天霧城は讃岐西部の天空城塞。香川氏が平時の多度津城と使い分ける詰城。堅固な縄張りは自然地形を巧みに利用。香川氏は細川氏被官から自立し、三好・信長と外交。長宗我部元親の侵攻に戦わず養子を迎え和睦。
讃岐国、現在の香川県西部、善通寺市、多度津町、三豊市にまたがる標高381メートルの天霧山。その山頂から尾根筋にかけて、かつて西讃岐に覇を唱えた一族の栄枯盛衰を静かに物語る広大な城郭遺跡が存在する。それが、国の史跡にも指定されている天霧城である 1 。
天霧城は、奇岩が露出し、断崖絶壁が連なる峻険な自然地形を最大限に活用して築かれた、日本の中世山城を代表する傑作の一つである 1 。その頂からは、眼下に広がる丸亀・三豊平野を一望し、北方に目を向ければ、多島美が織りなす瀬戸内海を望むことができる 6 。この立地は、陸路と海路の双方を監視する上で極めて重要な戦略的価値を持ち、天霧城が単なる防衛拠点ではなく、西讃岐の政治・軍事の中心であったことを示唆している。
讃岐国において、古くから「東の雨滝、西の天霧」と並び称されてきたこの名城は、南北朝の動乱期に産声を上げ、戦国時代の激動を経て、天下統一の奔流の中でその歴史的役割を終えた 7 。城主であった香川氏の約220年間にわたる興亡の舞台であり、その城郭構造、歴史的変遷、そして後世に語り継がれる伝説は、戦国という時代の力学と、そこに生きた人々の営みを色濃く映し出している。
本報告書は、利用者様が既にご存じの概要情報を基点とし、天霧城の築城から廃城に至る全貌を、城主・香川氏の歴史、城郭構造の分析、周辺勢力との関係性の変遷、そして史実と交錯する伝説の考察に至るまで、多角的かつ徹底的に解き明かすことを目的とする。
天霧城の歴史は、その城主である香川氏の歴史と不可分である。本章では、香川氏がいかにして西讃岐の支配者となり、この天空の城塞を築くに至ったかの経緯を詳述する。
讃岐香川氏は、その祖を桓武平氏の流れを汲む鎌倉権五郎景政に持つとされる、東国武士の系譜を引く一族である 8 。相模国香川荘(現在の神奈川県茅ヶ崎市一帯)を発祥とし、香川姓を称したことに始まると伝えられている 8 。彼らが讃岐の地に根を下ろすきっかけとなったのは、南北朝時代の動乱であった。
当時、讃岐国の守護職にあったのは室町幕府の重鎮、細川氏であった。香川氏は、この細川氏の被官として讃岐国へ入部した 6 。そして、彼らの運命を決定づける戦いが訪れる。貞治年間(1362年〜1368年)に勃発した白峯合戦である。この戦いで香川氏は、主君である細川頼之に従い、対立する南朝方の細川清氏を討ち取るという大きな武功を挙げた 4 。
この功績により、香川氏は細川氏から西讃岐の要衝である三野・多度・豊田の三郡を与えられ、この地に確固たる勢力基盤を確立した 1 。この白峯合戦での軍功こそが、単なる外来の武士であった香川氏を、讃岐の国人領主へと押し上げる原動力となったのである。
西讃岐の支配者となった香川氏は、巧みな領国経営を展開する。その特徴が、機能の異なる二つの拠点を使い分ける「二元支配体制」であった。
一つは、平時の居館として瀬戸内海に面した多度津の本台山(現在の桃陵公園付近)に構えた「多度津城」である 6 。この城は、港湾を掌握し、政治・経済活動の中心地とするための拠点であり、領国統治の司令塔であった。
そしてもう一つが、有事の際の籠城を想定した「詰城」としての天霧城である 1 。多度津城から南へ約3キロメートル、険しい山容を誇る天霧山に築かれたこの城は、純粋な軍事拠点として、敵の侵攻に対する最後の砦となるべく設計された。
