小山城は名門小山氏の拠点、戦国期には北条氏の支配下へ。関ヶ原前「小山評定」の舞台となり、幕府成立の礎となる。廃城後も史跡として記憶される。
下野国南部、現在の栃木県小山市にその痕跡を留める小山城は、単なる一地方豪族の居城という枠を超え、日本の歴史における幾多の転換点を見つめてきた重要な城郭である。西に思川の清流を天然の要害とし、広大な関東平野を望むこの地は、古来より交通の結節点として戦略的価値を秘めていた 1 。古代の東山道が通り、中世には鎌倉と奥州を結ぶ鎌倉街道が、そして近世には江戸と日光を繋ぐ日光街道がこの地を貫いたことは、小山が常に政治・経済・軍事の動脈上に位置していたことを物語っている 3 。この地理的優位性こそが、この地に城が築かれ、歴史の重要な舞台となった必然性を生み出したのである。
この城の名は、鎌倉時代から戦国時代にかけて400年以上にわたりこの地を支配した名門武士団・小山氏の歴史と分かちがたく結びついている。俵藤太(藤原秀郷)の末裔を称し、鎌倉幕府の有力御家人として栄華を極めた小山氏は、時代の変遷とともに数々の試練に直面する 1 。その栄光と苦難、そして最終的な滅亡の軌跡は、小山城(別名:祇園城)の土塁と堀の内に深く刻み込まれている。城は一族の力の象徴であり、その盛衰を映す鏡であった。
そして慶長5年(1600年)、この城は日本史における最も劇的な一場面の舞台となる。関ヶ原の戦いの直前、徳川家康が天下分け目の決断を下したとされる「小山評定」である 8 。この軍議によって、一地方豪族の城に過ぎなかった小山城は、徳川幕府成立への道筋を決定づける歴史的特異点として、その名を永遠に刻むことになった。
本報告書は、この小山城を多角的に分析し、その歴史的価値を解き明かすことを目的とする。第一章では、思川の地形を巧みに利用した城郭の構造と縄張りを詳細に分析する。第二章では、城主であった小山一族の、鎌倉時代の栄光から戦国時代の動乱の中での滅亡に至るまでの興亡史を追う。第三章では、日本史の転換点となった「小山評定」について、通説とそれに異を唱える学術的論争を交え、その歴史的意義を深く考察する。そして第四章では、城の終焉から現代に至るまでの変遷と、史跡や伝説としていかに記憶が継承されてきたかを探る。これらの分析を通じて、小山城が単なる過去の遺構ではなく、関東武士の軌跡と日本史の縮図を内包する、生きた歴史遺産であることを明らかにしていく。
年代(西暦) |
元号 |
主な出来事 |
1148年 |
久安4年 |
小山政光が小山城を築いたと伝わる 11 。 |
1180年 |
治承4年 |
源頼朝の挙兵に際し、小山朝光(後の結城氏祖)らが参陣。小山氏は鎌倉幕府の有力御家人となる 7 。 |
1199年 |
正治元年 |
小山朝政が播磨国守護職に任じられる 7 。 |
1380年-1382年 |
康暦2年-永徳2年 |
11代当主・小山義政が鎌倉公方・足利氏満に反乱(小山義政の乱)。鷲城を主戦場とし、敗北した義政は自害。小山氏嫡流は一時断絶する 9 。 |
15世紀頃 |
- |
同族の結城氏から養子を迎え小山氏再興。本拠地が祇園城(小山城)に本格的に移る 15 。 |
1561年 |
永禄4年 |
当主・小山秀綱が上杉謙信に従い、後北条氏の小田原城攻撃に参加 17 。 |
1563年 |
永禄6年 |
小山秀綱が北条氏に内応するも、上杉謙信に攻められ降伏 17 。 |
1576年 |
天正4年 |
北条氏照の攻撃により祇園城が陥落。秀綱は常陸の佐竹義重のもとへ逃れる 7 。 |
1590年 |
天正18年 |
豊臣秀吉の小田原征伐に際し、秀綱は北条方として参陣。北条氏滅亡に伴い、小山氏は改易され、戦国大名として滅亡する 7 。 |
1600年 |
慶長5年 |
7月25日、徳川家康が小山にて軍議を開き、石田三成討伐を決定(小山評定) 9 。 |
1602年頃 |
慶長7年頃 |
本多正純が3万石で小山城主となる 20 。 |
1619年 |
元和5年 |
