岩室城は紀伊の要衝に築かれ、湯浅党から畠山氏の拠点へ。源平争乱、畠山氏の内紛、秀吉の紀州征伐を経て落城。紀伊の中世から近世への転換を象徴する山城。
本報告書は、紀伊国(現在の和歌山県)に存在した岩室城を、単なる一城郭としてではなく、平安時代末期から戦国時代の終焉に至るまでの紀伊国の政治的・軍事的力学を映し出す鏡として捉え、その歴史的意義を多角的に解明することを目的とする。特に、紀伊・河内守護であった畠山氏の盛衰と、紀伊国特有の複雑な権力構造、すなわち「惣国」と称される地侍の自治共同体、強大な軍事力を有する寺社勢力、そして守護の統制から半ば自立した国人衆との関わりに焦点を当て、岩室城が果たした役割の変遷を深く考察する。
調査対象は、和歌山県有田市宮原町東に位置する山城であり 1 、大阪府河内長野市 3 、新潟県 5 、千葉県 7 などに存在する同名あるいは類似名の城郭とは明確に区別される。史料によっては「岩村城」や「岩室山城」とも記されており 1 、特に「岩村城」の名称は、後述する源平争乱期の記述と深く関連する重要な異称である。
本論に入るに先立ち、岩室城に関する基本情報を以下の表に集約する。
項目 |
詳細 |
名称 |
岩室城(いわむろじょう) |
別名 |
岩村城、岩室山城 |
所在地 |
和歌山県有田市宮原町東 |
城郭構造 |
山城(連郭式) |
標高/比高 |
標高約276m / 比高約250m |
主な築城主 |
湯浅氏(平安時代後期) |
主な改修者 |
畠山基国(室町時代初期) |
主な城主 |
湯浅氏、畠山氏(基国、政国、高政、貞政など) |
主要な歴史 |
文治元年(1185年):平忠房の籠城 応永7年(1400年):畠山基国による改修 永禄年間(1558-1570年):畠山高政、三好氏との抗争で拠点とする 天正13年(1585年):羽柴秀吉の紀州征伐により落城・廃城 |
現存遺構 |
曲輪、堀切、土塁、切岸、石積(部分的) |
文化財指定 |
有田市指定史跡(昭和58年指定) |
岩室城の歴史的価値を理解する上で、その卓越した地政学的条件を看過することはできない。城が築かれた有田郡宮原付近は、紀伊半島を南北に縦断する大動脈「熊野街道」と、高野山へ至る信仰の道であると同時に内陸部を結ぶ「高野街道」が交差する、交通の結節点であった 1 。この立地は、単に二つの道が交わるという地理的特徴に留まらない。熊野街道は、京都から熊野三山へと向かう皇族や貴族の御幸路であり、政治的・文化的な影響力が往来する道であった。一方、高野街道は、高野山への物資輸送や軍事行動における内陸への展開路として機能した。岩室城は、この二つの街道を眼下に収めることで、人、物資、情報、そして軍隊の流動を監視し、必要に応じてこれを統制する能力を有していた。この機能こそが、岩室城を単なる山砦以上の戦略的拠点たらしめた根源的な要因である。
岩室城は、有田川の北岸に峨々としてそそり立つ岩室山に築かれている 2 。標高約276メートル、麓からの比高は約250メートルに達し、その急峻な山容は天然の要害そのものである 1 。山頂の主郭部からは、眼下に有田川が育んだ肥沃な平野が広がり、吉備、金屋、そして現在の有田市の大部分から、遠くは紀伊水道の海原までを一望することができた 12 。この圧倒的な眺望は、軍事的には敵軍の動向を早期に察知し、迎撃態勢を整える上で絶大な利点をもたらした。同時に、領国経営の観点からは、領内の農耕地の状況や河川交通を把握するための重要な監視拠点として機能した。