平時の統治と経済を担う沿岸の居館と、有事の防衛に特化した内陸の山城。この二つの拠点を戦略的に使い分ける体制は、香川氏が単なる武辺者ではなく、領国経営に長けた成熟した地域権力者であったことを示している。それは、守護の被官という立場から、自立した領主へと成長していく過程で、統治機能と軍事機能を分離・最適化するという、高度な戦略的判断があったことを物語る。
天霧城の正確な築城年は定かではないが、多くの史料は、白峯合戦で軍功を挙げた後の貞治年間(1362年〜1368年)、香川景則によって築かれたと伝えている 2 。この時期は、香川氏が西讃岐における支配権を確立し、その権力を象徴する事業に着手するにふさわしいタイミングであった。
一方で、16世紀初頭の文献『道隆寺温故記』には、香川氏を「雨霧城主」と記す記述があり、この頃には単なる詰城としてだけでなく、実質的な居城としての機能も併せ持っていた可能性が窺える 11 。天霧城は、築城後も時代の要請に応じて、その姿を変容させていったのであろう。
国の史跡に指定されている天霧城跡は、戦国時代の山城の姿を今に伝える貴重な遺構である 8 。本章では、その城郭構造(縄張り)を詳細に分析し、香川氏の卓越した防衛思想を明らかにする。
天霧城の城域は、東西約1200メートル、南北約560メートルにも及び、確認されているだけでも大小70余りの曲輪(郭)が存在する広大なものであった 23 。その縄張りは、天霧山の山頂部から三方に伸びる尾根全体を城郭化した、典型的な連郭式山城の形態をとる 5 。現在残る遺構は戦国時代末期(16世紀後半)の形式を示しているが、昭和56年(1981年)に実施された発掘調査の結果、15世紀頃から段階的に拡張・増強されていったことが判明している 24 。これは、香川氏の勢力伸長と、戦乱の激化に対応して、城が常に改修され続けたことを物語っている。
天霧城の防衛システムは、自然地形を巧みに利用しつつ、人工的な改変を加えて防御効果を最大化する設計思想に貫かれている。
長期の籠城戦を想定する上で、水の確保は城の生命線である。天霧城はこの点においても抜かりはなかった。
天霧城の縄張りは、まさに「守るに易く攻めるに難い」という山城の理想を具現化したものであった 28 。複数の尾根に曲輪群を分散配置することで、一方向からの攻撃で城全体が陥落することを防ぎ、敵を分断させて各個撃破を狙う。大堀切による城域の分断や、隠し砦による多重防御線は、長期戦を想定した、極めて実戦的かつ合理的な防衛戦略の現れである。
遺構の種類 |
具体的な場所 |
特徴と機能 |
関連資料 |
主郭部(本丸等) |
天霧山山頂の馬背状尾根 |
城の中枢。階段状に連なる複数の郭で構成され、指揮所及び最終防衛拠点として機能。 |
9 |
石垣(石塁) |
二の丸・三の丸北側面、堀切壁面など |
土塁の補強、切岸の崩落防止。特に山城での本格的な使用は、高い技術力と権威の象徴。 |
9 |
大堀切 |
主郭部の中央 |
岩盤をV字状に深く掘削。城内を二分し、敵の主郭部への侵攻を遅延・阻止する最大の防御施設。 |
9 |
隠し砦 |
南西の弥谷寺へ続く尾根筋 |
独立した防御拠点(出丸)。大手道(搦手道)を固め、敵の接近を早期に察知し迎撃する。 |
9 |
竪堀・横堀 |
斜面各所 |
斜面を垂直に掘り下げ、敵の横移動を阻害する(竪堀)。等高線に沿って掘り、直登を防ぐ(横堀)。 |
9 |
井戸・湧水池 |
堀切付近、西南尾根鞍部 |
籠城戦における生命線。岩盤を穿つなど、確保に多大な労力を要したことがうかがえる。 |
8 |
虎口・犬走り |
主郭部への進入路など |
隘路や急峻な通路を設け、少人数で大軍の侵入を防ぐ。自然地形を巧みに利用した設計。 |
9 |