本多正純が宇都宮へ転封。小山城は廃城となる 8 。 |
1622年 |
元和8年 |
城跡の一部に、徳川将軍家の日光社参時の宿泊施設として小山御殿が建設される 9 。 |
1682年 |
天和2年 |
小山御殿が古河藩によって解体される 9 。 |
1991年 |
平成3年 |
祇園城跡が鷲城跡、中久喜城跡と共に「小山氏城跡」として国の史跡に指定される 22 。 |
小山城、通称「祇園城」は、その構造と縄張りにおいて、関東地方における中世城郭の一つの完成形を示している。大規模な石垣や天守を持たない「土の城」でありながら、自然地形を巧みに利用し、巨大な堀と土塁を縦横に巡らせることで、極めて堅固な防御機能を実現していた 1 。
祇園城の最大の戦略的特徴は、その立地にある。城は、西側を思川が流れる東岸の河岸段丘上に築かれている 6 。この段丘は周囲の平地との比高が約10メートルあり、それ自体が天然の要害として機能した。特に西側は思川に面した断崖絶壁となっており、容易に敵の接近を許さない自然の城壁を形成していた 6 。このため、城の防御施設は必然的に、平野に面した東側に集中して構築されることになった。
城の全体構造は、本丸を中心に複数の曲輪を直線的に配置する「連郭式」を基本としている 10 。その規模は、北条氏や本多氏による改修後には東西約500メートル、南北約1,200メートルにも達したとされ、下野国南部における最大級の城郭であった 15 。この広大な縄張りは、城が単なる軍事拠点だけでなく、城主の館や家臣団の屋敷、さらには兵站施設などを内包する政治・経済の中心地であったことを示唆している。
発掘調査や古絵図の研究から、祇園城は複数の機能的な曲輪群で構成されていたことが判明している 6 。中心となる「本丸」のほか、「二の丸」「三の丸」「塚田曲輪」「本祇園曲輪」、そして小山氏の菩提寺を内包する「天翁院曲輪」などが確認されている 6 。
これらの曲輪は、それぞれが幅広く深い空堀と、高くそびえる土塁によって厳重に区画されていた 1 。これにより、仮に一つの曲輪が突破されても、次の曲輪が独立した防御拠点として機能し、敵の侵攻を段階的に食い止めることが可能であった。特に、城の出入り口である「虎口」は、敵兵が直線的に進入できないよう、通路を屈曲させた複雑な構造を持ち、その遺構は現在も良好な状態で残されている 8 。
また、特筆すべき遺構として「馬出」の存在が挙げられる 8 。これは虎口の前面に設けられた小規模な曲輪で、城内から出撃する兵の待機場所となると同時に、虎口へ殺到する敵兵に側面から攻撃を加えるための重要な防御施設であった。天翁寺西側などに残る馬出の遺構は、祇園城が実戦を強く意識して設計されていたことを示している 8 。
さらに、城の西側、思川に面した断崖には「舟着き場」の跡が確認されている 1 。これは、思川の水運を利用した兵站や情報の伝達ルートとして機能したと考えられる。平時においては物資の搬入路として、戦時においては援軍の受け入れや、いざという時の脱出路としても想定されていた可能性があり、城の生命線を支える重要な施設であった 1 。
祇園城の縄張りは、一度に完成したものではなく、数百年にわたる歴史の中で、その時々の政治・軍事状況を反映しながら段階的に拡張・改修されていった。
築城当初、鎌倉時代から室町時代にかけての小山氏の城は、現在の城山公園中心部程度の、比較的小規模なものであったと推定される 16 。しかし、戦国時代の動乱が激化するにつれ、城の防御機能は強化されていく。
大きな転機となったのが、天正4年(1576年)の北条氏による占領である。相模を本拠とする後北条氏は、北関東支配の拠点として祇園城を戦略的に重視し、大規模な拡張・整備を行った 7 。現存する巨大な堀や土塁の多くは、この北条氏照による改修期に形成されたと考えられており、戦国末期のより大規模な軍事衝突に対応するためのものであった。
