甲斐の岩殿山城は、聖地から要害へ変貌。天然の要害を活かした難攻不落の山城で、武田氏の東方戦略拠点、情報伝達の要として機能。武田氏滅亡時、小山田信茂は勝頼の入城を拒否。
山梨県大月市に聳える標高634メートルの岩山、岩殿山。その山頂に築かれた岩殿山城は、単なる中世の山城という範疇に収まらない、戦国時代の力学と人間の葛藤を凝縮した歴史的舞台である。この城は、甲斐武田氏の栄華と、とりわけその劇的な終焉に深く関与し、一個の城郭の運命が、いかにして大名の盛衰、そして時代の転換点と結びつくかを雄弁に物語っている 1 。
『甲陽軍鑑』において、駿河の久能城、上野の岩櫃城と並び「三名城」の一つと称された岩殿山城は、その峻険な地形から難攻不落の要害として知られていた 4 。しかしながら、その歴史は逆説に満ちている。東国屈指と謳われた堅固さを誇りながら、一度も本格的な攻城戦を経験することなく、歴史の表舞台からその姿を消したのである。本報告書では、この岩殿山城が持つ戦略的価値を構造、立地、そして政治的背景から多角的に分析するとともに、その歴史的評価の中核をなす城主・小山田信茂の天正十年(1582年)における行動が、果たして通説で語られるような単なる「裏切り」であったのかという問いを、近年の研究成果や史料批判の視点を取り入れながら徹底的に検証する。
岩殿山城の本質を理解する上で極めて重要なのは、その物理的な「堅固さ」と、歴史的結末において露呈した「人間的な脆弱さ」という、二つの側面が不可分に結びついている点にある。天然の断崖絶壁という最高の防御機能は、外部からの物理的な攻撃に対しては絶大な効果を発揮したであろう 6 。しかし、その鉄壁の守りは、内部からの崩壊、すなわち城主の政治的決断の前には無力であった。この事実は、城郭の本質が石垣や土塁といった物理的構造物のみによって決まるのではなく、それを運用する人間の意志、そしてその人間を取り巻く政治状況によって大きく左右されることを示す好例と言える。最強の城が戦わずしてその軍事的役割を終えたという矛盾こそが、岩殿山城の歴史的特異性を際立たせている。この城の物語は、単なる城郭論では完結せず、領主の政治的決断という人間的要素を導入することによって、初めてその全貌が明らかになるのである。
岩殿山城が戦国の要衝として歴史の舞台に登場する遥か以前、この山は甲斐国東部における信仰の中心地として、人々の畏敬を集める聖地であった。その歴史は、軍事拠点としてのそれよりも遥かに長く、深い精神的基盤を有していた。
岩殿山の宗教的歴史の起源は、平安時代にまで遡る。伝承によれば、9世紀末、あるいは大同元年(806年)に天台宗の寺院「岩殿山円通寺」として開創されたとされる 9 。『甲斐国志』などの記録によれば、その最盛期には三重塔、七社権現、観音堂、不動堂といった壮麗な伽藍が山中に立ち並び、一大宗教都市の様相を呈していた 2 。現在、麓の真蔵院に残されている文化財の数々は、往時の円通寺の繁栄を偲ばせるものである 10 。
さらに時代が下り、平安末期から室町時代にかけて、岩殿山は新たな信仰の形を受け入れる。熊野信仰がこの地に伝播し、円通寺はその郡内地方における拠点となった。同時に、天台系の本山派修験道の中心的な修行の場としても栄え、山伏たちが険しい岩山で厳しい修行に明け暮れた 10 。この地が持つ峻険な自然環境そのものが、修験者たちにとって格好の道場となったのである。
16世紀に入り、戦国時代の動乱が甲斐国にも及ぶと、岩殿山の持つ性格は大きく変貌を遂げる。甲斐国を統一し、さらなる勢力拡大を目指す武田氏と、その重臣でありながら郡内地方に半独立的な勢力を保っていた小山田氏がこの地を支配下に置くと、岩殿山の宗教的価値は、その軍事的価値の前景に後退していく 6 。
