丹後一色氏の拠点、建部山城は、室町から戦国を生き抜いた名門の象徴。信長に抗い落城、近代要塞化で姿を消すも、二つの時代の歴史を今に伝える。
丹後国(現在の京都府北部)に聳える建部山城は、単なる一地方の山城として語られるべき存在ではない。それは、室町幕府の重鎮たる名門・一色氏による約二世紀にわたる丹後国支配の栄枯盛衰を象徴する、政治的・軍事的拠点であった。舞鶴湾と由良川を見下ろし、若狭、丹波、そして京へと通じる交通路を扼するその戦略的な立地は、中世から近代に至るまで、この地が軍事的な要衝であり続けたことを物語っている 1 。優美な円錐形の山容から「丹後富士」あるいは「田辺富士」とも称されるこの山は 3 、その穏やかな外観とは裏腹に、激しい権力闘争と時代の変転の舞台となったのである。
本報告書は、この建部山城を主軸に据え、丹後守護として君臨した一色氏の興亡という大きな歴史のうねりの中で、当城が果たした役割を多角的に解き明かすことを目的とする。さらに、戦国の終焉と共にその役割を終えた城が、約三百年の時を経て、近代国家の軍事戦略によってその中世の姿を完全に地上から消し去られるという、歴史の皮肉とも言うべき運命を詳述する。建部山城の歴史を追うことは、室町時代の守護大名体制の崩壊、戦国乱世の終焉、そして近代国家の誕生という、日本の歴史における三つの大きな転換点を一つの場所から俯瞰する試みでもある 1 。
建部山城の歴史を理解するためには、まずその城主であった一色氏の出自と、彼らが丹後の地に至る経緯を把握する必要がある。一色氏は、清和源氏の名門・足利氏の支流であり、鎌倉時代の足利宗家当主であった足利泰氏の子、公深をその祖とする 7 。公深が母方の所領であった三河国吉良荘一色(現在の愛知県西尾市一色町)を本貫としたことから「一色」の姓を名乗るようになった 7 。
室町幕府が成立すると、一色氏は足利将軍家の一門として重用され、その地位を不動のものとする。特に、幕府の軍事・警察権を司る侍所(さむらいどころ)の長官である所司(しょし)を世襲する四つの家柄「四職(ししき)」の筆頭に数えられ、幕政の中枢で絶大な権力を誇った 7 。その権勢を背景に、若狭、三河、伊勢、志摩、そして丹後など、最大で五箇国二郡の守護職を兼任する有力守護大名へと成長したのである 7 。
一色氏による丹後支配が始まる直接的な契機は、1391年(明徳2年)に発生した明徳の乱であった。この乱において、当時の当主であった一色詮範(あきのり)の子・満範(みつのり)が、将軍足利義満に従って山名氏清を討つ武功を挙げた。その功績により、満範は翌1392年(明徳3年)、丹後国の守護職に任じられた 1 。これ以降、天正7年(1579年)に織田信長の軍勢によって滅ぼされるまでの約190年間、一色氏は丹後守護としてこの地に君臨することになる。
ここで特筆すべきは、一色氏の統治形態である。歴代当主の多くは、守護国である丹後に常駐するのではなく、幕府の重職を担うために京都の邸宅に在住することが常であった 14 。これは単なる職務怠慢や地方軽視を意味するものではない。彼らの権力基盤は、丹後一国からもたらされる経済力や軍事力だけでなく、幕府中枢における政治的影響力と、将軍家との強固な結びつきにこそあった。したがって、在京して幕政に深く関与し、中央政界での地位を維持することこそが、一色家全体の権威と利益を守るための最重要任務だったのである。この「在京領主」という統治形態は、当時の有力守護大名に共通して見られる特徴であり、彼らが全国区の大名であったことの証左に他ならない。しかし、この統治形態は、後に守護権力の空洞化を招き、一色氏の弱点へと転化していく遠因ともなった。
丹後守護となった一色満範は、加佐郡八田(現在の舞鶴市八田)の地に守護所を構えた 1 。これは「八田館」あるいは「八田城」とも呼ばれ、平時の政務や経済活動の中心となる拠点であった 6 。そして、その八田館の背後に聳える建部山に、有事の際の最終防衛拠点、すなわち「詰城(つめのしろ)」として築かれたのが建部山城である 1 。このように、山麓の平地に居館(守護所)を置き、背後の山に城砦を構えるという二元的な拠点配置は、室町時代の守護大名によく見られる典型的な形態であった。
