尾山城は、加賀一向一揆の拠点尾山御坊を前身とし、佐久間盛政が築城。前田利家が「尾山城」と改称し、高山右近の指導で近世城郭へと大改修。
本報告書は、戦国時代末期から安土桃山時代にかけての加賀国における権力移行の象徴である「尾山城」について、その前身である尾山御坊の時代から、佐久間盛政による軍事城郭への転換、そして前田利家による近世城郭への大改修を経て、加賀百万石の拠点「金沢城」へと至る歴史的変遷を、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。
「尾山城」という名称は、金沢城の長い歴史の中で、前田利家入城後の一時期に限定して使用された、いわば過渡期の呼称である 1 。しかし、この短い期間こそ、加賀の支配体制が宗教的共同体から武家支配へと劇的に転換し、後の巨大藩の礎が築かれた極めて重要な時期であった。この名称の揺らぎ自体を重要な歴史的指標と捉え、その背景にある政治的意図や権力構造の変化を読み解くことは、当該地域の歴史を深く理解する上で不可欠である。
本報告書は、尾山御坊の成立、佐久間盛政による築城、前田利家の入城と改修、そして金沢城への発展という時系列に沿って構成される。各章では、城郭の構造的変遷のみならず、関与した人物の動向や当時の築城技術、さらには発掘調査の成果を統合し、重層的な分析を行う。まず、この複雑な変遷を概観するため、以下の略年表を提示する。
表1:尾山城関連略年表
年代(西暦/和暦) |
城主/主要勢力 |
城の呼称(通称含む) |
主な出来事・普請 |
典拠 |
1546年(天文15) |
本願寺(一向一揆) |
尾山御坊/金沢御堂 |
加賀一向一揆の拠点として建立される |
3 |
1580年(天正8) |
佐久間盛政 |
金沢城/尾山城 |
織田軍により尾山御坊陥落。盛政による築城開始、蓮池堀開削 |
1 |
1583年(天正11) |
前田利家 |
尾山城 |
賤ヶ岳の戦いの後、利家が入城し「尾山城」と改称 |
1 |
1588年(天正16) |
前田利家 |
尾山城 |
キリシタン大名・高山右近を客将として招聘 |
1 |
1592年(文禄元) |
前田利家/利長 |
尾山城/金沢城 |
高山右近の指導のもと、本格的な石垣普請に着手 |
3 |
1599年(慶長4) |
前田利長 |
金沢城 |
城と城下町を一体化する惣構の築造 |
1 |
1602年(慶長7) |
前田利長 |
金沢城 |
五層の天守が落雷により焼失 |
1 |
「尾山城」の直接の前身である尾山御坊は、単なる寺院ではなかった。それは、約百年にわたり加賀を実効支配した一向一揆門徒たちの政治・軍事・経済の中心地として機能した、特異な存在であった。
天文15年(1546年)、本願寺は「尾山御坊」(または「金沢御堂」)を建立した 3 。これは、長享2年(1488年)に一向一揆が守護の富樫政親を滅ぼして以来、約一世紀にわたって続いた「百姓の持ちたる国」と呼ばれる門徒による自治体制を、より強固なものにするための戦略的拠点設立であった 3 。
その立地は、犀川と浅野川という二つの河川に挟まれた小立野台地の先端部であり、天然の要害をなしていた 1 。この地形は、当時の一向宗総本山であった大坂の石山本願寺が上町台地の先端に築かれていたことと酷似している 3 。この立地選定の一致は、単なる偶然とは考え難い。むしろ、本願寺教団内で、防衛と統治に適した要塞型寺院の標準的な「縄張り思想」が確立・共有されていたことを示唆している。すなわち、尾山御坊は石山本願寺の「北陸方面分院」であると同時に、計画的に設計された「北陸方面軍司令部」としての性格を当初から帯びていたのである。
尾山御坊は、その実態において城郭そのものであった。石垣や堀で厳重に囲まれた巨大な要塞であり、北陸方面における一向宗の活動拠点として、越前の朝倉氏や越後の上杉氏といった周辺の戦国大名と対峙するための軍事基地としての役割を担っていた 1 。現在の金沢城内に残る「極楽橋」という名称は、この尾山御坊時代に由来するとされ、宗教的施設と防御施設が一体化していた名残を今に伝えている 3 。