この変貌は、単に地形的な利点のみによるものではない。岩殿山が城郭の地として選ばれた背景には、より複合的な要因が存在したと考えられる。長年にわたる宗教的中心地としての歴史は、山へのアクセスルートとなる参道や、伽藍が建てられた平坦地、そして生活に不可欠な水源といった、城郭化に必要なインフラがある程度整備されていたことを意味する。全く未開の山を切り開くよりも、既存の宗教施設を接収し、軍事拠点として改変する方が、労働力や時間、コストの面で遥かに合理的であった。
さらに、地域で最も神聖視される場所を武力で支配下に置くことは、物理的な制圧に留まらず、地域の精神的な権威をも掌握することに繋がる。聖地から要害への転換は、戦国時代において、世俗的な武家権力が旧来の宗教的権威を凌駕し、自らの支配体制に組み込んでいくという、時代の大きな潮流を象徴する出来事であった。円通寺の梵鐘の音が、やがて法螺貝の響きと鬨の声に取って代わられていく過程は、まさに岩殿山が聖から俗へ、祈りの場から戦いの場へとその役割を変えていった歴史そのものであった。
岩殿山城は、その構造において、戦国時代中期の山城が持つ特徴を色濃く反映している。特に、人工的な構築物を最小限に留め、自然地形の利を最大限に引き出すという設計思想は、武田氏の築城術にも通底する合理性の現れであった。
岩殿山城は、JR大月駅の北東に聳える標高634メートルの独立峰の山頂から尾根にかけて築かれた、典型的な連郭式山城である 6 。東西に細長く延びる尾根上に本丸、二ノ丸、馬場といった主要な曲輪を直線的に配置し、南・東・西の三方を断崖絶壁に、北側を急峻な斜面に囲まれている 6 。この地形的特徴により、城への進入路は極めて限定され、まさに天然の要塞と呼ぶにふさわしい構造をしていた。その堅固さは東国屈指と評され、看板資料などではその構造を「宝珠円形」と形容することもある 14 。
城の防御思想は、石垣を多用する織豊系城郭とは一線を画す。敵の侵攻を阻む主たる要素は、岩盤を削り出して作られた急峻な切岸(きりぎし)と、尾根筋を人工的に分断する堀切であり、これらは土木工事によって自然の防御力をさらに高める工夫であった 7 。これは、限られた資源と労力で最大の防御効果を得ようとする、中世山城の伝統的な築城術の到達点の一つと言える。
現在でも確認できる遺構は、岩殿山城がどのような機能を持っていたかを具体的に示している。
これらの縄張りは、居住性や政務機能を極限まで削ぎ落とし、純粋な防御機能に特化している点が際立っている。各曲輪は狭隘であり 15 、大規模な兵団の長期駐留や日常的な統治業務を行うには全く不向きな構造である。この物理的な制約は、岩殿山城が平時の居館ではなく、戦乱の際に領主が最後に立て籠もるための最終防衛拠点、すなわち「詰城(つめのしろ)」として設計・運用されていたことを強く裏付けている。城の構造そのものが、その歴史的役割を雄弁に物語っており、後述する小山田氏の居館・谷村館との関係性を考察する上で、考古学的・城郭構造的な観点から強力な物証を提供するものである。
表1:岩殿山城の主要遺構一覧 |
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遺構名 |
読み |
推定される機能 |
位置・構造的特徴 |
本丸 |
ほんまる |
城の中枢部、司令塔、烽火台 |
標高634mの最高地点。面積は狭く居住性は低い。烽火台の痕跡が残る 15 。 |
二ノ丸・三ノ丸 |
にのまる・さんのまる |
本丸の前衛防御拠点 |
本丸の南西下に階段状に配置された小規模な曲輪 20 。 |
馬場 |
ばば |
兵の駐屯・訓練地 |
本丸西側に位置する城内最大の平坦地。南物見台に隣接する 17 。 |
倉屋敷跡 |
くらやしきあと |
兵糧・武具の保管庫 |
馬場と本丸の中間に位置する郭 17 。 |
揚城戸跡 |
あげきどあと |
大手口の城門 |
