木曾福島城は木曽氏の拠点、武田氏の圧力に対抗。木曽義昌の裏切りで武田氏滅亡に貢献するも、秀吉により移封。廃城後、関所が置かれ地域の歴史を伝える。
信濃国(現在の長野県)の深き山々に抱かれた木曽谷。そのほぼ中央に位置する木曾福島城は、戦国時代の峻烈な歴史を今に伝える山城である。この城は、単に一地方豪族の拠点であったにとどまらない。京と東国を結ぶ大動脈・中山道を扼する戦略的要衝として、また、木曽氏という一族の存亡をかけた激動の歴史の舞台として、重要な意味を持つ。
本報告書は、木曾福島城を単なる建築物としてではなく、戦国時代の信濃国木曽谷という地理的・政治的空間における戦略的要衝として位置づけ、その歴史を多角的に解明することを目的とする。城主であった木曽氏の出自と興亡、築城の背景にある政治的緊張、城郭構造に込められた防御思想、そして城の終焉とそれに続く時代の変遷を詳細に追うことで、一つの城が語る戦国乱世の実像に迫る。城の物理的な遺構と、そこに刻まれた一族の葛藤や政治的決断という無形の歴史を統合的に考察し、木曾福島城の全体像を明らかにする。
木曾福島城の歴史を理解するためには、まずその主である木曽氏のアイデンティティと、彼らが本拠とした木曽谷の地政学的な価値を把握する必要がある。
戦国時代の木曽氏は、平安時代末期に源平合戦で活躍した英雄、木曽義仲(源義仲)の子孫を自称していた 1 。木曽谷を本拠とした義仲の名声は絶大であり、その末裔を名乗ることは、木曽谷における支配の正統性を内外に示す上で極めて有効な手段であった。この「源氏自称」は、単なる家系の問題ではなく、戦国期の地方領主が自らの権威を高め、乱世を生き抜くための高度な政治的戦略であったと考えられる。
しかし、史料を精査すると、その出自は異なる側面を見せる。至徳2年(1385年)の水無神社や黒沢御嶽神社の棟札には、木曽氏の当主が「伊与守藤原家信」と記されており、初期の木曽氏は藤原姓を名乗っていたことが確認されている 1 。これは、彼らの実際の出自が藤原秀郷の流れを汲む上野国の沼田氏にあるという説を強力に裏付けるものである 1 。木曽氏が義仲との血縁を意識し、源氏を称するようになるのは、室町時代後期の文正元年(1466年)の史料が初見とされ、それ以前は藤原氏であったことが定説となっている 1 。この事実は、戦国時代の国人領主が、自らの政治的地位を確立・強化するために、いかに由緒ある家系を「仮冒」し、権威として利用したかという、当時の社会状況を浮き彫りにしている。
木曽氏が支配した木曽谷は、江戸(東京)と京都を結ぶ五街道の一つ、中山道の中核をなす地域であった 3 。全長約540kmの中山道のうち、険しい山々に囲まれた約70kmの区間は特に「木曽路」と呼ばれ、11の宿場(木曽十一宿)が設けられていた 5 。
木曾福島城が築かれた福島宿は、この木曽路十一宿のほぼ中央に位置し、古くから木曽地域の政治・経済・交通の中心地として栄えた 3 。この地理的優位性は、木曽氏に交通の利と経済的利益をもたらす一方で、常に東西の大勢力からの軍事的圧力を受けるという地政学的な宿命を背負わせる要因となった。特に東の甲斐国から信濃への進出を図る武田氏にとって、木曽谷は美濃・尾張方面への進出路として、また西の織田氏に対する最前線として、極めて重要な戦略的価値を持っていたのである。
木曾福島城の成り立ちは、当時の木曽氏が置かれた緊迫した政治状況を色濃く反映している。特に築城年代を巡る論争は、強大な武田氏の圧力に対し、木曽氏がどのような戦略的決断を下したのかを探る上で重要な鍵となる。
戦国期の木曽氏は、平時においては木曽川沿いの広大な河岸段丘上に位置する「上の段城」を居館としていた 8 。ここは政務や日常生活を営むには適していたが、防御施設としては脆弱であった 10 。
これに対し、木曾福島城は木曽川の対岸、標高1050m(比高250m)の険しい山上に築かれた、典型的な山城である 8 。その役割は、有事の際に立て籠もる「詰の城」、すなわち最終防衛拠点であった 8 。平時の居館と戦時の要害を分離して運用するこの方式は、戦国期の城郭活用の典型的な姿を示すものである。また、上の段城から見て木曽川の向かい側にあることから、「向城(むかいじょう)」という別名でも呼ばれた 2 。
木曾福島城がいつ、どのような目的で築かれたかについては、大きく二つの説が存在し、議論が続いている。
説A:武田氏への対抗説
