奥州の関門、小峰城は白河結城氏の分家が築き、二度の下剋上で宗家を簒奪。佐竹・蘆名・伊達の狭間で翻弄され、豊臣政権下で改易。戊辰戦争や震災で被害も、復元・修復され、今も歴史を伝える。
陸奥国白河に聳える小峰城。その歴史は、単なる一つの城郭の盛衰に留まらない。日本の戦国時代という激動の時代において、この城が果たした役割を理解することは、南奥州、ひいては東日本全体の政治・軍事史の力学を解き明かす鍵となる。小峰城の価値を規定したのは、堅固な石垣や櫓以上に、その「位置」であった。
古来より白河の地は、関東から奥州へと至る「玄関口」として、戦略的に極めて重要な意味を持っていた 1 。奈良・平安の時代には「白河関」が置かれ、中央政府にとって北方の蝦夷に対する国防の最前線であり、人々の往来を管理する結節点であった 2 。この地政学的な宿命は、時代が下り、武士が覇を競う戦国時代においても何ら変わることはなかった。むしろ、その重要性は増したと言えよう。小峰城は、この歴史的な要衝に築かれた城なのである。
戦国期の南奥州は、諸勢力が複雑にせめぎ合う、さながら群雄割拠の縮図であった。南には常陸国から勢力を伸ばす佐竹氏、西には会津盆地を支配する蘆名氏、そして北からは後に奥州の覇者となる伊達氏が虎視眈々と南下を窺っていた 3 。小峰城を本拠とした白河結城氏は、これら三大勢力に囲まれた緩衝地帯に位置し、常に絶妙な外交的均衡を保つことを強いられた。
したがって、小峰城の歴史は、その立地がもたらす地政学的な宿命から逃れることはできない。交通の要衝であることは経済的な利益をもたらす一方、常に周辺大名からの侵攻の脅威に晒されることを意味した。城主の動向は、単なる一地方領主の決断に留まらず、南奥州全体の勢力図を左右するバロメーターであった。本報告書は、小峰城をこの「地政学的十字路」という視座から捉え直し、戦国動乱期におけるその戦略的価値と、城と共に生きた白河結城一族の興亡の軌跡を徹底的に詳述するものである。
西暦(和暦) |
主な出来事 |
1340年(興国元年/暦応3年) |
結城親朝が小峰ヶ岡に城を築く(小峰城の始まり)。 |
15世紀 |
白河結城氏が全盛期を迎え、南奥州の覇者と目される。庶流の小峰氏も勢力を拡大。 |
1510年(永正7年) |
白河結城氏宗家と小峰氏が対立(永正の変)。近年の説では小峰氏が勝利し、実権を掌握。小峰城が事実上の本城となる。 |
1575年(天正3年) |
小峰義親が当主・結城義顕を追放し、宗家を簒奪。名実ともに小峰城が本拠地となる。 |
1579年(天正7年) |
佐竹氏の圧力により、佐竹義重の次男・義広を養子に迎える。 |
1589年(天正17年) |
伊達政宗が摺上原の戦いで蘆名氏に勝利。白河結城氏は伊達氏に服属する。 |
1590年(天正18年) |
豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず、奥州仕置により改易。白河結城氏による支配が終焉。 |
1590年以降 |
会津に入部した蒲生氏郷の所領となる。近世城郭への改修が始まる。 |
1598年(慶長3年) |
蒲生氏に代わり、上杉景勝が会津に入部。小峰城は支城となり、城代が置かれる。 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦いの結果、上杉氏は米沢へ減封。 |
小峰城の歴史は、南北朝という日本全土を二分した大動乱の時代に幕を開ける。この城の誕生は、単なる軍事拠点の新設ではなく、白河結城氏という名門一族が、激動の時代を生き抜くために行った高度な政治的・戦略的判断の産物であった。
小峰城の築城主である白河結城氏は、その出自を辿れば、平将門を討ったことで知られる藤原秀郷に連なる下野国の名族、小山氏に遡る 3 。小山朝光は源頼朝の挙兵に従い、その功績により下総国結城郡を与えられて結城氏を称した 6 。朝光の母が頼朝の乳母であった縁から、朝光は頼朝に深く寵愛されたという 6 。
鎌倉時代後期、朝光の孫である結城祐広が陸奥国白河庄に移り住んだことから、白河結城氏の歴史が始まる 7 。当初、彼らの本拠地は白川城(搦目城)であった 9 。
小峰城が歴史の表舞台に登場するのは、南北朝時代の興国元年/暦応3年(1340年)のことである 11 。白河結城氏二代当主・結城宗広の嫡男であった結城親朝が、小峰ヶ岡と呼ばれる丘陵地に新たな城を構え、これを小峰城と名付けた 12 。