巨大な岩盤に挟まれた隘路に設置。門を上方に引き上げる構造と推定される 15 。 |
番所跡 |
ばんしょあと |
警備施設 |
揚城戸を抜けた直後に位置する 17 。 |
堀切 |
ほりきり |
尾根筋の遮断施設 |
本丸東側の尾根に二重に設けられている。敵の侵攻を阻止する 7 。 |
亀ヶ池・馬洗池 |
かめがいけ・うまあらいけ |
井戸(水源) |
馬場南側の窪地に位置。籠城に不可欠な水の手 4 。 |
鏡岩 |
かがみいわ |
天然の城壁 |
城の南面から東面にかけて広がる巨大な岩壁 12 。 |
岩殿山城の歴史を語る上で、その築城と経営に深く関わった郡内領主・小山田氏の存在は不可欠である。彼らの甲斐国における特殊な立ち位置こそが、岩殿山城の運命を決定づけたと言っても過言ではない。
小山田氏は、武蔵国を本拠とした名門・秩父氏の流れを汲む一族で、鎌倉時代から甲斐国東部の都留郡、通称「郡内地方」に根を張った有力な国衆(在地領主)であった 1 。戦国時代初期、甲斐国内では守護である武田氏と小山田氏をはじめとする国衆との間で激しい抗争が繰り広げられたが、永正6年(1509年)、小山田氏は武田信虎に服属する 17 。
しかし、この服属は完全な家臣化を意味するものではなかった。小山田氏は武田氏から親族に準ずる「御親類衆」としての待遇を受け、武田二十四将に数えられるほどの重臣として活躍する一方で、郡内地方においては高い自立性を維持した「半独立領主」という特殊な地位を保ち続けた 6 。彼らは武田宗家の支配を受けつつも、郡内という自らの領国を直接統治する君主でもあったのである。
岩殿山城の築城者や正確な年代については、確たる史料が存在しない。一般的には、享禄2年(1529年)頃、あるいは天文元年(1532年)に、小山田氏によって築城されたとする説が有力視されている 6 。その目的は、相模の北条氏や武蔵の上杉氏といった外部勢力に対する防衛拠点とすることであった 6 。
一方で、近年では新たな見解も提示されている。小山田氏の平時の居館は都留市にあった谷村館であり、岩殿山城はその有事の際の避難場所である「詰城」とされてきた 1 。しかし、谷村館と岩殿山城は約15キロメートルも離れており、詰城としては距離がありすぎるという指摘がある 1 。このことから、谷村館の真の詰城は近隣の勝山城であり、岩殿山城は小山田氏個人の城というよりも、武田氏が対後北条氏の国境防衛ラインの要として、より直接的に築城・管理に関与した城郭ではないか、という説も提唱されている 1 。この議論は、岩殿山城が小山田氏の私的な城塞であったのか、あるいは武田氏の公的な戦略拠点であったのかという、その本質に関わる重要な問いを投げかけている。
小山田氏が郡内地方で半独立的な地位を維持できた背景には、強固な経済基盤の存在があった。郡内地方は山がちで稲作には不向きな土地であったが、古くから養蚕と機織りが盛んであった 25 。小山田氏は、この地場産業である「郡内織」を積極的に奨励し、領国の経済を安定させたとされる 2 。郡内織は、その品質と手頃な価格から江戸などで人気を博し、小山田氏の重要な財源となった 25 。
このように、小山田氏は単なる武将ではなく、領国を経営する優れた統治者としての側面も持っていた。この事実は、彼らの行動原理を理解する上で極めて重要である。なぜなら、小山田氏の立場は、「武田家臣団の一員」としての顔と、「郡内領の君主」としての顔、二つのアイデンティティを併せ持つ、極めて複雑なものであったからだ。この二重性が、平時においては武田氏の勢力拡大に貢献する力となる一方で、主家が存亡の危機に瀕した際には、深刻なジレンマを生じさせる構造的な脆弱性を内包していた。武田氏への忠誠と、自らの領地・領民への忠誠。この二つのベクトルは、武田氏が強大である間は同じ方向を向いていたが、天正十年、武田氏の屋台骨が崩壊したとき、両者は真っ向から対立することになる。小山田信茂の最終的な決断は、彼個人の資質の問題としてのみならず、この国衆という立場に根差した構造的矛盾の必然的な帰結として捉える必要がある。
