関東の要衝、唐沢山城は「難攻不落」と謳われた山城。佐野昌綱は上杉・北条の狭間で巧みに家名を存続。豊臣期に高石垣で強化されるも、徳川の世に廃城。今は史跡として往時を伝える。
下野国(現在の栃木県佐野市)に聳える唐沢山城は、単なる一地方の城郭ではない。それは戦国時代の関東平野における地政学的な要衝であり、日本の築城技術の変遷を体現する貴重な遺構であり、そして何よりも、小勢力が大国の狭間で生き抜くための知略と戦略が繰り広げられた歴史の舞台である。本報告書は、この唐沢山城の多面的な価値を、文献史学と考古学の両面から深く掘り下げ、その全体像を立体的に解き明かすことを目的とする。
唐沢山城は、古くからその堅固さと戦略的重要性が高く評価されてきた。江戸時代の地誌『管窺武鑑』においては、川越城、忍城、金山城などと並び「関東七名城」の一つに数えられている 1 。この栄誉は、後述する上杉謙信の度重なる攻撃を退けたという軍事的な実績のみならず、関東の政治史において果たした役割の大きさを物語るものである。
本報告書では、まず第一章で、平将門を討った英雄・藤原秀郷による築城という壮大な伝説の検証から筆を起こす。続く第二章では、「難攻不落」と謳われた城郭構造を、縄張り、関東では異例の高石垣、そして自然地形の巧みな利用という観点から詳細に分析する。第三章では、城の歴史が最も輝いた戦国時代に焦点を当て、城主・佐野昌綱が「越後の龍」上杉謙信と「相模の獅子」北条氏康という二大勢力の間でいかにして家名を存続させたか、その卓越した戦略を考察する。第四章では、豊臣政権、そして徳川政権という中央集権体制の確立期に、佐野氏と唐沢山城がどのように変容を遂げたかを追う。最後に第五章で、平和な時代の到来とともに訪れた山城の終焉と、国の史跡として現代にその価値を継承されるまでの軌跡を描き出す。これらを通じて、唐沢山城が持つ重層的な歴史的意義を明らかにしていく。
唐沢山城の起源を語る上で、避けては通れないのが、平安時代中期の英雄・藤原秀郷による築城伝説である。伝承によれば、秀郷は延長5年(927年)に従五位下・下野国押領使に任じられて関東に下向し、この唐沢山に城を築いたとされる 1 。さらに具体的な説として、天慶3年(940年)に平将門が起こした「天慶の乱」を平定した後、その功績によって築城が開始され、天慶5年(942年)に完成したとも伝えられている 1 。
この藤原秀郷という人物は、単なる武将に留まらない。彼は「俵藤太(たわらのとうた)」の異名で広く知られ、近江国三上山の巨大な百足(むかで)を退治したという「百足退治伝説」をはじめ、数多くの物語や絵巻物の主人公として、後世の民衆に絶大な人気を博した伝説的英雄である 8 。この超人的な英雄像が、関東屈指の名城と謳われた唐沢山城の創設者として結びつけられたことは、ある種の必然であったのかもしれない。
しかし、この壮大な築城伝説は、近年の学術的な調査研究によって、史実とは異なる可能性が極めて高いことが明らかになっている。佐野市教育委員会などが実施した発掘調査の成果や、出土した陶磁器などの遺物の年代分析に基づくと、唐沢山城が城郭として本格的に整備され始めたのは、早くとも15世紀後半、すなわち室町時代中期以降であるというのが現在の有力な学説である 8 。
これまでの調査において、秀郷が生きた10世紀(平安時代中期)に遡るような城郭の遺構や遺物は確認されておらず、伝説を裏付ける考古学的な証拠は皆無である 8 。したがって、藤原秀郷による築城は、歴史的事実というよりも、後世に創出された伝承と見なすのが妥当である。
では、なぜ史実とは異なる藤原秀郷の築城伝説が生まれ、長きにわたって語り継がれてきたのであろうか。その答えは、唐沢山城を代々の居城とした佐野氏の出自にある。佐野氏は、藤原秀郷の血を引く藤姓足利氏から分かれた一族であり、秀郷を自らの遠い祖先として仰いでいた 1 。
この事実は、伝説形成の動機を解き明かす上で決定的に重要である。戦国時代という実力主義の世にあって、各大名は自らの領地支配の正当性や家系の権威を内外に示す必要に迫られていた。特に、上杉・北条という二大勢力に挟まれた佐野氏のような中小規模の領主(国衆)にとって、自らの家格に箔をつけ、求心力を高めることは死活問題であった。
