近江の要衝、大溝城は織田信澄が築き、明智光秀が縄張りを担当した水城。本能寺の変で信澄は悲劇的な最期を遂げ、城主は目まぐるしく交代。廃城後、分部氏が陣屋を構え、水辺の景観は今も残る。
戦国時代の日本において、「近江を制する者は天下を制す」という言葉が象徴するように、近江国は地政学的に極めて重要な位置を占めていた 1 。畿内と東国・北陸を結ぶ交通の結節点として、西近江路や若狭街道、北国街道、中山道といった主要幹線が集中し、経済と軍事の両面で天下統一事業の成否を左右する鍵となる地域であった 1 。この地を掌握した織田信長は、琵琶湖を単なる地理的障害としてではなく、広大な支配領域を繋ぐ「内海」として捉え、その水上交通網を完全に掌握することを最重要戦略課題と位置付けた。この構想こそが、天主を頂く安土城を中心とした、旧来の価値観を覆す新たな支配体制の根幹をなすものであった 1 。
信長の琵琶湖制圧戦略は、湖岸に戦略的に配置された城郭群によって具体化された。元亀2年(1571年)に比叡山延暦寺の抑えとして明智光秀が築いた坂本城、天正3年(1575年)に浅井氏滅亡後の北近江支配の拠点として羽柴秀吉が築いた長浜城、そして天正4年(1576年)に信長自身の天下布武の象徴として築かれた安土城 1 。これらに続き、天正6年(1578年)、安土城の対岸にあたる湖西の地に、織田信澄を城主として大溝城が築かれた 5 。これら4つの城は、琵琶湖を菱形に囲むように配置されており、湖上の交通路を完全に掌握し、敵対勢力の侵入を阻むと同時に、物資や兵員を迅速に輸送する一大ネットワークを形成した 1 。これは、従来の「点」としての城の概念を超え、広大な領域を「面」で支配しようとする信長の壮大な構想の現れであった 1 。
この「琵琶湖4城ネットワーク」の一角として大溝が選ばれた理由は、その地理的優位性にある。この地は、古くから若狭国と京を結ぶ若狭街道(西近江路)が通過する陸上交通の要衝であり、日本海からの物資を畿内へ運ぶ最短ルートを抑える戦略的価値を有していた 2 。同時に、琵琶湖に面した天然の良港としての機能を備え、水運の拠点となりうる可能性を秘めていた 9 。信長は、この水陸両面の交通の結節点を抑えることで、若狭方面からの脅威に備えるとともに、琵琶湖の水運を利用して安土城と迅速に連携できる体制を構築しようとしたのである 10 。
この一連の城郭ネットワークの構築は、信長の統治思想が新たな段階へと進化したことを示唆している。初期の戦いが敵対勢力の撃破を主目的としていたのに対し、支配領域が拡大するにつれて、広大な領地をいかに効率的に統治し、経済的に発展させるかという課題が浮上した 12 。大溝城を含む琵琶湖周辺の城郭群は、単なる軍事拠点に留まらず、物資の集積・輸送、情報の伝達、そして計画的な城下町の形成による経済活動の活性化という多面的な機能を有していた 3 。これは、信長が天下の支配を維持するためには、軍事力のみならず、経済力と情報伝達の速度こそが決定的な要因であることを深く理解していた証左と言える。したがって、大溝城の築城は、信長の天下統一事業が単なる武力征服の段階から、近世的な広域支配体制を構築するフェーズへと移行したことを示す、具体的な物証と解釈することができるのである。
大溝城の初代城主として歴史に名を刻んだのは、織田信澄(津田信澄とも)である 15 。彼は、かつて信長に謀反の罪で誅殺された実弟・織田信行(信勝)の嫡男であり、信長から見れば甥にあたる 10 。父が伯父に殺されるという複雑かつ悲劇的な出自を持ちながらも、信澄は織田一門の連枝衆として信長に重用された 16 。この背景には、信長の複雑な政治的計算があったと考えられる。信行の殺害は、信長にとって政治的正当性はあったものの、血族内の汚点として残り続けた可能性がある。その息子である信澄を要地の城主に抜擢することは、信行の血筋を絶やさず一門として厚遇する姿勢を内外に示すことで、一種の「罪滅ぼし」や一族内の融和を演出する効果があった 10 。同時に、信澄の立場からすれば、彼の地位は父を殺した伯父の権威に完全に依存しており、謀反を起こす動機も基盤も持たない。これにより、信長は裏切りの可能性が極めて低い、絶対的に忠実な駒を戦略的要衝に配置することができたのである。この人事は、情と理、過去の清算と未来の安定という二つの側面を同時に満たす、信長ならではの深謀遠慮の現れと言えよう。