岩殿山城は、小山田氏の拠点であると同時に、甲斐武田氏の広域な領国経営と軍事戦略において、代替不可能なほど重要な役割を担う戦略拠点であった。その価値は、単なる国境の砦という静的な存在に留まらず、武田軍団の強さを支える動的なシステムの一部として機能していた点にある。
地理的に、岩殿山城は甲斐国の東端、相模国(神奈川県)との国境に位置していた。当時の相模国は、関東に覇を唱えた後北条氏の本拠地であり、武田氏にとっては最大の仮想敵国の一つであった。そのため、岩殿山城は対後北条氏防衛における最前線基地として、極めて高い戦略的重要性を有していた 2 。
その重要性は、具体的な軍事行動からも窺い知ることができる。天正8年(1580年)5月、後北条氏が郡内地方へ侵攻した際には、城主である小山田氏だけでなく、武田氏が直接家臣の荻原豊前を城に在番させて防衛を強化している 27 。これは、岩殿山城の防衛が小山田氏一家の問題ではなく、武田氏全体の軍事戦略に直結する公的な任務であったことを明確に示している。甲斐国の東門を守るこの城の存在が、後北条氏の侵攻を抑止する大きな力となっていたことは想像に難くない。
岩殿山城の堅固さは、同時代の人々にも広く知れ渡っていた。江戸時代に成立した軍学書『甲陽軍鑑』には、籠城戦に適した難攻不落の城として、駿河国の久能城、上野国の岩櫃城と並び、「武田の三名城」の一つとして数えられている 4 。『甲陽軍鑑』は史料としての正確性に問題がある部分も多いが、この評価は、岩殿山城が戦国武将たちの間でいかに堅固な城として認識されていたかを反映していると言えるだろう。その名声は、敵方である後北条氏にとっても大きな脅威であったはずである。
岩殿山城の真の戦略的価値は、その物理的な防御力だけに留まらない。本丸に設置されていたとされる烽火台は 17 、武田氏が領国全域に張り巡らせていた烽火による情報伝達ネットワークの、極めて重要な結節点(ノード)であったと考えられる。
武田氏は、広大な領国を効率的に支配・防衛するため、各所の山城や高地に烽火台を設置し、リレー方式で情報を伝達するシステムを構築していた 28 。このネットワークにより、国境での敵の動きや領内での異変といった情報は、早馬を遥かに凌ぐ速さで甲府の居館・躑躅ヶ崎館にいる信玄や勝頼のもとへ届けられた 29 。この迅速な情報収集能力こそが、戦国最強と謳われた武田軍団の機動力を支える神経系であった。
岩殿山城は、その地理的条件から、この情報ネットワークにおいて決定的な役割を担っていた。東に開けた視界は、相模方面から侵攻してくる後北条軍の動きをいち早く察知するのに最適であり、得られた情報は直ちに烽火によって甲府へと伝えられたであろう。この城は、単に国境を守る「壁」という静的な防御拠点である以上に、領国全体に情報を伝達する「感覚器官」であり、武田氏の支配システムを支える情報・軍事ハブとして機能していた。この視点に立つとき、天正十年の岩殿山城の機能停止は、単に一つの拠点を失ったという以上の意味を持つ。それは、武田氏が東方からの脅威を察知し、全軍に警報を発する重要な感覚器官を自ら断ち切ったことを意味し、組織全体の崩壊を象徴する出来事であったと解釈できるのである。
天正10年(1582年)3月、岩殿山城は、その歴史上、最も劇的で、そして最も悲劇的な瞬を迎える。この出来事は、城主・小山田信茂の名に「裏切り者」という烙印を押し、今日に至るまで様々な議論を呼び起こしている。