この城の価値は、単一の機能に集約されるものではない。街道の支配による「交通・流通の掌握」、平野の支配による「経済基盤(農業生産)の掌握」、そして卓越した眺望による「軍事的優位性の確保」という三つの要素が、この一点に凝縮されていた。したがって、岩室城を領有することは、この地域の覇権を確立するための絶対的な条件であったと言える。在地領主であった湯浅党がこの地を本拠とし、後に外来の支配者である守護畠山氏がこの城を重要拠点として執着した理由は、まさにこの複合的な戦略価値にあったのである。
岩室城の起源は、平安時代後期にまで遡る。当時、紀伊国で強大な勢力を誇った武士団「湯浅党」の一派である宮原氏が、この地を本拠として城を構えたのが始まりとされる 1 。湯浅党は、紀伊国における在地領主の代表格であり、その勢力は有田郡一帯に深く根を張っていた。彼らがこの戦略的要地に城を築いたことは、自らの支配領域を防衛し、経済的基盤を固めるための必然的な選択であった。
岩室城の名を歴史上不朽のものとしたのは、源平争乱期の逸話である。文治元年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、平重盛の末子である平忠房は、湯浅荘の地頭であった湯浅宗重を頼ってこの地に落ち延びた。当時、この城は『平家物語』長門本などの軍記物において「岩村城」の名で記されている 1 。平家の残党がこの地に集結していることを知った源頼朝は、阿波成長に追討を命じた。これに対し、湯浅宗重は平忠房を庇護し、わずか500余りの兵でこの城に立てこもり、鎌倉方の追討軍を相手に三ヶ月にもわたる激しい籠城戦を繰り広げたと伝えられている 9 。
この籠城戦の逸話は、岩室城が持つ物理的な堅固さと、湯浅党の武士団としての高い戦闘能力を雄弁に物語るものである。しかし、その意義は軍事的な側面に留まらない。この出来事は、岩室城に「平家ゆかりの城」という歴史的な「由緒」と「権威」を付与した。後の時代、特に戦国期において紀伊国の支配者となった畠山氏にとって、この事実は極めて重要な意味を持った。管領家という高い家格を誇る畠山氏も、紀伊国においては外来の権力者であり、その支配基盤は必ずしも盤石ではなかった。在地勢力が割拠するこの地において、このような歴史的権威を持つ城を自らの拠点とすることは、支配の正当性を補強し、在地の人々に対して無言の威光を示す上で、計り知れない象徴的な価値を有していたのである。物理的な防御力に加え、こうした「物語」という無形の資産もまた、岩室城が時代を超えて重要視された要因であったと考えられる。
戦国時代の岩室城をめぐる畠山氏の動向を正確に理解するためには、まず紀伊国が置かれていた特異な政治的環境を把握する必要がある。室町幕府の三管領家の一つとして高い権威を誇った畠山氏は、紀伊・河内・越中などを分国としていたが、その支配の実態は地域によって大きく異なっていた 15 。特に紀伊国においては、守護の権力は極めて限定的であり、一元的な支配からは程遠い、権力の多元的な構造が形成されていた 17 。
紀伊国では、守護畠山氏の他に、主に三つの勢力が自立的な権力基盤を築いていた。
第一に、 国人衆 である。日高郡の湯川氏、牟婁郡の玉置氏や山本氏といった国人領主たちは、在地に深く根を張る領主であると同時に、将軍直属の家臣である幕府奉公衆としての側面も有していた 19 。このため、彼らは紀伊守護である畠山氏の指揮命令系統に完全に組み込まれることなく、独自の判断で行動することが可能であった。時には守護と協力して軍事行動を起こす一方 20 、時には将軍の意向を受けて守護と敵対するなど、その動向は複雑であり、守護権力にとって常に不安定要因であった 19 。