最後の改修は、関ヶ原合戦後に城主となった徳川家康の腹心・本多正純によって行われた 8 。正純は、近世城郭の技術を取り入れ、最終的な縄張りを完成させたとされるが、その詳細は明らかではない。しかし、彼が元和5年(1619年)に宇都宮城へ転封となると、祇園城は戦略的価値を失い、一国一城令の政策的背景もあって廃城とされた 8 。城の歴史は、その主の運命と共に幕を閉じたのである。
祇園城の構造を考察する上で、同時代の近隣の城郭と比較することは、その歴史的性格をより鮮明に浮かび上がらせる。例えば、約18キロメートル北に位置する佐野氏の居城・唐沢山城は、戦国末期から織豊期にかけて、関東の城としては珍しい壮大な高石垣が築かれている 27 。一方、祇園城は最後まで土塁と空堀を主体とする「土の城」であった 1 。この構造上の違いは、単なる築城技術や様式の差に留まらない。それは、城主であった小山氏と佐野氏が辿った、全く異なる運命を物理的に物語っているのである。
大規模な石垣普請の技術は、織田信長や豊臣秀吉の天下統一事業の過程で、主に西日本で飛躍的に発展し、全国へと広まっていった。関東地方にこの技術が本格的に導入されるのは、豊臣政権下、特に小田原征伐以降のことである。佐野氏は、天正18年(1590年)の小田原征伐において豊臣方に与し、関ヶ原の戦いでは徳川家康に従ったことで、近世大名として生き残ることに成功した 29 。彼らが唐沢山城に高石垣を築くことができたのは、この新しい時代に適応し、新たな支配者(豊臣・徳川)の技術や権威を取り入れることができたからに他ならない。
対照的に、小山氏は小田原征伐で北条方につき、戦国大名として改易・滅亡した 7 。彼らは、石垣の時代が本格的に到来する「直前」に、歴史の表舞台から退場を余儀なくされたのである。したがって、祇園城に石垣が存在しないという事実は、小山氏が中世的な関東武士団の枠組みから脱却し、近世大名へと転身することができなかった歴史的画期を、城の構造そのものが示していると言える。祇園城の壮大な土塁は、中世関東武士の栄光を物語ると同時に、その時代の終焉をも象徴する、静かなる証人なのである。
小山城の歴史は、その主であった小山氏一族の400年以上にわたる栄光と悲劇の物語そのものである。藤原秀郷を遠祖に持つこの一族は、鎌倉幕府の創設に貢献して栄達を極め、南北朝の動乱を乗り越えたものの、戦国という巨大な時代のうねりの中で、ついにその命運を尽きることになる。
小山氏の隆盛の礎を築いたのは、初代当主とされる小山政光である 1 。彼は、源頼朝の乳母を務めた寒河尼を妻に迎えたことで、頼朝から絶大な信頼を得た 7 。治承4年(1180年)の頼朝挙兵に際しては、子息の朝政、宗政、朝光らが逸早く馳せ参じ、野木宮合戦での勝利や奥州合戦での武功により、鎌倉幕府内での地位を不動のものとした 7 。嫡流の小山氏は播磨国守護職に任じられるなど、関東を代表する有力御家人としてその名を轟かせた 7 。
しかし、その栄光は南北朝時代に大きな試練を迎える。11代当主・小山義政は、鎌倉公方・足利氏満との対立の末、康暦2年(1380年)に反乱を起こす(小山義政の乱) 9 。この戦いは、小山氏の支城であった鷲城を主戦場として繰り広げられたが、幕府軍の圧倒的な兵力の前に義政は敗北し、自害 6 。これにより、小山氏の嫡流は一度断絶するという悲運に見舞われた。
その後、幕府の配慮により同族の結城氏から泰朝が養子として迎えられ、小山氏は再興を果たす 9 。この再興期に、一族の本拠地は、それまでの鷲城や中久喜城から、より防御に優れ、政治・経済の中心地として発展の余地があった祇園城へと本格的に移されたと考えられている 13 。
本章の核心となる戦国時代、小山氏が直面した状況は極めて過酷であった。18代当主・小山秀綱(1529年-1603年)の時代、関東は二つの巨大勢力が覇を競う坩堝と化していた。南からは、関東全域の支配を目指す相模の後北条氏康・氏政親子が、北からは、関東管領の権威を掲げて幾度となく越山してくる越後の上杉謙信が、それぞれ強大な圧力を加えていたのである 17 。