室町幕府の権威が揺らぎ、日本全土が戦乱の時代へと突入する中、讃岐の香川氏もまた、大きな変革の時を迎える。本章では、香川氏が守護代という立場を超え、独立した戦国大名として行動するようになった過程を、周辺勢力との関係性から明らかにする。
応仁の乱(1467年〜1477年)や永正の錯乱(1507年)を契機として、香川氏の主家であった管領細川京兆家の勢力は急速に衰退する 6 。中央の権威が失墜する中で、地方の権力構造も大きく変化した。在京することが多かった他の守護代とは異なり、讃岐での在国支配を基盤としていた香川氏は、この権力の空白を好機と捉えた。彼らは西讃岐十三郡のうち六郡を実効支配下に置き、守護代という幕府の役職者から、自らの領国を自らの実力で統治する独立領主、すなわち戦国大名へとその性格を変貌させていった 6 。
この香川氏の動向は、戦国時代における典型的な「下剋上」の様相を呈している。しかし、彼らは主君の細川氏を直接武力で打倒したわけではない。中央の権威が形骸化していく過程で、在地での実効支配を着実に積み重ね、守護代という「職」を自らの「領国」へと巧みに転化させていったのである。天霧城の段階的な拡張・増強も、こうした自立化の過程と並行して行われたと考えるのが自然であろう。
香川氏が自立への道を歩む中で、新たな脅威が東から迫っていた。阿波国(現在の徳島県)を本拠に、畿内でも勢力を拡大していた三好氏である。三好長慶の弟・三好実休が率いる軍勢が讃岐へ侵攻すると、当時の当主・香川之景はこれに断固として抵抗した 13 。
弘法大師ゆかりの善通寺周辺で両軍は激突した(善通寺合戦)。この戦いで香川之景は、東讃の有力国人である香西氏などと連携し、三好勢の猛攻を凌ぎ、和睦に持ち込むことに成功する 6 。この事実は、香川氏が西讃岐において相当な軍事動員力を有し、讃岐国人衆の中心的存在として、外部勢力に対抗しうる実力を備えていたことを示している。
三好氏との緊張関係が続く中、香川之景は畿内で急速に台頭する新たな覇者、織田信長の動向を注視していた。天正4年(1576年)、之景は三好氏から離反し、中央の最新の権力者である信長に誼を通じるという、大胆な外交的決断を下す 17 。
この臣従の証として、信長は之景に自身の名前から一字を与えた。これより之景は名を「信景」と改めたのである 17 。これは、旧来の守護・守護代体制から完全に脱却し、実力主義の戦国大名として生き残りを図るための、主体的かつ戦略的な選択であった。信長という新たな権威を後ろ盾とすることで、讃岐国内における自らの地位を正統化し、三好氏や他の国人領主に対して優位に立とうとしたのである。
織田信長との連携によって讃岐国内での地位を固めた香川信景であったが、南からはそれを上回る強大な勢力が迫っていた。土佐国(現在の高知県)を統一し、四国制覇の野望に燃える長宗我部元親である。本章では、この土佐の奔流が讃岐に及び、香川氏と天霧城が大きな転換点を迎える過程を描く。
天正3年(1575年)に土佐を完全に掌握した長宗我部元親は、その矛先を阿波、伊予、そして讃岐へと向けた 29 。天正6年(1578年)頃から讃岐への侵攻を本格化させ、破竹の勢いで周辺の城を次々と攻略していった 9 。西讃岐の雄である香川氏との衝突は、もはや避けられない情勢であった。
難攻不落を誇った天霧城であったが、意外にも長宗我部軍との間で大規模な籠城戦が行われたという記録はない 2 。軍記物である『南海通紀』によれば、天正7年(1579年)、香川信景は長宗我部元親からの和睦勧告を受け入れたとされる 33 。
その和睦の条件は、香川氏にとって極めて重いものであった。元親の次男・五郎次郎(後の香川親和)を信景の養子として迎え入れ、香川家の家督を譲るというものであった 2 。親和は信景の娘を正室に迎え、名実ともに香川家の後継者となった 32 。