第二に、 寺社勢力 の存在である。高野山金剛峯寺、根来寺、粉河寺といった大寺院は、広大な荘園(寺領)を有し、朝廷や幕府による警察権や徴税権が及ばない治外法権的な領域を形成していた 22 。彼らは寺領を防衛するために僧兵を組織し、戦国時代には高度に武装化された強大な軍事集団へと発展した。特に、根来寺の僧兵集団である「根来衆」は、いち早く鉄砲を導入し、その卓越した射撃技術で知られた 24 。彼らは雑賀衆と共に傭兵集団として畿内各地の戦乱に介入し、畠山氏の内紛や三好氏との抗争においても、戦局を左右するほどの大きな影響力を行使した 26 。
第三に、そして最も紀伊国を特徴づけるのが、**「惣国(そうこく)」**と呼ばれる地侍たちの自治共同体の存在である 23 。紀ノ川下流域の雑賀荘などを中心に形成されたこの共同体は、地侍たちが一揆的な団結を基盤として守護の支配を事実上排除し、地域の問題を自らの合議によって解決する、一種の自治組織であった 29 。イエズス会宣教師ルイス・フロイスが、その統治形態を驚きをもって「百姓たちの共和国」と評したことは有名である 30 。雑賀衆は、この惣国を基盤とし、海運業や貿易で得た富を元手に数千挺もの鉄砲で武装し、戦国時代最強の傭兵集団としてその名を轟かせた 24 。
このような権力の多元的構造の中で、守護畠山氏の紀伊支配は常に不安定なものであった。彼らにとって紀伊国は、安定した統治が及ぶ領国というよりは、自立性の高い諸勢力がひしめき合う、いわば「敵地」に近い場所であった。したがって、岩室城の役割も、この文脈の中で捉え直す必要がある。畠山氏にとって岩室城は、安寧な領国経営の中心地ではなく、これら在地勢力に対する影響力を行使し、自らの軍事力を投射するための「前方基地」であり、権益を確保するための「橋頭堡」としての性格を色濃く帯びていた。畠山氏の紀伊における権力は、常にこれら在地勢力との協調と対立の微妙なバランスの上に成り立つ、綱渡りのようなものであり、岩室城はその precarious な支配を支えるための生命線であった。
戦国時代の岩室城は、紀伊・河内守護であった畠山高政の激動の生涯と分かちがたく結びついている。この城は、彼の権力基盤であり、避難所であり、そして彼の時代の終焉を象徴する場所となった。
岩室城が畠山氏にとって単なる一時的な避難場所ではなかったことは、高政の父・政国の動向から明らかである。「両畠山系図」などの史料によれば、畠山政国は、兄・稙長の死去に伴い惣領名代として河内の本拠・高屋城に入る以前、紀伊国の宮原に居住し、岩室城に在城していたと記録されている 31 。さらに、『寛政重修諸家譜』は、政国がこの岩室城で死去したと伝えている 31 。これは、岩室城が畠山尾州家にとって、紀伊国における恒常的な足場として機能していたことを強く示唆している。河内における支配が家臣団との対立によって不安定化する中で、在地勢力との関係が比較的良好であった紀伊国、そしてその要衝である岩室城は、畠山氏にとって最後の頼みの綱ともいえる重要な拠点であった。
畠山高政と岩室城を語る上で、永禄12年(1569年)に起きたとされる政変は避けて通れない。通説では、この年、高政は家臣である守護代の遊佐信教と安見宗房(直政)によって本拠地である高屋城から追放され、紀伊の岩室城に逃れたとされる 33 。そして、高政に代わって弟の秋高が新たな当主として擁立された、という筋書きである 35 。この見方は、家臣が主君を凌駕する「下剋上」の典型例として、長らく語られてきた。
しかし、近年の歴史学、特に弓倉弘年氏らの研究によって、この通説には大きな疑問が投げかけられている。詳細な史料分析の結果、この「追放劇」は『足利季世記』といった後代に成立した軍記物語に依拠するものであり、信頼性の高い同時代の一次史料では裏付けが取れないことが指摘されている 36 。実際には、弟の秋高は1569年以前からすでに当主として活動した形跡があり、追放されたはずの高政も、その後、京都にあって幕府や織田信長との外交交渉を担うなど、政治的な活動を継続していることが確認されている 36 。