この築城の背景には、南北朝の動乱が深く関わっている。親朝の父・宗広は、後醍醐天皇の倒幕運動に与し、建武の新政では北畠顕家らと共に奥州統治を任されるなど、南朝方の重鎮として活躍した人物であった 9 。しかし、嫡男である親朝は、南朝方の総帥・北畠親房との間に軋轢が生じたことなどから、興国4年/康永2年(1343年)に北朝方へと転じるという重大な政治的決断を下す 13 。
この政治的転向とほぼ時を同じくして、親朝は自らの長男・顕朝に白河結城氏の宗家を継がせ、自身は新たに「小峰氏」を興して分家した 3 。そして、この小峰氏の拠点として築かれたのが小峰城であった。この一連の行動は、単なる個人的な不和や気まぐれとは考えにくい。国家が二つに割れる未曾有の危機の中、一族が生き残るための深謀遠慮があったと見るべきであろう。すなわち、宗家を南朝方に、そして自らが率いる有力な分家を北朝方に置くことで、最終的にどちらの朝廷が勝利を収めても、結城一族として家名を存続させようとする、一種の「保険」戦略であった可能性が極めて高い。この視点に立てば、小峰城の築城は、白河結城氏の存亡をかけた高度な政治的判断の物理的な現れであり、その誕生の瞬間から、宗家に対する分家という二重性を内包する運命にあったのである。
今日、我々が目にする壮麗な総石垣の城郭は、江戸時代初期の大改修によって完成された姿である 1 。戦国時代、とりわけ築城当初の小峰城は、土を盛り上げた土塁や、水を張らない空堀を主たる防御施設とする、典型的な中世城郭であったと推定される 15 。
その構造は、阿武隈川の流れに挟まれた細長い丘陵という自然地形を最大限に活用したものであったと考えられる 12 。近年の発掘調査では、江戸時代の石垣などの遺構の下層から、中世期に属すると見られる堀の跡が確認されており、往時の姿を解明する手がかりが得られている 15 。しかし、その全体像、すなわち「縄張り」の全容解明は今後の調査を待たねばならない。
同時代の南奥州の城郭、例えば八戸の根城などが複数の郭(くるわ)を直線的に連ねる「連郭式」の構造を持ち、土塁や空堀を多用していたことからも 17 、中世の小峰城も同様の特徴を備えていた可能性は高い。具体的には、山の尾根を断ち切るように掘られた「堀切(ほりきり)」や、敵の侵攻を防ぐために斜面に沿って縦方向に掘られた「竪堀(たてぼり)」といった、山城特有の防御施設が巧みに配置されていたであろう 19 。それは、自然の地形と一体化した、質実剛健な戦いのための砦であったはずだ。
戦国時代に入ると、白河結城氏の内部で激しい権力闘争が勃発する。この争いは、一介の支城に過ぎなかった小峰城を、白河支配の中心へと押し上げる決定的な転機となった。小峰城の地位の向上は、すなわち分家・小峰氏による下剋上の過程そのものであり、城は一族の血で血を洗う権力闘争の象徴的な空間となったのである。
最初の大きな転機は、永正7年(1510年)に発生した「永正の変」と呼ばれる内乱である 20 。これは、白河結城氏の宗家と、一族内で最大の勢力を誇る庶流の小峰氏との間で行われた武力衝突であった。
この内乱の背景には、関東の覇権を巡る古河公方家の内紛(父・足利政氏と子・高基の対立)が深く関わっていた。南奥州の国人領主たちもこの争いに巻き込まれ、白河結城宗家は政氏方に、対する小峰氏は高基方に与するという、一族を二分する対立構造が生まれていた 21 。
かつて、この内乱は小峰氏が敗北し一時断絶したと解釈されてきた。しかし、近年の垣内和孝氏らの研究により、この通説は覆されつつある。新説によれば、この内乱は小峰氏側が仕掛けたクーデターであり、結果は小峰氏の勝利に終わったとされる 10 。小峰氏は宗家の当主・政朝らを追放し、白河結城氏の実権を完全に掌握したというのである。
この下剋上の成功は、小峰城の運命を劇的に変えた。権力の中枢が、旧来の宗家の拠点であった白川城から、勝利者である小峰氏の本拠・小峰城へと移ったのである。これ以降、小峰城は事実上の「本城」として、白河支配の中心地としての役割を担い始める 10 。これは、権力の移動が城の地位を規定した、まさに戦国乱世を象徴する出来事であった。
永正の変から約65年の歳月が流れた天正3年(1575年)、白河結城氏の内部で再び激震が走る。小峰氏の血を引く一族の重鎮・小峰義親が、二度目のクーデターを断行したのである。これは、永正の変で確立された小峰氏の支配を、名実ともに完成させるための総仕上げであった。
当時、白河結城氏の当主は幼い結城義顕であったが、その後見人として政治の実権を握っていたのが義親であった 3 。彼はその地位を利用して着々と権力基盤を固め、ついに宗家を完全に乗っ取る計画を実行に移す。
