室町御所(武衛陣御所)は足利義輝が将軍権威復興のため築いた邸宅兼城郭。三好氏との対決に備え城郭化。義輝は剣豪将軍として奮戦するも永禄の変で壮絶な最期を遂げ御所も焼失。
日本の戦国時代史において、室町幕府第13代将軍・足利義輝の最期を飾る永禄の変(1565年)は、旧時代の権威が武力によって蹂躙される象徴的な事件として知られている。その舞台となったのが、通称「室町御所」と呼ばれる将軍の邸宅である。しかし、この呼称は歴史的文脈において複数の意味合いを持ち、その実態は単なる邸宅に留まらない、戦国乱世の政治的・軍事的緊張を凝縮した特異な空間であった。本報告書は、この足利義輝の拠点を多角的な視点から徹底的に調査し、その成立背景、構造と機能、そして歴史的役割を明らかにすることを目的とする。
まず、本報告書が対象とする「城」を特定する必要がある。一般に「室町御所」と聞くと、室町幕府の名の由来ともなった3代将軍・足利義満造営の「花の御所」(室町第)を想起することが多い 1 。しかし、本稿で論じるのは、それとは全く別の場所に、13代将軍・足利義輝がその治世の最終段階で本拠とした特定の邸宅兼城郭である 3 。この施設は、歴史の中で複数の呼称で呼ばれており、それぞれの名称がその機能と歴史的背景を物語っている。
第一に「武衛陣(ぶえいじん)」という呼称がある。これは、この土地が元来、室町幕府の最高職である三管領の筆頭、斯波氏の広大な邸宅であったことに由来する 4 。斯波氏は宮中警護などを担う兵衛府(ひょうえふ)の長官を世襲しており、その唐名(中国風の官名)である「武衛」が家名のように用いられた 7 。その邸宅は「武衛陣」と呼ばれ、その名は現在も京都市上京区の「武衛陣町」という地名として歴史に刻まれている 9 。
第二に「二条御所」または「二条城」という呼称である。これは、足利将軍家の邸宅を「二条」の名を冠して呼ぶ慣習に由来するもので、特に後世、徳川家康が築いた現存の二条城と区別するために「旧二条城」とも呼ばれるようになった 4 。しかし、同時代の記録では「二条城」という呼称は用いられておらず、むしろ「武家御所」「公方様の御城」、そして最もその実態を的確に表す「二条武衛陣の御構(おかまえ)」などと呼ばれていた 8 。
これらの呼称の多様性は、単なる名称の違い以上の意味を持つ。それは、この施設が経験した「機能的変容」と、その背景にある「歴史的重層性」を明確に示しているからである。まず、「武衛陣」という名は、室町幕府の権力構造を支えた管領家の邸宅という「政治的出自」を物語る。次に、義輝がこの地を本拠としたことで、「御所」という「将軍の公邸」としての性格が加わった。そして最後に、「御構」という言葉は、単なる邸宅ではなく、堀や塀で囲まれた「防御施設」「城砦」を意味する。これらの呼称を時系列で分析すると、義輝が「旧権威の象徴的土地(武衛陣)」を接収し、「将軍の新たな本拠(御所)」として再興し、最終的に畿内の覇者・三好氏との対決に備えて「軍事拠点(御構)」へと変貌させていった戦略的意図が浮かび上がる。呼称の変遷は、失墜した将軍権威の回復を目指す義輝の政治姿勢が、次第に強硬化・軍事化していった過程を映し出す鏡なのである。
本報告書では、この義輝の拠点を、その歴史的背景を尊重し「武衛陣御所」と称することとしたい。この御所は、戦国史の転換点において、旧秩序の最後の抵抗拠点として、そして新たな時代の到来を促す触媒として、極めて重要な役割を果たした。その詳細を、次章以降で明らかにしていく。
名称 |
築城者/使用者 |
所在地(現代) |
時期 |
主要目的・特徴 |
二条御所(武衛陣御構) |
足利義輝 |
上京区武衛陣町(平安女学院付近) |
1559年~1565年 |
将軍権威復興の拠点。後に城郭化。永禄の変で焼失 8 。 |
旧二条城 |
織田信長 |
上京区武衛陣町(義輝御所跡を拡張) |
1569年~1573年 |
足利義昭の将軍御所。天主を持つ本格的城郭。義昭追放後破却 9 。 |
