最終更新日 2025-08-19

坂本城

明智光秀が築きし幻の坂本城。信長の野望を映す湖上の要塞は、天主や総石垣など先進技術の粋を集めし壮麗な城郭なり。本能寺の変にて光秀と共に散りし悲劇の城は、今も琵琶湖の底に記憶を留めん。

幻の名城 坂本城 ― 明智光秀の栄光と悲劇、最新研究が解き明かす実像

序章:湖上の要塞、その歴史的価値

戦国時代の近江国、琵琶湖のほとりに、わずか15年という短い期間だけ存在した城があった。明智光秀が築いた坂本城である。この城は、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスがその著書『日本史』の中で、「信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にない」と記したほど、壮麗で名高い城であった 1 。この評価は、単なる美辞麗句ではない。坂本城が、当時の城郭技術、そして織田信長の天下布武における政治的象徴性において、安土城に比肩するほどの重要性を有していたことを示唆している。

しかし、その栄光とは裏腹に、坂本城は地上にその姿を留めていない。天正10年(1582年)の本能寺の変の後、城は戦火に包まれ、さらに天正14年(1586年)には豊臣秀吉の命により、その資材の多くが新たに築かれる大津城へと転用された 4 。建物はおろか石垣までもが持ち去られ、城下町ごと移転させられた結果、城の正確な位置や規模、構造を示す絵図一枚すら現存しない 6 。こうして坂本城は、後世の人々から「幻の城」と呼ばれるようになった 7

長らく謎に包まれてきたこの城の実像に、近年大きな光が当てられつつある。その原動力となっているのが、考古学の進展である。昭和期から続く陸上での発掘調査は、令和5年(2023年)に三の丸のものと推定される長大な石垣を発見するという画期的な成果を上げた 7 。また、琵琶湖が渇水するたびに湖底から姿を現す本丸石垣の調査は、水中考古学という新たなアプローチから城の構造に迫るものである 8 。これらの科学的調査によって得られた物証は、断片的であった文献史料の記述を補い、時に覆しながら、「幻」であった城の姿を我々の前に具体的に描き出し始めている。本報告書は、これらの最新知見を統合し、戦国史における坂本城の真の価値を再構築する試みである。

第一章:築城 ― 信長の野望と光秀の才幹

1.1. 元亀争乱と比叡山焼き討ち:坂本城誕生の政治的背景

坂本城の誕生は、戦国史上最も凄惨な事件の一つ、比叡山延暦寺の焼き討ちと分かちがたく結びついている。当時、天下統一を進める織田信長は、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政という強力な敵対勢力と激しい戦いを繰り広げていた。この「元亀争乱」と呼ばれる動乱の中で、延暦寺は浅井・朝倉連合軍に与し、信長に敵対する姿勢を鮮明にした 4 。再三の中立要求を拒絶された信長は、元亀2年(1571年)9月12日、ついに三万の兵をもって比叡山を包囲し、根本中堂をはじめとする山上の堂塔伽藍をことごとく焼き払った。

この徹底的な破壊行為の直後、信長は明智光秀に対し、焼き討ちにした延暦寺の監視と、その広大な寺領であった滋賀郡一帯の支配を命じ、その拠点として坂本に城を築くことを指令した 1 。これは単なる軍事拠点の建設に留まらない、極めて高度な政治的・思想的な意図を秘めた行為であった。すなわち、旧来の宗教的権威の象徴であった延暦寺を武力で完全に「破壊」したその麓に、織田政権という新たな世俗的権威を象徴する壮麗な城を「創造」すること。この一連の流れは、旧体制の終焉と、信長を中心とする新しい秩序の到来を、近江の地に暮らす人々に視覚的に、そして心理的に強く刻み込むための、壮大なパフォーマンスであったと言える。坂本城は、その新しい時代の物理的な楔(くさび)として、灰燼の中から産声を上げたのである。

