岐阜城は、斎藤道三が築き、織田信長が「岐阜」と改め天下布武の拠点とした。楽市楽座で繁栄し、外交の舞台ともなったが、関ヶ原の戦いで落城。その歴史は、戦国時代の城郭の変遷を物語る。
岐阜城は、日本の歴史上、特に戦国時代という激動の時代において、単なる一介の城郭には留まらない特異な地位を占めている。一般的には、永禄10年(1567年)に織田信長が斎藤氏を滅ぼして入城し、その名を「稲葉山城」から改めたことで知られる。しかし、その歴史的意義は、この一点に集約されるものではない。むしろ、岐阜城は信長の天下統一事業における壮大な構想の出発点であり、その後の日本の城郭史、ひいては政治・文化の在り方を規定した革新的な「実験場」であったと評価すべきである。
信長の城として、後年の安土城の絢爛豪華なイメージが先行しがちであるが、彼がその生涯で最も長く本拠地として構え、天下取りの具体的なビジョンを形成した場所こそ、この岐阜城であった 1 。信長が描いた新たな時代の統治理念、すなわち武力による支配のみならず、経済力と文化の力を駆使して権威を「見せる」という思想の原型は、この城の構造と運営の随所に見て取ることができる。
本報告書は、近年の目覚ましい発掘調査によって得られた考古学的知見と、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスらが残した詳細な文献史料を統合的に分析することで、岐阜城の多層的な価値を解き明かすことを目的とする。斎藤道三による先進的な城郭経営から、信長の革新的な首都構想、そして関ヶ原の戦いにおける悲劇的な終焉まで、一つの城が内包する戦国時代のダイナミズムを、あらゆる角度から徹底的に検証していく。
岐阜城の前身である稲葉山城の歴史は、織田信長や斎藤道三の時代より遥か昔、鎌倉時代にまで遡るとされる 2 。建仁元年(1201年)、二階堂行政がこの地に砦を築いたのがその始まりと伝えられている。この事実は、金華山(当時の稲葉山)が、濃尾平野を一望し、東西の交通路を扼する戦略的要衝として、古くから軍事的な重要性を認識されていたことを示している 4 。当初は小規模な砦に過ぎなかったが、この地理的優位性こそが、後にこの城が美濃国の支配権を巡る争奪戦の中心舞台となる宿命を決定づけたのである。
室町時代に入ると、美濃国は守護である土岐氏の支配下に置かれた。稲葉山城も土岐氏の支配拠点の一つとして機能したが、次第に守護代であった斎藤氏が実力を蓄え、国政の中心を担うようになる。斎藤道三の父とされる長井新左衛門尉の時代を経て、道三自身が主家を凌駕し、ついには守護・土岐頼芸を追放して美濃国主の座を簒奪するに至る 3 。この下剋上の過程で、稲葉山城は単なる支城から、美濃国支配の正統性と権力を象徴する中心拠点へとその性格を変貌させていった。道三がこの城を大規模に改修したのは、単なる偶然ではなく、この城が持つ潜在的な価値を最大限に引き出し、自身の権力基盤を盤石にするための必然的な戦略であった。
天文8年(1539年)頃、美濃国の実権を掌握した斎藤道三は、稲葉山城の大規模な改修に着手する 2 。彼は山頂に堅固な城郭を築くだけでなく、麓の「井之口」と呼ばれた地域に本格的な城下町を整備した 2 。これは、軍事拠点としての城と、経済・政治の中心地としての城下町を有機的に連携させる、当時としては極めて先進的な都市計画であった。この一体的整備により、稲葉山城は単なる防衛施設から、領域支配の核となる複合的機能を備えた拠点へと進化した。
従来、石垣を多用し、権威を視覚的に示す「見せる城」の概念は織田信長の発明とされてきた。しかし、近年の岐阜城跡における発掘調査は、この通説を覆す可能性を示唆している。山頂部の一ノ門周辺などで発見された巨石を用いた石垣は、その構築技術から道三時代(後斎藤期)に遡る可能性が高いことが判明した 8 。これは、信長に先んじて、道三がすでに石垣を用いて城の威容と格式を示すという思想を持っていたことを物語る物証である。道三は、当時の守護大名の城(土岐氏の大桑城など)で流行していた築城技術を学び、自らの城に取り入れていたと考えられる 10 。したがって、信長による後の岐阜城大改修は、全くの無から創造されたものではなく、道三が築き上げたこの先進的なインフラと設計思想を継承し、さらに発展させたものと再評価することができる。
