陸奥の寺池城は、葛西氏の拠点として栄え、豊臣秀吉の奥州仕置で改易される。木村吉清の統治下で葛西大崎一揆の舞台となり、伊達氏の要害として再生。その歴史は奥州の激動を物語る。
陸奥国登米郡、雄大なる北上川の西岸に広がる丘陵地帯に、かつてその威容を誇った城がある。寺池城(てらいけじょう)である。この城は、単一の時代にのみ属する存在ではない。戦国大名葛西氏が数百年にわたる支配の拠点として築いた中世の城郭であり、豊臣秀吉による天下統一の激動の中で落日の悲劇に見舞われた動乱の舞台であり、そして江戸時代には仙台藩伊達氏のもとで北の守りを固める重要拠点「登米要害」として再生を遂げた近世の城塞でもある 1 。寺池城の歴史を紐解くことは、奥州(東北地方)における中世から近世への劇的な移行期、その権力構造の変容と社会のダイナミズムを解き明かすことに他ならない。
この城は、その歴史の変遷を反映するように、複数の名で呼ばれてきた。葛西氏の時代から続く「寺池城」あるいは「寺池館」という呼称が最も基本的であるが 2 、城の建つ丘陵が牛の臥した姿に似ることから「臥牛城(がぎゅうじょう)」という風雅な別名も持つ 2 。そして、江戸時代に入り伊達氏の支配下で仙台藩の地方統治拠点たる「要害」とされた際には、「登米要害(とよまようがい)」がその公的な名称となった 3 。これらの名称の変遷そのものが、城の役割と性格が時代と共にいかに変化していったかを雄弁に物語っている。
本報告書は、この寺池城が持つ「三つの顔」を、戦国時代という視点を中核に据えつつ、その前史から近世、そして現代に至るまでの長大な時間軸の中で多角的に検証するものである。忘れられた北の巨城が秘める歴史の深層に迫りたい。
項目 |
詳細 |
別名 |
寺池館、臥牛城、登米要害 2 |
所在地 |
宮城県登米市登米町寺池桜小路 4 |
城郭構造 |
平山城 1 |
築城年 |
天文5年(1536年)説が有力、ただし不明ともされる 2 |
主要城主 |
葛西氏、木村吉清、白石氏(登米伊達氏) 4 |
主な遺構 |
曲輪、土塁、空堀、移築門 4 |
文化財指定 |
登米市指定有形文化財:伝寺池城搦手門、養雲寺山門 8 |
寺池城の歴史を理解するためには、まずその築城主である葛西氏の出自と、彼らが奥州に根を張るに至った経緯を遡る必要がある。葛西氏は、桓武平氏の流れを汲む名門・秩父氏の一族であり、その直接の祖は下総国葛西庄(現在の東京都葛飾区周辺)を本拠とした豊島氏である 10 。
その名を歴史に刻む画期となったのが、初代当主・葛西三郎清重の代であった。清重は、源頼朝が平家打倒の兵を挙げると、いち早くその麾下に馳せ参じ、数々の戦で功績を挙げた 12 。特に文治5年(1189年)の奥州合戦において、奥州藤原氏を滅亡させた戦功は絶大であり、頼朝は清重を初代「奥州総奉行」に任じた 14 。これは、単に広大な所領を与えられただけでなく、奥州における御家人の統率や治安維持を担う、鎌倉幕府の権威を代行する極めて重要な役職であった 16 。この時点から、葛西氏は単なる関東の一豪族から、奥州支配の正統性を持つ名門へと飛躍を遂げたのである。
当初、葛西氏は奥州藤原氏の旧都・平泉に拠点を置き、幕府の出先機関として奥州統治の中核を担った 18 。しかし、鎌倉時代から南北朝、室町時代へと時が流れるにつれ、その支配の中心は、政治的権威の象徴であった平泉から、経済と交通の大動脈である北上川流域へと徐々に移行していく 18 。南北朝の動乱期には、寺池(登米)を本拠とする系統と石巻を本拠とする系統に分かれる局面もあったが、やがて寺池系が葛西氏の主流となり、登米郡、本吉郡、桃生郡といった北上川下流域一帯を勢力下に収め、戦国大名としての確固たる基盤を築き上げていった 10 。
戦国大名として自立した葛西氏が、その領国支配の中心として築いたのが寺池城であった。築城の具体的な時期については、確実な一次史料が乏しく、「不明」とする資料もある 2 。しかし、複数の文献が一致して伝える有力な説として、天文5年(1536年)、第15代当主・葛西晴胤が、それまでの本拠地であった石巻の日和山城から拠点を移し、新たに築城したというものがある 6 。