1.2. 戦略拠点としての坂本:京の喉元と琵琶湖水運の掌握

信長が築城の地として坂本を選んだのは、その卓越した地政学的価値によるものである。坂本は古くから延暦寺および日吉大社の門前町として栄え、同時に琵琶湖水運の要衝として京都へ物資を送り込む港町としての機能も有していた 4 。この地に城を構えることには、三つの明確な戦略的意図があった。

第一に、前述の通り、反抗勢力の温床となりうる比叡山の監視である。麓に拠点を置くことで、延暦寺の再興や新たな武装化を物理的に抑制することができた。第二に、陸上交通の掌握である。坂本は京都と北国を結ぶ西近江路(北国海道)が通過する要地であり、ここを押さえることは京の喉元を扼(やく)することに等しかった 5 。第三に、そして最も重要なのが、琵琶湖の制海権の獲得である 14 。当時の琵琶湖は、物資や兵員を大量かつ迅速に輸送するための「高速道路」であり、湖上交通の支配は近江平定、ひいては天下統一の鍵を握っていた。坂本城は、後に信長が築く安土城、羽柴秀吉の長浜城、明智光秀が同じく担当した大溝城などと共に、琵琶湖を内海とする一大交通ネットワークの中核を担うべく計画されたのである 7

1.3. 城主・明智光秀:織田家臣団における破格の抜擢

この戦略的に極めて重要な坂本城の築城と統治を任されたのが、明智光秀であった。当時、織田家には柴田勝家や丹羽長秀といった歴戦の宿老たちがいたが、彼らに先駆けて、光秀は坂本城と共に近江国滋賀郡という領地を与えられ、「一国一城の主」となった 3 。これは、信長が旧来の序列よりも能力を重視する実力主義者であったことを示す象徴的な人事であり、光秀に対して寄せていた絶大な信頼の証左でもある。

光秀がこの大役に抜擢された背景には、彼の多岐にわたる才能があった。ルイス・フロイスは光秀を「築城について造詣がふかく、すぐれた建築手腕の持ち主」と評しており、坂本城の築城が、彼の技術者・プロデューサーとしての能力を存分に発揮する機会であったことを示唆している 3 。また、光秀は優れた統治者でもあった。彼は坂本城主として、比叡山焼き討ちの際に兵火を被った天台真盛宗総本山・西教寺の復興を支援した 15 。西教寺には現在も光秀とその一族の墓が残り、彼が単なる軍人ではなく、地域の安寧を図る領主としての一面を持っていたことを物語っている 15


表1:坂本城 関連年表

年代

出来事

【実働期間】

元亀2年(1571)

9月、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ち。直後、明智光秀に坂本城の築城を命じる 4

元亀3年(1572)

『兼見卿記』に「城中、天主の作事」との記述。安土城に先駆け天主が存在したことが確認される 3

天正8年(1580)

光秀、丹波平定。坂本城の改修を行う 5

天正10年(1582)

6月2日、本能寺の変。6月13日、山崎の戦いで光秀が敗死。6月15日、明智秀満が坂本城に火を放ち自刃、落城する 4

天正10年(1582)

焼失後、丹羽長秀により再建される 17

天正11年(1583)

城主が杉原家次、次いで浅野長政に変わる 4

天正14年(1586)

豊臣秀吉の命により大津城が築城され、坂本城は廃城となる。資材の多くが転用された 4

【再発見の期間】

昭和54年(1979)

宅地造成に伴う発掘調査で、本丸跡と推定される遺構(礎石建物、焼土層、瓦など)が発見される 1

昭和59年(1984)

琵琶湖の渇水により、初めて湖中の石垣が姿を現す 1

平成6年(1994)

琵琶湖の大渇水(水位-123cm)により、湖中石垣とそれを支える胴木が露わになる 6

令和5年(2023)

宅地造成に伴う発掘調査で、三の丸の外郭と推定される長さ約30mの石垣と堀が発見される 7

令和6年(2024)