大溝城が築かれる以前、近江国高島郡は、元浅井氏の家臣でありながら信長に降った猛将・磯野員昌が、信長から所領として与えられ、新庄城を居城としていた 13 。員昌は姉川の戦いで織田軍を苦しめたほどの武勇で知られ、信長配下となった後も越前一向一揆討伐などで活躍した 18 。しかし、信長は員昌に自身の甥である信澄を養嗣子とさせ、家督の継承を迫ったとされる 17 。これに反発したのか、天正6年(1578年)2月、員昌は突如として出奔(逐電)し、高野山へ向かった 17 。これにより、高島郡の所領は信澄へと与えられた。この一連の出来事は、信長が旧勢力を巧みに排除し、自らの支配体制を強化するために、血縁者を戦略的に配置していく冷徹な統治手法を如実に示す一例である。
高島郡の新たな領主となった信澄は、天正6年(1578年)、それまでの居城であった新庄城を離れ、琵琶湖岸の勝野の地に大溝城の築城を開始した 5 。築城は単に軍事拠点を設けるだけに留まらなかった。信澄は高島郡内の新庄や南市といった在郷町から商人や職人、寺院などを計画的に移住させ、城の防衛と経済活動が一体となった近世的な城下町の形成にも着手したのである 19 。これは、城が地域の政治・経済・文化の中心となるべきであるという、織田政権下の先進的な都市計画思想を反映したものであった。
大溝城の縄張り(設計)は、当時、近江志賀郡を領し、坂本城主であった明智光秀が担当したという伝承が根強く残っている 3 。光秀は築城の名手として知られ、信長の側近として近江の地理にも精通していた。また、信澄は光秀の娘を妻としており、両者は舅と婿という関係にあった 17 。光秀自身が築いた坂本城も琵琶湖の水を巧みに利用した水城であり、大溝城の設計思想と多くの共通点が見られることから、この伝承の信憑性は高いと考えられる 7 。信長が最も信頼する武将の一人であった光秀の設計思想が、甥である信澄の城に反映されたことは、大溝城が織田政権にとって極めて重要な拠点であったことを物語っている。
大溝城は、戦国末期における織田政権の先進的な築城技術と思想が集約された城郭であった。特に、琵琶湖という広大な水域を最大限に活用した「水城(みずじろ)」としての機能は、その最大の特徴と言える。
大溝城は、本丸の南東に広がる琵琶湖の内湖「乙女ヶ池」を、天然の外堀として巧みに縄張りに取り込んでいた 8 。乙女ヶ池は細い水路で琵琶湖本体と繋がっており、城はこの広大な水面を防御線とすると同時に、水運のための港としても利用していた 8 。この見事な水城の構造から、古代中国の広大な運河になぞらえて「鴻溝(こうこう)城」あるいは「鴻湖(こうこ)城」とも呼ばれたと伝えられている 15 。
現存する遺構は本丸跡の天守台石垣が中心であるが 22 、「織田城郭絵図面」や「大溝城下古図」といった史料、そして近年の発掘調査によって、その全体像が明らかになりつつある 8 。城は本丸、二の丸、三の丸からなる梯郭式の縄張りであったと考えられている 25 。発掘調査によれば、本丸は東西約55メートル、南北約60メートルのほぼ方形を呈し、その南東隅に天守台が、そして東端と西端には櫓台が設けられていたと推定される 8 。この主郭は、防御性と指揮機能を兼ね備え、乙女ヶ池に直接面していた 8 。