道三の死後、城は子の義龍、そして孫の龍興へと受け継がれた。しかし、龍興の治世下であった永禄7年(1564年)、城の歴史を揺るがす特異な事件が発生する。家臣であった竹中半兵衛(重治)が、わずか16名の手勢で稲葉山城を一日で乗っ取ったのである 12 。
その動機については、主君・龍興の堕落を諫めるためであったという説や 12 、龍興の側近から櫓の上から小便をかけられるといった個人的な侮辱に対する報復であったという逸話が伝えられている 12 。手口は巧妙を極めた。人質として城内にいた弟・重矩が病に罹ったと偽り、見舞いを口実に城内へ入る。そして、武具を隠した長持ちを堂々と運び込み、夜陰に乗じて蜂起し、城の中枢を制圧したのである 12 。
この事件は、難攻不落と謳われた稲葉山城の脆弱性が、物理的な防御力ではなく、内部の人心にあることを天下に知らしめた。半兵衛自身が「要害がいかように堅固であっても、人の心がひとつでなければ、要害堅城も物の用をなさない」と語ったとされ、まさにその言葉を体現した出来事であった 13 。報を聞いた織田信長は、半兵衛に美濃半国を与える条件で城の明け渡しを求めたが、半兵衛はこれを「主家から預かった城である」として拒絶し、約半年後に城を龍興に返還した 12 。しかし、この事件によって斎藤家の内部分裂と求心力の低下は決定的となり、信長が美濃三人衆などの有力家臣を調略する隙を与えることになった。物理的な城壁よりも、人心の結束こそが最大の防御であることを示す、象徴的な前哨戦であった。
竹中半兵衛の事件で露呈した斎藤家の内訌を好機と捉えた織田信長は、美濃攻略を本格化させる。有力家臣である美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家卜全)を内応させるなど、巧みな調略によって斎藤龍興を孤立させ、永禄10年(1567年)8月、ついに稲葉山城を攻略。龍興を追放し、長年の目標であった美濃国平定を成し遂げた 2 。
稲葉山城を手に入れた信長は、直ちに城と城下町の大改造に着手するとともに、地名を「井口」から「岐阜」へと改めた。この改名は、単なる名称変更ではなく、信長の天下取り事業における極めて高度な「政治的ブランディング戦略」であった。『信長公記』によれば、この命名は信長の学問の師でもあった禅僧・沢彦宗恩の進言によるものとされる 5 。
その由来は、中国古代史における二つの重要な故事に基づいている 14 。
一つは、周王朝の文王が「岐山(きざん)」という地から兵を起こし、殷王朝を打倒して天下に平和をもたらしたという故事。ここから「岐」の字が採られた。
もう一つは、儒学の祖である孔子が生まれた地「曲阜(きょくふ)」。学問と徳治の象徴であるこの地名から「阜」の字が採られた。
当時の知識人にとって、中国の古典や故事は最高の教養であり、権威の源泉であった。信長は「岐山」と「曲阜」という二つの強力なシンボルを組み合わせることで、自らの行動を「天下に新たな平和と秩序をもたらし(文王)、文化と学問を興隆させる(孔子)」という、正当かつ高尚な目的を持つ事業として天下に宣言したのである。これは、単なる武力による征服ではなく、新たな秩序を創造するという大義名分を内外に示すための、計算され尽くしたプロパガンダであった。
「岐阜」への改名とほぼ時を同じくして、信長は「天下布武」と刻まれた朱印の使用を開始する 5 。「武力をもって天下に号令する」というその意味は、もはや尾張・美濃二国を領する一地方大名ではなく、天下統一を志す「天下人」として、自らの立場と目的を公に宣言するものであった。岐阜城は、信長がその野望を具体的な政策として始動させた、まさにその出発点となったのである。
信長にとって岐阜城は、単なる軍事拠点や政庁ではなかった。それは、自らの権威を内外に誇示し、先進的な経済政策を試み、さらには外交儀礼を展開するための、多機能な首都そのものであった。日本の城郭史上、城が「籠もる」ための施設から、「見せ、もてなす」ための複合空間へと質的な転換を遂げた最初の事例が、この岐阜城である。