二条新御所 |
織田信長 |
中京区二条殿町 |
1576年~1582年 |
信長の宿所、後に誠仁親王へ献上。本能寺の変で焼失 12 。 |
元離宮二条城 |
徳川家康 |
中京区二条城町 |
1602年~ |
徳川家の京都拠点、将軍上洛時の宿所。現存、世界遺産 14 。 |
足利義輝がその最期の拠点として選んだ土地は、彼が新たな御所を構える以前から、室町幕府の政治史において重要な意味を持つ場所であった。その歴史的背景を理解することは、義輝の選択の意図と、武衛陣御所が持つ象徴性を解き明かす上で不可欠である。
室町時代初期、この地には幕府の屋台骨を支えた三管領(斯波・細川・畠山)の筆頭、斯波氏の壮麗な邸宅が構えられていた。初代管領・斯波義将(しば よしまさ)が居を定めて以来、代々の斯波氏当主の拠点となった 4 。その敷地は広大で、西は室町通、北は下立売通、東は烏丸通、南は椹木町通に囲まれる一画を占めていたと伝えられる 10 。これは、将軍の御所である「花の御所」にも程近い、京の中心部の一等地であり、将軍に次ぐ家格を誇った斯波氏の権勢を物語るものであった。
この邸宅が「武衛陣」と称されたのは、斯波氏が世襲した官職に由来する。斯波氏は、天皇や御所を警護する兵衛府(ひょうえふ)の長官である兵衛督(ひょうえのかみ)または兵衛佐(ひょうえのすけ)を務める家柄であった 7 。この兵衛府の唐名が「武衛」であり、これが斯波氏一族の尊称として定着したのである 4 。武家が朝廷から授けられた官職名を家門の誉れとすることは、武家政権である室町幕府が、依然として朝廷の権威をその支配の正統性の源泉としていたことを示す好例である。斯波氏の邸宅が「武衛陣」と呼ばれることは、単なる通称ではなく、幕府と朝廷が織りなす当時の政治文化を色濃く反映したものであった。
しかし、斯波氏の栄華も長くは続かなかった。15世紀後半、将軍家の後継者問題と管領家の家督争いが結びついて勃発した応仁・文明の乱(1467年~1477年)は、京都の市街地を主戦場とする未曾有の内乱であった。斯波氏の邸宅「武衛陣」もその戦火に巻き込まれ、無残にも焼失してしまう 4 。乱後、斯波氏の権勢は衰退し、かつての壮大な邸宅が再建されることはなかった。こうして、かつて幕府の権威の一翼を担った場所は、100年近くにわたって荒廃した土地として放置されることになったのである。
永禄2年(1559年)、長年の流浪の末に京へ帰還した足利義輝は、新たな将軍御所の建設地として、この荒れ果てた「武衛陣跡地」を選定した。なぜ彼は、数ある京都の土地の中から、あえてこの場所を選んだのだろうか。それは単に利用可能な空き地であったからという物理的な理由だけでは説明がつかない。
この選択は、義輝の高度な政治的計算に基づくものであったと考えられる。当時の将軍権威は地に落ち、義輝自身も畿内の実力者である三好長慶の傀儡に近い状態からの脱却を模索していた 17 。そのような状況下で、全く新しい土地に御所を建てるのではなく、あえて「斯波氏」という、かつて将軍を支えた最強の管領家の跡地を選んだことには、明確な政治的メッセージが込められていた。それは、「将軍と管領が一体となって幕政を運営した、本来あるべき秩序を回復する」という強い意志の表明であった。三好氏のような、元は管領細川氏の家臣に過ぎなかった新興勢力に対し、自らの「正統性」と「歴史的権威」を、土地の記憶を借りて視覚的に、そして象徴的に対置させる狙いがあったのである。つまり、義輝の武衛陣跡地選定は、単なる場所選びではなく、過去の権威構造を「召喚」し、自らの権力基盤を再構築するための、巧みなシンボル戦略であったと言えるだろう。
武衛陣跡地に新たな御所を建設するという決定は、足利義輝が推し進めた将軍権威復興政策の象徴であった。この御所は、単なる居住空間ではなく、彼の政治戦略を実行するための拠点として構想され、その後の畿内の政治情勢の変化と共に、その性格を大きく変容させていくことになる。