天守台に残る石垣は、大溝城が当時の最新技術を用いて建設されたことを雄弁に物語っている。石垣の工法は、自然石をほとんど加工せずに積み上げる野趣あふれる「野面積み」を基本としながらも、隅角部には長方形に加工した石を長辺と短辺が交互になるように積み上げる、より高度で堅固な「算木積み」の技法が用いられている 8 。この野面積みと算木積みの併用は、織田・豊臣系の城郭に特徴的な工法であり、大溝城が安土城などと同時代の先進的な城郭であったことを示している。使用された石材は、対岸の比良山地から切り出され、筏で湖上を輸送されたと伝えられており、当時の高度な土木技術と組織力を窺わせる 8 。
近年の継続的な発掘調査により、大溝城の構造に関する重要な知見が次々と得られている。
これらの発見の中でも、特に安土城との瓦の関連性は、織田政権の内部構造を考察する上で深い示唆を与える。大溝城の瓦は安土城と「同じ文様」でありながら、「金箔瓦ではない」という事実が重要である 10 。安土城の金箔瓦は、信長の絶対的な権威の象徴であった。大溝城で同一の木型から作られた瓦が使用されたことは、信澄が織田一門として認められ、政権の公式な城郭ネットワークの一員であることを示している。これは一種のブランド・アイデンティティの共有と言える。しかし、天下人の象徴である金箔の使用は許可されなかった 10 。信長の次男・信雄の城では金箔瓦が出土していることから 10 、直系一族と、信澄のような傍系(しかも父が謀反人とされた過去を持つ)との間には、明確な格差が設けられていたことがわかる。したがって、瓦という一つの建築部材が、「織田政権の一員である」という一体感を示すと同時に、「その中での序列は明確に存在する」という峻別をも示す、二重の政治的メッセージを発していたと解釈できる。これは、信長政権の高度に計算された家臣団統制術の一端を示すものと言えよう。
天正10年(1582年)6月2日、京都・本能寺にて織田信長が明智光秀に討たれるという、日本史を揺るがす大事件が勃発した。この報は、大溝城主・織田信澄の運命を暗転させた。信澄は光秀の娘を正室としており、舅と婿という関係にあったため 17 、謀反への加担を強く疑われたのである 26 。当時、信澄は信長の三男・信孝を総大将とする四国遠征軍の副将として、大坂・堺に滞在していた 17 。信澄の蜂起を恐れた信孝は、織田家の宿老・丹羽長秀と謀り、6月5日、大坂城の千貫櫓にいた信澄を急襲した 17 。弁明の機会も与えられず、共謀の濡れ衣を着せられた信澄は、潔く自害して果てた 10 。大溝城築城から、わずか4年後の悲劇的な最期であった。
信澄の死後、大溝城は羽柴(豊臣)秀吉の勢力下に入り、本能寺の変後の激しい権力闘争と、秀吉による支配体制の再編過程を反映して、城主は目まぐるしく交代した。この短期間での城主の流転は、中央政権の動乱が地方の戦略拠点にいかに直接的な影響を与えたかを示している。
この激しい城主の変遷を以下にまとめる。
表1:本能寺の変後の大溝城主変遷
在城期間(西暦) |
城主 |
主な背景・出来事 |
典拠 |
1582年 |
丹羽長秀 |
本能寺の変後、信澄討伐の功により入城。織田家重臣による戦後処理。 |
17 |
1583年〜 |
加藤光泰 |
賤ヶ岳の戦いの後、秀吉の直轄領となり入城。秀吉による新体制構築。 |
17 |
1585年〜 |
生駒親正 |
加藤光泰の転封に伴い、秀吉の命で入城。秀吉政権下での大名配置。 |
17 |
1587年〜1590年 |
京極高次 |
秀吉の九州平定後に入城。正室はお初の方。旧勢力との融和政策。 |
16 |
1590年〜 |
織田三四郎/秀雄 |
小田原征伐後。織田信雄の改易に関連した措置か。 |
17 |
1595年頃 |
岩崎掃部佐 |
豊臣秀次事件後の領地再編に関連した代官か。 |
17 |
豊臣秀吉による天下統一が成り、徳川家康による江戸幕府へと時代が移行する中で、全国各地の城郭はその役割を大きく変えることを余儀なくされた。かつて織田信長の琵琶湖戦略の一翼を担った大溝城もまた、軍事拠点としての重要性を失い、廃城の道を辿ることになる。その正確な廃城時期については、文禄4年(1595年)とする説や、関ヶ原の戦い後の慶長8年(1603年)とする説など諸説が存在する 16 。いずれにせよ、天下が安定に向かう中でその役目を終え、最終的には元和元年(1615年)に江戸幕府によって発布された一国一城令が、その存在に終止符を打ったと考えられる 8 。