この城の革新性を最も雄弁に物語るのが、永禄12年(1569年)に岐阜を訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが残した詳細な記録である。フロイスは、金華山の麓に信長が築いた壮麗な居館(御殿)を目の当たりにし、それを「宮殿」と称え、「地上の楽園のようであった」と最大級の賛辞を送っている 19 。
彼の記録によれば、この居館は4階建ての壮麗な建築物で 20 、内部は複雑な構造を持ち、鍍金された屏風や純金製の金具で飾られた15から20もの座敷があった 22 。廊下の外には5つか6つの美しい庭園が配され、3階には茶室も設けられていたという 22 。近年の発掘調査では、岩盤を巧みに加工し、巨石を配した庭園の跡が確認されており、フロイスの記述が考古学的にも裏付けられつつある 19 。
一方で、山頂の城郭(一般に天守と呼ばれる部分)は、信長の家族や側近のみが暮らす私的な空間として厳格に区別されていた 5 。フロイスは信長の特別な許可を得て山頂にも招かれているが、そこからは美濃・尾張の両国を一望できる絶景が広がっていたと記している 22 。この山麓の公的な「宮殿」と山頂の私的な「天守」という二元構造は、政務と私生活を明確に分離すると同時に、大名と家臣の身分差を空間的に可視化する効果も持っていた。この思想は、後の安土城でさらに発展・完成されることになる 25 。
信長は岐阜城下町の経済的発展のために、画期的な政策「楽市楽座」を施行した 17 。これは、それまで商工業者を縛っていた「座」と呼ばれる同業者組合の特権を廃止し、市場税を免除することで、誰もが自由に商売できるようにしたものである 18 。この規制緩和により、全国から商人や職人が集まり、岐阜の城下町は急速に発展した。その賑わいは、フロイスが「バビロンの混雑」と表現したほどであった 18 。
ただし、この政策は完全な自由放任ではなかった。例えば、森林資源の保護・管理を目的として、特定の材木商にのみ営業を許可する「薪座(たきぎざ)」を設置するなど、経済を統制する側面も持ち合わせていた 27 。信長の楽市楽座は、自由経済の促進と必要な統制を組み合わせた、極めて戦略的な経済政策だったのである。
信長は、岐阜城とその周辺の自然環境を、巧みな外交の舞台として活用した。彼は公家や有力大名、宣教師といった重要な賓客を城に招き、手厚くもてなすことで、彼らを心服させ、自らの陣営に取り込んでいった。その代表的なものが、長良川の鵜飼を見せながらの饗応である 18 。
さらに特筆すべきは、信長自らが給仕役を務めるという異例の「おもてなし」であった 18 。当時、最高権力者が客人の膳を運ぶことは考えられないことであり、この型破りな行動は、相手に深い感銘と畏敬の念を抱かせる強力なパフォーマンスであった。武力という「ハードパワー」だけでなく、文化やもてなしといった「ソフトパワー」を駆使して天下統一を進めるという信長の二正面戦略は、この岐阜城で確立されたのである。
岐阜城は、金華山という標高329メートルの険しい山全体を要塞化した山城である 28 。その構造と縄張り(設計)は、斎藤道三から織田信長へと受け継がれる中で、防御思想と権力誇示の思想が重層的に組み合わさった、他に類を見ない特徴を有している。
岐阜城の基本的な縄張りは、山の尾根筋に沿って主要な曲輪(郭)を直線的に配置する「連郭式」に近い形態をとっている 29 。これは山城に多く見られる形式で、自然の地形を最大限に利用して防御ラインを構築するものである。しかし、近年の発掘調査により、その内部構造は単純なものではなく、道三時代に築かれた基礎の上に、信長が大規模な改修を加えて完成させたものであることが明らかになってきた。特に、道三が築いたとされる巨石を用いた一ノ門 11 や、信長が新たに造成した山麓の居館地区 19 などは、時代ごとの築城思想の変遷を如実に示している。
発掘調査の最大の成果の一つが、斎藤道三の時代(後斎藤期)と織田信長の時代の石垣の間に、明確な技術的差異が存在することを明らかにした点である。この違いは、単なる技術の進歩だけでなく、城に求められる役割の変化、すなわち城主の思想の変化を物語っている。