建部山城の正確な築城年代については諸説あり、断定は困難である。南北朝時代の1336年(建武3年)に南朝方の豪族によって築かれたという伝承や 13 、一色範光(のりみつ)による築城説も存在する 6 。しかし、一色氏が丹後守護として本格的な支配体制を構築し始めた1392年(明徳3年)頃に、満範によって八田館と一体の軍事施設として大規模な整備がなされたと考えるのが最も妥当であろう 1 。
建部山が城地として選ばれた理由は、その卓越した地理的・戦略的価値にある。標高約316メートルの山頂からは、東に舞鶴湾、西に由良川、そして丹後の内陸部を一望できる 1 。この地は、日本海から内陸へ、あるいは若狭から丹後、丹波を経て京都へと至る交通の結節点に位置しており、丹後一円を支配するためには絶対に抑えなければならない要衝であった 2 。建部山城は、まさに丹後支配の要石として、一色氏の権威を象徴する存在だったのである。
前述の通り、一色氏の当主は在京していることが多かったため、丹後国の現地統治は「陣代(じんだい)」、すなわち守護代や一門の者が代行していた 14 。特に守護代の延永(のぶなが)氏や、有力被官であった石川氏、小倉氏、伊賀氏などが現地の国人衆を統率し、実質的な支配を担っていた 17 。
しかし、長期にわたる当主不在と守護代による統治は、徐々に一色氏の権力構造に歪みを生じさせていく。現地の守護代や国人衆は次第に勢力を蓄え、自立化の傾向を強めていった。その結果、守護である一色氏の権威は形式的なものとなり、統治基盤は空洞化していったのである。特に戦国時代に入るとその傾向は顕著となり、丹後国内では守護代の延永氏と有力国人の石川氏が、守護の意向を無視して主導権を巡る激しい内紛を繰り広げる事態に至った 11 。この内部抗争は、隣国である若狭の武田氏といった外部勢力の介入を招き、丹後の情勢を一層不安定化させる要因となった 17 。
後に織田信長の命を受けた細川藤孝が丹後へ侵攻した際、多くの国人衆が一色氏を見限り、容易に細川方へ寝返った背景には、こうした構造的な問題が存在した。藤孝の巧みな調略が功を奏したのは、彼がゼロから国人衆を説得したからではない。数十年にわたる内部対立によって一色氏の求心力は既に失墜しており、国人衆が実力者になびきやすい下剋上の土壌が形成されていたからに他ならない。藤孝は、丹後国内に深く根差していた亀裂や不満を巧みに利用し、一色氏の支配体制を内部から崩壊させたのである。建部山城の落城は、外部からの軍事侵攻の結果であると同時に、長年にわたる内部崩壊の帰結でもあった。
室町幕府の権威が揺らぎ始め、日本全土が戦乱の時代へと突入していく中で、丹後国もその例外ではなかった。特に、1467年(応仁元年)に始まった応仁の乱は、一色氏の運命に大きな影響を与えた。当時の当主・一色義直(よしなお)は西軍の山名宗全方に属したため、東軍の細川勝元方についた隣国・若狭の守護、武田信賢(のぶかた)と敵対関係となった 9 。丹後の領国を巡る両氏の抗争は激化し、丹後の地は戦火に包まれた 20 。この大乱を通じて幕府の権威は完全に失墜し、一色氏もまたその国力を大きく消耗させていった。
応仁の乱後も、丹後守護職の正統性を巡って若狭武田氏との宿命的な対立は断続的に続いた。明応7年(1498年)には一色義直が武田氏との戦いで戦死し、その後も幾度となく武田軍の侵攻を受けた 9 。一時は幕府の裁定により、若狭武田氏が丹後守護職に任じられるなど、一色氏による丹後支配は常に外部からの脅威に晒され続けていたのである 9 。
こうした日本海沿岸地域での争いにおいて、一色氏が独自の海上戦力、すなわち「丹後水軍」を擁していたことが記録からうかがえる 10 。彼らは若狭への海上からの攻撃や、織田信長の越前一向一揆攻めに水軍を派遣するなど、その活動は広範囲に及んでいた 10 。この水軍力は、一色氏が丹後沿岸部の支配を維持するための重要な要素であったと考えられるが、度重なる周辺勢力との抗争は、一色氏の国力を確実に蝕んでいった。