この二大勢力の狭間に置かれた秀綱は、一族の存続という至上命題を背負い、苦渋に満ちた外交政策を余儀なくされる。永禄4年(1561年)には上杉謙信に従って後北条氏の小田原城攻撃に参加するが、わずか2年後の永禄6年(1563年)には北条氏に内応 17 。しかし、その動きを察知した謙信に祇園城を攻められて降伏し、人質を差し出す。だがその翌年には再び北条氏に通じるなど、まさに綱渡りのような状況であった 17 。このような離反と従属の繰り返しは、秀綱個人の優柔不断さというよりは、自立した軍事力を持たない関東の中小豪族(国衆)が生き残るための、唯一の現実的な選択肢であった。
この不安定な外交は、一族内に深刻な亀裂を生じさせた。秀綱の実弟であり、結城氏を継いでいた結城晴朝は、早くから北条方としての立場を明確にしており、兄・秀綱の親上杉的な動きを裏切りと見なした 17 。結果として、小山・結城両氏は兄弟でありながら互いに争うという悲劇に見舞われ、小山氏の国力は内側から消耗していった 31 。
秀綱の必死の努力も空しく、関東における北条氏の勢力拡大は止めようがなかった。天正3年(1575年)、北条氏政の実弟である猛将・北条氏照が率いる大軍が祇園城に侵攻する 7 。秀綱は近隣の佐竹義重や宇都宮広綱の支援を得て籠城し、一度はこの攻撃を凌いだ 17 。しかし、翌天正4年(1576年)、氏照は再び大軍を率いて来襲。度重なる攻撃の前に祇園城はついに陥落し、秀綱は城を追われた 7 。
城主を失った祇園城は北条氏照の直轄領となり、北関東を攻略するための最前線基地として大規模な改修が施された 7 。一方、秀綱は反北条連合の中心人物であった常陸の佐竹義重を頼り、亡命生活を送ることになる 7 。
そして天正18年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉が20万を超える大軍を率いて関東に侵攻する(小田原征伐)。この時、秀綱は北条氏の一配下として小田原城に籠城し、運命を共にした 9 。圧倒的な物量の前に北条氏は降伏し、滅亡。北条方についた小山氏もまた、秀吉によって所領を没収され、改易処分となった 7 。ここに、鎌倉時代から400年以上にわたり下野国南部に君臨した名門・小山氏は、戦国大名としての歴史に終止符を打ったのである。
戦国大名としては滅亡した小山氏であったが、その血脈は絶えることはなかった。秀綱は旧領回復を目指して奔走するも、その夢は叶わず失意のうちにこの世を去った。しかし、その孫・秀恒の子である秀堅が水戸徳川家に客分として迎えられ、後に家老職を務めるなど上級藩士として家名を再興した 7 。武家としての誇りを失わず、新たな時代の中で生きる道を見出したのである。
小山氏が長年にわたり下野国南部の雄として勢力を維持できた背景には、彼らの武勇だけでなく、その力を支える強固な経済基盤の存在があった。その基盤を理解する鍵は、城の西を流れる思川と、この地域の特産品にある。小山城が思川の河岸段丘に築かれ、舟着き場を備えていたことは、単なる防御上の理由だけではなかった 1 。中世において、年貢米や各種物資を大量に輸送する最も効率的な手段は河川舟運であり、思川を支配することは、この地域の物流、すなわち経済の動脈を掌握することを意味した 2 。
さらに、小山氏の支配領域は、古くから麻(野州麻)の優良な産地として知られていた 35 。麻布は、庶民の衣料から武士の武具(鎧の紐や母衣など)に至るまで幅広く使用される、極めて重要な戦略物資であった。この麻の生産と流通を管理し、思川の水運に乗せて各地へ供給することで、小山氏は莫大な利益を上げていたと推察される。史料には、小山氏が広大な荘園「中泉荘」を支配していたことも記録されており、この荘園経営と、思川の水運、そして麻の流通という三つの要素が組み合わさることで、彼らの軍事力と政治力を支える安定した経済基盤が形成されていたのである 37 。戦国時代における小山氏の敗北は、単に軍事的な力関係の変化だけでなく、より広域な流通網を構築し、経済的にも関東を席巻しつつあった後北条氏のような新興勢力に、地域の経済圏ごと飲み込まれていった過程と捉えることができる。彼らの興亡史は、軍記物語の裏側にある、経済支配を巡る熾烈な競争の歴史でもあるのだ。