2月、文化審議会が坂本城跡を国の史跡に指定するよう答申 1


第二章:城郭の構造 ― フロイスを驚嘆させた先進技術

坂本城がフロイスをして「豪壮華麗」と言わしめたのは、その規模や美しさだけでなく、当時の最先端技術が惜しみなく投入された、革新的な城郭であったからに他ならない。それは、後に信長が自身の理念の集大成として築く安土城の、ある種の技術的・意匠的な「実験場(プロトタイプ)」としての役割を担っていた可能性さえ考えられる。信長は、自らが構想する新しい時代の城の姿を、まず信頼する光秀に坂本の地で試作させ、その成果を安土城の設計に反映させたのではないだろうか。フロイスが両者を並び称したのは、その設計思想の連続性を鋭敏に感じ取っていたからかもしれない。

2.1. 縄張りの解明:湖に突出する本丸と連郭式の設計

近年の研究や発掘調査の成果から、坂本城の基本的な縄張り(曲輪の配置)が明らかになってきた。城は、本丸を琵琶湖に突き出すように配置し、そこから西(内陸側)へ向かって二の丸、三の丸と主要な曲輪が直線的に並ぶ「連郭式」と呼ばれる構造であったと推定されている 8 。この設計は、湖を天然の堀として利用する防御上の利点に加え、湖上からの兵員や物資の補給、あるいは籠城戦における脱出を容易にするという、水城ならではの機能性を最大限に高める意図があったと考えられる。安土城や長浜城といった信長の湖上ネットワークを構成する他の城郭との連携を常に意識した、極めて合理的な設計であった 7

2.2. 天主の謎:安土城に先駆けた「大天主・小天主」の存在

日本の城郭史において坂本城が持つ最も重要な意義の一つは、本格的な「天主(後の天守)」が、信長の安土城よりも早い段階で存在したことが文献上確認できる点である 20 。公家・吉田兼見の日記『兼見卿記』の元亀3年(1572年)12月22日の条には、「(坂本)城中、天主の作事」と明確に記されている 3 。これは、天正4年(1576年)に築城が開始される安土城に先立つこと約4年であり、坂本城が天主建築の黎明期を飾る城であったことを示している。

さらに、当時の文献史料からは、単一の天主ではなく、「大天主」と「小天主」という二つの天守状の建物が存在したことが示唆されている 8 。これがどのような配置であったかは不明だが、後の姫路城に見られるような、大小の天守を渡櫓で連結する「連立式天守」の原型であった可能性も指摘されている。権威の象徴としての高層建築という、信長が安土城で完成させる新しい城のコンセプトが、ここ坂本で既に試みられていたのである。

2.3. 総石垣と穴О衆:当時の最先端技術の集積

坂本城のもう一つの先進性は、城の主要部分が石垣で構築されていたことである 8 。坂本の地は、比叡山の麓にあり、良質な花崗岩が豊富に産出された。そして、この地は戦国時代の石垣普請を担った石工集団「穴О衆(あのうしゅう)」発祥の地としても知られている 8 。彼らは、自然石を巧みに組み合わせて堅固な石垣を築く「野面積み」の技術に長けていた。光秀は、この地元の専門家集団の技術を最大限に活用し、坂本城を当時としてはまだ珍しい総石垣に近い城として構築したと考えられる。

令和5年(2023年)に発見された三の丸の石垣は、その具体的な姿を今に伝えている。石材には比叡山系の花崗岩が用いられ、加工をほとんど施さない自然石を組み上げる野面積みで築かれていた 7 。石垣の中には、五輪塔や宝篋印塔といった石造物を転用した「転用石」も見られ、築城を急ぐ必要性や、旧来の権威を否定するという思想的な背景を窺わせる 7