近年の発掘調査においても、その痕跡が間接的に確認されている。16世紀後半に遡る可能性のある、館あるいは寺院の区画施設と推定される溝や土塁、礎石建物が城の南側で検出されており、これらが御坊時代の防御施設の一部であった可能性が指摘されている 12 。
御坊の周囲には「寺内町」と呼ばれる、防衛機能を備えた一種の城下町が発展していた 11 。この寺内町には、紺屋、麹室屋、金屋、鋳物師といった多様な商工業者が集住し、活発な経済活動の中心地としても機能していたことが文献からうかがえる 12 。
この寺内町は、単に門徒の居住区であるだけでなく、「加賀染」や「菊酒」といった全国に販路を持つ特産品を生み出す経済拠点でもあった 12 。この経済基盤こそが、一向一揆の長期にわたる支配を財政的に支える重要な柱となっていたのである。
織田信長の天下統一事業の進展は、加賀国の支配体制を根底から覆した。約100年続いた門徒の自治は終焉を迎え、尾山御坊は宗教拠点から、当時の最新軍事思想に基づく「織豊系城郭」へと生まれ変わる。
天正8年(1580年)、織田信長の北陸方面軍を率いる柴田勝家と、その甥で猛将として知られた佐久間盛政の攻撃により、加賀一向一揆の最大拠点であった尾山御坊は陥落した 1 。これは、同年に石山本願寺が信長に降伏したことと連動しており、信長による一向宗勢力殲滅作戦の総仕上げともいえる出来事であった。この戦功により、佐久間盛政は加賀国の石川・河北二郡、十三万石(一説には二十万石)を与えられ、この地の新たな支配者となった 5 。
新たな支配者となった盛政は、旧体制の象徴を徹底的に破壊することから統治を始めた。加賀門徒の精神的支柱であった尾山御坊の堂塔はことごとく破却された 5 。これは、新たな支配体制が武力に基づくものであることを明確に示す、極めて政治的な示威行為であった。
盛政は、単に御坊を修繕して利用するのではなく、その跡地に全く新しい思想に基づく城を築いた。これは、信長や秀吉の時代に急速に発展した「織豊系城郭」の特徴、すなわち天守を頂点とする階層的な曲輪配置、高石垣の多用、そして城下町との一体的な計画などを志向したものであったと考えられる 15 。盛政の叔父である柴田勝家が、越前・北ノ庄城において九層の天守を持つ壮大な城を築いていたことからも 18 、盛政の築城が、織田軍団内部で共有されていた先進的な築城術の影響を強く受けていたことは想像に難くない 20 。盛政による築城は、加賀における中世的城郭から近世的城郭への転換点となったのである。
佐久間盛政による具体的な普請として、後世の金沢城の防御の要となる「蓮池堀」(後の百間堀)の開削が挙げられる 5 。これは小立野台地を人為的に分断する巨大な空堀であり、城の防御力を飛躍的に向上させるものであった。しかし、盛政時代の具体的な縄張り(城の設計図)を示す同時代の史料は乏しく、その全体像は不明な点が多い 12 。発掘調査でも、後述する前田氏による大規模改修によって痕跡が失われているため、決定的な遺構は確認されていない 12 。文献からは、土塁や堀を中心としつつ、部分的に石垣も用いた過渡期的な城郭であったと推定されている 12 。
盛政が築いた城の名称については、史料によって記述が錯綜している。盛政が「金沢城」と名付けたとする説 1 と、御坊が元々「御山」と呼ばれていたことから「尾山城」と称したとする説 5 が存在する。
この名称の選択には、深い政治的意図が隠されている可能性がある。「尾山」という名は、旧体制の象徴である「尾山御坊」を強く想起させる 5 。一方で、「金沢」という地名は、砂金を産する「金洗いの沢」の伝説に由来し、室町時代には既に存在していた宗教色の薄い呼称であった 1 。盛政の使命が旧体制の完全な破壊と織田政権という新体制の確立であったことを考慮すると、彼は旧体制の記憶を消し去り、新たな武家支配による統治と経済的繁栄を標榜するために、意図的に「金沢城」という名称を選んだ可能性が高い。これは、支配者の交代を地名の変更によって可視化する、戦国時代によく見られた統治手法の一つと解釈できる。