永禄元年(1558年)、一色義幸の子・義道(よしみち)が家督を継ぎ、建部山城の城主となった 1 。義道は義員(よしかず)、義通(よしみち)とも伝えられる人物である 22 。彼が当主となった頃、中央の情勢は織田信長の登場によって激変の時代を迎えていた。永禄11年(1568年)、信長は足利義昭を奉じて上洛し、天下布武への道を突き進み始める。これにより、旧来の室町幕府体制にその権威の根源を置いていた一色氏のような旧守護大名の立場は、急速に危うくなっていった。
当初、義道は信長に従属していた形跡もあるが 22 、やがて両者の関係は決定的に破綻する。その直接的な原因は、信長と対立し、京を追放された将軍・足利義昭を義道が庇護したことにあった 9 。この行動は、信長に対する明確な敵対行為とみなされた 21 。
圧倒的な勢力を誇る信長に逆らい、没落した将軍を支持するという義道の政治的決断は、単なる情勢判断の誤りとして片付けることはできない。それは、足利一門としての誇りと、室町幕府体制の守護者たるべしという、名門ならではの自己認識に根差した行動であった。一色氏の権威と正統性は、すべて足利将軍家との関係性の上に成り立っていた。信長が構築しようとしていた新たな秩序は、その存在基盤そのものを揺るがすものであり、義道にとって信長への完全な臣従は、自らの家のアイデンティティを否定することに繋がりかねなかった。故に、義昭の庇護は、自らの家の存続理由と名誉を守るための、彼なりの「義」に基づいた論理的な選択だったのである。しかし、時代は既に旧来の権威や名分よりも、実力が全てを決定する戦国乱世へと完全に移行していた。この旧時代の価値観に基づく行動は、結果として自らの家を滅亡へと導く、致命的な選択となった。彼の悲劇は、時代の変化を読み切れなかった一個人の失敗であると同時に、旧体制と共に滅びゆく名門の宿命を象徴するものであったと言えよう。
将軍・足利義昭の庇護という一色義道の決断は、織田信長の怒りを買い、丹後国は織田軍の次なる攻略目標となった。天正6年(1578年)、信長は腹心の将である明智光秀と、その与力であった細川(長岡)藤孝・忠興親子に丹後平定を命じた 2 。
細川藤孝は、単なる武力による制圧だけでなく、巧みな調略を駆使して丹後攻略を進めた。彼はまず、長年の内部対立によって一色氏への忠誠心が揺らいでいた丹後の国人衆に狙いを定める。そして、所領安堵などを条件に次々と寝返りを促し、一色義道を急速に孤立させていった 9 。多くの家臣に離反され、丹後国内での支持基盤を失った義道は、最後の拠点である建部山城へと追い詰められていく。
天正7年(1579年)、細川・明智連合軍は、一色氏の本拠地である八田の守護所を攻撃し、義道が籠もる建部山城に迫った。義道は残された兵と共に籠城し、最後の抵抗を試みたが、兵力差は圧倒的であった。織田軍の猛攻の前に城の防備は次々と破られ、ついに建部山城は落城した 1 。約190年にわたって丹後支配の象徴であった名城は、ここにその歴史的役割を終えたのである。
炎上する建部山城を辛くも脱出した一色義道は、再起を図るべく、同盟関係にあった但馬国の山名氏のもとへ亡命しようと試みた 22 。その逃亡の途中、義道は家臣である中山城(現在の舞鶴市)の城主・沼田幸兵衛(ぬまた こうべえ、中山幸兵衛、沼田勘解由とも呼ばれる)の城に身を寄せた 4 。
しかし、義道にとって最後の頼みの綱であったはずのこの家臣は、既に細川方に内通していた。沼田幸兵衛は主君を裏切り、その身柄を織田方に引き渡そうとしたのである 2 。進退窮まった義道は、もはやこれまでと覚悟を決め、中山城内で自刃して果てたと伝えられている 4 。この主君に対する裏切りは、丹後における一色氏の権威が完全に地に落ち、その支配体制が末期的な状況にあったことを象徴する悲劇的な出来事であった。
