彼らは義元の代理人として吉田城に常駐し、軍事・行政の両面で絶大な権限を振るった。これにより、吉田城は単なる前線基地から、今川氏による東三河統治の中枢を担う政庁としての性格を帯びるようになる。この直接支配体制の確立は、吉田城の戦略的価値を飛躍的に高め、東三河における今川氏の覇権を決定的なものとした。
今川義元の統治手法は、単なる武力による圧政ではなかった。彼は、在地社会の構造を深く理解し、巧みな懐柔策を駆使して国衆の掌握に努めた。義元に協力し、その支配下に入った本多氏、西郷氏、戸田氏といった東三河の在地土豪(国衆)に対しては、彼らが従来から有していた所領の領有権を公式に認める「所領安堵」を行ったり、恩賞を与えたりした 10 。これは、国衆たちの既得権益を尊重することで彼らの不満を和らげ、今川氏の統治体制へと円滑に組み込むための、極めて高度な政治的配慮であった。吉田城に置かれた城代は、これらの国衆たちを統括し、今川氏への忠誠を確保するという重要な役割を担っていた 4 。
この今川氏の支配体制は、吉田城という「拠点」と、その支配下にある国衆たちの「ネットワーク」を組み合わせた、複合的なモデルであったと分析できる。城代が軍事・行政の中核を担う「拠点支配」を確立する一方で、広大な東三河の隅々までは、在地を熟知した国衆たちの既存の支配網を利用する「ネットワーク支配」に委ねたのである。吉田城の城代は、この国衆ネットワークを束ねるハブとして機能し、両者を組み合わせることで、効率的かつ安定的な領国経営を実現した。
さらに、松平氏の弱体化に伴い、その本拠地である岡崎城までもが今川氏の実質的な支配下に置かれると、吉田城の戦略的重要性は一層増すことになった。吉田城は、岡崎城を後方から支える兵站基地、そして西三河への影響力を維持するための支援拠点としての責務を負うことになったのである 4 。これにより、吉田城はもはや単なる東三河の拠点ではなく、今川氏の三河支配戦略全体を統括する「司令塔」へと、その機能を昇華させた。義元が社寺領の保護や社殿の造営を積極的に行い 10 、また伝馬制度を整備して交通網の円滑化を図るなど 10 、民政に意を注いだことも、軍事支配だけでなく民心を掌握することで統治の正統性を高めようとする、彼の総合的な大名としての器量を示している。
永禄3年(1560年)5月、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれるという衝撃的な事件は、東海地方の勢力図を一変させた 4 。絶対的な指導者を失った今川氏の権威は失墜し、その支配体制は急速に動揺し始める。この好機を逃さず、今川氏から独立を果たした松平元康(後の徳川家康)は、岡崎城を拠点に西三河の平定に着手。その勢いはやがて東三河にも及び、これまで今川氏に従っていた国衆たちも、次々と家康方へと寝返っていった 11 。吉田城を守る城代・小原鎮実も、本国からの支援が途絶え、孤立を深めていくことになる。
西三河の再統一と、国内の最大の危機であった三河一向一揆の鎮圧を成し遂げた家康は、永禄7年(1564年)から、三河統一の総仕上げとして東三河への本格的な侵攻を開始した 11 。その最大の目標は、今川方の最後の拠点である吉田城の攻略であった。この重要な任務を託されたのが、徳川四天王の筆頭であり、家康が最も信頼を寄せる重臣・酒井忠次(さかいただつぐ)であった 16 。
忠次は、力攻めによる消耗戦を避け、巧みな調略を駆使して吉田城の孤立化を図った。既に牛久保の牧野氏や二連木の戸田氏といった周辺の有力国衆は家康に内通しており 11 、吉田城は完全に包囲された状態にあった。今川氏真からの援軍も絶望的であり、城兵の士気は低下の一途を辿っていた 7 。このような状況下で、忠次は小原鎮実に対し、降伏を促す交渉を粘り強く続けたと考えられる。