2.4. 水城としての機能:舟入と湖中石垣の構築法

坂本城は、琵琶湖の水を防御と輸送に最大限活用した、典型的な「水城(みずじろ)」であった。城内には、船が直接乗り入れることができる「舟入(ふないり)」と呼ばれる港湾施設があったとされ、これにより大量の物資を効率的に城内へ搬入したり、兵員を迅速に湖上へ展開させたりすることが可能であった 8 。信長が安土城に滞在する際には、光秀が坂本城から船で直接参上したという記録も残っている 15

また、本丸が湖に突出していたため、その基礎となる石垣は湖中の軟弱な地盤の上に築く必要があった。これには極めて高度な土木技術が要求される。琵琶湖の渇水時に行われた水中考古学調査により、石垣の最下段(根石)の下に、「胴木(どうぎ)」と呼ばれる丸太を井桁状、あるいは筏状に組んで敷き詰め、その上に石を積んでいたことが確認されている 8 。この胴木は、石垣の自重を分散させて不同沈下を防ぎ、基礎を安定させるためのものであり、当時の日本の土木技術の高さを如実に示す証拠である 11

第三章:発掘調査が語る実像 ― 地下に眠る十五年の歴史

文献史料が乏しい坂本城の研究において、その実像を解明する上で決定的な役割を果たしてきたのが、昭和から令和にかけて断続的に行われてきた発掘調査である。これらの調査は、時に従来の定説を覆し、時に歴史の劇的な瞬間を我々の目の前に突きつける。坂本城の研究史は、まさに考古学という科学的アプローチがいかにして「幻」を具現化し、歴史像を塗り替えていくかを示す、スリリングな物語そのものである。当初、フロイスの記録や地名などから推定されていた「面」としての城郭像は、まず「点」(本丸)の発見によって裏付けられ、次いで矛盾する発見(城以前の遺構)によって一度揺らぎ、最終的に決定的な「線」(三の丸石垣)の発見によって、初めて科学的な全体像が確定するという、パラダイムシフトを経験したのである。


表2:坂本城跡 主要発掘調査の成果一覧

調査年度

調査場所(推定)

主な発見遺構・遺物

調査がもたらした歴史的意義・結論

昭和54年度(1979)

本丸(御殿・屋敷地)

・厚さ10-30cmの焼土層 ・礎石建物、石組井戸 ・鯱瓦を含む多量の瓦、陶磁器

明智秀満による自刃・放火の痕跡(焼土層)を検出し、落城の史実を裏付けた。壮麗な瓦葺建物が存在した本丸の一部であることを初めて物証によって確定した 1

平成6年度(1994)

本丸(湖中)

・湖中石垣の基底部 ・石垣を支える胴木

琵琶湖の大渇水に伴う緊急調査。軟弱地盤に石垣を築くための高度な土木技術(胴木)の存在を実証した 6

平成30年度(2018)

推定三の丸(西部)

・溝などの遺構 ・16世紀前半~半ばの遺物

出土遺物の年代が坂本城築城以前のものであった。従来の広大な城域推定に疑問を呈し、城の範囲がより小さい可能性を示唆した 6

令和元年度(2019)

推定三の丸(西部)

・方形石組などの遺構 ・水晶の加工関連資料 ・16世紀前半~半ばの遺物

平成30年度調査と同様、坂本城以前の町屋(玉作り工房など)の痕跡であった。城域の見直しを迫る決定的な証拠となった 6

令和5年度(2023)

三の丸(東部)

・長さ約30m、高さ1.5mの石垣と堀 ・16世紀後半の遺物(瓦の割合が低い)

坂本城三の丸の外郭(防御線)を初めて発見。城の南端が従来説より約100m内側にあることを確定し、長年の謎であった城の規模を科学的に明らかにした画期的な成果 7


3.1. 黎明期の調査(昭和54年):落城の瞬間と本丸の姿

坂本城の考古学的調査における最初の大きな一歩は、昭和54年(1979年)に宅地造成に先立って行われた発掘調査であった 6 。この調査で、地表下から厚さ10cmから30cmにも及ぶ焼土層が広範囲にわたって発見された 1 。これは、天正10年に明智秀満が城に火を放って自刃したという歴史的記述と完全に一致するものであり、落城の悲劇を生々しく物語る考古学的証拠であった。