この本拠地の移転は、葛西氏の領国経営戦略における重大な転換点を示すものであった。葛西氏の起源が鎌倉幕府の「奥州総奉行」という権威職にあったことを考えれば、初期の拠点である平泉は、その権威を象徴する地であった。しかし、戦国時代の領国経営においては、旧来の権威以上に、経済力と軍事力を支える現実的な基盤が重要となる。晴胤が新たな本拠地として選んだ登米の地は、北上川の水運を直接掌握できる水陸交通の要衝であり、領内各地からの物資の集散や軍勢の動員に極めて有利な立地であった 22 。寺池城の築城は、葛西氏の支配の根拠が、過去の権威から、米の生産と流通という実利的な経済基盤へと完全に移行したことの物理的な象徴と解釈することができる。
寺池城は、北上川右岸の比高約30mの丘陵に築かれた平山城である 7 。その規模は東西約100m、南北約450mに及び、城の周囲には沼沢地が入り組んでいたとされ、平城でありながら天然の要害をなしていた 6 。縄張りは、丘陵の最高所に本丸を置き、その南側に二の丸、三の丸を階段状に配置する連郭式の構造であったと推定される。現在の地割によれば、仙台地方裁判所登米支部の裏手にある畑地が本丸、裁判所敷地が二の丸、そして南に隣接する寺池公園が三の丸にあたるとされている 4 。
葛西氏時代の城の具体的な姿、すなわち建物や防御施設の詳細については、本格的な発掘調査が行われていないため、多くが謎に包まれている。しかし、同時代の奥州の城郭、例えば大崎氏の居城・名生城や、九戸政実が立てこもった九戸城などが、土塁と空堀を主体とした構造であったことから類推すれば 24 、寺池城もまた、石垣を多用するような近世城郭とは異なり、土を主材料とした実戦的ながらも比較的簡素な構造であった可能性が高い。
なお、築城年について「不明」とする説と「天文5年」とする説が併存している状況は、この時代の葛西氏に関する同時代の記録がいかに少ないかを示唆している。江戸時代以降に編纂された地誌や系図に依拠せざるを得ないという史料的制約が、葛西氏時代の寺池城の実像解明を困難にしている一因である。
寺池城を本拠とし、奥州に広大な領国を築いた葛西氏であったが、その栄華は戦国時代の終焉と共に、あまりにも唐突な形で幕を閉じることとなる。その最後の当主が、第17代・葛西晴信である 26 。晴信は、宿敵である大崎氏との抗争を続ける一方で、永禄12年(1569年)には遥々上洛して織田信長に謁見し、所領の安堵を得るなど、中央政権の動向にも注意を払う、決して時勢に疎いだけの武将ではなかった 27 。その所領は30万石とも称され、奥州屈指の大名であったことは間違いない 11 。
しかし、彼の治世は多難であった。領内では浜田広綱をはじめとする有力家臣の反乱が頻発し、その統制に苦慮していた 28 。これは、葛西氏の支配体制が、当主の強力なリーダーシップのもとに一元化されたものではなく、独立性の高い国人領主の連合体という中世的な性格を色濃く残していたことを示している。当主の権力基盤は、必ずしも盤石ではなかったのである。
この内憂が、葛西氏の運命を決定づける。天正18年(1590年)、豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして小田原北条氏を攻めた際、全国の大名に小田原への参陣を命じた。晴信も参陣の意はあったとされるが、領内の不穏な情勢を鎮めるために軍を動かすことができず、結果として参陣の機を逸してしまった 28 。秀吉が発した「惣無事令」と参陣命令は、各大名に絶対的な服従を求める新しい天下の秩序であった。この新秩序の厳格さを理解しきれなかった、あるいは、内政の混乱ゆえに対応できなかった葛西氏の不参陣は、秀吉によって天下への反逆と見なされた。
結果、奥州仕置において、葛西氏は400年以上にわたって支配してきた所領を全て没収され、戦国大名としての歴史に幕を下ろした 7 。葛西氏の滅亡は、一個人の判断ミスというよりも、中央集権化という時代の大きな潮流に適応できなかった地方権力の構造的限界の露呈であったと言えよう。当主・晴信の最期については、改易後に諸国を流浪し、加賀国で客死したという説が一般的であるが 27 、寺池城で最後まで抵抗し戦死したとする悲壮な伝承も残されている 28 。