一つは、天文年間(1532年~1554年)に、当時の当主であった木曾義康が、信濃への侵攻を激化させる甲斐の武田信玄に対抗するために築いたとする説である 2。この説の根拠は、城の構造が武田軍の主たる侵攻ルートである鳥居峠方面(北と東)を強く意識している点にある 2。差し迫る脅威に対し、独立を維持するための最後の砦として築かれたという見方である。
説B:武田氏臣従後の築城説
もう一つは、天文24年(1555年)に木曽氏が武田氏に降伏し、臣従した後に、武田氏の指導や技術援助のもとで築かれたとする説である 12。武田氏の信濃侵攻に関する同時代の記録において、臣従以前には福島城の存在が確認できないことが、この説の主な論拠となっている 12。
両説の考察
この論争に一つの示唆を与えるのが、城の縄張り(設計)である。木曾福島城の構造は、尾根上に曲輪を直線的に並べた比較的単純なもので、武田氏系の城郭に特徴的に見られる馬出しや枡形といった、より高度で複雑な防御施設を欠いている 10。もし武田氏の指導下で築かれたのであれば、当時の最先端であった武田流築城術の影響が色濃く反映され、より洗練された構造になっていた可能性が高い。この物理的証拠は、木曽氏が武田氏の技術的影響を受ける以前に、自らの力で、来るべき脅威に備えて急遽築いたとする「対抗説」の信憑性を高めている。したがって、木曾福島城は、強大な武田の圧力に対し、木曽氏が自らの存亡をかけて独立を維持しようとした、その抵抗の意志が結晶化した遺構であると解釈するのが合理的であろう。
木曾福島城の遺構は、戦国時代の山城の特徴をよく残しており、その縄張りからは木曽氏の巧みな防御思想と戦略的意図を読み取ることができる。
木曾福島城は、山の尾根筋に沿って主郭、二の郭、三の郭といった複数の曲輪を直線的に配置した「連郭式山城」である 2 。この構造は、尾根伝いに進軍してくる敵を、各曲輪で段階的に食い止めることを目的としている。
特筆すべきは、その防御の指向性が明確に北と東、すなわち美濃方面から鳥居峠を越えて侵攻してくるであろう武田軍を想定している点である 2 。主郭の北東斜面に防御施設を集中させていることからも、この城の存在意義そのものが対武田戦にあったことがうかがえる。
城は、山頂から南に延びる尾根に沿って、主要な三つの郭で構成されている。
木曾福島城の防御システムを特徴づけるのが、巧みに配置された空堀である。
構成要素 |
規模・特徴 |
主要な防御施設 |
想定される機能 |
主郭(一の郭) |
標高1041m、長軸20~40mのおむすび型 2 |
急峻な切岸、腰郭、帯曲輪、馬出し 2 |
城の中枢、司令部、最終防衛拠点 |
二の郭 |
主郭の南に位置 13 |
大堀切、土橋、腰郭 13 |
主郭への中継防御拠点、兵の駐屯地 |
三の郭 |
二の郭の南に位置 13 |
二重堀切 13 |
城の南側(大手方面)を守る前線拠点 |
堀切 |
深く鋭い空堀、一部は二重構造 2 |
土橋 13 |
尾根筋からの敵の直線的な侵攻を阻止・分断 |
竪堀 |
斜面に掘られた縦方向の堀 12 |
- |
敵兵の斜面での横移動を妨害 |
木曾福島城の歴史は、その主であった木曾義昌の生涯と分かちがたく結びついている。彼の決断は、城と一族の運命を大きく左右した。
父・義康の代に武田氏に臣従した後、義昌は武田信玄の三女・真理姫(真竜院)を正室に迎えた 17 。これにより木曽氏は、武田一族に準ずる「御一門衆」という破格の待遇を受け、木曽谷の所領を安堵されることになった 1 。これは、武田家にとって木曽谷が地政学的に極めて重要であったことの証左であり、義昌は信玄の婿として武田家中で重きをなした。
信玄の死後、跡を継いだ勝頼の代になると、天正3年(1575年)の長篠の戦いでの大敗などにより、武田氏の勢力は急速に衰退する 19 。主家の将来に不安を抱いた義昌は、西から勢力を伸ばす織田信長との間で接触を始める 20 。
天正10年(1582年)2月、義昌は信長の調略に応じ、武田氏からの離反を決意する 17 。この裏切りは、信長による甲州征伐の直接的な引き金となり、名門武田氏の滅亡を決定づけた 1 。この決断の裏には、妻・真理姫が兄である勝頼に夫の謀反を内報したという悲劇的な伝承が残されている 18 。武田の娘としての忠義と、木曽の妻としての立場の間で引き裂かれた真理姫の苦悩がうかがえる。
