安芸の新高山城は、小早川隆景が築いた毛利両川体制の拠点。瀬戸内海を見据え、陸海統合戦略を支えた。厳島の戦いでは司令塔となり、その堅固な構造は今も残る。
日本の戦国時代、数多の城郭が興亡を繰り返す中で、安芸国東部にその威容を誇った新高山城は、単なる一地方の拠点に留まらない、特筆すべき歴史的価値を秘めている。この城は、中国地方の覇者、毛利元就の三男にして、のちに豊臣政権下で重きをなした智将・小早川隆景が、その飛躍の第一歩を記した場所である 1 。天文21年(1552年)に築城されてから慶長元年(1596年)にその役目を終えるまでの約45年間、新高山城は小早川氏の本拠として、瀬戸内海を舞台とした毛利家の覇権確立に不可欠な役割を果たした 1 。
しかし、新高山城の真価は、その歴史的役割のみにあるのではない。その構造にこそ、中世的な山城の堅固な防御思想と、近世城郭へと繋がる政治的・居住的機能が融合した、まさに「過渡期の城郭」としての特徴が色濃く見て取れる 4 。本報告書は、戦国時代という激動の時代を背景に、新高山城がなぜ築かれ、どのような構造を持ち、いかにしてその歴史的使命を終えたのかを多角的に分析する。これにより、小早川隆景という一人の武将の戦略思想と、城郭そのものが持つ時代の変遷を映す鏡としての価値を明らかにすることを目的とする。
新高山城の誕生を理解するためには、まずその舞台となった安芸国東部の情勢に目を向ける必要がある。この地には、鎌倉時代以来の名門・小早川氏が勢力を張っていた。小早川氏は時代が下るにつれて、本家筋にあたる沼田(ぬた)荘の「沼田小早川氏」と、分家筋にあたる竹原荘の「竹原小早川氏」という二つの系統に分かれ、それぞれが独自の勢力を形成していた 6 。両者は時に協力し、時には対立するなど、複雑な関係を続けていたのである。
沼田小早川氏の本拠は、沼田川の東岸にそびえる高山城であった。この城は、小早川氏の祖先によって築かれて以来、約350年もの長きにわたり、一族の拠点として機能してきた難攻不落の山城であった 8 。
16世紀半ば、安芸国の一国人に過ぎなかった毛利元就が、その類稀なる智謀で急速に台頭する。元就は、中国地方全域の支配を視野に入れ、巧みな外交・軍事戦略を展開した。その中でも特に重要なのが、血縁を軸とした勢力拡大策、いわゆる「養子戦略」であった。元就は、安芸国から石見国にかけて影響力を持つ吉川氏に次男の元春を、そして瀬戸内海に強力な水軍を擁する小早川氏に三男の隆景を、それぞれ養子として送り込んだのである 9 。
天文13年(1544年)、隆景はまず竹原小早川家の家督を継承。さらに天文19年(1550年)には、当主が若くして亡くなった本家の沼田小早川家をも継承し、分裂していた二つの小早川家を完全に統合することに成功した 1 。これにより、毛利本家を支える二つの大河になぞらえられた「毛利両川(もうりりょうせん)体制」の一翼が確立され、毛利家の勢力は飛躍的に増大した。
天文20年(1551年)10月、両小早川家の当主となった隆景は、伝統ある沼田小早川家の本拠・高山城に入城した 2 。しかし、彼はそのわずか1年後の天文21年(1552年)6月、高山城を離れ、沼田川を挟んだ対岸の山に新たな城、すなわち新高山城を築いて本拠を移すという驚くべき決断を下す 2 。
この決断の背景には、単なる軍事的な理由だけでは説明できない、深い政治的意図があったと考えられる。高山城は、あくまで旧来の沼田小早川家の権威の象徴であり、350年という歴史の重みを持つ城であった 8 。竹原家から入り、毛利家の威光を背景に両家を統合した若き当主隆景にとって、この旧体制の象徴に留まることは、家臣団の人心を完全に掌握し、自らの新たな統治体制を確立する上で、むしろ障害になり得た。
そこで隆景は、高山城と川を挟んで対峙する場所に、全く新しい城を築くという大胆な行動に出た。これは、旧来の権威を過去のものとし、全ての家臣が「隆景」という新たな中心に忠誠を誓うべきことを視覚的に、そして強制的に認識させるための強力なメッセージであった。家臣団の人心を一新し 13 、「新生小早川家」の誕生を内外に宣言する。新高山城の築城は、まさに隆景による人心掌握術の一環であり、その統治の始まりを告げる極めて政治的な象徴行為だったのである。
隆景が放棄した高山城は、決して時代遅れの城ではなかった。標高191mの山に築かれ、中央の谷を挟んで南北に延びる尾根筋に本丸や二の丸、出丸など多数の曲輪を配置した、全国でも有数の規模を誇る広大な連郭式山城であった 14 。過去には尼子氏の大軍による攻撃を撃退した実績も持ち、その防御能力は非常に高かった 16 。しかし、その縄張りはあくまで安芸国内陸部の支配と防衛を主眼とした、中世的な城郭思想の延長線上にあるものだった。