同年正月、当主・義顕が城外の行事のために小峰城を留守にした隙を突き、義親はかねてより通じていた一部の家臣たちと共に城を占拠した 3 。帰るべき城を失った義顕は、忠臣たちの手引きで辛くも会津へと逃れ、義親は自らが白河結城氏の当主となることを宣言した 3 。
この事件により、分家であった小峰氏による宗家の完全な乗っ取り、すなわち「下剋上」が完成した。義親はその後も小峰城を居城とし続け、ここに小峰城は、名実ともに白河結城氏の政治・軍事の中心地としての地位を不動のものとしたのである 14 。この二段階にわたる権力移行のプロセスは、小峰城が単なる建築物ではなく、人間の野心と権力闘争が刻み込まれた生きた舞台であったことを雄弁に物語っている。
第二部で詳述した白河結城氏内部の複雑な対立構造を理解するため、主要な登場人物の関係性を以下に整理する。この人間関係の把握は、小峰城を巡る権力闘争の核心を理解する上で不可欠である。
この二つの事件を通じて、権力は旧来の宗家から小峰氏へと完全に移行し、それに伴い、白河支配の拠点も白川城から小峰城へと移っていったのである。
度重なる内訌の末、白河結城氏の新たな当主となった小峰義親であったが、彼が乗り出した船は、すでに南奥州という荒れ狂う海の中にあった。この時期の白河結城氏は、もはや独立した戦国大名として振る舞うことは許されず、より強大な外部勢力の動向に応じて従属先を乗り換えることでしか存続できない「衛星勢力」と化していた。小峰城の運命は、城主の主体的な意思決定よりも、周辺大国のパワーバランスの変化によって決定づけられていく。
一族の内部抗争は、白河結城氏の国力を著しく疲弊させた。この弱体化を見逃さなかったのが、南方の常陸国から着実に勢力を拡大していた「鬼義重」の異名を持つ猛将、佐竹義重であった 3 。
佐竹氏は白河領の南部へ侵攻を繰り返し、小峰義親はこれに抗しきれなかった 3 。度重なる軍事的圧力の末、義親は屈辱的な決断を迫られる。天正7年(1579年)、佐竹義重の次男・義広(後の蘆名義広)を自らの養子として迎え入れ、家督を譲ることを余儀なくされたのである 3 。これにより、白河結城氏は事実上、佐竹氏の傀儡政権となり、小峰城もまた佐竹氏の広大な勢力圏の最前線を構成する拠点の一つへと組み込まれた。もはや、彼らに「独立を維持する」という選択肢は残されていなかった。
佐竹氏の支配下で辛うじて命脈を保っていた白河結城氏であったが、天正17年(1589年)、南奥州の勢力図を根底から覆す一大事件が勃発する。伊達政宗が、会津の蘆名義広(かつて白河結城氏の養子となった佐竹義広と同一人物)を磐梯山麓の摺上原で撃破したのである 5 。
この「摺上原の戦い」における伊達軍の圧倒的な勝利は、南奥州の諸大名に衝撃を与えた。これまで佐竹・蘆名連合の威勢を恐れていた彼らは、この歴史的な転換点を目の当たりにし、雪崩を打って新たな覇者である伊達政宗の下へと馳せ参じた 5 。小峰義親もまた、この趨勢を的確に読み、即座に佐竹氏との関係を断ち切って伊達氏に服属した 14 。
この決断により、小峰城は佐竹氏の勢力圏から離れ、伊達政宗の巨大な軍事力に庇護されることとなった。政宗は会津から白河に至る広大な地域を支配下に収め、南奥州の覇権を確立 4 。小峰城は、その巨大な領国の南の守りを固める重要な拠点として位置づけられた。この一連の動きは、主体的な外交戦略というよりは、巨大な磁場の中でその時々の最も強い磁力に引き寄せられる砂鉄のような、弱小勢力の必死の生存戦略であった。城の歴史は、地域全体の国際政治の力学に翻弄された歴史そのものであった。
伊達政宗への服属によって一時の安寧を得たかに見えた小峰城と白河結城氏であったが、時代の潮流は、もはや一個人の武勇や知略では抗えない、より大きなうねりとなっていた。天下統一を目前にした豊臣秀吉による中央集権化の波が奥州にも及び、戦国時代は終わりを告げる。この過程で、小峰城の役割は「一地方領主の拠点」から「中央政権による奥州統治の戦略的支城」へと根本的に変質していく。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東の雄・北条氏を攻めるため、全国の大名に小田原への参陣を命じた。しかし、白河結城氏当主の小峰義親は、主筋である伊達政宗の動向を窺うあまり、この命令に応じなかった 10 。政宗自身が参陣を遅らせたため、その指示に従った結果とも言われるが、これが白河結城氏にとって致命的な失策となった 23 。