この状況を鑑みれば、佐野氏が自らの本拠地である唐沢山城と、一族の始祖である伝説的英雄・藤原秀郷を結びつけようとしたのは、極めて合理的な戦略であったと考えられる。城の起源を偉大な祖先に帰することで、その支配に歴史的な権威と物語性を付与し、領民や周辺勢力に対する自らの正統性をアピールしたのである。これは、城の物理的な防御力だけでなく、「物語」という見えざる力によって自らを固める、一種の政治的プロパガンダであった。唐沢山城の起源にまつわる言説は、単なる「伝説か史実か」という二元論に留まらない。それは、戦国武将が自らの権威を構築するために「歴史」や「物語」をいかに戦略的に利用したかを示す、日本の戦国時代における「ブランド戦略」の好例と言えるのである。
唐沢山城が「関東一の山城」と称され、上杉謙信の猛攻を幾度となく退けた背景には、その卓越した城郭構造がある。自然の地形を最大限に活用しつつ、時代の最先端技術を取り入れた防御システムは、まさに「難攻不落」の名にふさわしいものであった。
唐沢山城は、標高247メートルの唐沢山山頂に本丸を置き、そこから伸びる尾根筋に沿って主要な曲輪(くるわ)を配置した「連郭式山城」である 1 。本丸を中心に、二の丸、三の丸、南城、帯曲輪などが同心円状に、あるいは尾根伝いに連なるように築かれており、敵はこれらの曲輪を一つずつ攻略しなければ中枢部へは到達できない構造となっている 6 。
特筆すべきは、その規模の大きさである。城跡は山頂部だけでなく、山腹から山麓に広がる根小屋(ねごや)地区、すなわち城主や家臣たちが平時に生活した居館群までを含み、その総面積は2平方キロメートルを超える広大なものであった 13 。これは、山全体が一つの巨大な軍事要塞として機能していたことを示している。各曲輪は、本丸が城主の私的空間である奥御殿、三の丸が賓客の応接間、南城が蔵屋敷や武者詰所といったように、政務、居住、防衛拠点としての機能が想定され、有機的に配置されていた 21 。
唐沢山城の構造を語る上で最も象徴的な遺構が、本丸南西部に現存する壮麗な「高石垣」である 12 。高さは8メートルを超え、約40メートルにわたって延びるこの石垣は、土塁を主とした関東の山城の中では極めて異例の存在であり、見る者を圧倒する 6 。
この石垣は、自然の石を巧みに組み合わせた「野面積み」という技法で築かれており、虎口(こぐち、城の出入口)には権威の象徴とされる巨大な「鏡石」が用いられている 13 。これらの特徴は、安土桃山時代(織豊期)に西日本で発達した先進的な築城技術が用いられていることを示している。この技術導入の背景には、天正18年(1590年)の小田原征伐後、佐野氏が豊臣秀吉の支配下に入ったことがある。中央政権との強い結びつきによって、西国の技術者が動員され、この大改修が行われたと考えられている 6 。唐沢山城は、この高石垣の導入によって、単なる中世山城から、権威の象徴としての性格も併せ持つ近世城郭へと変貌を遂げたのである。
高石垣以外にも、唐沢山城には敵の侵攻を阻むための巧妙な仕掛けが随所に施されている。
唐沢山城の巧みな設計は、この土地が持つ地質的特徴を深く理解し、それを最大限に活用した結果でもあった。近年の調査により、唐沢山が非常に硬質な「チャート」と、比較的加工しやすい「砂岩」が混在する「付加体」と呼ばれる地質で構成されていることが判明している 25 。
城の築造者たちは、この地質の違いを巧みに使い分けた。硬く風化しにくいチャートは、天然の断崖絶壁(切岸)として防御に利用されたほか、城の西端にある「天狗岩」のように、関東平野を一望できる絶好の物見台として機能した 21 。また、前述の高石垣の材料としても、この堅牢なチャートが用いられている 25 。一方で、四つ目堀のような巨大な堀切や大炊の井は、意図的に加工しやすい砂岩の地層を選んで掘削されている 25 。これにより、最小限の労力で最大限の防御効果を生み出す、極めて合理的な設計が実現された。