通説として広く知られている物語は、主に『甲陽軍鑑』などの後代の編纂物に基づいて描かれている。天正10年2月、織田信長と徳川家康による連合軍が甲斐へ侵攻を開始すると、武田軍は各地で総崩れとなった。3月、追い詰められた武田勝頼は、完成間もない新府城に自ら火を放ち、最後の望みを託して小山田信茂の居城・岩殿山城を目指して落ち延びていった 1 。この岩殿山城への撤退を進言したのが、信茂自身であったとされる 3 。
しかし、勝頼一行が郡内との境である笹子峠に差し掛かった時、事態は急変する。先導していたはずの信茂は突如として態度を豹変させ、峠道を封鎖し、勝頼の郡内入りを拒絶した 17 。一説には、涙ながらに主君一行に向けて威嚇の鉄砲を撃ちかけたとも伝えられている 30 。拠り所を失い、進退窮まった勝頼主従は、天目山(甲州市)へと引き返し、そこで追撃してきた織田軍の兵に囲まれ、妻子と共に自害。ここに、源氏の名門・甲斐武田氏は滅亡した 1 。
悲劇はこれで終わらない。主君を見捨てた信茂は、織田方に降伏し、自領の安堵を求めた。しかし、織田軍の総大将であった信長の嫡男・信忠は、信茂の行為を「主君への不忠」として厳しく断罪。信茂は武田信堯(信玄の甥)らと共に甲斐善光寺で処刑され、小山田一族もまた滅亡の道を辿った 1 。
この通説に対し、特に信茂の故地である郡内地方を中心に、彼の行動を再評価する動きが古くから存在する。この見解は、信茂の行動を単なる保身や不忠としてではなく、郡内領主としての責務を全うするための苦渋の決断であったと捉えるものである 24 。
この説の論拠は、当時の絶望的な戦況にある。勝頼が岩殿山城を目指した時点で、武田氏はすでに組織的な抵抗力を完全に失っていた。重臣であった木曽義昌や穴山信君(梅雪)は織田・徳川方に寝返り、兵は次々と逃亡していた 30 。このような状況で勝頼を岩殿山城に迎え入れたとしても、それは織田・徳川連合軍という圧倒的な大軍を郡内地方に引き込むことに他ならなかった。難攻不落の岩殿山城も、兵糧が尽きればいずれは落城し、その結果、郡内全域が戦火に焼かれ、領民が塗炭の苦しみを味わうことは火を見るより明らかであった 27 。
郡内領主として、信茂には先祖代々受け継いできた領地と、そこに住む領民の生命・財産を守るという、君主としての第一の責務があった。滅びゆく主君個人への忠義を貫くことと、自らの「国」である郡内を守ること。この二つが天秤にかけられた時、彼は後者を選んだ。それは、自らの命と「裏切り者」の汚名を甘んじて受けることと引き換えに、郷土を戦火から守るという、領主としての最後の使命に殉じた行為であった、と評価されるのである 27 。
さらに近年では、この事件の前提となっている史料そのものへの批判的検討や、全く異なる解釈も提唱されている。
第一に、事件を詳述する主要史料である『甲陽軍鑑』の史料的価値の問題である。この書物は、江戸時代初期に成立した軍学書であり、武田氏の事績を後世に伝える貴重な文献である一方、多くの文学的脚色や事実誤認が含まれていることが指摘されている 33 。そのため、『甲陽軍鑑』に描かれた信茂の行動を、全て史実として鵜呑みにすることはできない。
第二に、信茂の行動は勝頼の暗黙の了解を得た上での、計画的な行動だったのではないかという新説である。この説は、武田家滅亡の際の混乱の中で、死者が勝頼とその側近、夫人などごく少数に限られている点に着目する 37 。もし信茂が本当に裏切り、戦闘状態になったのであれば、より多くの死者が出たはずである。しかし実際には、勝頼の娘である松姫をはじめ、多くの重臣の妻子が郡内地方を無事に通過し、落ち延びている事実がある 24 。これは、信茂が表向きは勝頼を拒絶し、織田方の注意を引きつけている間に、裏では勝頼の血縁者や重臣の家族を計画的に逃がしていた可能性を示唆する。この場合、笹子峠での鉄砲発射は、勝頼一行の逃亡を助けるための芝居であったということになる。また、勝頼が岩殿山城に入る条件として、人質となっていた信茂の母の解放を求めたという記録もあり、信茂の行動が単純な裏切りではなかったことを示唆している 24 。