さらに、この焼土層の下からは、建物の基礎となる礎石が規則的に並んだ礎石建物跡や、石で組まれた井戸の跡が検出された 6 。そして特筆すべきは、金箔を施した鯱瓦(しゃちがわら)の破片を含む、膨大な量の瓦が出土したことである 1 。これらの発見は、この場所が単なる防御施設ではなく、瓦葺きの壮麗な御殿か、あるいは城主の屋敷があった本丸の中心部であることを強く示唆するものであった。フロイスが記した「豪壮華麗な城」という評価が、初めて具体的な物証によって裏付けられた瞬間であった。

3.2. 想定を覆した発見(平成30年・令和元年):城域の見直し

昭和54年の調査以降、坂本城の全体像は、本丸跡の発見と、残された地名などから広大な範囲が推定されていた。しかし、平成30年(2018年)と令和元年(2019年)に、従来の推定三の丸の範囲内で行われた二度の発掘調査は、この定説に大きな揺さぶりをかけた 6

これらの調査で発見されたのは、溝や方形の石組みといった遺構であったが、問題はその年代であった。出土した土器や陶磁器を分析した結果、それらが16世紀前半から半ば、すなわち明智光秀による坂本城築城(1571年)よりも「以前」の時代の町屋の痕跡であることが判明したのである 6 。特に令和元年の調査では、水晶を加工していた工房跡とみられる遺構も見つかり、坂本が城の誕生以前から職人たちが暮らす活気ある町であったことが明らかになった 6 。これらの発見は、調査地が坂本城の城内ではない可能性を強く示唆するものであり、長年信じられてきた城の規模が、実際にはもっと小規模だったのではないかという、新たな研究課題を突きつけることになった。

3.3. 画期的な成果(令和5年):三の丸石垣の発見と城郭規模の確定

研究が一時的な混乱を見せる中、令和5年(2023年)に行われた発掘調査が、全ての謎を解き明かす決定的な発見をもたらした。調査地は、城以前の遺構が見つかった令和元年度調査地のすぐ東隣であった。ここで、調査区を南北に貫く、長さ約30m、現存する高さが最大1.5mにも及ぶ壮大な石垣と、その西側に広がる堀の跡が発見されたのである 7

この石垣と堀から出土した遺物は、16世紀後半のものであり、年代的に坂本城と一致した。そして、これが三の丸の外郭であると結論付ける決定的な証拠となったのが、出土遺物に占める瓦の割合であった。本丸跡の調査では大量の瓦が出土したのに対し、この堀からの出土遺物総数に占める瓦の割合はわずか2%に過ぎず、軒丸瓦や軒平瓦といった建物の装飾に用いられる瓦は一点も出土しなかった 6 。これは、この区画には瓦葺きの壮麗な建物がほとんどなく、主に防御を担う外郭であったことを示している。この発見により、坂本城の南端は従来の推定地よりも約100m琵琶湖側にあったことが科学的に確定し、長年の謎であった城の規模が初めて具体的に示されたのである 7

3.4. 湖底からの証言:水中考古学の挑戦

陸上の調査と並行して、坂本城の研究に新たな視点をもたらしているのが、湖底に残された遺構を対象とする水中考古学である。坂本城の本丸は湖に突出していたため、その石垣の一部は現在も湖底に眠っている。これらは、琵琶湖の水位が異常低下する渇水時(昭和59年、平成6年、令和3年、令和5年など)にのみ、その姿を現す 1