これに対し、隆景が新たな本拠として選んだ新高山城の立地は、全く異なる戦略思想に基づいていた。標高197.6mの峻厳な山容を持つこの地は 8 、眼下に沼田川流域を一望でき、この川を通じて瀬戸内海へと至る水運を完全に掌握できる、絶妙な位置にあった 13 。当時の記録によれば、城の麓まで海水が入り込み、舟の発着場が存在したとされ 19 、隆景が築城当初から、小早川水軍の拠点として瀬戸内海へのアクセスを最重要視していたことは明らかである。
高山城が陸の守りを固める旧来の拠点であるとすれば、新高山城は陸路と水路の結節点を押さえ、陸海双方への軍事展開を可能にする新たな戦略拠点として構想されていた。二つの城が沼田川を挟んで対峙するその配置は、小早川氏、ひいては毛利家全体の戦略思想が、内陸防衛から海洋進出へと大きく転換したことを象徴している。
この立地選定は、毛利家の勢力圏を内陸から海洋へと拡大させるための「地政学的革命」であったと言っても過言ではない。毛利元就は、西の大内氏や北の尼子氏といった強敵と渡り合うためには、瀬戸内海の制海権を握ることが不可欠であると早くから認識していた 9 。隆景に小早川家を継がせた最大の目的の一つも、その強力な水軍を掌握することにあった 9 。新高山城は、毛利家の本拠である内陸の吉田郡山城 20 や、旧来の高山城にはない、瀬戸内海への直接的なアクセスという決定的な利点を有していた。
この戦略的 foresight の正しさは、歴史が証明している。新高山城築城のわずか3年後、天文24年(1555年)に勃発した「厳島の戦い」において、毛利軍の勝敗は制海権の確保にかかっていた 12 。このとき隆景は、村上水軍を味方につけて海上を封鎖し、陶晴賢の大軍を厳島に閉じ込めて殲滅するという大功を立てる 9 。この一大決戦において、新高山城は作戦を練り、水軍を編成・出撃させるための司令塔として、決定的な役割を果たしたのである。新高山城の築城は、毛利家の戦略軸を陸上から海洋へと劇的にシフトさせる物理的な基盤を築く行為であり、その後の中国地方の覇権確立の原点となった。
小早川隆景の新たな本拠となった新高山城は、その縄張り(城の設計)においても、当時の最先端技術と卓越した戦略思想が凝縮された、まさに鉄壁の要塞であった。
新高山城は、東西約400m、南北約500mの広大な範囲にわたり、総数60以上ともいわれる曲輪群で構成された大規模な山城であった 8 。その構造は、山頂部を中心に本丸などを配した政治・居住空間である「内郭部」と、その周囲の尾根や山腹に防御施設を幾重にも巡らせた「外郭部」からなる二重構造を特徴としている 8 。これは、山全体を防衛システムとして捉え、あらゆる方向からの攻撃に備えるという、戦国期山城の典型的な思想を高度に発展させたものであった。
新高山城には、当時の最先端と言える多様な防御技術が投入されていた。
新高山城のこうした縄張りは、毛利家の本拠・吉田郡山城で培われた「毛利流築城術」を色濃く反映し、さらに発展させたものと評価できる。吉田郡山城もまた、山全体を要塞化し、放射状に延びる尾根に無数の曲輪を配置する思想で築かれている 20 。釣井の壇や城内寺院といった要素も共通しており 20 、隆景が毛利一門の有力武将として、当時中国地方で最も先進的であった築城技術の粋を集めて新高山城を設計したことは明らかである。新高山城は、毛利家の軍事技術のショーケースでもあったのだ。
新高山城は、堅固な要塞であると同時に、毛利家の勢力拡大を支える政治・軍事の中心地、すなわち「策源地」として重要な機能を果たした。
前述の通り、天文24年(1555年)の厳島の戦いは、毛利家の運命を決定づけた一大決戦であった。この戦いにおいて、新高山城は後方の司令部として極めて重要な役割を果たしたと考えられる。瀬戸内海の制海権を握る村上水軍を味方につけるための複雑な交渉や、自軍である小早川水軍の編成と出撃準備など、陸と海にまたがる広範な作戦活動が、この城を拠点として指揮されたのである 9 。沼田川を通じて瀬戸内海に直結するこの城の地政学的な優位性が、最大限に発揮された瞬間であった。
新高山城は単なる軍事拠点ではなかった。父・元就や兄・毛利隆元がこの城に滞在したという記録が残っており 27 、毛利一門の最重要人物が集い、戦略を練る政治の舞台でもあったことがわかる。本丸の御殿では、彼らを迎えるための饗応も催されたであろう。
さらに、天正5年(1577年)には、城内の匡真寺において、亡父・元就の七回忌と、母・妙玖の三十三回忌の法要が盛大に執り行われた 5 。これは、隆景がこの新高山城を、名実ともに小早川家の、そして毛利一門の西の拠点として確立したことを示す象徴的な出来事であった。城は、軍事、政治、そして祭祀の中心として、隆景の支配体制を盤石なものにしていったのである。