その結果、永禄8年(1565年)、小原鎮実はついに開城を決断し、城を明け渡して駿河へと退去した 4 。この一連の過程は、大規模な戦闘を伴わない「無血開城」であった 19 。この吉田城の無血開城は、単なる一つの城の攻略に留まらない。これは、徳川軍の兵力を温存し、三河統一を決定づけた、極めて戦略的な勝利であった 15 。この成功の背景には、武力による制圧だけでなく、敵の内部崩壊を誘う情報戦や交渉といった「政治工作」を重視する家康と、それを忠実に実行した忠次の手腕があった。これは、徳川家が後の天下取りの過程で幾度となく見せる、武力と調略を巧みに組み合わせた戦略の、まさに原型とも言えるものであった。この勝利により、三河から今川勢力は完全に一掃され、家康は次なる目標である遠江侵攻への確固たる足がかりを築いたのである 22 。
吉田城攻略における最大の功労者である酒井忠次は、家康からその功を賞され、吉田城主に任命された 1 。同時に、彼は東三河全域の国衆を統率する「旗頭」としての役割を委ねられる 21 。これは、家康の片腕とも称される忠次への絶大な信頼を示すと同時に、吉田城が徳川家の東三河支配における最重要拠点として位置づけられたことを意味していた 11 。
忠次に与えられた最大の任務は、昨日まで敵であった東三河の国衆たちを、いかにして徳川家の家臣団としてまとめ上げ、一つの軍団として機能させるか、という点にあった。彼らは独立性が高く、一筋縄ではいかない存在であったため、忠次という重石を吉田城に置くことで、彼らの結束を図り、統制下に置く必要があったのである。この意味で、忠次時代の吉田城は、その機能が「国衆統制拠点」へと特化されたと言える。
忠次の統治は、軍事面に留まらなかった。彼は民政にも卓越した手腕を発揮し、地域の発展に大きく貢献した。特筆すべきは、井堰を築いて用水路を整備したことであり、これは後に「松原用水」として発展し、現代において「世界かんがい施設遺産」に登録されるほどの偉業の基礎となった 1 。また、豊川(吉田川)に土橋を架けて交通の便を改善するなど、領民の生活向上にも努めた 1 。これらの民政は、領民の支持を得て国衆の支配基盤を安定させ、ひいては徳川家への忠誠心を高めるための、高度な統治術の一環であった。
さらに忠次は、城郭の防御能力向上にも着手した。発掘調査によって、忠次の時代に新たに堀が掘削されるなど、城の改修が行われたことが明らかになっている 18 。これは、北の甲斐国から勢力を南下させつつあった武田氏の脅威に備えるという、明確な戦略的意図に基づいていた。事実、元亀2年(1572年)には、南進してきた武田軍を吉田城下で迎撃し、その防衛に成功している 26 。忠次の統治下で、吉田城は対武田戦線の重要な拠点として、その真価を発揮したのである。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が完了し、天下統一が成ると、日本の権力地図は大きく塗り替えられた。秀吉は、最大の同盟者であり、同時に最大の潜在的脅威でもあった徳川家康を、東海地方の旧領から関東へと移封した 4 。そして、家康が去った後の東三河4郡、15万2千石の領主として吉田城に入城させたのが、秀吉子飼いの武将である池田輝政(いけだてるまさ)であった 4 。
この配置は、秀吉の巧みな天下戦略の一環であった。東海道の要衝である吉田に信頼できる腹心を置くことで、関東に移った家康を監視・牽制する狙いがあった 28 。さらに秀吉は、家康の娘である督姫(とくひめ)を輝政に嫁がせている 30 。これは、徳川家との融和を図る懐柔策であると同時に、督姫を人質として輝政の元に置くことで、家康の動向を縛ろうとする二重三重の深謀遠慮が込められた政略結婚であった。この瞬間、吉田城の歴史は、三河という地域(ローカル)の文脈から、秀吉の全国支配という日本全体(グローバル)の戦略地図の中に組み込まれるという、大きなパラダイムシフトを遂げたのである。