湖中の調査は、透明度が極めて低く、目視での確認が困難を極める 11 。しかし、潜水調査や音波探査などを駆使することで、前述した胴木の存在が確認されたほか、石垣の周辺からは、城主の生活を偲ばせる信楽焼や越前焼、瀬戸美濃焼などの陶磁器片や瓦が採集されている 11 。これらの調査は、まだ全容が解明されていない本丸の正確な湖岸線の構造や、城での生活様式を復元する上で不可欠な情報を秘めており、今後のさらなる成果が期待されている。

第四章:落城と終焉 ― 本能寺に散った夢の跡

栄華を誇った坂本城の歴史は、その主君である明智光秀の運命と共に、あまりにも唐突に、そして悲劇的に終焉を迎える。築城からわずか11年後、光秀が起こした本能寺の変は、彼自身と彼の一族、そして彼が心血を注いで築いた名城を、破滅の渦へと巻き込んでいった。

4.1. 山崎の戦いと光秀の死

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀は京都・本能寺に滞在中の主君・織田信長を急襲し、自刃に追い込んだ。しかし、天下を手中に収めたかに見えた光秀の栄光は、わずか十数日しか続かなかった。「三日天下」とも呼ばれるこの短い期間の後、備中高松城から驚異的な速さで引き返してきた羽柴秀吉の軍勢と、同年6月13日、京都郊外の山崎で激突する 17 。兵力で劣る光秀軍は奮戦するも、秀吉軍の勢いを止めることはできず敗走。光秀自身も、居城である坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖(おぐるす)の竹藪で落ち武者狩りの農民の襲撃を受け、命を落としたと伝えられている 5

4.2. 明智秀満の籠城:一族の最期と失われた名宝

光秀の死後、坂本城の悲劇の幕は、彼の重臣であり娘婿でもあった明智秀満(通称・左馬助)によって閉じられる。秀満は、光秀が山崎で敗れたとの報を安土城で聞くと、直ちに坂本城へ向かった。その際、大津の打出浜から馬に乗ったまま琵琶湖に乗り入れ、対岸の柳が崎まで泳ぎ渡って城に入ったという「明智左馬助の湖水渡り」の伝説は、彼の武勇と主家への忠誠心を今に伝えている 23

坂本城に籠もった秀満であったが、間もなく秀吉軍の丹羽長秀らが率いる大軍に城を包囲される。もはやこれまでと覚悟を決めた秀満は、城が炎上し、光秀が生涯をかけて収集した天下の名物(茶器など)が灰燼に帰すことを惜しんだ。彼は、これらの名宝を丁寧に梱包し、目録を添えて城外の敵将・堀秀政のもとへ送らせたという。そして、全ての責務を果たした後、光秀の妻・煕子(ひろこ)をはじめとする一族の婦女子を自らの手で刺し殺し、城に火を放って自刃した 1 。燃え盛る天主と共、明智一族の栄光と悲劇は、ここに幕を閉じたのである。

4.3. 灰燼に帰した名城:再建から大津城への移築まで

一度は焼け落ちた坂本城だが、その後、丹羽長秀によって一時的に再建された 1 。しかし、もはやかつての壮麗な姿を取り戻すことはなかった。清洲会議を経て織田家の実権を握った羽柴秀吉の天下統一事業が進む中で、城主は丹羽氏から杉原家次、そして浅野長政へと目まぐるしく変わっていった 1

そして天正14年(1586年)、坂本城の運命を決定づける命令が秀吉から下される。浅野長政に対し、坂本城の南、大津の地に新たに大津城を築城することが命じられたのである 5 。この時、坂本城は解体され、その石垣や建材の多くが大津城の資材として転用された 4 。さらに、坂本の町そのものの機能も大津へ移転させられ、城下町ごと消滅するという徹底的な措置が取られた 4