一方で、この義道の最期については異説も存在する。勝利者である細川家の家譜には、義道は丹後平定戦の最中に「病死した」と記されている 22 。これは、主君を裏切りによって自害に追い込んだという不名誉な事実を隠蔽し、自らの丹後支配の正当性を高めるための、勝者側による歴史の改竄であった可能性も否定できない。
父・義道の非業の死の後も、一色氏の抵抗は終わらなかった。義道の子である一色義定(よしさだ、満信とも)が家督を継ぎ、丹後北部の与謝郡にある弓木城を拠点として残存勢力を結集し、細川軍への抵抗を続けた 9 。弓木城は堅城であり、細川藤孝も攻めあぐねたため、戦いは膠着状態に陥った。
この状況を打開するため、仲介役として明智光秀が乗り出した。光秀の斡旋により、藤孝は自らの娘・伊也を義定に嫁がせるという政略結婚によって和睦を結んだ 9 。これにより、丹後は南半を加佐・与謝郡を細川氏が、北半を義定が領するという形で分割統治されることになった。
しかし、この和睦は長くは続かなかった。天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、丹後の情勢は再び激動する。義定は光秀に味方したとされるが、山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗れると、その立場は極めて危ういものとなった。変後、秀吉の後ろ盾を得て丹後一国の支配権を確立しようとした細川藤孝は、もはや一色氏の存在を許さなかった。同年、藤孝は義定を自らの居城である宮津城に誘い出し、謀殺した 9 。その後、義定の叔父にあたる一色義清も細川軍との戦いで討ち死にし、ここに丹後守護として栄華を誇った名門・一色氏は完全に滅亡したのである 9 。
一色氏の滅亡と細川氏による丹後統一に伴い、建部山城はその軍事拠点としての歴史的役割を完全に終えた。豊臣秀吉によって丹後一国の支配を認められた細川藤孝は、新たな統治拠点として、山城である建部山城を選択しなかった。彼は、かつて一色氏の守護所があった山麓の八田の地を大規模に改修・拡張し、近世的な平城「田辺城」(現在の舞鶴城公園)を築城したのである 4 。
この拠点の移動は、単なる城の建て替え以上の意味を持っていた。それは、戦乱が常態であった時代において、防御を最優先とした山上の「詰城」から、政治と経済を中心とする平時の統治に適した平地の「平城」へと、城郭の主たる機能が移行していく時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。田辺城の築城により、建部山城は歴史の表舞台から完全に姿を消し、廃城となった。
一色氏累代の居城として、相応の規模を誇ったであろう建部山城であるが、残念ながらその中世山城としての遺構は今日、地上から完全に姿を消している 1 。その理由は、明治時代に、ロシアの南下政策に対抗すべく開かれた舞鶴軍港(舞鶴鎮守府)を防衛するため、建部山の山頂部が「建部山堡塁砲台」として大規模に造成されたことによる 3 。この砲台建設の際に、山頂部は大きく削平され、曲輪や堀切といった中世城郭の痕跡はことごとく破壊されてしまったのである 6 。
そのため、建部山城の具体的な縄張り(城の設計)を正確に復元することは極めて困難である。しかし、残された地形や、同時代に丹後地方で築かれた他の山城との比較から、その姿をある程度推定することは可能である。おそらく、最も眺望の良い山頂部に主郭(本丸)を置き、そこから延びる尾根筋に沿って、複数の曲輪(くるわ)を階段状に配置した、連郭式の山城であったと考えられる。それぞれの曲輪は堀切(ほりきり)や土塁(どるい)によって区画され、敵の侵攻を段階的に食い止める構造になっていたであろう。
現在、建部山を訪れる人々が目にするのは、戦国時代の土の城の痕跡ではなく、明治期に築かれた赤レンガやコンクリート造りの堅牢な砲台跡、弾薬庫、観測所といった近代要塞の遺構である 1 。かつての丹後守護の権威の象徴は、近代国家の国防の礎へと、その姿を完全に変えてしまったのである。