葛西氏が滅びた後も、その記憶は地域に深く刻まれた。旧臣たちは再興を期して「葛西勝つ」を合言葉とし、その目印として屋敷の門前に「サイカチ」の木を植えたという伝説は、今なお登米地方一帯に語り継がれている 30 。これは、葛西氏の支配が単なる武力によるものではなく、地域社会に深く根ざしたものであったことの何よりの証左である。
葛西氏が去った寺池城に、新たな城主として入ったのは、豊臣秀吉の家臣・木村吉清であった。彼は、葛西・大崎両氏の旧領を合わせた広大な領地を与えられ、寺池城をその本拠とした 2 。しかし、吉清の統治は、地域の現実に即したものではなかった。彼が強行した急進的な検地や諸改革は、旧来の支配秩序と既得権益を根本から覆すものであり、葛西氏の旧臣や地域の地侍、さらには領民たちの激しい反発を招いた 22 。
天正18年(1590年)10月、ついに不満は爆発する。葛西・大崎の旧臣たちを中核とした大規模な一揆、すなわち「葛西大崎一揆」が勃発したのである 33 。この一揆は、単なる圧政に対する農民反乱ではない。それは、豊臣政権という外部の巨大権力による直接支配と、それに伴う近世的な土地制度の導入に対し、地域の伝統的支配層が自らの存亡をかけて起こした、中世的秩序の維持を求める最後の組織的抵抗運動であった。
一揆勢の目標は明確であった。彼らはまず、旧領主の権威の象徴であった寺池城を急襲し、これを占拠した 2 。不意を突かれた城主・木村吉清は、なすすべもなく、かろうじて佐沼城へと逃げ延びる有様であった 3 。
この事態に、秀吉は伊達政宗と蒲生氏郷に一揆の鎮圧を命じた 35 。政宗はこれを好機と捉え、大軍を率いて出陣。佐沼城をはじめとする一揆の拠点を次々と攻略し、翌天正19年(1591年)には寺池城も奪還、一揆を完全に鎮圧した 2 。この一連の動乱の結果、統治に失敗した木村吉清は改易され、葛西・大崎の旧領は、一揆鎮圧の功績を認められた政宗に与えられることとなった。寺池城を巡る戦国末期の激動は、結果として伊達氏の勢力圏を飛躍的に拡大させ、仙台藩62万石の礎を築く一助となったのである。
戦国末期の動乱で一時荒廃した寺池城は、伊達政宗の支配下に入ると、新たな役割を与えられ再生を遂げる。慶長9年(1604年)、政宗の重臣であった白石宗直が1万5千石をもって入城し、城の大規模な修築を行った 3 。この修築により、城は中世的な戦の砦から、行政と軍事を司る近世の拠点へとその性格を大きく変えた。
江戸時代の仙台藩では、一国一城令の事実上の例外として、領内統治のために「要害」と呼ばれる21の戦略的拠点が設けられた 7 。寺池城は「登米要害」としてその一つに数えられ、藩の北東部における政治・軍事の中心地としての重責を担うことになったのである 2 。
城主となった白石氏は、後に政宗から伊達姓を賜ることを許され、「登米伊達氏」として幕末に至るまで13代、約300年にわたってこの地を治めた 4 。登米伊達氏は仙台藩の中でも一門第五席という高い家格を誇り、その所領は1万石を超えていたため、居城である登米要害もそれにふさわしい威容を整えていたと想像される 23 。
登米要害の整備と並行して、白石宗直は城下町の建設にも着手した。慶長11年(1606年)には大規模な町割りを行い、武士が居住する家中町(広小路、桜小路など)と、商人や職人が住む町屋敷(三日町、九日町など)を計画的に配置した 22 。これにより、近世的な城下町「登米(とよま)」の骨格が形成された。登米は北上川の舟運を利用した米穀の集散地としても大いに繁栄し、地域の経済・文化の中心地として発展を遂げたのである 40 。
江戸時代を通じて仙台藩の重要拠点であり続けた登米要害も、時代の大きな転換には抗えなかった。明治維新を迎え、廃藩置県が断行されると、城はその役割を終え、廃城令によって解体された 8 。かつての壮麗な建物は失われ、城跡は官有地などに転用されていった。
今日、往時の寺池城を偲ぶことができる遺構は断片的である。曲輪の平坦面や、土塁、空堀の痕跡がかろうじて認められるものの、その多くは改変を受けている 4 。本丸跡は裁判所の裏手や私有の畑地となっており、一般の立ち入りは制限されているのが現状である 6 。