この事実から見えてくるのは、1569年の出来事が、個人の裏切りや陰謀といった単純な「事件」ではなく、より大きな「構造的変化」の現れであったということである。戦国時代を通じて、守護の権威は徐々に形骸化し、実権は守護代や有力国人に移っていった。河内畠山氏においても例外ではなく、守護代の遊佐氏は、主君である畠山氏を介さずに将軍や織田信長と直接書状を交わし 36 、領国に対して独自の判断で安堵状(判物)を発給するなど 36 、もはや守護から独立した実質的な領国支配者としての地位を確立していた。
したがって、高政から秋高への家督継承や、高政が紀伊の岩室城に在住していたという事実は、遊佐信教らによる「追放」というよりも、守護家の権力が名目的なものとなり、実権を握る守護代との間で役割分担が進んだ結果と解釈するのがより実態に近い。すなわち、河内の実務は秋高と遊佐信教が担い、高政は長老として、また紀伊国人衆とのパイプ役として岩室城に拠点を置きつつ、京都での外交活動を担当するという、一種の二頭体制あるいは権力の分業化が進んでいた可能性が考えられる。「追放」という劇的な言葉は、この複雑な権力移行の過程を、後世の人々が分かりやすい下剋上の物語として単純化した結果生まれたものと推測される。この文脈において岩室城は、実権を失いつつある守護が、最後の権力基盤である紀伊国人との繋がりを維持するための、象徴的ながらも極めて重要な拠点であり続けたのである。
岩室城の歴史は、天正13年(1585年)、羽柴秀吉による紀州征伐によって悲劇的な終幕を迎える。この出来事は、単に一つの城の運命を決しただけでなく、紀伊国の中世そのものの終わりを告げる画期であった。
天下統一を目前にした秀吉にとって、中央の権力に従わず、鉄砲を擁して独立を保つ根来・雑賀衆や、それに同調する紀伊の諸勢力は、自らの支配体制を確立する上で看過できない存在であった 23 。小牧・長久手の戦いで徳川家康と結んだ紀州勢に対し、秀吉は10万ともいわれる大軍を組織し、紀伊への全面的な侵攻を開始した 23 。
この国家統一の巨大な奔流に直面した紀伊の在地勢力は、対抗するための象徴的な旗頭を必要とした。そこで盟主として担ぎ上げられたのが、畠山高政の甥(弟・政尚の子)にあたる畠山貞政であった 39 。貞政自身に雑賀衆や湯川氏を束ねる実権は乏しかったものの、室町幕府の管領家であり、紀伊守護の家格を持つ「畠山」の名は、反秀吉連合の大義名分としてこの上ない価値を持っていた。貞政はこの要請に応じ、一族ゆかりの岩室城に籠城し、秀吉への抵抗の意志を鮮明にした 10 。
しかし、秀吉軍の力は圧倒的であった。仙石秀久や中村一氏らを将とする部隊は紀伊国に深く侵攻し、鳥屋城をはじめとする抵抗拠点を次々と攻略していった 41 。岩室城も例外ではなかった。堅固な山城であったが、畠山氏の家臣であった白樫氏や神保氏が秀吉軍に内応したことが決定打となり、ついに落城したと伝えられている 39 。盟主・貞政は高野山へ逃れ、これにより戦国大名としての紀伊畠山氏は事実上滅亡した 39 。岩室城もこの時に廃城となり、その軍事拠点としての長い歴史に幕を下ろした 1 。
岩室城の落城は、単に畠山氏という一つの名家の終焉を意味するだけではなかった。それは、秀吉が推し進める中央集権的な統一権力によって、紀伊国に長らく根付いていた「惣国」に代表される中世的な自治システムが根本から解体され、近世的な知行制に基づく支配体制へと組み込まれていく過程を象徴する出来事であった。岩室城の終焉は、紀伊国における中世の終わりと、近世の始まりを告げる分水嶺だったのである。