大溝城は廃城後、その建造物の多くが解体されたが、特に天守に関しては、甲賀の水口岡山城に移築されたという伝承が古くから伝えられている 10 。城の部材、特に天守のような象徴的な建造物は、莫大な費用と労力、そして高度な技術の結晶であり、不要になったからといって単に破棄されることは少なかった。彦根城が長浜城や大津城の部材を転用して築かれた例 33 に見られるように、価値ある部材を新たな城の建材として再利用することは、当時、合理的かつ経済的な手法として広く行われていた。
大溝城の天守移築説は、単なる伝説に留まらない。近年、移築先とされる水口岡山城の本丸跡から、大溝城跡で出土したものと全く同じ文様の瓦が発見されたのである 10 。この考古学的な成果は、天守そのものの移築を直接証明するものではないにせよ、少なくとも大溝城の部材が水口岡山城の築城に際して転用されたことを強く示唆しており、長年の伝承に高い信憑性を与えるものとして注目されている。これは、城郭を「一代限りの建造物」としてではなく、「解体・再構築可能なユニットの集合体」と捉える、当時の人々のプラグマティックな価値観を物語っている。城は物理的に「死」を迎えても、その価値ある部材は新たな場所で「再生」されたのである。
関ヶ原の戦いを経て江戸幕府が成立すると、大溝の地は新たな時代を迎える。元和5年(1619年)、伊勢上野藩(現在の三重県津市)の藩主であった外様大名・分部光信が、2万石をもって大溝に入封し、ここに大溝藩が成立した 5 。この移封は、徳川家康の十男・徳川頼宣が紀州藩主として和歌山に入ったことに伴う、伊勢国内の領地再編の一環であったとされる 34 。
分部氏は、藤原南家工藤氏の流れを汲む伊勢の国人で、安濃郡分部村より起こったとされる 35 。分部光嘉の代に、織田信長の伊勢侵攻に際して信長に協力し、その弟・信包の長野氏継承を助けた 37 。信長没後は豊臣秀吉に仕え、伊勢国内に1万石を与えられて近世大名となった 36 。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、戦功によって1万石を加増され、伊勢上野藩2万石の藩主となっていた 36 。初代大溝藩主となった光信は、この光嘉の外孫(養子)にあたる人物である 34 。こうして、戦国の動乱を乗り越えた分部氏によって、大溝の地には250年以上にわたる安定した治世がもたらされることとなった。
元和5年(1619年)に入封した分部光信は、一国一城令の制約もあり、戦国時代の城郭である大溝城を再建することはなかった。その代わり、廃城となった大溝城の旧三の丸跡に、藩の政庁であり藩主の居館でもある「大溝陣屋」を構えた 5 。これにより、大溝は織田信澄が築いた軍事拠点としての「城」の時代から、分部氏による行政拠点としての「陣屋」の時代へと、その性格を大きく転換させた。藩政の中心となる御殿は、現在の分部神社周辺に位置していたと推定されている 31 。
分部氏は、陣屋の建設と並行して、近世的な城下町の整備に力を注いだ。その町割りには、かつての水城の記憶を留めつつ、平時の統治に適した合理的な設計思想が見られる。
初代藩主・分部光信から明治維新時の12代藩主・光謙に至るまで、分部氏は一度も転封されることなく、約250年間にわたって大溝の地を治め続けた 15 。