第12代将軍・足利義晴の子として生まれた義輝の生涯は、幼少期から波乱に満ちていた。管領・細川晴元と、その家臣であった三好長慶の対立に翻弄され、父と共に京都を追われ、近江国坂本や朽木谷(現在の滋賀県)を転々とする亡命生活を余儀なくされた 17 。天文22年(1553年)には、再び三好長慶と決裂し、近江朽木へと落ち延びる 18 。以後5年間にわたり、義輝は京都を離れて再起を図ることになる。
この長い亡命生活に終止符が打たれたのは、永禄元年(1558年)のことである。近江の有力大名・六角義賢の仲介によって、宿敵・三好長慶との和睦が成立。これにより、義輝はついに京都への帰還を果たした 17 。しかし、この和睦は義輝の完全な勝利を意味するものではなかった。依然として畿内の実権は三好長慶が掌握しており、将軍と三好氏は互いを利用し合う、緊張をはらんだ共存関係、いわば「もちつもたれつ」の関係から再出発することになったのである 20 。
帰京した義輝は、当初、相国寺などを仮の御所としていたが 12 、将軍としての威厳を示す新たな拠点の建設を計画する。そして永禄2年(1559年)7月、前章で述べた武衛陣跡地において、新御所の普請を開始した 5 。この建設は、三好氏との協調関係という枠組みの中で進められたが、その根底には、いつの日か三好氏の軛(くびき)から脱し、将軍親政を実現するという義輝の強い意志が秘められていた。
完成した武衛陣御所は、義輝が展開する積極的な「将軍外交」の拠点として、重要な役割を果たした。彼は、全国の戦国大名間の紛争調停に乗り出すことで、形骸化していた将軍の権威を再び天下に示すことを試みた。
その好例が、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信(当時は長尾景虎)が信濃の覇権を巡って繰り広げた「川中島の戦い」への介入である。義輝は両者の間に立って和睦の調停を行い、将軍としての存在感を示した 3 。その他にも、九州の大友氏、中国地方の毛利氏、東北の伊達氏など、各地の有力大名間の争いに積極的に関与し、守護職の任命などを通じて彼らを幕府の秩序の中に繋ぎ止めようと努めた 3 。
こうした外交活動の一環として、武衛陣御所には各地から有力者が訪れた。永禄2年(1559年)2月、尾張統一を目前にした織田信長が、家臣を率いて上洛し、義輝に謁見したのもこの御所であった 17 。これは、信長が自らの尾張支配の正当性を将軍に承認させるという政治的目的を持った行動であり、当時の戦国大名にとって将軍の権威が決して無視できないものであったことを示している。
さらに義輝の視野は国内に留まらなかった。永禄3年(1560年)頃、イエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラや、後に『日本史』を著すことになるルイス・フロイスらに対し、畿内でのキリスト教布教を公式に許可した 22 。これは、当時の日本において極めて先進的な判断であり、彼が国際的な情報や文化に対しても開かれた姿勢を持っていたことをうかがわせる。武衛陣御所は、戦国日本の国際交流の窓口の一つでもあったのである。
義輝と三好長慶の間の微妙な均衡は、永禄7年(1564年)7月の長慶の病死によって、大きく崩れることになった 3 。絶対的な当主を失った三好家では内紛が顕在化し、畿内の政治情勢は一気に流動化した。義輝はこれを、将軍権力を完全に回復するための千載一遇の好機と捉えた。
この時期を境に、義輝の対三好戦略は「協調」から「対決」へと明確に舵を切る。その物理的な証拠が、武衛陣御所の構造変化であった。永禄7年10月、義輝は御所の大規模な増改築に着手し、それまでの邸宅としての性格に加え、軍事拠点としての機能を大幅に強化したのである 25 。具体的には、周囲に石垣を築き、広くて深い堀を巡らせるなど、本格的な「城郭化」を進めた。これは、来るべき三好氏との軍事衝突を想定した、明確な意志の表れであった。御所の構造変化は、義輝の政治方針の根本的な転換を雄弁に物語るものであり、この「城」の出現が、やがて来る悲劇の直接的な引き金となっていくのである。