道三期の石垣は、二ノ門の脇などで確認されており、角張った横長の自然石に近い石材を、隙間なく垂直に近い角度で積み上げる特徴を持つ 9 。これは、実用性を重視した堅固な防御壁としての性格が強い。一方、信長期の石垣は、天守台や山麓居館の巨石列に見られるように、より大きな丸みを帯びた石材を使用し、石と石の隙間を入念に間詰石で埋め、全体として緩やかなカーブを描く「扇の勾配」を持つ 30 。この技術は、見た目の美しさと威圧感を演出し、城主の権威を視覚的に誇示する効果を狙ったものである。
特徴 |
斎藤道三期(後斎藤期) |
織田信長期 |
石材 |
角張った横長の石材、比較的小型 |
丸みを帯びた石材、大型の巨石も使用 |
加工度 |
自然石に近い(野面積み) |
隅石などに加工が見られる(打込接ぎ初期) |
積み方 |
隙間なく垂直に近い角度で積む |
緩やかな勾配(扇の勾配)をつけて積む |
間詰石 |
あまり使用されない |
隙間を埋めるため入念に使用される |
代表遺構 |
二ノ門脇の石垣、裏門の一部 9 |
天守台石垣、山麓居館の巨石列 11 |
この比較から、道三の築城が防御を主眼とした実用本位のものであったのに対し、信長のそれは、防御力に加えて「見せる」という政治的・視覚的効果を強く意識したものであったことがわかる。この思想の転換こそが、中世城郭から近世城郭への大きな飛躍点であり、岐阜城はその過渡期の姿を今に伝える貴重な遺構なのである。
山頂部で行われた発掘調査では、信長期のものと考えられる天守台の石垣が確認された 5 。これは、これまで安土城で始まったとされる高層の「天守」という概念が、すでに岐阜城で試みられていた可能性を示す重要な発見である。さらに、天守周辺からは軒丸瓦が出土しており、その文様が明智光秀の坂本城や細川藤孝の勝龍寺城といった信長家臣団の城で見つかるものと酷似している 11 。これは、信長政権下で瓦の意匠に一定の統一性が図られていた可能性を示唆し、岐阜城が信長の城郭ネットワークの中心であったことを裏付けている。岐阜城における権威の象徴としての高層建築の試みは、まさしく安土城天主の壮大な構想へと直結していくものであった 25 。
信長が天下統一の拠点として築き上げた岐阜城であったが、彼の死後、その運命は激動の渦に飲み込まれていく。城主の目まぐるしい交代は、織田政権の内部崩壊と、天下の主導権が豊臣、そして徳川へと移りゆく時代の縮図であった。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長とその後継者であった嫡男・信忠が横死すると、岐阜城は権力闘争の舞台となる。まず、信長の三男・織田信孝が城主となるが、清洲会議を経て羽柴秀吉との対立が先鋭化し、天正11年(1583年)に秀吉に攻められ開城を余儀なくされる 3 。
その後、城主は秀吉配下の池田恒興の嫡男・元助、次男・輝政へと引き継がれる 3 。池田氏の時代には、城の改修や城下(加納)での楽市楽座令の発布などが行われた 3 。天正19年(1591年)には秀吉の甥である豊臣秀勝が城主となり、岐阜城が完全に豊臣政権の支配下に組み込まれたことを象徴した 3 。そして文禄元年(1592年)、信長の嫡孫であり、清洲会議で織田家の後継者と定められた三法師こと織田秀信が、最後の城主として入城する 3 。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、城主・織田秀信は、祖父・信長への旧恩を説く石田三成の勧誘に応じ、西軍に与することを決断する 35 。この決断が、織田家本流の命運と、その象徴である岐阜城の終焉を決定づけた。
美濃国の要衝に位置する岐阜城は、東海道を進軍する徳川家康方の東軍にとって、最初に排除すべき障害であった。同年8月23日、福島正則と、かつて岐阜城主であった池田輝政を主力とする東軍の大軍が岐阜城に殺到した 36 。秀信は城を中心に兵力を分散させて防衛にあたったが、これは兵力の集中投入で一点突破を図る東軍の戦術の前に裏目に出た 37 。
戦闘はわずか一日であっけなく決した 36 。東軍の圧倒的な兵力差に加え、城の構造を隅々まで知り尽くしていた池田輝政の存在が、攻城戦を有利に進める大きな要因となった 35 。秀信は自らも奮戦したが、衆寡敵せず、自刃を覚悟したところを輝政らの説得により降伏。剃髪して高野山へと追放された 36 。