小山城の名を日本史に不滅のものとしたのが、慶長5年(1600年)7月に行われたとされる「小山評定」である。この軍議は、徳川家康が天下取りへの道を確固たるものにした、関ヶ原の戦いの序章として、長らく劇的な物語として語り継がれてきた。しかし近年、その実在性を巡って学術的な論争が活発化しており、小山評定は史実と後世に創られた神話との狭間に揺れ動いている。
江戸時代に成立した軍記物などに描かれる通説は、次のようなものである。慶長5年(1600年)7月、豊臣政権の五大老筆頭であった徳川家康は、同じく五大老の上杉景勝に謀反の疑いありとして、諸大名を率いて会津討伐へと向かった。7月24日、その軍勢が下野国小山に本陣を置いたその時、上方から驚くべき報せが届く 9 。家康の不在を好機と見た五奉行の石田三成が、毛利輝元を総大将に担ぎ、反家康の兵を挙げたというのである。
この報に、会津討伐軍の諸将は激しく動揺した。彼らの多くは豊臣恩顧の大名であり、その妻や子を人質として大坂の屋敷に残してきていたからである。前の上杉、後ろの石田という挟撃の危機に加え、家族の安否という私情が絡み、軍議は紛糾した。この絶体絶命の状況下で、家康は翌25日、諸将を小山に集めて軍議を開いた 9 。家康は「このまま上杉を討つべきか、軍を返して西へ向かい、三成を討つべきか。諸君らの進退は自由である」と問いかけた。
沈黙が支配する中、最初に口火を切ったのは、豊臣秀吉子飼いの猛将・福島正則であった。「大坂の人質、殺さば殺せ。我らは内府殿(家康)に味方し、石田三成を討つべし」と断言した 40 。この一言で座の空気は一変する。続いて山内一豊が「それがしが居城・掛川城を内府殿に明け渡し、兵糧も全て献上いたします」と申し出たことで、諸将の意思は完全に家康支持で固まった 39 。この「小山評定」における諸将の結束こそが、東軍の士気を高め、関ヶ原の戦いにおける勝利の最大の要因となった、というのが通説の描くドラマチックな展開である。
この感動的な逸話は、長らく歴史的事実として受け入れられてきた。しかし、近年、歴史学者の白峰旬氏らを中心に、この通説に根本的な疑問を投げかける「小山評定虚構説」が有力に提唱されている 40 。
虚構説の最大の論拠は、史料的な裏付けの欠如にある。福島正則や山内一豊の劇的な発言を含め、7月25日に小山で大規模な軍議が開かれたことを直接的に示す、同時代の一次史料(当事者が記した書状など)が全く存在しないのである 42 。これらの逸話が登場するのは、関ヶ原の戦いから数十年以上経ってから編纂された『武家事紀』などの江戸時代の軍記物や覚書に限られる 44 。そのため、虚構説は、これらの逸話が江戸幕府の正統性を強調するために、後世に創作・脚色されたものであると主張する。
これに対し、笠谷和比古氏や本多隆成氏といった研究者からは、虚構説への反論も出されている 42 。彼らは、たとえ個々の逸話が後世の創作であったとしても、何らかの形で諸将の意思統一を図る場が必要不可欠であったと指摘する。当時、家康と豊臣恩顧の大名たちは、まだ明確な主従関係にはなかった。彼らを率いて西へ向かうという重大な方針転換を、家康の一方的な命令だけで実行することは不可能であり、諸将の同意と納得を取り付けるための談合や評定が小山で行われたと考えるのが自然である、と主張する 45 。
この論争は未だ決着を見ておらず、歴史学における史料批判の重要性と、物語が歴史として定着していく過程を示す興味深い事例となっている。