本能寺の変後の激動の中、賤ヶ岳の戦いを経て、加賀の支配権は佐久間盛政から前田利家へと移る。利家は入城後、一時的に城名を「尾山城」へと戻し、さらに当代随一の築城家・高山右近を招聘して、城を近世城郭へと飛躍的に進化させた。
天正11年(1583年)、織田信長の後継者を巡る羽柴秀吉と柴田勝家の決戦、賤ヶ岳の戦いが勃発した。当初、柴田方として参陣していた前田利家は、戦の最中に戦線を離脱するという重大な決断を下す 25 。この行動が柴田軍の総崩れの一因となり、結果的に秀吉の勝利を決定づけた 28 。戦後、利家は秀吉からの深い信頼を得て、それまでの能登一国に加え、佐久間盛政の旧領であった加賀二郡を与えられ、金沢城に入城した 1 。これにより、後の加賀百万石の広大な領国の基礎が築かれることになった。
金沢に入城した利家は、城名を「尾山城」と改めた 1 。この名称は数年で再び「金沢城」へと戻る一時的なものであったとされるが 1 、この不可解な改称には明確な政治的意図があったと考えられる。最も有力な理由は、賤ヶ岳で敵対し、自らが事実上とどめを刺す形となった佐久間盛政が使用した「金沢城」の名を否定し、この地が名実ともに前田家の支配下に入ったことを内外に宣言するための政治的パフォーマンスであったというものである。また、秀吉の意向で改名されたとする説もあり 30 、これは秀吉政権が織田信長体制の痕跡を消し去ろうとした政策の一環であった可能性も示唆している。
前田利家が加賀支配を盤石にする上で、極めて重要な役割を果たしたのが、キリシタン大名・高山右近の存在である。天正16年(1588年)、秀吉のバテレン追放令により領地を失い追放された右近を、利家は客将として庇護し、金沢に招いた 1 。これは単なる人道的な庇護に留まらない、極めて戦略的な「人材投資」であった。秀吉政権下で徳川家康と並ぶ有力大名となった利家にとって、その地位にふさわしい拠点城郭の構築は急務であった 32 。当代随一の築城家として知られた右近の専門知識と技術は、そのための最も効果的な手段だったのである。
右近の指導のもと、「尾山城」は大規模な改修に着手し、本格的な近世城郭へと変貌を遂げていく。
文禄元年(1592年)、利家は在京中、国元にいる嫡男の利長に命じ、本格的な高石垣の普請を開始させた 1 。高山右近の持つ先進的な知識と技術が、石垣の構築法や、城全体の防御計画である縄張りの近代化に絶大な役割を果たしたと伝えられている 1 。城の正面玄関である大手門の位置を、より防御に適した場所へ変更したのもこの時期である 31 。
慶長4年(1599年)には、城だけでなく城下町全体を巨大な堀と土塁で囲い込む「惣構」が築造される 1 。これも右近の設計によるものとされ、城と城下町が一体となった、高度な防御機能を持つ一大要塞都市が形成された 34 。利家は並行して、かつての所領から町人を呼び寄せて城下に住まわせるなど、城下町の活性化にも積極的に取り組み、後の加賀百万石の繁栄の礎を築いた 32 。
「尾山城」と呼ばれた過渡期を経て、城は名実ともに「金沢城」として確立し、江戸時代を通じて加賀藩の政治・経済・文化の中心として発展していく。その過程は、度重なる災害と、それを乗り越えるための技術革新の歴史でもあった。
前田利家の子・利長の時代、あるいは三代利常の頃には「金沢城」の名称が完全に定着したと考えられる 2 。『越登賀三州志』には、文禄元年(1592年)の普請を機に尾山を改めて金沢と号したとの記述も見られる 35 。
金沢城は江戸時代を通じて、少なくとも4度の大きな火災に見舞われた 1 。しかし、その度に加賀藩の豊かな財力を背景に修復・改築が繰り返された。その結果、各時代の最新技術で積まれた様々な様式の石垣が城内に混在することとなり、今日では「石垣の博物館」と称されるほどの多様な景観を呈している 3 。特に寛永8年(1631年)の大火を機に、防火対策が重視されるようになった。壁面に平瓦を貼り付け漆喰で固めた「なまこ壁」や、融点が高く火に強い鉛製の屋根瓦などが導入され、金沢城の独特な外観を形成する要素となった 32 。