岩室城は、戦国時代の山城(やまじろ)として、自然地形を最大限に活用した巧みな防御思想を体現している。その構造は、大規模な石垣や天守を持つ近世城郭とは一線を画す、中世山城の典型的な特徴を示している。
岩室城の縄張り(城の設計)は、岩室山の山頂から南西と南東に伸びる二つの尾根筋を利用し、複数の曲輪(くるわ、平坦地)を直線的に配置した「連郭式山城」に分類される 11 。全体として西から東へ、あるいは北から南西・南東へと弧を描くような配置は、ブーメラン状とも形容されている 11 。
城の中心となるのは、山頂の最高所に位置する主郭(本丸)である。主郭の北側には防御のための土塁が残存しており、ここが城の最終防衛ラインであったことを示している 10 。主郭からは、尾根に沿って複数の
段曲輪が階段状に配置されている。これらの曲輪は、兵士が駐屯するスペースであると同時に、敵の侵攻を段階的に食い止めるための防御施設でもあった 14 。現在、南側の斜面はみかん畑に転用されているが、削平された郭の形状は今なお明瞭に見て取ることができる 14 。
これらの曲輪群を守るため、重要な防御施設として堀切(ほりきり) と 切岸(きりぎし)が設けられている。堀切は、尾根筋を人工的に深く掘り込んで敵の直進を防ぐためのもので、岩室城でも西側の尾根などに複数の堀切が確認できる 9 。特に規模の大きい「大堀切」は、城の防御の要であったと考えられる 14 。切岸は、曲輪の斜面を人工的に削り出して急角度にし、敵が容易によじ登れないようにしたものである。岩室城の比高約250メートルという急峻な地形そのものが最大の防御であったが、この切岸加工によって、その防御力はさらに高められていた。また、切岸の補強や土留めとして用いられたと考えられる
石積みの痕跡も、部分的ながら確認されている 1 。
籠城戦において最も重要な要素の一つが、「水の手」、すなわち水源の確保である。岩室城の遺構として井戸跡などが明確に確認されているわけではないが、山城における一般的な水源確保の方法 45 を踏まえれば、その方策を推測することは可能である。岩室城のような山城では、岩盤を掘り抜いて井戸を設けるか、あるいは山の鞍部や谷筋の湧水をせき止めて「溜め井」と呼ばれる貯水池を造ることが多かった 45 。岩室城の地形を鑑みれば、複数の谷が存在することから、湧水を利用した溜め井が設けられていた可能性は高い。生命線である水の手は、敵に容易に奪われないよう、主郭などの城の中心部に近い場所に置かれるのが常であり 45 、岩室城においても同様の配置がなされていたと考えられる。
岩室城の縄張りは、総じて、大規模な土木工事や石垣普請を伴うものではなく、あくまで自然地形を活かし、最小限の加工で最大限の防御効果を得ようとする、中世山城の合理的思想に基づいている。その防御力の源泉は、人工的な建造物の堅固さよりも、何よりもまず、比高250メートルという圧倒的な地形的優位性にあった。これは、岩室城が恒久的な政治・経済の中心地としてではなく、軍事的な緊張下で機能する「詰の城(つめのしろ)」としての性格を強く持っていたことを、その構造自体が物語っている。
岩室城の価値は、単体の城としての防御機能に留まらない。紀伊国全体に張り巡らされた畠山氏の城郭ネットワークの中で、重要な結節点として機能していたと考えられる。
戦国時代の紀伊国において、畠山氏は複数の城を連携させて支配領域を維持していた。海南市の大野城、広川町の広城、有田川町の鳥屋城などがその主要な拠点であったが、岩室城はこれらの拠点城郭と比較すると規模は小さい 1 。しかし、その戦略的な立地から、これらの城と連携し、特に熊野街道の交通路を直接的に押さえるための重要な