この評定の前提となる「三成挙兵」の報が、いかにして大坂から小山まで届けられたかを考察することも重要である。当時の情報伝達は飛脚に頼っており、その速度は1日に平均30キロメートルから40キロメートル程度であったとされる 46 。大坂から小山までの距離は約500キロメートルであり、単純計算でも12日から16日を要する。この迅速な情報伝達の背景には、家康が事前に張り巡らせた情報網と、小山が東山道や奥州街道といった主要街道の合流点に位置する交通の要衝であったことが大きく寄与している 3 。歴史を動かす決断は、それを可能にする情報のインフラストラクチャーの上に成り立っていたのである。
「小山評定」を巡る議論は、単なる歴史的事実の有無を探るだけに留まらない。この物語がなぜ生まれ、江戸時代を通じて語り継がれたのかを問うことで、より深い歴史的文脈が浮かび上がってくる。それは、「小山評定」の物語が、徳川幕府の支配の正統性を確立するために創出され、増幅された「創設神話」としての機能を担っていたという視点である。
この物語の核心部分は、豊臣恩顧の筆頭格である福島正則らが、自らの家族を人質として見捨てる覚悟の上で、豊臣家のためではなく「天下の静謐のため」に家康に従うと決断する点にある 40 。この筋書きは、家康の行動が豊臣家からの権力簒奪ではなく、豊臣家を私物化しようとした奸臣・石田三成を討伐するための「正義の戦い」であった、という論理を巧みに構築している。つまり、家康は豊臣恩顧の武将たちから満場一致で「信任」され、天下の采配を委ねられたのだ、という政治的正統性を生み出すのである 47 。
この「神話」は、徳川の治世を正当化する上で極めて有効に機能した。さらに、その象徴的な行為として、評定の地とされた小山城の一角に、後に二代将軍秀忠によって徳川将軍家の日光社参のための宿泊施設「小山御殿」が建設された 9 。これは、徳川家にとって「小山」という土地が、単なる軍議の場所ではなく、幕府創業の正統性を象徴する一種の「聖地」として認識されていたことを強く示唆している。したがって、「小山評定」の実在性を巡る学術論争は、徳川幕府という巨大な政治権力が、いかにして自らの歴史を編纂し、その正統性を後世に伝えていったかという、歴史叙述と権力の密接な関係を解き明かすための重要な鍵となるのである。
戦国時代の終焉と共に、小山城はその軍事拠点としての役割を終えたが、その歴史はすぐには終わらなかった。近世には徳川将軍家の権威を象徴する施設が置かれ、そして現代に至るまで、史跡として、また地域に根付く伝説として、その記憶は大切に継承されている。
関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わった後、小山城には家康の側近中の側近であった本多正純が3万石で入城した 8 。彼は、荒廃した城郭に大規模な改修を加え、城下町の整備も進め、近世的な城郭都市としての体裁を整えたとされる 10 。この時期に、祇園城は最終的な完成形を迎えたと考えられる。
しかし、その期間は長くは続かなかった。元和5年(1619年)、本多正純は宇都宮城へ15万石という大幅な加増をもって転封となる 8 。これは、徳川幕府が江戸の北方を守る戦略的拠点として、宇都宮城をより重視したことを意味する 49 。主を失った小山城は、幕府の一国一城令の政策的流れの中でその存在意義を失い、廃城とされた。壮大な土塁と堀も、こうしてその役目を終えたのである。
廃城後、城跡の一角は新たな役割を担うことになる。元和8年(1622年)、徳川将軍家が日光東照宮へ参拝する「日光社参」の際の、休憩・宿泊施設として「小山御殿」が建設されたのである 9 。これは、かつて家康が「小山評定」という吉事を行った縁起の良い土地である、という理由もあったと言われる 39 。御殿の周囲には二重の土塁と堀が巡らされ、16ヶ所の番所が設けられるなど、将軍の宿所にふさわしい厳重な構造であった 9 。
しかし、4代将軍・家綱以降、幕府の財政難などを理由に日光社参が長期間中断されると、御殿は次第に荒廃していった 9 。そして天和2年(1682年)、ついに古河藩によって解体され、その60年間の歴史に幕を下ろした 9 。現在、小山御殿跡地は広場として整備され、建物の配置などが色分けされた舗装によって平面表示されている 9 。