天下人である秀吉は、この「小田原不参」を許さなかった。北条氏滅亡後に行われた「奥州仕置」において、秀吉は白河結城氏の所領をすべて没収し、改易することを決定したのである 10 。これにより、鎌倉時代から約300年にわたって白河の地を治めてきた名門・白河結城氏の歴史は、戦国大名としては完全に終焉を迎えた。主を失った小峰城は、初めて在地領主の手を離れ、中央政権の直接管理下に置かれることになった。
奥州仕置の結果、白河地方を含む会津一帯は、豊臣秀吉の信頼厚い猛将・蒲生氏郷に与えられた 14 。氏郷は、織田信長や秀吉の下で、最新の築城技術や城下町経営の手法を学んだ、進取の気性に富む武将であった 29 。
氏郷は、奥州支配の拠点として、小峰城にも大規模な改修を施したと考えられている。その最大の功績は、城の西側を流れていた阿武隈川の流路を、城の北側へと大きく変更する治水・土木工事を断行したことである 15 。これは、川を天然の外堀として利用することで城の防御力を飛躍的に高めると同時に、流路変更によって生み出された広大な土地を武家屋敷地として整備するという、一石二鳥の狙いがあった 15 。
この氏郷による改修は、単なる防御施設の強化に留まるものではない。それは、城と城下町を一体的に再設計し、軍事・政治・経済の機能を効率的に配置するという、近世的な「都市計画」の発想に基づいている。この思想的転換こそが、小峰城が中世的な「在地領主の防衛拠点」から、広域支配を目的とした「近代的軍事基地」へと変貌を遂げる、決定的な第一歩であった。
氏郷の死後、その子・秀行は宇都宮へ転封となり、代わって越後から会津に入部したのが、豊臣政権五大老の一人、上杉景勝であった 14 。小峰城は、会津120万石の一部として上杉氏の支城となり、新たな時代を迎える。
秀吉の死後、天下の実権が徳川家康へと移る中、景勝は家康との対立を深めていく。このとき、関東に隣接する白河の地は、来るべき決戦に備えるための軍事的な最前線として、極めて重要な意味を持つことになった。景勝は小峰城に城代として五百川縫殿介(いおかわ ぬいのすけ)を配置し、臨戦態勢を固めた 24 。小峰城は、白河結城氏の時代と同様、再び「奥州の関門」として、天下の情勢を左右する最前線の緊張に包まれたのである。
しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍が敗れた結果、上杉氏は会津を没収され、米沢30万石へと大幅に減封される 14 。これにより、上杉氏による小峰城支配は、わずか数年という短期間で幕を閉じた。この時期の小峰城は、もはや白河結城氏の家運と共にある城ではなく、天下の覇権を巡る巨大な政治ゲームの「駒」として、より大きなスケールの戦略の中に組み込まれていったのである。
南北朝の動乱期に、一族存亡をかけた戦略の一環として誕生した小峰城。その後の約250年にわたる戦国の世で、この城は実に多様な顔を見せた。
分家の拠点から始まり、二度にわたる下剋上を経て一族の権力の中枢となり、佐竹、伊達といった周辺列強の狭間で翻弄され、最後は豊臣中央政権による奥州支配の戦略拠点へと姿を変えた。小峰城の歴史は、南奥州における「下剋上」、周辺大国との「勢力争い」、そして「中央政権による地方支配」という、戦国時代の三つの主要なテーマを一身に体現した、稀有な歴史的遺産であると言えよう。
白河結城氏が歴史の舞台から姿を消した後も、小峰城の戦略的重要性は失われなかった。蒲生氏郷が施した近世的な改修の思想は、上杉景勝を経て、江戸時代に初代白河藩主となった築城の名手・丹羽長重へと引き継がれる 1 。長重が完成させた壮大な総石垣の城郭は、戦国時代を通じて確立された、この地が持つ「奥州の関門」としての地政学的重要性の上に築かれたものであった。
その後の歴史においても、小峰城は時代の奔流に晒され続ける。幕末の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟軍と新政府軍による激しい白河口の戦いの舞台となり、その主要な建物の多くが焼失した 32 。そして平成の世、東日本大震災では、誇るべき石垣が大規模に崩落するという未曾有の被害に見舞われた 1 。
しかし、その度に小峰城は蘇ってきた。江戸時代の絵図に基づき忠実に復元された三重櫓と前御門 32 。そして、崩落した石材一つ一つに番号を振り、元の場所に戻すという気の遠くなるような作業を経て修復された石垣 1 。現代にその威容を伝える小峰城の姿は、戦国の動乱から幾多の苦難を乗り越えてきた、この地の歴史の重層性と、それを守り伝えようとする人々の不屈の精神を物語る、かけがえのないシンボルなのである。