このように、唐沢山城の堅固さは、単一の設計思想によるものではなく、中世的な土づくりの知恵と、近世的な石垣技術、そして土地の地質への深い洞察が融合した結果であった。時代ごとの軍事思想が地層のように積み重なったこの「ハイブリッド城郭」こそが、唐沢山城の構造的本質なのである。
防御施設 |
位置(推定) |
構造的特徴 |
戦術的役割 |
関連資料 |
高石垣 |
本丸南西部 |
高さ8m超、チャートの野面積み、織豊期の技術 |
物理的な登攀阻止、城主の権威の象徴 |
21 |
四つ目堀 |
西城と帯曲輪の間 |
幅約9mの巨大な堀切、元は曳橋 |
城郭中枢部への最終防衛線、敵兵力の分断 |
21 |
くい違い虎口 |
大手道(避来矢山と天狗岩の間) |
土塁を互い違いに配置し、直進を阻止 |
侵入速度の低下、側面攻撃の誘発 |
19 |
大炊の井 |
避来矢山と西城の間 |
口径9m、深さ8m超の巨大な井戸 |
長期籠城戦を可能にする生命線(水源確保) |
21 |
天狗岩 |
城の西端 |
天然のチャート岩山 |
広範囲の監視(物見)、遠距離攻撃拠点 |
21 |
唐沢山城の名声を不動のものとしたのは、戦国時代、城主・佐野昌綱が繰り広げた一連の防衛戦である。彼の生涯は、大国の狭間で翻弄されながらも、家の存続をかけて知略の限りを尽くした、戦国国衆の生き様そのものであった。
16世紀半ばの関東は、北から越後の「龍」・上杉謙信が関東管領の権威を掲げて南下し、南からは相模の「獅子」・北条氏康、氏政親子が勢力を北へ拡大するという、二大勢力が激しく衝突する最前線であった 1 。下野国西部に位置する佐野氏の領地と唐沢山城は、まさにこの両勢力の緩衝地帯にあり、その地政学的位置づけが佐野氏の運命を決定づけることになった 7 。
上杉謙信にとって唐沢山城は、関東平野へ進出するための足掛かりであり、親上杉派の佐竹氏ら北関東諸将との連携を保つ上で欠かせない戦略拠点であった 1 。一方の北条氏にとっては、北関東支配を確立するために排除しなければならない最大の障壁であった 26 。このため、唐沢山城は両者にとって文字通り「喉から手が出るほど欲しい」場所であり、佐野氏は常にどちらにつくかという究極の選択を迫られ続けたのである。
永禄年間から元亀年間にかけ、この唐沢山城をめぐり、上杉謙信と佐野昌綱の間で約10度にもわたる壮絶な攻防戦が繰り広げられた 28 。この一連の戦いは「唐沢山城の戦い」として知られている。
当初、昌綱は上杉謙信に与していた。永禄2年(1559年)には、北条氏政率いる3万5千の大軍に城を包囲されるが、謙信自らが寡兵を率いて救援に駆けつけ、北条軍を退けたという逸話も残されている(ただし、この戦いは後世の創作の可能性も指摘されている) 6 。
しかし、謙信が越後へ帰国すると、南から迫る北条氏の軍事的圧力は増大する。謙信の援軍が期待できない状況下で、昌綱は北条氏に降伏せざるを得なくなる 29 。すると今度は、この降伏を「裏切り」と見なした謙信が、大軍を率いて唐沢山城に攻め寄せる。昌綱は城の堅固さを頼りに徹底抗戦し、時には謙信を撃退することに成功するが 29 、形勢不利と見れば再び降伏し、謙信の軍門に下る。そして、謙信が去ればまた北条になびく、ということを繰り返したのである 33 。
この一見すると節操のない日和見的な行動は、現代的な価値観で断罪すべきではない。これは、絶対的な力を持たない小勢力が、大国の論理に飲み込まれずに家名を存続させるための、極めて現実的かつ合理的な生存戦略であった 26 。昌綱は、上杉謙信が冬になると三国峠の積雪によって越後への帰還を余儀なくされるという、地理的・季節的な制約を熟知していた 33 。彼はこの「時間」を味方につけ、降伏と離反を巧みに使い分けることで、滅亡の危機を何度も乗り越えたのである。彼の行動は、特定の主君への「忠誠」ではなく、自らの「家」と「領地」を守り抜くという、国衆としての責務への忠誠を最優先した結果であった。
この困難な時代を乗り切った佐野昌綱とは、いかなる人物だったのだろうか。史料には「幼年の頃より材智人に越え、勇力絶倫なり。成長の後、軍略に秀で…」と記されており、智勇兼備の武将であったことが窺える 35 。