支城 としての役割を担っていた 1 。広城や鳥屋城が有田川中流域を扼するのに対し、岩室城は下流域と街道の交差点を押さえることで、畠山氏の支配網をより緻密なものにしていた。
岩室城の持つ最大の利点の一つは、その比類なき眺望である。山頂からは有田川流域一帯はもちろん、紀伊水道までを見渡すことができ、周辺の城や街道筋のあらゆる動向を手に取るように監視することが可能であった 12 。この地理的条件は、情報伝達の拠点として極めて有利であったことを意味する。戦国時代、遠隔地への迅速な情報伝達には、山頂から山頂へと煙をリレーする**狼煙(のろし)**が用いられた 47 。岩室城が、畠山氏の城郭ネットワークにおける狼煙網の重要な中継点として機能していた可能性は極めて高い。敵の侵攻をいち早く本拠地に伝え、味方の軍勢の動きを連携させる上で、岩室城は紀伊国における畠山氏の軍事ネットワークの神経中枢の一つであったと推測される。
岩室城の歴史は、紀伊国の一隅にそびえる山城の盛衰に留まらず、日本の中世から近世へと移行する時代の大きなうねりを映し出している。
その歴史は、平安時代末期、在地武士団である湯浅党が自らの所領を守るために築いた拠点として始まった。源平争乱の渦中では、平家の落人を匿い、鎌倉幕府の追討軍を相手に籠城戦を繰り広げたという伝承は、この城に不朽の物語を与えた。室町時代に入ると、紀伊守護となった畠山氏の支配下に入り、その権力を在地に浸透させるための重要な前方基地へと役割を変えた。戦国時代には、畿内の覇権をめぐる三好氏との激しい抗争の中で、敗れた畠山高政が再起を期す最後の拠点となり、また、守護権力が形骸化していく中で、名目上の当主がその権威を維持するための象徴的な場所ともなった。そして天正13年(1585年)、天下統一の波が紀伊国に及ぶと、反秀吉勢力の盟主を担った畠山貞政が籠る最後の砦となり、その落城と共に、戦国大名畠山氏、そして城自体の歴史も終焉を迎えた。約400年にわたるその歴史は、時代の要請に応じてその役割を変化させ続けた、まさに戦乱の世の縮図であった。
岩室城の歴史は、紀伊国という特異な地域の歴史的性格を色濃く反映している。中央の権力が完全には及びきらないこの地では、外来の守護権力、在地に根を張る国人衆、そして強大な軍事力を有する寺社勢力が、常に対立と協調を繰り返す三つ巴の力学を形成していた。岩室城をめぐる畠山氏の苦闘は、この複雑な権力構造の中で、いかに守護による一元的な支配が困難であったかを物語っている。そしてその終焉は、豊臣秀吉という圧倒的な中央権力によって、紀伊国特有の「惣国」に代表される中世的な自治システムが解体され、近世的な統一支配体制へと再編されていく画期的な瞬間を象徴している。岩室城は、紀伊国の中世から近世への移行期を体現する、極めて重要な史跡であると言える。
軍事拠点としての役目を終えた後も、岩室城の歴史は続いた。江戸時代には、高名な念仏行者である徳本上人が、この城跡の断崖で千日にも及ぶ厳しい修行を行ったと伝えられている 14 。これにより、城跡は戦乱の記憶をとどめる場であると同時に、地域の信仰と結びついた聖地としての新たな意味を持つことになった。
昭和58年(1983年)、城跡はその歴史的価値を認められ、有田市の指定文化財(史跡)となった 1 。戦中戦後の食糧難の時代に開墾され、一時は荒廃していた城跡も、平成元年(1989年)に結成された地元の有志団体「愛郷会」の手によって、本丸跡や登城道などが整備され、その姿を取り戻しつつある 12 。岩室城は、過去の歴史を物語るだけでなく、それを未来に伝えようとする地域の人々の想いによって守られている、生きた文化的遺産なのである。