この一連の処置は、単なる都市計画の変更や資材の再利用という経済的合理性だけでは説明できない。戦略的に重要な位置にある坂本城を再利用せず、あえて近隣に新たな城を築き、旧城を跡形もなく破壊する。これは、天下人への道を歩む秀吉による、謀反人・明智光秀の記憶と栄光の痕跡を、この世から物理的に抹消するための、極めて強い政治的意図に基づいた行為であったと考えられる。信長の後継者としての正統性を確立しようとする秀吉にとって、光秀が築いた壮麗な城がそこにあり続けることは、許容しがたい記憶のモニュメントであった。城の物理的な破壊は、光秀という存在そのものの記憶の破壊でもあったのだ。こうして坂本城は、築城からわずか15年で、歴史の表舞台から完全に姿を消した。

終章:現代に続く坂本城の記憶

物理的な姿を失い、「幻の城」となった坂本城であるが、その記憶は地域の歴史の中に、そしてゆかりの地に点在する痕跡の中に、今なお生き続けている。近年の考古学的発見は、この失われた記憶に新たな光を当て、未来への継承という新たな段階へと導こうとしている。

5.1. 史跡を歩く:点在する痕跡とゆかりの地

現在の坂本城跡周辺には、往時を偲ぶことができるいくつかのスポットが存在する。

  • 坂本城址公園 : 琵琶湖岸に整備された公園で、明智光秀の勇ましい石像が建てられている 24 。ただし、この公園の所在地は、本来の城域のやや南に位置しており、公園内に見られる石垣や石積みは、城の遺構ではなく公園造成時に作られたものである点には注意が必要である 1
  • 坂本城跡碑と明智塚 : より実際の城域に近い場所に、城の存在を伝える石碑が二つ存在する。一つは旧北国海道沿いの東南寺(とうなんじ)付近に立つ「坂本城跡碑」で、この辺りが二の丸跡であったと伝えられている 1 。もう一つは、城内であったと推定される場所にひっそりと残る「明智塚」で、光秀や明智一族の供養塚であるとされている 13
  • 関連寺社 : 城が失われた後も、光秀との縁を今に伝える寺社が坂本の地には残っている。天台真盛宗総本山の 西教寺 は、光秀によって復興された寺であり、境内には光秀とその妻・煕子、そして明智一族の墓が並んで眠っている 16 。また、天台宗の
    聖衆来迎寺 (しょうじゅらいごうじ)には、坂本城の城門が移築されたと伝わる門が現存しており、城の数少ない遺構の一つとして貴重である 16

5.2. 未来への継承:国史跡指定への動きと研究の展望

令和5年(2023年)の三の丸石垣の発見は、坂本城の歴史的価値を改めて証明する画期的な成果であった。これを受け、文化審議会は令和6年(2024年)、坂本城跡を国の史跡に指定するよう文部科学大臣に答申した 1 。国史跡に指定されれば、遺構の恒久的な保存と、将来に向けた活用への道が大きく開かれることになる。

今後は、発見された石垣遺構を適切に保存し、一般に公開するための整備が期待される。同時に、坂本城の研究はまだ緒に就いたばかりである。未調査区域には、本丸の全体像や二の丸の具体的な構造、そして城下町のさらなる広がりなど、解明すべき多くの謎が眠っている。最新の考古学的手法と、水中考古学のような新たなアプローチを組み合わせることで、坂本城の全体像はさらに鮮明になっていくだろう。

明智光秀の居城という側面だけでなく、日本の城郭が単なる軍事施設から、権威を象徴する政治的・文化的装置へと変貌を遂げる、その転換点に位置する重要な遺産として、坂本城はこれからも多くのことを我々に語りかけてくれるに違いない。