彼の人物像を今に伝える貴重な資料として、佐野家歴代当主で唯一現存する肖像画(狩野松栄筆、策彦周良賛)がある 35 。そこに描かれた昌綱は、虎の皮の上に座り、ぎょろりとした鋭い眼光で斜め前を見据えている 36 。その姿は、下野の一地方領主という枠に収まらない、気骨と矜持に満ちた戦国武将の面影を雄弁に物語っている。
昌綱の戦略は、単なる受動的な生き残り術ではなかった。彼は「唐沢山城」という、誰にとっても価値の高い戦略的カードを常に手元に置いていた。そして、この城の価値を交渉材料に、上杉・北条双方に対して「自らの存在価値を高く売り込む」という、能動的な外交を展開していたと見ることもできる。謙信が、度重なる裏切りにもかかわらず昌綱を何度も助命したのは、唐沢山城の堅固さに手を焼いたという以上に、この城が宿敵・北条氏の手に渡ることの戦略的損失を重く見ていたからに他ならない。昌綱は、自らが置かれた地政学的な価値を正確に理解し、それを最大限に活用して大国間のパワーバランスを巧みに操った、稀代の戦略家だったのである 30 。
佐野昌綱の死後、佐野氏と唐沢山城は、戦国時代の終焉と天下統一という、日本の歴史における大きな転換期を迎える。この時代、佐野氏は巧みな政治判断によって再び家の存続を勝ち取り、唐沢山城もまた、新たな時代の要請に応えるべく大きな変貌を遂げた。
昌綱の子・佐野宗綱は父の路線を継ぎ、常陸の佐竹氏と結んで北条氏に対抗したが、天正13年(1585年)、北条方との戦いで若くして戦死してしまう 1 。嫡子を失った佐野家では後継者問題が勃発し、家臣団は親北条派と反北条派に分裂した。最終的に親北条派が主導権を握り、北条氏康の子である北条氏忠を宗綱の娘の婿養子として迎え、佐野家の家督を継がせた 1 。これにより、佐野氏は事実上、北条氏の支配下に組み込まれることになった。
この決定に強く反発したのが、昌綱の弟(宗綱の叔父)にあたる佐野房綱(出家して天徳寺宝衍と号す)であった。彼は佐野家を見限り、京に上って天下統一を進めていた豊臣秀吉に仕える道を選んだ 1 。この房綱の行動が、後に佐野家の運命を大きく左右する布石となったのである。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、20万を超える大軍を率いて小田原の北条氏を攻めた(小田原征伐)。この時、佐野房綱は豊臣軍の一員として故郷である下野国に進軍し、北条方の支配下にあった唐沢山城を接収するという大功を立てた 1 。
北条氏が滅亡した後、秀吉はこの房綱の功績を高く評価し、彼に佐野家の家督相続を認め、3万9千石の所領を安堵した 7 。これにより、北条氏と運命を共にし滅亡するはずだった佐野家は、土壇場で奇跡的な再興を遂げたのである。
再興を果たした佐野氏であったが、房綱には実子がいなかった。そこで秀吉の命により、豊臣家臣であった富田一白(知信)の子・信種が房綱の養子となり、佐野信吉と名乗って家督を継いだ 1 。信吉は秀吉から「吉」の一字と「豊臣」の姓を与えられるなど、佐野氏は北関東における豊臣恩顧の大名として、新たな地位を確立した 40 。
この豊臣政権との強い結びつきを背景に、唐沢山城は前代未聞の大規模改修を受けることになった。第二章で詳述した、関東では異例の壮麗な「高石垣」が築かれたのは、まさにこの時期である 7 。この改修は、単なる城の防御力強化に留まらない。それは、佐野氏がもはや地方の独立勢力(国衆)ではなく、中央集権体制に組み込まれた「近世大名」へと質的に変貌したことを天下に示す、政治的な象徴であった。高石垣は、軍事的な防御壁であると同時に、豊臣政権という新たな秩序への「参加証」であり、新時代の支配者への忠誠の証でもあったのだ。この改修は、城の役割が純粋な軍事拠点から、大名の格式や政治的立場を表現する「権威の象徴」へと変化していく、近世城郭への移行期の典型例と言える。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に天下分け目の「関ヶ原の戦い」が勃発すると、佐野信吉は東軍を率いる徳川家康に味方した 1 。この的確な情勢判断により、戦後、信吉は家康から所領を安堵され、佐野藩の初代藩主として徳川の世を生き抜くことに成功した。