15万2千石という大領を与えられた輝政は、その石高にふさわしい拠点とするべく、吉田城の抜本的な大改修に着手した 1 。これは単なる修繕や増築ではない。それまでの土塁と堀を主体とした中世的な城郭から、高石垣を多用し、瓦葺きの壮麗な櫓を林立させ、広大な総構えを持つ「近世城郭」へと、城の概念そのものを変革する「城郭革命」であった 27 。
輝政は、本丸、二の丸、三の丸を計画的に配置し、城全体を堀と土塁で囲む総構えを導入した。その敷地は、総面積約84万平方メートルにも及ぶ壮大なものであった 4 。現在、復興された鉄櫓(くろがねやぐら)が建つ本丸北西隅の石垣は、この輝政時代に築かれたものとされ、自然石を巧みに組み合わせる「野面乱積み(のづららんづみ)」といった、当時の最新技術が用いられている 1 。
この大改修は、二重の目的を持っていた。第一に、対家康を想定した軍事要塞としての機能強化であることは言うまでもない 29 。しかし、それ以上に重要なのは、豊臣政権の圧倒的な権威と財力、そして技術力を、東海道を往来する人々や地域の旧徳川家臣たちに見せつけるための「権威の可視化」という目的であった。総石垣で固められた威圧的な城郭や、陽光を反射して輝く瓦葺きの櫓群は、支配者が交代したことを誰の目にも明らかにする、強力な視覚的装置であった。輝政は城だけでなく城下町も一体的に整備し、たびたび洪水で流失していた土橋を、より堅固で大規模な木造の吉田大橋(現在の豊橋という地名の由来)に架け替えるなど 1 、インフラ整備にも力を注ぎ、新たな支配者としての威信を示した。
池田輝政による大改修が、豊臣政権の公的な事業としての性格を帯びていたことを示す、決定的な物証が吉田城跡から出土している。それは、豊臣氏の正式な家紋である「桐紋(きりもん)」をあしらった鬼瓦である 1 。
当時、桐紋の使用は厳しく制限されており、大坂城や聚楽第、甲府城といった、豊臣政権が直轄する、あるいは戦略的に極めて重要と認めた一部の城郭にしか許されていなかった 1 。吉田城でこの桐紋瓦が発見されたという事実は、二つの重要な意味を持つ。一つは、池田輝政が秀吉から絶大な信頼を寄せられた有力大名であったことの証明である。そしてもう一つは、吉田城が単なる輝政個人の居城ではなく、豊臣政権の全国支配網における公式な戦略拠点として位置づけられていたことの証左である 1 。
輝政は、この吉田城での大規模な築城経験を糧として、関ヶ原の戦いの後に播磨姫路へと転封されると、その地で国宝であり世界遺産でもある壮麗な姫路城を築き上げた 1 。吉田城での経験が、後の「白鷺城」築城の礎となったことは疑いなく、その意味で吉田城は、輝政の築城家としてのキャリアの原点であり、姫路城のプロトタイプとも言える城であった 9 。
吉田城の縄張り(城郭の設計)は、その立地を最大限に活かした、極めて合理的なものであった。城の北側を豊川、東側を朝倉川という二つの河川が、天然の巨大な水堀として守りを固めている 3 。城の中枢である本丸は、この豊川に面した断崖の上に配置され、その前面(南側)と側面(西側)に二の丸、三の丸を階段状に配置する「半輪郭式」と呼ばれる形式を採用していた 3 。
このような、背後を川や崖などの自然の要害で固め、攻撃を正面に集中させる構造の城は、「後ろ堅固の城(うしろけんごのしろ)」と称される 3 。この縄張りは、敵の回り込みを許さず、防御を効率化できるという大きな利点を持っていた。歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』に、吉田大橋とともに川に面した城郭が描かれているのは、まさにこの吉田城の立地特性を捉えたものである 4 。
一方で、この構造には弱点も存在する。それは、川側から船などを使われた場合、本丸が直接攻撃に晒される危険性があることである 9 。この構造的弱点を補うため、本丸の北側(豊川側)には腰曲輪(こしぐるわ)と呼ばれる小規模な郭が設けられ、防御の縦深性を確保していた 3 。また、池田輝政による改修では、この川に面した側の石垣が特に高く、堅固に築かれており、防御機能の強化と同時に、川を行き交う人々に対する視覚的な威圧効果も狙っていたと考えられる 31 。