引用文献

  1. 坂本城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%9F%8E
  2. 作家・伊東潤が語る「明智光秀の城」|京都府/滋賀県 - たびよみ https://tabiyomi.yomiuri-ryokou.co.jp/article/000803.html
  3. 【戦国武将と城】ルイス・フロイスも激賞 「築城の名手」明智光秀の真実 ——近江宇佐山城から坂本城へ《大河おさらい「光秀」基本の「き」》 https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/723580/
  4. 歴史 - 幻の水城 坂本城 http://www.sakamoto-jyoh.sakura.ne.jp/serviceindex1.html
  5. 古城の歴史 坂本城 https://takayama.tonosama.jp/html/sakamoto.html
  6. 坂本城跡の発掘調査成果 http://www.sakamoto-jyoh.sakura.ne.jp/20240609_sakamoto_jouseki_no_hakkutsu_tyosaseika.pdf
  7. 坂本城の歴史観光と見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/sakamoto/sakamoto.html
  8. 【レポート】27年ぶりに出現!坂本城の「幻の石垣」が姿を現す https://shirobito.jp/article/1481
  9. 遺跡紹介① 坂本城跡 33 - 大津市 https://www.city.otsu.lg.jp/material/files/group/68/centertayori33.pdf
  10. 坂本城跡発掘調査現地説明会資料 https://www.onoasahi2.com/wp-content/uploads/2024/02/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E5%9D%80%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E7%8F%BE%E5%9C%B0%E8%AA%AC%E6%98%8E%E4%BC%9A%E8%B3%87%E6%96%99.pdf
  11. 琵琶湖に面する水城・坂本城 水中考古学 Vol.33 | ダイビングならDiver Online https://diver-online.com/archives/go_to_diving/5985
  12. 琵琶湖の水底から姿を現した「幻の城」坂本城の石垣 | 一般社団法人・東京滋賀県人会 https://imashiga.jp/blog/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96%E3%81%AE%E6%B0%B4%E5%BA%95%E3%81%8B%E3%82%89%E5%A7%BF%E3%82%92%E7%8F%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%8C%E5%B9%BB%E3%81%AE%E5%9F%8E%E3%80%8D%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E3%81%AE/
  13. 坂本城址公園 - びわ湖大津トラベルガイド https://otsu.or.jp/sengoku/sakamoto.html
  14. 坂本城の見所と写真・1000人城主の評価(滋賀県大津市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/129/
  15. 第3回 坂本城主明智光秀 - 亀岡市公式ホームページ https://www.city.kameoka.kyoto.jp/site/kirin/1293.html
  16. 明智光秀ゆかりの地コース - びわ湖大津トラベルガイド https://otsu.or.jp/tripideas/akechi
  17. 坂本城 | 近江の城50選 - 滋賀・びわ湖観光情報 https://www.biwako-visitors.jp/shiro/select50/castle/d24/
  18. 坂本城三の丸遺構が発見、国史跡指定へ - 坂本観光協会 https://hieizansakamoto.jp/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E4%B8%89%E3%81%AE%E4%B8%B8%E9%81%BA%E6%A7%8B%E3%81%8C%E7%99%BA%E8%A6%8B%E3%80%81%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E6%8C%87%E5%AE%9A%E3%81%B8/
  19. 幻の水城 坂本城 - 地理・遺構 http://www.sakamoto-jyoh.sakura.ne.jp/serviceindex1016.html
  20. 坂本城跡 - 大津市歴史博物館 https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/db/jiten/data/059.html
  21. 61.近江坂本城跡、の 発掘調査〈速報〉 https://www.shiga-bunkazai.jp/wp-content/uploads/site-archives/download-dayori-033.pdf
  22. 悲劇の武将・明智光秀【湖に沈む幻の城】 - 海と日本PROJECT in 滋賀県 https://shiga.uminohi.jp/information/mitsuhide/
  23. 明智左馬之助の湖水渡り - びわ湖大津歴史百科 - rekishihyakka.jp https://rekishihyakka.jp/culturalheritages/o-s016-4/
  24. 坂本城址公園 - びわ湖大津トラベルガイド https://otsu.or.jp/thingstodo/spot179
  25. 坂本城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/129/memo/713.html