現在の高島市勝野地区の景観は、このようにして形成された二重の歴史的構造を持っている。大溝城の本丸跡に残る天守台の石垣は、織田信澄が築いた戦国時代の軍事的な緊張感を今に伝える「点」としての遺構である 22 。一方、総門を起点とする武家地と町人地の区画、そして町を流れる水路網は、分部氏が整備した江戸時代の安定した統治と人々の生活を物語る「面」としての遺構である 24 。これらは断絶しているのではなく、分部氏が城の遺構を土台として陣屋町を形成したように、歴史的な連続性の上に成り立っている。国が「大溝の水辺景観」を重要文化的景観に選定した理由 8 は、単に古い石垣や建物が残っているからだけではない。戦国期の水城の記憶と、江戸期に完成した水と共に生きる陣屋町の暮らしが一体となった、この重層的な景観そのものに文化的価値が見出されているのである。したがって、大溝の歴史を理解するには、信澄の「城」と分部氏の「町」という二つの視点を持ち、それらがどのように重なり合って現在の景観を形成したかを読み解く必要がある。
近江・大溝城の歴史は、戦国時代末期から江戸時代、そして現代へと至る日本の社会変革を凝縮した、稀有な事例である。その歴史的意義は、多岐にわたる。第一に、大溝城は織田信長の天下統一戦略、特に琵琶湖を「内海」として掌握する壮大な構想の中で、安土城の対岸に築かれた極めて重要な戦略拠点であった。明智光秀の設計と伝えられるその構造は、内湖を巧みに利用した先進的な水城であり、出土した瓦は安土城との密接な技術的・政治的関係を物語っている。
第二に、本能寺の変という歴史の激動を直接的に体現した城であった。初代城主・織田信澄の悲劇的な最期と、その後の目まぐるしい城主の交代は、中央政権の混乱が地方拠点に与えた影響を如実に示している。そして第三に、戦乱の時代が終わりを告げると、軍事拠点としての「城」は解体され、その跡地には分部氏による平和な「陣屋町」が形成された。250年以上にわたる安定した統治の舞台となり、教育や文化が育まれた。
廃城から400年以上の時を経た今日、大溝の地には、戦国時代の記憶を留める天守台の石垣と、江戸時代の面影を色濃く残す陣屋町の町割りや水路が、重なり合うようにして存在している。近年の継続的な発掘調査は、失われた城の姿を少しずつ明らかにし 4 、CGによる復元映像制作プロジェクトは、その在りし日の雄姿を現代に蘇らせようとしている 8 。これらの取り組みは、大溝城の歴史的価値を再発見し、次世代へと伝えていく上で極めて重要である。
大溝城跡とそれを取り巻く景観は、単なる過去の遺物ではない。それは、戦国時代の軍事拠点から、江戸時代の行政都市、そして現代の「重要文化的景観」へと、時代の要請に応じてその姿を変えながら生き続けてきた、地域のアイデンティティそのものである。この重層的な歴史こそが、大溝の最大の魅力であり、未来へと継承すべき貴重な文化遺産であると言えよう。
西暦 |
元号 |
大溝城および高島郡の出来事 |
中央(天下)の動向 |
1578 |
天正6 |
磯野員昌が出奔。織田信澄、大溝城の築城を開始。 |
織田信長、毛利攻めを開始。 |
1582 |
天正10 |
織田信澄、大坂城で自害。丹羽長秀が城主となる。 |
本能寺の変。山崎の戦い。清洲会議。 |
1583 |
天正11 |
加藤光泰が城主となる。 |
賤ヶ岳の戦い。 |
1587 |
天正15 |
京極高次が城主となる。 |
豊臣秀吉、九州を平定。 |
1595頃 |
文禄4 |
大溝城、廃城となる(一説)。天守は水口岡山城へ移築か。 |
豊臣秀次、自害。 |
1600 |
慶長5 |
- |
関ヶ原の戦い。 |
1603 |
慶長8 |
- |
徳川家康、江戸幕府を開く。 |
1615 |
元和元 |
- |
大坂夏の陣。一国一城令が発布される。 |
1619 |
元和5 |
分部光信が入封し、大溝藩が成立。旧三の丸に陣屋を設置。 |
徳川秀忠の治世。福島正則が改易される。 |
1785 |
天明5 |
8代藩主・分部光実、藩校「脩身堂」を創設。 |
田沼意次が失脚。松平定信が老中となる。 |
1871 |
明治4 |
廃藩置県に先立ち、大溝藩が自ら廃藩。 |
廃藩置県。 |
2015 |
平成27 |
「大溝の水辺景観」が国の重要文化的景観に選定される。 |
- |
2024 |
令和6 |
復元整備された大溝陣屋総門が一般公開される。 |
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