足利義輝が三好氏との対決を決意し、大規模な改築を施した武衛陣御所は、もはや単なる政庁や邸宅ではなかった。それは同時代に「二条武衛陣の御構え」と呼ばれた通り、明確な防御思想に基づいて設計された軍事拠点、すなわち「城」であった 8 。その具体的な構造は、近年の考古学的発掘調査によって、文献史料の記述を裏付ける形で次々と明らかになっている。
ルイス・フロイスの記録や日本の軍記物には、永禄の変の際に御所が多数の兵によって包囲され、激しい攻防戦が繰り広げられた様子が描かれている 25 。これらの記述は、御所が相応の防御施設を備えていたことを示唆していたが、その具体的な規模や構造については長く不明な点が多かった。しかし、義輝自身が永禄7年(1564年)の三好長慶の死後、軍事的緊張に備えて「石垣や大堀を持つ城郭化された御所の建設を進めた」という記録は 25 、この施設が意図的に要塞化されたことを明確に物語っている。
武衛陣御所の実像解明に大きな進展をもたらしたのは、昭和後期から平成にかけて行われた京都市営地下鉄烏丸線の建設工事などに伴う一連の発掘調査であった 27 。これらの調査により、現在の平安女学院や京都御苑西側の地下から、旧状を留めた堀や石垣の遺構が発見されたのである 12 。
特に注目すべきは、検出された堀の規模である。発掘調査の結果、堀の幅は約11メートル、最も深い地点での深さは3メートルに達する、極めて大規模なものであったことが判明した 28 。堆積物の状況から、水をたたえた「水堀」であったことも確認されている 28 。このような巨大な堀を京都の市街地の中心部に巡らせることは、平時では考えられない大工事であり、義輝が直面していた軍事的脅威の大きさと、それに対抗しようとする彼の強い意志を物語っている。
また、堀の内側には石垣が築かれていたことも確認された。地下鉄工事の際に発見された石垣の一部は、現在、京都御苑の椹木口内側と、徳川家が築いた元離宮二条城内に移築・復元されており、その姿を間近に見ることができる 12 。
発掘された石垣材を詳しく調査すると、驚くべき事実が判明した。石垣の中には、多数の石仏や五輪塔、墓石などが建築資材として転用されていたのである 12 。これは、後に織田信長が足利義昭のために同じ場所に築いた「旧二条城」で特に顕著に見られる特徴であるが、義輝の城郭化においても同様の手法が用いられていた可能性が高い。
このような神仏や死者を祀るための石材を城の石垣に転用する行為は、当時の人々にとって極めて冒涜的なものであったはずである。しかし、それを敢えて行った背景には、二つの理由が考えられる。一つは、城郭化を急ぐ必要があり、手近にある石材をなりふり構わず調達したという、切迫した状況である。もう一つは、神仏の権威よりも現実的な軍事力や政治的実利を優先するという、戦国時代特有の合理主義的な価値観の現れである。石仏の転用は、義輝の御所が、伝統的な権威や宗教的禁忌さえも乗り越えようとする、戦国乱世の激しさを体現した建造物であったことを示す、重要な物証と言える。
これらの考古学的成果は、義輝の武衛陣御所が、京都の市街地に突如として出現した「異質な軍事空間」であったことを明確に示している。それまでの京都における権力者の邸宅、例えば足利義満の「花の御所」などが、政治と文化の中心地としての性格が強かったのに対し 2 、義輝の御所は、市街戦を想定した本格的な戦闘拠点であった。
この御所の存在そのものが、畿内の事実上の支配者であった三好・松永勢に対する、極めて強力な挑発行為であったことは想像に難くない。それは、「もはや対話と協調の段階は終わった。今後は武力をもって将軍の権威を執行する」という、義輝からの明確な挑戦状であった。したがって、永禄の変は、三好・松永勢が、この「城」という物理的な脅威と、それが象徴する義輝の挑戦的な政治姿勢を、これ以上看過できなくなった結果引き起こされたと解釈できる。御所の城郭化そのものが、変の直接的な引き金の一つとなったのである。この防御思想と構造は、後に織田信長が足利義昭のために築く「旧二条城」の原型となり、戦国期の都市城郭の先駆けとしての歴史的意義も持っている 14 。