難攻不落とされた岐阜城が一日で陥落したという報は、西軍の総大将・石田三成にとって大きな衝撃と戦略的誤算をもたらした 37 。三成は、岐阜城が数日は持ちこたえることを前提に戦略を組み立てていたため、対応が後手に回り、関ヶ原の本戦に向けて主導権を失う一因となった。岐阜城の早期陥落は、関ヶ原合戦全体の趨勢に決定的な影響を与えたのである。
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、岐阜城の運命は新たな天下人となった徳川家康の手に委ねられた。そして下された決定は、その栄光の歴史に終止符を打つ「廃城」であった。
慶長6年(1601年)、徳川家康は岐阜城の廃城を命じ、その代替として南方の平地に新たに加納城を築かせた 2 。これは単なる都市計画の変更ではなく、旧時代の象徴を意図的に破壊し、新たな支配体制を構築するための高度な政治的行為であった。岐阜城は、斎藤道三、そして何よりも織田信長という旧時代の覇者の象徴であり、関ヶ原で敵対した織田秀信の居城でもあった。家康にとって、この城は徳川の治世において「負の遺産」以外の何物でもなかったのである。
この象徴的な山城を破却し、徳川の威光を示す新たな平城(加納城)を天下普請で築くことは、美濃国の支配者が完全に徳川へと移ったことを物理的に示す行為であった 39 。また、戦術が山城での防衛戦から、平城を拠点とした領域支配へと移行した時代の変化を象徴する出来事でもあった 42 。
廃城となった岐阜城の天守や櫓、石垣などの部材は、その多くが加納城の資材として転用されたと伝えられている 39 。特に山頂の天守は、加納城の二ノ丸に「御三階櫓」として移築されたとされるが、この櫓も享保13年(1728年)の落雷によって焼失し、その姿を今に伝えてはいない 5 。
歴史の表舞台から姿を消した岐阜城であるが、その歴史的価値が失われたわけではない。信長がこの城で試みた数々の革新は、その後の日本の城郭史に大きな影響を与えた。権威の象徴としての「見せる」城づくり、政治・経済・文化の複合拠点としての機能、そして天守という概念の確立。これらの要素はすべて、近世城郭の集大成と評される安土城へと受け継がれ、完成されていく 25 。岐阜城は、中世から近世へと移行する時代の転換点に立ち、新たな城の在り方を指し示した、まさに近世城郭の先駆けとしての役割を果たしたと評価できる。
廃城後、長く歴史の中に埋もれていた岐阜城であったが、昭和31年(1956年)に鉄筋コンクリート造の復興天守が再建され、再び岐阜のシンボルとしてその姿を現した 2 。現在、城跡は国の史跡として保護され、その歴史的価値を解明するための発掘調査が継続的に行われている 8 。これらの調査によって、道三や信長の時代の知られざる姿が次々と明らかになっており、岐阜城は過去の遺産であると同時に、未来に向けて新たな歴史を紡ぎ続ける存在となっている。
本報告書を通じて詳述してきたように、岐阜城は戦国時代という一つの時代区分において、極めて多層的かつ重要な役割を担った城郭であった。それは斎藤道三の先進的な都市経営の舞台であり、織田信長の革新的な天下統一構想の実験場であり、そして関ヶ原の戦いへと至る激動の歴史の証人でもあった。
一つの山城が、防御施設から政治・文化の首都へとその機能を変容させていく過程は、戦国大名の権力構造そのものの変化を映し出している。道三から信長へと受け継がれ、発展した石垣の技術は、城が単なる「戦うための道具」から「支配するための象徴」へと進化したことを物語る。ルイス・フロイスが記録した山麓の宮殿の壮麗さと、城下町の活気は、武力のみに頼らない新たな統治の形を模索した信長のビジョンを今に伝えている。
そして、その栄華が関ヶ原の戦いにおけるわずか一日の攻防で終焉を迎えたという事実は、歴史の非情さと、時代の転換点における個人の決断の重さを我々に突きつける。徳川家康による廃城という決定は、新たな時代を築くためには、旧時代の象徴をいかにして乗り越えなければならないかという、権力の本質的な問いを投げかける。
岐阜城は、単なる過去の遺物ではない。権力とは何か、文化は如何にして政治に利用されるのか、そして歴史はどのように継承され、また断絶されるのか。金華山の頂に立つ城は、訪れる者すべてに、時代を超えた普遍的な問いを静かに投げかけ続けているのである。