約半世紀にわたり小早川氏の本拠として栄えた新高山城も、時代の大きな潮流には抗えず、やがてその歴史的役割を終える時が来る。その終焉は、新たな拠点・三原城の台頭と密接に結びついていた。この本拠地の移行は、小早川隆景個人のキャリアパスと、戦国時代から近世へと向かう社会構造の変化が完全に同期した結果であった。
項目 |
高山城 |
新高山城 |
三原城 |
城郭分類 |
中世山城 |
戦国期大規模山城(過渡期) |
近世海城(平山城) |
立地 |
内陸の山頂(標高191m) |
沼田川沿いの山頂(標高197.6m) |
瀬戸内海に面した河口部 |
主要な使用者 |
沼田小早川氏(代々) |
小早川隆景 |
小早川隆景、福島氏、浅野氏 |
本拠地期間 |
約350年間(鎌倉期~1551年) |
約45年間(1552年~1596年) |
1567年頃~幕末 |
主たる戦略的役割 |
沼田荘の領域支配、内陸防衛 |
両小早川家の統合、陸海軍の統合運用、瀬戸内海への進出拠点 |
毛利水軍の恒久拠点、領国経営の中心、兵站・商業港 |
築城技術の特徴 |
土塁、堀切中心 |
多数の曲輪、畝状竪堀、石垣の多用、枡形虎口 |
広大な縄張り、天守台、舟入(港湾施設)、総石垣 |
現在の状況 |
国史跡。曲輪、堀切等の遺構が残存。 |
国史跡。石垣、井戸、曲輪等の遺構が良好に残存。 |
国史跡。天守台、舟入櫓跡、石垣の一部が現存。JR三原駅構内に遺構がある。 |
織田信長、そして豊臣秀吉の台頭は、日本の戦乱の様相を一変させた。戦いは、国人領主間の局地的な防衛戦から、大名による大規模な遠征軍の派遣へと移行した。これに伴い、城に求められる機能も、山頂に籠る防御拠点から、水運を利用した兵站・経済の中心地へと大きく変化していった。
隆景は、この時代の変化を誰よりも早く見抜いていた。彼は新高山城を本拠としながらも、永禄10年(1567年)頃には、すでに沼田川の河口に位置する三原の地に、新たな城の築城を開始していたのである 30 。海に面し、大規模な水軍を停泊させることができる三原城は、まさに新時代の要請に応える海城であった。
その後、隆景は豊臣秀吉の下で筑前名島城主となるなど、天下の重臣として活躍する 11 。しかし文禄4年(1595年)、養子の秀秋に家督を譲って隠居すると、終の棲家として三原を選んだ 11 。この際、隆景は三原城の大規模な修築を命じている。その指示は「大坂城や聚楽第のような新しい様式で」というものであり、彼が最後まで時代の最先端を見据えていたことを示している 30 。もはや山城の峻険さは不要であり、壮麗で機能的な近世城郭こそが、大大名の隠居所にふさわしいと考えたのである。
そして慶長元年(1596年)、三原城修築のための資材として、新高山城の石垣が解体され、三原へと運ばれた 4 。これにより、新高山城はその城郭としての生命を絶たれることになった。
しかし、これは新高山城の価値が失われたことを意味するものではない。むしろ、毛利家の勢力拡大と瀬戸内海支配という、その歴史的役割を完全に果たし終えたがゆえの、計画的な「発展的解消」であった。その資産(石垣)は、次代の拠点である三原城へと継承され、小早川氏の新たな歴史の一部となったのである。新高山城の廃城は、隆景と彼が生きた時代の、必然的な帰結であった。
城郭としての役目を終えた新高山城であったが、その歴史的価値が失われることはなかった。昭和32年(1957年)、対岸の旧本拠・高山城と共に「小早川氏城跡」として国の史跡に指定され、その重要性が公に認められた 1 。さらに平成29年(2017年)には、「続日本100名城」にも選定され 13 、戦国時代の城郭を代表する貴重な遺産として、今日、多くの歴史愛好家が訪れる場所となっている。
現在、新高山城跡には、本丸や釣井の段をはじめとする数多くの曲輪、堅固な石垣、土塁、そして籠城を支えた井戸跡などが、驚くほど良好な状態で保存されている 1 。これらの遺構群は、訪れる者に450年以上前の戦国の世の緊張感を伝え、小早川隆景の卓越した築城術と、瀬戸内海を見据えた壮大な戦略思想を雄弁に物語っている。
新高山城は、毛利元就の三男・小早川隆景が、分裂した小早川家を統合し、毛利両川の一翼として飛躍を遂げるための揺りかごであった。その立地と構造は、毛利家の戦略が内陸から海洋へと向かう、歴史の転換点を象徴している。そしてその終焉は、山城の時代が終わり、平城・海城が主流となる近世の幕開けを告げるものであった。
このように、新高山城は一人の武将の台頭と、一つの時代の転換点を体現する、記念碑的な城郭である。その峻厳な山容と、そこに刻まれた無数の遺構は、これからも日本の戦国時代史に燦然と輝く足跡として、後世に語り継がれていくに違いない。