永禄8年5月19日(西暦1565年6月17日)、城郭化された武衛陣御所は、その真価を問われることなく、炎に包まれる運命を迎えた。この「永禄の変」は、現職の征夷大将軍が家臣によって殺害されるという、日本史上前代未聞の事件であり、戦国時代の「下剋上」を象徴する出来事として語られてきた。しかし、その背景には複雑な政治力学と、関係者それぞれの思惑が絡み合っていた。
事件の直接の引き金を引いた三好・松永勢は、決して一枚岩の勢力ではなかった。三好長慶という絶対的なカリスマを失った後、三好家は深刻な内部対立に揺れていた。家督を継いだのは長慶の養子である若年の三好義継であったが、実権は重臣である三好長逸・三好政康・岩成友通の三名、いわゆる「三好三人衆」と、長慶の右腕として絶大な権勢を誇った松永久秀が分有する形となった 33 。
しかし、三人衆と久秀は、三好家中の主導権を巡って激しく対立した 34 。三人衆が三好一門としての結束を重んじる一方、久秀は自身の権力基盤の拡大を狙っており、両者の利害は根本的に異なっていた。この内部対立が、将軍・足利義輝を巡る政争をより複雑なものにしていく。
永禄の変の動機については、複数の説が存在する。
一つは、伝統的な「下剋上説」である。これは、将軍権威の回復を目指し、武衛陣御所を城郭化するなど、次第に独自の動きを強める義輝を、自らの権力を脅かす存在と見なした三好・松永勢が、将軍を排除するために共謀して暗殺した、という見方である 37 。
これに対し、近年の研究で有力視されているのが「御所巻(ごしょまき)説」である。これは、三好・松永勢の当初の目的は将軍殺害ではなく、御所を軍勢で包囲するという示威行為(御所巻)によって義輝に圧力をかけ、特定の側近(進士晴舎など)を排除させ、将軍を再び自分たちの意のままに動く傀儡に戻すことであった、とする説である 38 。この説の根拠として、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記録や、同時代の日本の軍記物『永禄記』、一次史料である「上杉家文書」などに、三好勢が「訴訟あり(要求がある)」と申し立てて御所に押し寄せたと記されている点が挙げられる 25 。将軍を殺害すれば、新たな将軍候補を巡って三好家内部の対立が再燃することは必至であり、彼らにとっても得策ではなかった。このことから、当初は政治的な圧力によって事態を収拾する狙いであった可能性が高いと考えられる。
永禄8年5月18日、三好義継は1万余の大軍を率いて上洛した 25 。表向きの理由は清水寺参詣であったが、その軍勢は革堂や知恩寺、相国寺などに分宿し、京の要所を固めた 25 。将軍側もこの不穏な動きを察知しており、フロイスの記録によれば、義輝は事前に難を避けるため御所からの脱出を図ったが、「将軍の権威を失墜させる」と奉公衆に説得され、御所に戻ったという 25 。
翌19日の早朝、三好軍は突如として武衛陣御所を包囲した 25 。その兵力は1万から1万2千と記録される一方、御所を守る将軍側の兵力はわずか数百名に過ぎなかった 25 。三好勢は「将軍に訴訟あり」と叫び、取次を求めた。岩成友通が訴状を渡すために門を叩くと、申次(取次役)の進士晴舎がこれを受け取り、義輝との間を往復した。フロイスによれば、この時三好方が突きつけた要求には、義輝の正室や側室(進士晴舎の娘であった小侍従局)、そして多くの幕臣の殺害が含まれていたという 25 。このような過酷な要求を義輝が呑むはずもなく、交渉は決裂。辰の刻(午前8時頃)、三好軍は御所への総攻撃を開始した。