信茂の行動は、個人の主君に対する人格的な「忠義」を絶対視する中世的な武士道倫理と、領国という共同体の存続と安寧を最優先する近世的な「国家理性(raison d'État)」が激しく衝突した、歴史の転換点を象徴する事件と捉えることができる。戦国時代後期は、個々の武士の主従関係で成り立っていた社会から、大名が領域(領国)を一体的に支配する「領国国家」へと移行する過渡期であった。この文脈において、勝頼が信茂に求めたのは前者の「忠義」であり、信茂が選択したのは後者の「領国経営者としての責任」であった。最も皮肉なのは、天下統一という新たな時代の秩序を構築しつつあった織田信長(信忠)が、新しい時代の論理で行動したはずの信茂を、古い時代の論理(主君への不忠)で断罪した点である。これは、信長が自らの支配体制を確立する過程で、旧来の「忠義」という規範を、自らに従う者を選別し、秩序を再構築するための道具として巧みに利用したことを示唆している。信茂の悲劇は、このような価値観の転換期に生きた人間の、逃れられない宿命であったのかもしれない。
天正10年3月、武田氏の滅亡と共に、岩殿山城はその最も重要な存在理由を失った。しかし、その戦略的価値が完全に消滅したわけではなかった。甲斐国が新たな政治的空白地帯となると、この堅城は再び歴史の表舞台へと引き戻されることになる。
天正10年6月2日、京都で本能寺の変が勃発し、織田信長が横死すると、甲斐国を統治していた織田家臣・河尻秀隆は武田遺臣による一揆で殺害され、甲斐国は再び主無き地となった 1 。この機を逃さず、周辺の三大勢力、すなわち徳川家康、後北条氏直、そして越後の上杉景勝が甲斐の領有権を主張し、軍事侵攻を開始した。世に言う「天正壬午の乱」である 1 。
この争奪戦において、甲斐東部に位置する岩殿山城は、関東から甲斐への入り口を扼する要衝として、特に後北条氏にとって重要な攻略目標となった。後北条氏は、相模津久井城主であった家臣の内藤綱秀を派遣し、岩殿山城を確保することに成功する 1 。これにより、後北条氏は甲斐東部における確固たる足掛かりを築いた。
しかし、乱の趨勢は徳川家康に有利に進み、最終的に徳川氏と後北条氏の間で和議が成立。その結果、甲斐国は徳川氏の所領となることが決定し、後北条軍は甲斐から撤退した 1 。これに伴い、岩殿山城も徳川家康の支配下に入ることとなった。
甲斐国を掌握した徳川家康もまた、岩殿山城の戦略的重要性を高く評価していた。家康は城の防備を固め、江戸時代初期に至るまで要塞として維持・整備を続けた 1 。一説には、江戸幕府に万一の非常事態が発生した際に、将軍が甲府へ退避する計画があり、その際の重要な経由地および防御拠点として岩殿山城が位置づけられていたとも言われている 40 。戦国乱世は終わりを告げたものの、新たな支配体制が安定するまでの間、岩殿山城はその軍事的価値を保持し続けていたのである。
しかし、その役割にもやがて終焉の時が訪れる。廃城となった正確な年は不明であるが、元和元年(1615年)頃、17世紀前期にはその機能を停止したと考えられている 2 。この時期は、徳川幕府が大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実とも天下の支配者となった直後である。幕府は、全国の大名に対し、居城以外の城をすべて破却するよう命じる「一国一城令」を発布した 41 。この法令は、諸大名の軍事力を削ぎ、幕府への反乱の芽を摘むことを目的としており、これにより全国で数百の城が取り壊された 42 。岩殿山城も、この時代の大きな流れの中で、その歴史的使命を終え、廃城となったと見られる。