明治維新後に多くの建物が失われたものの、現在の豊橋公園として整備されている城跡には、戦国時代の息吹を伝える貴重な遺構が数多く残されている 24 。特に、本丸から二の丸にかけての石垣や土塁、そして広大な堀跡は、池田輝政時代に完成した近世城郭の姿を今に伝えている 3 。昭和29年(1954年)に、往時の姿を偲んで本丸北西隅に模擬復興された鉄櫓(くろがねやぐら)は、吉田城の象徴として親しまれている 2 。
近年の継続的な発掘調査により、文献資料だけでは知り得なかった城の実像が次々と明らかになっている。酒井忠次が城主であった時代に掘られたとみられる堀の跡が確認されたことは 18 、徳川時代にも城の改修が進められていたことを示す重要な発見である。また、江戸時代の武家屋敷があった区域からは、庭園の遺構なども見つかっており 35 、城内で暮らした武士たちの生活の一端を垣間見ることができる。
吉田城の石垣に残る謎として、「石垣刻印」の存在が挙げられる。城内の石垣には、様々な記号や文様が彫られた石が60個近く確認されている 24 。これらは、石垣普請の際に工事を分担した諸大名や家臣団が、自らの担当区域を示すために刻んだ印であると考えられている。一説には、名古屋城築城の際に余った石材を転用したため、そこに刻まれていた印が残っているとも言われており 9 、当時の大規模な築城工事の実態を知る上で、極めて貴重な手がかりとなっている。
しかし、これらの貴重な遺構も、長年の風雨に晒され、石垣の崩落の危険性が指摘されるなど、文化財としての保存には多くの課題を抱えている 31 。そのため、計画的な解体修復工事と、それに伴う学術的な発掘調査が継続的に行われており、吉田城の歴史の解明と後世への継承に向けた努力が続けられている 34 。
三河国吉田城の戦国時代における歴史は、その役割と姿を絶えず変転させ続けた、極めてダイナミックなものであった。永正2年(1505年)の築城当初は、今川・松平・戸田といった諸勢力が衝突する地域の係争地であった。やがて今川義元の支配下に入ると、東三河の国衆を束ねる「司令塔」として、領国経営の中枢を担う拠点へと変貌を遂げた。
永禄8年(1565年)、徳川家康による三河統一の過程で、吉田城は新たな転換点を迎える。酒井忠次という徳川家筆頭の重臣を城主として迎え、旧今川方の国衆たちを徳川家臣団へと再編・統制するための、政治的・軍事的な要衝となったのである。忠次の統治は、来るべき武田氏との決戦に備えるための軍事拠点化と、用水開発に代表される民政の安定化という、二つの側面を併せ持っていた。
そして天正18年(1590年)、豊臣秀吉の天下統一事業の一環として、池田輝政が入城するに及び、吉田城はその存在意義を根本から変える。関東の家康を睨むという全国的な戦略の中に組み込まれ、輝政の大改修によって、豊臣政権の権威と技術力を象徴する壮麗な近世城郭へと生まれ変わった。桐紋瓦の存在は、吉田城がもはや一地方の城ではなく、天下人の支配網に組み込まれた公式な戦略拠点であったことを雄弁に物語っている。
このように、吉田城の歴史は、単一の城の興亡史に留まるものではない。それは、在地国衆が自立と従属の間で揺れ動いた時代から、戦国大名による洗練された領国経営術が確立される時代へ、そして最終的には天下統一事業に伴い、城郭の機能が全国規模で再編されていくという、戦国時代そのものの大きな歴史の潮流を凝縮して体現している。特に、徳川氏を代表する酒井忠次と、豊臣氏を代表する池田輝政という二人の武将が、それぞれの時代の要請に応じて城に与えた影響は決定的であった。彼らの統治と改修を通じて、吉田城は戦国時代の画期を二度にわたって経験した、稀有な城郭として再評価されるべきであろう。