この決断の背景には、長宗我部氏の圧倒的な軍事力と、もはや頼みとする織田信長の本拠は遠く、四国への本格的な介入が間に合わないという、信景の冷静な情勢分析があったと考えられる。長宗我部元親は、敵対勢力を武力で完全に滅ぼすだけでなく、有力な豪族に息子を養子として送り込むことで、その家臣団や領地を穏便に吸収する「養子戦略」を多用した 32 。信景にとってこの提案は、一族の完全な滅亡を避け、香川の名跡を存続させるための、苦渋に満ちた唯一の道であった。天霧城が戦火を交えなかったという事実は、この城の堅固さ以上に、城主の政治的判断がその運命を決定づけたことを示している。
こうして、長宗我部元親の次男・親和(資料によっては親政とも記されるが同一人物 34 )は香川家の家督を継ぎ、天霧城の新たな城主となった 2 。これにより、西讃岐の独立勢力の象徴であった天霧城は、事実上、長宗我部氏の讃岐攻略の拠点へとその役割を大きく変えることになった 19 。信景は、名目上の当主の座を退き、養子・親和の後見役として一定の影響力を保持しつつも、長宗我部氏の指揮下に入ることを余儀なくされたのである。
長宗我部元親の支配下で、香川氏はその名跡を保った。しかし、その安寧は長くは続かなかった。畿内では、本能寺の変で織田信長が倒れた後、羽柴秀吉が急速に勢力を拡大し、天下統一事業を推し進めていた。本章では、天下人による四国平定の波が、香川氏と天霧城に如何なる結末をもたらしたかを追う。
天正13年(1585年)春、長宗我部元親は四国のほぼ全域を手中に収め、その勢力は頂点に達した 38 。しかし、その直後、天下統一を目前にした豊臣秀吉から、伊予・讃岐の両国を返上せよとの厳しい要求が突きつけられる。元親がこれを拒否したことで、秀吉は四国征伐を決断した 38 。
秀吉は弟の羽柴秀長を総大将に任命し、毛利氏や宇喜多氏といった中国地方の大名を動員、総勢10万を超える空前の大軍を四国へと派遣した 37 。
秀吉軍は三方向から四国に侵攻した。そのうち、讃岐方面には、備前の宇喜多秀家を主将とし、軍師・黒田官兵衛、蜂須賀正勝、仙石秀久らを加えた約2万3千の軍勢が屋島に上陸した 39 。長宗我部方は、天霧城の香川親和を中心に防衛体制を敷いていたが、両軍の兵力差はあまりにも大きく、讃岐の諸城は次々と秀吉軍の手に落ちていった 37 。
主戦場となった阿波方面で長宗我部軍の主力が敗れると、元親も秀吉軍の圧倒的な物量の前に抗戦を断念し、降伏を決断した 38 。
戦後処理において、元親は土佐一国の領有こそ認められたものの、苦心して手に入れた讃岐、伊予、阿波の三国はすべて没収された 29 。この決定は、長宗我部氏の一翼を担っていた香川氏の運命をも決定づけた。彼らは長宗我部方の大名と見なされ、改易処分となり、西讃岐の領地をすべて失ったのである 8 。
領地を失った香川信景と養子の親和は、もはや讃岐に留まることはできず、天霧城を明け渡し、長宗我部元親に従って土佐へと退去した 2 。ここに、南北朝時代から約220年間にわたり西讃岐に君臨した香川氏の支配は、完全に終焉を迎えた。
主を失った天霧城は、その戦略的価値を失い、天正13年(1585年)に廃城となった 2 。その終焉は、特定の敵に攻め落とされた結果ではなく、豊臣秀吉による「天下統一」という、それまでの四国内の勢力争いとは次元の異なる、新たな政治秩序の再編によってもたらされたものであった。戦国時代の地域的権力が中央の統一権力によって無力化され、城が個々の領主の軍事拠点から、天下人の支配構造の一部へと再定義される画期的な瞬間を、天霧城の廃城は象徴している。