豊臣恩顧の大名でありながら、なぜ信吉は家康についたのか。近年の研究では、佐野氏が豊臣政権下にあっても、比較的早い段階から徳川氏とも繋がりを構築していた可能性が指摘されている 41 。2024年に佐野市郷土博物館で開催された企画展では、所在不明だった佐野家資料群が初公開され、豊臣・徳川両氏からの発給文書の存在が確認された 42 。これは、佐野氏が上杉・北条の間で繰り広げた巧みな外交戦略を、時代の転換期においても再び発揮していたことを示唆している。
戦国の世を生き抜き、豊臣政権下で近世城郭へと生まれ変わった唐沢山城であったが、その栄光の歴史は、徳川による平和な時代の到来とともに、突如として幕を閉じることになった。
関ヶ原の戦いからわずか2年後の慶長7年(1602年)、佐野藩主・佐野信吉は、長年佐野氏の本拠地であった唐沢山城を放棄し、麓の春日岡に平城である「佐野城」を新たに築いて居城を移した 1 。これにより、藤原秀郷の伝説から数えれば約660年、実際の築城からでも100年以上にわたって下野国に君臨した名城・唐沢山城は、その歴史的役割を終え、廃城となった。
あれほど堅固で戦略的価値の高かった城が、なぜ平和の到来と同時にあっさりと放棄されたのか。その背景には、複数の理由が複雑に絡み合っていたと考えられる。
居城が佐野城に移った後、佐野氏は大久保長安事件に連座して改易されるが、後に旗本として家名は存続した 38 。一方、主を失った唐沢山城跡は、長い眠りにつく。
しかし、その歴史的価値が忘れ去られることはなかった。明治16年(1883年)、有志により本丸跡に、築城伝説の主である藤原秀郷を祀る「唐沢山神社」が創建された 1 。昭和30年(1955年)には栃木県立自然公園に指定され、広く県民に親しまれる場となった 1 。
そして平成26年(2014年)3月18日、山頂の城郭部から山麓の根小屋地区までを含む広大な範囲が、その歴史的価値を高く評価され、正式に国の史跡に指定された 1 。さらに平成29年(2017年)には「続日本100名城」にも選定され、全国の城郭愛好家が訪れる名所となっている 1 。
現在、唐沢山城跡は、往時の姿を伝える石垣や土塁、堀切などの遺構が良好に保存されており、歴史を偲ぶ史跡公園として、また、四季折々の自然や関東平野の眺望を楽しむ市民の憩いの場として、新たな命を吹き込まれている 22 。
本報告書を通じて詳述してきたように、唐沢山城の歴史は、単に「上杉謙信を退けた堅城」という一面的な評価に留まるものではない。その軌跡は、日本の歴史が中世から近世へと大きく移行していく時代のダイナミズムそのものを凝縮している。
藤原秀郷の築城伝説は、戦国の世を生きる武士が、自らの権威を確立するために「物語」をいかに戦略的に利用したかを示している。地形と地質を巧みに読み解き、土と石を駆使して築かれた「難攻不落」の縄張りは、中世山城の築城技術の一つの到達点であった。城主・佐野昌綱が二大勢力の間で見せた巧みな生存戦略は、大国の論理に翻弄される中小勢力のリアリズムと、戦国時代における「忠誠」という概念の多層性を我々に教えてくれる。
そして、豊臣政権下で導入された壮麗な高石垣は、唐沢山城が地方の軍事拠点から、中央集権体制下の近世大名の居城へと変貌を遂げたことの物理的な証である。しかし、その堅固さゆえに、徳川による新たな秩序の中では存在を許されず、平和の到来とともにその役目を終えた。城の最大の長所が、その存在を終わらせる最大の理由となったという皮肉な運命は、時代の価値観がいかに絶対的なものではないかを物語っている。
唐沢山城は、中世的な山城が、中央政権の動向に呼応して近世的な要素を取り込み、最終的に新しい時代の秩序の中でその役割を終えていくという、日本の城郭史における「移行期」の姿を、これほど鮮やかに体現している例は稀である。その歴史は、戦国乱世を生き抜いた佐野氏の知恵と苦悩の物語であり、同時に、日本の社会が大きく変容していく時代の縮図でもある。現代にその姿を残す城跡は、訪れる我々に対し、歴史の重層性と、時代の価値観の変化を今なお雄弁に語りかけているのである。