建部山が再び歴史の表舞台に登場するのは、落城から約300年後の明治時代である。日清・日露戦争を背景に、日本海側の防衛拠点として舞鶴に軍港が設置されると、舞鶴湾を一望できる建部山の戦略的価値が再び見直された 33 。そして明治34年(1901年)、大日本帝国陸軍によって、舞鶴軍港を防衛するための「建部山堡塁砲台」が建設されたのである 1 。
この歴史の展開は、一つの場所が持つ地理的・戦略的価値の不変性がいかに歴史を動かすかを如実に示している。建部山が歴史の舞台であり続けた根源的な理由は、時代を超えて変わることのない「舞鶴湾を見下ろす要衝」という地理的優位性にあった。この不変の価値ゆえに、室町・戦国時代には一色氏が守護の権威を示すための城を築き、近代国家の成立期には大日本帝国が国家防衛のための要塞を築いた。そして、結果として後者の構築が前者の痕跡を物理的に抹消するという、歴史の皮肉が生まれたのである。建部山城が築かれた理由そのものが、奇しくも後にその遺構が破壊される理由となったのだ。
第二次世界大戦後にその軍事的役割を終えた砲台跡は、現在、日本の近代化や国防の歴史を物語る貴重な産業遺産として評価されている 33 。戦国の山城の記憶の上に、近代の要塞の遺構が重なる建部山は、一つの場所が異なる時代、異なる権力体によって、同じ戦略的理由から利用され、その過程で過去の記憶が上書きされていくという、歴史の重層性を示す類稀な史跡となっている。
建部山城の歴史は、丹後守護一色氏の権威の象徴として始まり、約二世紀にわたってその役割を果たした。しかし、戦国という時代の大きなうねりの中で、城主・一色義道は旧時代の価値観に殉じ、城は悲劇的な落城を遂げた。これは、室町幕府の守護大名体制が崩壊し、実力主義の新たな秩序が生まれる時代の転換点を象徴する出来事であった。
その役割を終え、歴史の中に埋もれたかに見えた建部山は、約三百年後、再び国家の要請によって歴史の舞台に呼び戻される。しかし、それは中世の城の復興ではなく、近代国家の国防を担う要塞への変貌であった。そして、この近代要塞の建設は、皮肉にも中世の城郭の痕跡を地上から完全に消し去る結果をもたらした。
かくして建部山城は、中世から近世へ、そして近世から近代へという、日本の歴史における二つの大きな時代の転換点に翻弄された要害であったと言える。失われた戦国の山城の記憶と、現存する明治の近代要塞の遺構。この二重の歴史を内包する建部山は、訪れる者に対し、日本の歴史の重層性と、時代が絶えず移り変わっていくダイナミズムを静かに、しかし雄弁に問いかけている稀有な史跡である。
年代(西暦/和暦) |
出来事 |
主な関連人物 |
関連資料 |
1336年(建武3年) |
南朝方の豪族により建部山に城が築かれたとの伝承あり |
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13 |
1392年(明徳3年) |
明徳の乱の功により一色満範が丹後守護に任じられる。八田に守護所を構え、建部山城を詰城として整備したか |
一色満範 |
1 |
1467年~(応仁元年~) |
応仁の乱。一色義直は西軍に属し、東軍の若狭武田氏と対立。丹後も戦乱の舞台となる |
一色義直、武田信賢 |
9 |
1558年(永禄元年) |
一色義道が家督を継ぎ、建部山城主となる |
一色義道、一色義幸 |
1 |
1578年(天正6年) |
織田信長の命により、細川藤孝・忠興親子が丹後へ侵攻を開始 |
織田信長、細川藤孝、明智光秀 |
2 |
1579年(天正7年) |
建部山城が落城。城主・一色義道は中山城へ逃れるも、城主・沼田幸兵衛の裏切りにより自害 |
一色義道、細川藤孝、沼田幸兵衛 |
1 |
1582年(天正10年) |
本能寺の変後、一色義定が宮津城で細川藤孝に謀殺される。丹後守護一色氏が滅亡 |
一色義定、細川藤孝 |
9 |
1582年以降 |
細川藤孝が八田の地に田辺城を築城。建部山城は廃城となる |
細川藤孝 |
4 |
1901年(明治34年) |
舞鶴軍港防衛のため、建部山山頂に「建部山堡塁砲台」が建設される。これにより城郭遺構は消滅 |
大日本帝国陸軍 |
1 |