足利義輝は、単なる公家の血を引く将軍ではなかった。彼は当代随一の武芸の達人として知られ、後世「剣豪将軍」と称される。その武名は、単なる伝説ではない。剣聖・塚原卜伝(つかはら ぼくでん)を師と仰ぎ、鹿島新当流の奥義「一之太刀(ひとつのたち)」を伝授されたと伝えられている 40 。この評価は、後の時代の剣豪・柳生宗矩も義輝を傑出した兵法者として認識していたことからも裏付けられる 43 。武人としての高い矜持と、それに裏打ちされた卓越した武技が、彼の最期を壮絶なものにした。
衆寡敵せず、圧倒的多数の敵兵が御所内に乱入する中、義輝は自ら武器を手に取り、最後の抵抗を試みた。その奮戦ぶりは、敵味方を問わず、多くの記録者の筆によって後世に伝えられている。
ルイス・フロイスはその『日本史』に、「義輝は自ら薙刀を振るって戦い、人々はその技量の見事さにとても驚いた。その後はより敵に接近するために薙刀を投げ捨て、刀を抜いて戦った」と記し、その勇猛さを称賛している 26 。太田牛一の『信長公記』にも、「数度切って出で、伐し崩し、余多に手負わせ、公方様御働き候ろ雖も、多勢に叶はず」と、鬼神の如く戦った様子が描かれている 44 。
特に有名なのが、『足利季世記』や『永禄記』に見られる逸話である。義輝は、足利将軍家に伝わる数々の名刀を畳に突き立て、敵を斬り倒して刃こぼれするたびに、次々と新しい刀に持ち替えて戦い続けたという 44 。これは、彼の武人としての誇りと、将軍家に伝わる名刀コレクションの豊かさを示す逸話として、長く語り継がれている。
しかし、個人の武勇がいかに優れていようとも、数の差は覆しがたかった。最期の様子については諸説あるが、敵兵が四方から畳を盾にして押し寄せ、その下敷きにして討ち取ったとも、あるいは奮戦の末、御殿に火が放たれる中で自害したとも伝わる 44 。いずれにせよ、将軍・足利義輝は、その生涯を壮絶な戦いの中に終えた。彼と共に、母の慶寿院や多くの奉公衆も命を落とした。そして、義輝が将軍権威復興の夢を託した武衛陣御所は、戦闘の末に放火され、紅蓮の炎に包まれて灰燼に帰したのである 6 。
永禄の変は、当初の目的が何であったにせよ、義輝の「武人としての矜持」という想定外の変数によって、政治的示威行為が制御不能な全面戦闘へとエスカレートした結果と言える。それは計画的な暗殺というよりも、政治的駆け引きの失敗が招いた悲劇的な暴発であり、その結末は畿内の政治情勢を新たな混乱の時代へと導くことになった。
年月 |
足利義輝の動向 |
三好・松永勢の動向 |
足利義昭(覚慶)の動向 |
織田信長の動向 |
1564年7月 |
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三好長慶、死去。義継が後継 17 。 |
興福寺一乗院門跡。 |
尾張・美濃攻略を継続。 |
1564年10月 |
二条御所の城郭化を開始 25 。 |
三人衆と松永久秀の対立が顕在化 36 。 |
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1565年5月19日 |
永禄の変にて討死。御所焼失 25 。 |
義継、三人衆、久通らが御所を襲撃 25 。 |
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1565年7月 |
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細川藤孝らの手引きで奈良を脱出 36 。 |
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1566年 |
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三人衆と松永久秀の内戦が激化 35 。 |
近江、若狭、越前を流浪 45 。 |
美濃攻略に専念。 |
1568年2月 |
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三人衆が足利義栄を14代将軍に擁立 47 。 |