明治時代以降、城跡は次第に市街地化の波に飲まれていったが、その中心部は「城山公園」として整備され、市民の憩いの場となった 1 。そして、その歴史的価値の高さから、平成3年(1991年)、祇園城跡は近隣の鷲城跡、中久喜城跡と共に「小山氏城跡」として、国の史跡に指定された 1 。
近年も継続的に発掘調査が行われており、城の構造や当時の人々の生活を解明する上で貴重な知見がもたらされている 25 。特に、小山市民病院の建設に伴う調査で発見された出土品群は、2016年に「祇園城跡小山市民病院地点出土品」として栃木県の有形文化財に指定されるなど、学術的な成果が上がっている 52 。
物理的な建造物が失われた後も、小山城の記憶は地域の伝説や文化の中に生き続けている。
その最も象徴的な例が、城跡の塚田曲輪に今も静かにそびえ立つ「実なしイチョウ」の伝説である 26 。この樹齢900年ともいわれる大イチョウには、かつて城が落城した際に、城の姫が井戸に身を投げ、その霊がこの木に宿ったために、決して実をつけることがないという悲しい物語が伝えられている 12 。この伝説は、城と共に生きた人々の悲劇を、地域住民が物語として語り継いできた証左である。
また、城跡の北側には、小山氏代々の菩提寺である曹洞宗の古刹「天翁院」が現存する 26 。境内には現在も小山氏累代の墓所が静かに佇み、一族の霊を弔い続けている 58 。
現代の小山市は、この豊かな歴史を地域のアイデンティティの中核と捉え、その継承に力を注いでいる。特に「小山評定」は市の最大の歴史的ブランドと位置づけられており 38 、市民劇団による再現劇の上演や、小学生を対象とした郷土史教育プログラム「こども小山評定」の開催など、歴史を未来へ繋ぐための積極的な活動が展開されている 39 。
下野国小山城の歴史を深く掘り下げることは、単に一つの城郭の変遷を追うことに留まらない。それは、中世から近世へと移行する激動の時代を生きた関東武士団の典型的な軌跡、そして日本の歴史が大きく転換する瞬間の力学を、一つの場所に凝縮して見ることである。
第一に、小山城は名門・小山氏四百年の興亡を象徴する存在である。藤原秀郷流という輝かしい出自を誇り、鎌倉幕府の創設に貢献して関東に覇を唱えた一族が、戦国という巨大な時代のうねりの中で、いかにして中央から台頭する新たな巨大権力(鎌倉府、後北条氏、豊臣、徳川)に翻弄され、その戦略の駒となり、やがて飲み込まれていったか。その過程は、小山城の縄張りの変遷、そして最終的な廃城という運命に明確に刻印されている。土塁と空堀を主体とするその構造は、近世大名への脱皮を目前に歴史の舞台から退場した、中世関東武士の栄光と限界を静かに物語っている。
第二に、小山城は歴史の転換点が顕現する舞台であった。一地方豪族の居城に過ぎなかったこの場所が、「小山評定」という形で、徳川家康の天下統一事業における決定的な軍議の場となった。これが単なる偶然ではなく、古代以来の交通の要衝という地理的・戦略的な重要性が、歴史の必然として引き寄せた出来事であったことは論を俟たない。小山城の存在は、ローカルな歴史がいかにしてナショナルな歴史と交差し、時にはその流れを決定づける力を持つかを示す好例である。
最後に、小山城は「記憶の遺産」として現代に生き続けている。城そのものは失われて久しいが、その場所に残された壮大な遺構、地域に語り継がれる「実なしイチョウ」の伝説、そして「小山評定」という歴史的記憶は、現代の小山市における地域アイデンティティと文化振興の中核を成している。史跡の保存活用や教育プログラムを通じて、過去の出来事は未来を創造するための資源として再生されているのである。
結論として、小山城は、関東武士の栄光と悲劇、中央権力と地方勢力の相克、そして歴史的事件が後世の神話へと昇華されていく過程を内包する、日本史の縮図と言える。その土塁の一つひとつ、堀の一筋一筋が語りかける歴史の声に耳を傾けることは、我々が自らの拠って立つ歴史の多層性を理解する上で、極めて豊かな示唆を与えてくれるのである。