義昌の離反に激怒した勝頼は、人質として甲府にいた義昌の70歳の母、13歳の嫡男・千太郎、17歳の長女を処刑するという凶行に及んだ 22 。もはや後戻りのできない義昌は、木曽谷の入口である鳥居峠で勝頼の派遣軍を撃退し 9 、信長軍の先導役として甲斐へ進軍。武田氏滅亡に大きく貢献した。その戦功により、信長から安曇・筑摩の二郡を与えられ、深志城(現在の松本城)主となった 17 。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が横死すると、主を失った旧武田領(甲斐・信濃)を巡り、徳川家康、北条氏政・氏直、上杉景勝による大争奪戦、「天正壬午の乱」が勃発した 25 。
大国の狭間に置かれた義昌は、一族の存続をかけた巧みな外交を展開する。
この一連の動きは、節操のない裏切りと映るかもしれない。しかし、その行動原理は一貫して「木曽家の存続」という一点にあった。大勢力の力関係を冷静に見極め、常に最も有利な陣営につくことで自家の安泰を図る。これは、個人の忠誠心よりも一族の存続という至上命題が優先された戦国時代のリアリズムそのものであり、義昌の生涯は、大国に囲まれた地方領主の過酷な生存戦略を体現している。
戦国乱世を巧みに生き抜いた木曽氏であったが、天下統一の大きな流れの中で、その運命は再び暗転する。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康と対立する羽柴(豊臣)秀吉に味方するも、戦後は再び家康に帰参した 1 。この複雑な経緯が、天下人となった秀吉の不興を買ったとされる。
天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐後、徳川家康が関東へ移封されると、それに伴い義昌も先祖伝来の地である木曽谷を離れ、下総国阿知戸(現在の千葉県旭市)一万石へと移された 1 。これは石高の上では減封ではないものの、気候風土の全く異なる土地への移封は実質的な懲罰であり、木曽氏の力を削ぐための措置であった 1 。故郷を追われた義昌は、文禄4年(1595年)頃、失意のうちにその生涯を閉じたと伝えられている 31 。
主を失った木曾福島城は、慶長3年(1598年)頃に廃城となった 8 。戦乱の時代が終わり、山城がその軍事的役割を終えたことを象徴する出来事であった。
江戸時代に入ると、木曽谷は尾張藩の所領となり、かつて木曽氏の重臣であった山村氏が代々「木曽代官」としてこの地を統治することになった 32 。山村氏は、幕府の重要施設である「福島関所」の管理も世襲で任された 34 。この関所は、東海道の箱根関所などと並ぶ日本四大関所の一つとされ、「入鉄砲出女」(江戸へ入る鉄砲と、江戸から出る大名の妻女)を厳しく取り締まる中山道の最重要拠点として、江戸幕府の全国支配体制の一翼を担った 36 。戦国の軍事拠点であった城が廃され、その麓に行政・警察機能を持つ関所が置かれたことは、軍事力による地方分権の時代から、中央集権的な行政支配の時代へと移行したことを象徴している。
義昌の跡を継いだ嫡男・義利は、叔父の上松義豊を殺害するなど粗暴な振る舞いが多かったため、慶長5年(1600年)頃に徳川家康によって改易(領地没収)処分を受けた 30 。これにより、大名としての木曽氏は完全に滅亡した。
現在、木曾福島城跡は「城山自然遊歩道」として整備され、往時の姿を色濃く残す堀切や曲輪の跡を訪れることができる 16 。また、木曽氏代々の菩提寺である興禅寺には、木曽義仲や義康、義昌の墓が静かに佇み、一族の歴史を今に伝えている 40 。そして、城の麓には、江戸時代の木曽谷を治めた山村氏の代官屋敷が史跡として保存・公開されており 32 、訪れる者は木曽谷の重層的な歴史に触れることができる。
信濃・木曾福島城は、戦国時代という過酷な時代を生き抜こうとした木曽一族の知恵と苦悩、そして栄光と悲劇のすべてを内包した歴史遺産である。その遺構は、単なる土木工事の痕跡ではない。急峻な尾根を断ち切る深い堀切は、東から迫る武田軍への恐怖と抵抗の意志を物語り、山頂の小さな主郭は、大国の狭間で独立を保とうとした小領主の矜持を示している。
城主・木曾義昌の生涯は、忠誠と裏切りが紙一重であった戦国乱世の縮図である。彼の選択は、現代の価値観では非難されるかもしれない。しかし、それは「家」の存続を第一とする当時の武士社会の掟に従った、ぎりぎりの決断であった。
木曾福島城が廃され、その麓に福島関所が置かれた歴史の転換は、戦国の終焉と新たな時代の到来を明確に示している。城跡の静寂と、かつて賑わったであろう関所の跡地は、権力の質が「軍事」から「行政」へと移り変わったことを雄弁に物語る。木曾福島城は、訪れる者に対し、歴史のダイナミズムと、そこに生きた人々の息遣いを静かに、しかし力強く語りかけているのである。