越前・一乗谷にて朝倉義景を頼る 46 。 |
- |
1568年7月 |
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- |
朝倉を見限り、信長を頼るため美濃へ。 |
美濃を平定。 |
1568年9月 |
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三人衆、信長の上洛軍に敗走。 |
信長と共に上洛を果たす 48 。 |
義昭を奉じて上洛 48 。 |
足利義輝の死と武衛陣御所の焼失は、単に一個人の悲劇や一つの建物の喪失に留まらなかった。それは、室町幕府という旧来の権威が決定的に失墜したことを天下に示す出来事であり、畿内に巨大な政治的空白を生み出した。この空白を埋めるべく、新たな権力闘争が始まり、その結果として、戦国時代の歴史は大きく転換していくことになる。
永禄の変において一時的に協調した三好三人衆と松永久秀であったが、共通の敵である義輝を排除した後、その対立は即座に再燃し、より激しいものとなった 36 。彼らは畿内の覇権を巡って泥沼の内戦状態に突入し、互いに相手を滅ぼそうと争った。その戦いの中で、松永久秀が東大寺に陣を敷いた三人衆を攻撃した際、兵火によって大仏殿が焼失するという悲劇も起きている 49 。義輝の死は畿内に安定をもたらすどころか、さらなる混乱と荒廃を招いたのである。
この混乱の中、三好三人衆は自らの政権の正統性を確保するため、新たな将軍を擁立する動きに出た。彼らが白羽の矢を立てたのは、かつて10代将軍・足利義稙(よしたね)と将軍位を争った足利義澄(よしずみ)の孫にあたる、足利義栄(よしひで)であった 34 。義栄は当時、三好氏の本拠地である阿波国(現在の徳島県)で庇護されており、三人衆にとって都合の良い存在であった。永禄11年(1568年)2月、三人衆の強力な後押しにより、義栄は第14代将軍に就任する 47 。しかし、彼は一度も京都の地を踏むことなく、摂津国の普門寺で将軍宣下を受けるという異例の「在国将軍」であり、その権力基盤は極めて脆弱であった 47 。
一方、歴史の歯車は別の場所で大きく動き出していた。永禄の変の際、義輝の弟で奈良・興福寺一乗院の門跡であった覚慶(かくけい)は、三好勢によって軟禁されていた 36 。しかし、彼は幕臣の細川藤孝や和田惟政らの手引きによって、決死の脱出に成功する 45 。還俗して足利義昭と名を改めた彼は、兄の遺志を継ぎ、将軍家を再興するため、各地の有力大名を頼って流浪の旅に出た 48 。
近江の六角氏、若狭の武田氏、越前の朝倉義景などを頼るも、いずれも義昭を奉じて上洛するほどの力も意志もなかった 45 。最終的に義昭が頼ったのが、当時、美濃国を平定し、破竹の勢いで勢力を拡大していた尾張の織田信長であった。信長にとって、「将軍家再興」という大義名分は、天下に号令する足がかりとして、また畿内への軍事介入を正当化する絶好の口実であった。永禄11年(1568年)9月、信長は義昭を奉じて大軍を率いて上洛を開始する 48 。永禄の変が、信長という新たな時代の覇者を中央政治の檜舞台へと引き出す、直接的なきっかけとなったのである 39 。
信長の上洛軍の前に、三好三人衆はなすすべもなく敗走し、傀儡将軍・足利義栄も間もなく病死した 51 。こうして京都を制圧した信長は、足利義昭を第15代将軍に就任させ、室町幕府を再興する。
その際、信長は義昭の新たな将軍御所として、驚くべき場所を選んだ。それは、他ならぬ兄・義輝が非業の最期を遂げた、武衛陣御所の焼け跡であった 6 。信長は、この跡地をさらに北東方向へ拡張し、わずか70日という驚異的な短期間で、新たな城を築き上げた 31 。これが、後に「旧二条城」と呼ばれる城郭である 29 。この城は、義輝の御所を遥かに凌ぐ規模と堅固さを誇り、二重の堀と三重の「天主(天守)」まで備えた、壮麗かつ本格的なものであったと伝えられる 13 。