その後の香川一族の運命は過酷であった。養子の親和は、翌年の戸次川の戦いで兄・信親が戦死した後、長宗我部家の後継者問題に巻き込まれ、失意のうちに病死したと伝わる 29 。信景もまた、土佐の地でその波乱の生涯を終えたとされるが、その最期については諸説あり、定かではない 17 。
天霧城は、廃城となってから400年以上の時を経た今もなお、その堅固な遺構とともに、数々の伝説を現代に伝えている。本章では、史実としての天霧城と、後世に語り継がれる伝説としての天霧城、二つの側面を比較検討し、その文化的意味を探る。
天霧城には、いくつかの別名が存在する。
天霧城にまつわる伝説の中で最も有名なものが、「白米城伝説」である。
では、なぜ史実と異なるこのような伝説が生まれ、広く語り継がれてきたのか。それは、地域の人々が自らの郷土の歴史を理解し、記憶するための「物語」を必要としたからではないだろうか。西讃岐の誇りであった難攻不落の名城が、戦わずして明け渡されたという「政治的判断による無血開城」の事実は、あまりに現実的で、物語性に欠ける。それよりも、「悲劇的な裏切りによる落城」という物語の方が、より人々の感情に訴えかけ、教訓的であり、記憶に残りやすい。この伝説は、歴史的事実そのものではなく、歴史が地域社会の中でどのように受容され、再構築されていくかという「記憶の歴史」を示す貴重な事例と言える。
天霧城には、他にも哀しい伝承が残されている。落城の際、城主の姫が「たんばほうずき花は咲いても実はならぬ」という言葉を残して落ち延びたため、それ以来、天霧山のホオズキは花が咲いても実をつけなくなったという「実のならないホオズキ」の伝説である 45 。これは、香川一族の再興が絶たれた無念さと、戦乱に翻弄された人々の悲しみを象徴する物語として語り継がれている。
戦国時代の終焉とともに廃城となった天霧城であったが、その歴史的価値が再評価され、平成2年(1990年)5月16日、城跡は国の史跡に指定された 2 。良好に残されたその遺構群は、中世山城の好例として、また南北朝時代から戦国時代に至る四国の政治・軍事状況を知る上で不可欠な学術的価値を持つと高く評価されている 12 。
讃岐国西部に聳える天霧城の歴史は、南北朝時代の動乱期に、守護細川氏の被官であった香川氏の詰城として産声を上げたことに始まる。やがて主家の衰退とともに香川氏は自立し、天霧城もまた、独立領主の拠点として拡張・増強され、その威容を誇った。しかし、土佐から押し寄せた長宗我部氏の奔流、そして天下統一を目指す豊臣秀吉という、より大きな権力の前に、香川氏は屈服し、城もまたその歴史的役割を終えた。
天霧城の約220年間にわたる変遷は、中世から近世へと移行する激動の時代における、地方権力の典型的な盛衰の軌跡を映し出している。
城主であった香川氏の興亡もまた、戦国時代の非情な理を象徴している。細川氏の家臣から始まり、自らの武功と才覚で西讃岐の支配者へと上り詰めたものの、最後はより強大な権力の前に、家の存続と引き換えに独立を失わざるを得なかった。彼らの苦闘は、天下統一という大きな時代のうねりの中で、数多の地方勢力が辿った運命そのものであった。
今日、天霧城跡は静かに山中に佇んでいる。しかし、それは単なる過去の遺物ではない。複雑に配置された曲輪、壮大な堀切、そして堅固な石垣は、戦国の武士たちが駆使した知恵と戦略を現代に伝える「生きた史料」である。そして、そこに語り継がれる「尼斬城」の伝説は、史実の記録だけでは窺い知ることのできない、人々の歴史への想いや記憶のあり方を教えてくれる。
史実と伝説、その両方を併せて学ぶことで、私たちは歴史の多層的な深みを理解することができる。天霧城跡は、戦国という時代のダイナミズムを体感し、未来へと語り継いでいくべき、日本の貴重な歴史遺産なのである。