岩殿山城の誕生から廃城に至るまでのライフサイクルは、戦国時代の開始から終焉、そして徳川幕府による新たな統一政権の確立という、日本の歴史の大きなうねりを完璧に映し出している。国衆が割拠する中で軍事拠点として生まれ、大大名間の激しい抗争の中でその重要性を増し、天下統一が成ったことでその存在意義を失い、戦闘による破壊ではなく政治的命令によって廃棄される。城の運命は、それが建てられた土地の歴史そのものであり、岩殿山城の歴史は、そのまま戦国時代史の縮図となっているのである。
岩殿山城は、甲斐国東部の岩山に築かれた一介の山城に過ぎないかもしれない。しかし、その歴史を深く掘り下げることで、戦国時代という時代の本質に迫る、いくつかの重要な結論を導き出すことができる。
第一に、城郭史上の価値である。岩殿山城は、石垣のような高度な技術に頼るのではなく、断崖絶壁という自然地形を最大限に利用し、切岸や堀切といった土木工事でその防御力を補強するという、中世山城の築城思想の到達点の一つを示す貴重な遺構である。特に、武田氏がその支配領域で展開した城郭ネットワークの一翼を担った城として、その構造と思想は、武田氏の軍事戦略と築城術を理解する上で欠くことのできない学術的価値を有している。
第二に、この城が国衆という存在の悲劇を象徴している点である。城主であった小山田信茂の物語は、戦国大名という巨大な権力構造の狭間で、自らの領地と領民を守るために生き抜こうとした中間的立場、すなわち国衆が直面した苦悩そのものである。主家への忠義と、自らの領国への責任。この二律背反の狭間で下された彼の決断は、時代の転換期における価値観の衝突と、そこに生きた人間の宿命を我々に突きつける。岩殿山城は、この人間ドラマが繰り広げられた、忘れがたい舞台として記憶されるべきである。
第三に、歴史的評価の可変性というテーマである。小山田信茂に対する評価が、通説における「裏切り者」という断罪から、地元における「郷土の英雄」という称賛、さらには近年の研究における新たな解釈まで、時代や立場、視点によって大きく揺れ動く事実は、歴史的評価というものが決して一様ではなく、固定されたものでもないことを示している。歴史とは、過去の事実の単なる記録ではなく、後世の人々によって常に再解釈され、新たな意味を付与され続けるプロセスである。岩殿山城とその城主の物語は、この歴史解釈のダイナミズムを考察する上で、絶好の素材を提供してくれるのである。
結局のところ、岩殿山城が戦国史に刻んだものは、難攻不落と謳われた物理的な堅固さ以上に、その城をめぐる人々の意志、決断、そして悲劇であった。岩壁は今も静かに聳え立つが、その歴史は、戦国という時代がいかに非情で、そして人間的であったかを、我々に静かに語りかけている。
戦国の動乱が遠い過去となった現在、岩殿山城跡は、歴史を今に伝える貴重な史跡として、また市民の憩いの場として新たな役割を担っている。その学術的価値と共に、地域に根差した伝承や後世の人々によって付与された新たな意味が、この地に多層的な歴史の記憶を刻み込んでいる。
岩殿山城跡は、その遺構の残存状況が良好であり、中世山城の構造を理解する上で学術的価値が極めて高いと評価され、平成7年(1995年)6月22日に山梨県の史跡に指定された 17 。現在、城跡へは複数の登山道が整備されているが、2018年の地震などによる落石の影響で、一部区間が通行止めとなっている場合があるため、訪れる際には事前の情報確認が不可欠である 33 。
史跡としての岩殿山城は、考古学的・歴史学的な調査の対象となる「正史」の舞台であると同時に、「稚児落とし」のような地域に根差した「伝承」や、乃木希典の漢詩のような後世の人々による「解釈」が幾重にも折り重なった、多層的な記憶の空間となっている。これらの要素を併せて考察することは、一つの歴史的事象が、時代を経てどのように語り継がれ、新たな意味を帯びていくのかという、より広いテーマへの接続を可能にする。岩殿山城は、今日もなお、訪れる人々に歴史の多面性を問いかけ続けているのである。