信長が敢えてこの場所を選んだことには、深い政治的意図があった。それは、前将軍の無念を晴らし、その遺志を継ぐ者として義昭と自らを天下にアピールするための、計算され尽くした演出であった。さらに、義輝の城よりも遥かに優れた城を、圧倒的な速さで築いてみせることで、旧来の幕府の限界を乗り越え、自らの強大な権力によって「新しい、より強力な幕府」を創り出すという宣言でもあった。つまり、跡地の再利用は、過去を「上書き」する行為であり、室町将軍の権威という既存のシステムを、一度破壊された場所で自らの手で再構築し、その実質的な支配者として君臨するという、信長の巧みな政治的デモンストレーションだったのである。
義昭の旧二条城も、やがて彼が信長と対立した結果、天正元年(1573年)に追放されると、信長の手によって破却された 12 。その後、武衛陣跡地は再び市街地へと戻り、江戸時代を経て、明治28年(1895年)には、その地に平安女学院が移転し、現在に至っている 7 。
現在、平安女学院の敷地内には、「斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址」と刻まれた石碑が静かに佇んでいる 6 。それは、室町幕府の栄華を支えた管領家の記憶、将軍権威の回復に命を燃やした剣豪将軍の野心と悲劇、そして戦国の世の激動を、現代に伝える貴重な証人なのである。
足利義輝がその治世の最後に拠点とした武衛陣御所は、単なる歴史上の一建築物ではない。それは、戦国時代の転換期における政治的・軍事的力学が凝縮され、その後の歴史の流れを大きく変えるきっかけとなった、極めて重要な意味を持つ空間であった。本報告書で詳述した多角的な分析を通じて、その歴史的意義を以下のように結論づけることができる。
第一に、この御所は、地に堕ちた室町幕府の権威を、将軍自らの手で回復しようとした 最後の輝きと挫折の象徴 であった。義輝は、かつての管領筆頭・斯波氏の邸宅跡地という歴史的記憶を宿す場所を選び、そこを拠点に積極的な「将軍外交」を展開した。さらに、三好長慶の死を好機と捉え、御所を本格的な城郭へと変貌させたことは、彼がもはや傀儡であることを拒否し、実力をもって将軍親政を実現しようとした強い意志の表れであった。しかし、その壮絶な終焉は、旧時代の権威がもはや通用しない戦国乱世の非情な現実を、天下に知らしめる結果となった。
第二に、永禄の変と御所の焼失は、 歴史の転換点としての役割 を果たした。現職将軍の殺害という前代未聞の事態は、畿内の権力構造を完全に流動化させた。この混乱は、三好三人衆と松永久秀の内戦を激化させると同時に、将軍家の再興を大義名分とする新たな勢力の介入を招くことになった。結果として、足利義昭を奉じた織田信長という、時代の覇者を中央政界の檜舞台へと呼び込む直接的な触媒となったのである。この御所の存在と、その劇的な消滅なくして、信長の急速な台頭とその後の天下統一事業は、大きく異なる展開を辿っていたであろう。
第三に、武衛陣御所は、 戦国中期の京都における本格的な都市城郭としての価値 を持つ。文献史料の記述に加え、近年の考古学的発掘調査によって、幅11メートルに及ぶ水堀や石垣の実在が確認された。これは、当時の京都の中心部に、市街戦を想定した高度な防御機能を持つ軍事拠点が築かれていたことを示す動かぬ証拠である。石仏や墓石を転用した石垣は、当時の切迫した状況と合理主義的な価値観を物語る一級の史料であり、この御所が戦国期の築城技術や政治的緊張を具体的に示す貴重な歴史遺産であることを明らかにしている。
最後に、この御所の記憶は 現代へと継承 されている。跡地に建つ石碑や、京都御苑などに移築・復元された石垣は、物理的には断片的な遺構に過ぎないかもしれない。しかし、それらは斯波氏の栄華、剣豪将軍・足利義輝の野心と悲劇、そして一つの時代が終わり、新たな時代が幕を開ける瞬間の激動を、我々に静かに語りかけている。武衛陣御所は、戦国史の重要な一断面を切り取った記憶の場として、今後も重要な意義を持ち続けるであろう。