前田利家・利長の時代には、加賀藩の財力と権威の象徴として、屋根に金箔瓦を用いた壮麗な五層の天守が本丸に聳えていたと伝わる 3 。しかし、この天守は慶長7年(1602年)に落雷によって焼失してしまう 1 。その後、幕府への配慮などから天守が再建されることはなく、代わりとして三階櫓が建てられた 1 。
さらに1631年の大火の後、城の中心機能は象徴的な本丸から、政務を執り行う二の丸御殿へと移された 3 。これは、戦国の世が終わり、城が軍事拠点としての役割よりも藩庁としての行政機能を重視されるようになった江戸時代の城郭の性格変化を如実に示す出来事であった。
石川県や金沢市によって継続的な発掘調査が行われているものの、尾山御坊や佐久間盛政時代の遺構を明確に特定することは極めて困難な状況にある 12 。その最大の理由は、後代の権力者、特に前田氏による大規模な改修によって、古い時代の遺構が削平・破壊、あるいは厚い盛土の下に埋没してしまったためである。金沢城の歴史は、いわば後代の権力者が前代の遺構を徹底的に破壊し、その上に自らの権威の象徴を築く「上書き保存」の連続であった。この物理的な痕跡の乏しさ自体が、この地で繰り広げられた権力闘争の激しさを物語っている。
しかし、断片的ながらも古い時代の痕跡は発見されている。17世紀初頭の瓦溜まりの下層から盛り土層が発見された事例 37 や、寛永年間以前に存在した「古いもり堀」の確認 12 などは、初期の城郭構造を考える上で重要な手がかりとなる。また、『三壺聞書』などの文献史料には、本丸御殿の一部に尾山御坊時代の御堂を再利用していたという記述もあり 38 、完全な破壊と創造だけでなく、一部に連続性があった可能性も示唆されている。失われた「尾山城」の実像を解明するには、こうした文献史料の精密な読解と、残された断片的な考古学データを組み合わせ、総合的に考察していくアプローチが不可欠となる。
表2:尾山御坊から金沢城初期に至る構造的特徴の比較
項目 |
尾山御坊 (~1580) |
佐久間盛政期 (1580-1583) |
前田利家・高山右近期 (1583~) |
性格・目的 |
宗教拠点、一向一揆の司令部 |
織田政権の軍事拠点、旧体制の払拭 |
豊臣政権下の有力大名の拠点、藩政庁 |
防御思想 |
中世的寺院要塞(籠城主体) |
織豊系城郭(初期)、攻撃的防御 |
近世城郭(完成形)、領域支配の中心 |
主要な防御施設 |
堀、土塁、柵、天然の崖 |
巨大な堀(百間堀)、土塁、郭、一部石垣 |
高石垣、惣構、枡形虎口、櫓 |
象徴的建造物 |
御堂、堂塔 |
不明(天守の有無は不明) |
五層天守(金箔瓦)、御殿 |
技術的特徴 |
在地的・伝統的工法 |
織田軍団の先進的土木技術 |
当代最新の石垣技術、縄張り術 |
「尾山城」は、その前身である尾山御坊から金沢城へと至る過程において、加賀国の支配者が宗教的共同体から織田政権、そして豊臣政権下の前田氏へと移行した激動の時代を体現する存在である。その名称の変遷は、単なる呼称の変更に留まらず、その時々の支配者の政治的意図を色濃く反映した、歴史の転換点を示す道標であった。
この城の変遷はまた、中世的な寺院要塞が、織豊系城郭を経て、泰平の世の藩庁としての機能を持つ近世城郭へと至る、日本の城郭技術の発展史を凝縮したモデルケースとも言える。特に、佐久間盛政による宗教色の払拭と軍事拠点化、そして前田利家が高山右近を招聘して断行した技術革新は、その画期をなすものであった。
前田利家が「尾山城」を大改修し、城と城下町を一体的に整備したことこそが、後の加賀百万石と称される政治・経済・文化の繁栄の揺るぎない礎となった。現在、国指定史跡として整備が進む金沢城公園に残る壮麗な石垣や復元された門・櫓群は 33 、この「尾山城」の時代に端を発する歴史の重みを、現代に静かに伝えているのである。