しかし、城の物理的な記憶を伝える貴重な遺産が、移築という形で現代に生き続けている。その一つが、市内の個人宅(熊谷家)の表門として利用されている「伝・寺池城搦手門」である 8 。そしてもう一つが、城下にある登米伊達氏の菩提寺・養雲寺の山門である 8 。この壮麗な四脚楼門は、かつての城門の一つを移したと伝えられており、両者ともに登米市の有形文化財に指定され、大切に保存されている 9 。
興味深いことに、寺池城の遺産は、城跡そのものよりも、それが育んだ城下町にこそ色濃く残されている。明治時代、登米は一時的に県庁所在地となるなど、地域の中心として繁栄を続けた 40 。この時期に建てられた旧登米高等尋常小学校や旧登米警察署庁舎といった優美な洋風建築群は、江戸時代の武家屋敷や商家町の町並みと見事に融合し、「みやぎの明治村」として全国的に知られる歴史的景観を形成している 22 。
これは、寺池城の物理的な「死」の後、その「魂」、すなわち地域の中心としての機能が城下町に継承され、新たな時代の装いをまとって生き続けたことを意味する。城という「点」の支配拠点は消滅したが、その機能と重要性は、城下町という「面」へと拡散し、受け継がれたのである。寺池城の真の遺構とは、土塁や移築門だけでなく、この歴史的な町並みそのものであると捉えることができるだろう。
陸奥国登米・寺池城の歴史は、鎌倉時代以来の奥州の名門・葛西氏の栄枯盛衰、豊臣秀吉による天下統一と中央集権化の荒波、そして伊達政宗の支配下における近世的秩序の確立という、日本の歴史における巨大な転換点を凝縮して体現している。それは、中世という時代が終焉を迎え、近世という新たな時代が幕を開ける、その産みの苦しみを映し出す鏡である。
史跡としての寺池城は、遺構の保存状態が決して良好とは言えず、特に中枢部が私有地であるなど、今後の保存活用には多くの課題を抱えている。しかし、その価値は失われた建物の壮麗さや、残された土塁の規模のみによって測られるべきではない。城の記憶を今に伝える二つの移築門、そして何よりも、城が生み出し、育んだ城下町「みやぎの明治村」の歴史的景観と一体的に捉えることで、寺池城の持つ重層的な歴史的価値は、未来へと力強く継承されていくに違いない。寺池城の物語は、単なる過去の遺物ではなく、この地のアイデンティティを形成し続ける、生きた文化的資源なのである。
年代(西暦) |
元号 |
主な出来事 |
1189年 |
文治5年 |
奥州合戦。戦後、葛西清重が初代奥州総奉行に任じられ、平泉を拠点とする 14 。 |
1536年 |
天文5年 |
葛西晴胤が石巻から本拠を移し、寺池城を築城したとされる 6 。 |
1571年頃 |
元亀2年頃 |
第17代当主・葛西晴信が寺池城主となる。大崎氏との抗争が続く 27 。 |
1590年 |
天正18年 |
豊臣秀吉の小田原征伐。葛西晴信は参陣せず、奥州仕置により改易、所領没収となる 7 。 |
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新領主として木村吉清が寺池城に入城 2 。 |
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10月、葛西大崎一揆が勃発。一揆勢が寺池城を占拠し、木村吉清は佐沼城へ逃亡 2 。 |
1591年 |
天正19年 |
伊達政宗が一揆を鎮圧。寺池城を落城させる 2 。 |
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一揆鎮圧後、葛西・大崎旧領は伊達政宗に与えられる 35 。 |
1604年 |
慶長9年 |
伊達政宗の家臣・白石宗直が寺池城に入り、城を修築。「登米要害」となる 3 。 |
1606年 |
慶長11年 |
白石宗直が城下町の町割りを行う 22 。 |
1682年 |
天和2年 |
城主の白石氏が伊達姓を賜り、「登米伊達氏」となる 4 。以後、幕末まで統治。 |
1871年頃 |
明治4年頃 |
廃藩置県により廃城。建物などが解体される 8 。 |
1976年 |
昭和51年 |
「伝寺池城搦手門」と「養雲寺の山門」が登米町(当時)の有形文化財に指定される 9 。 |