但馬国に栄えた山名氏の居城、此隅城は、応仁の乱で西軍の拠点として威勢を誇るも、織田信長の侵攻により永禄十二年に落城。山名氏の盛衰と戦国時代の変革を今に伝える。
日本の戦国時代史において、織田信長や豊臣秀吉といった天下人の居城が脚光を浴びる一方、室町時代に巨大な権勢を誇った守護大名の本拠地は、しばしば歴史の影に埋もれがちである。但馬国(現・兵庫県豊岡市出石町)にその痕跡を留める此隅城(このすみやまじょう)は、まさにそのような忘れられた巨大城郭の一つである 1 。しかし、この城は単なる地方の山城ではない。室町幕府の権力構造を根底から揺るがし、応仁の乱を主導した守護大名・山名氏の栄光と没落を体現する、極めて重要な歴史的遺跡である 3 。
本報告書は、この此隅城を、戦国時代という激動の時代を主軸に据え、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。具体的には、文献史学が明らかにする歴史的変遷、城郭考古学が解き明かす構造的特徴、そして地政学が示す戦略的意義という三つの視座を統合する。特に、近年に至るまでの継続的な発掘調査によって、山麓の守護館跡や城下町の様相が次々と明らかになり、従来の歴史像を大きく塗り替えつつある 4 。これらの最新の知見を盛り込み、此隅城が持つ軍事的、政治的、経済的、そして文化的な価値を立体的に再構築し、その歴史的実像に迫るものである。
此隅城を理解するためには、まずその城主であった山名氏の特異な権力構造を把握する必要がある。清和源氏の名門、新田氏の庶流に連なる山名氏は、南北朝の動乱期に足利尊氏に従って軍功を重ね、室町幕府の有力守護大名としての地位を確立した 3 。その権勢は山名時氏・師義・氏清の代に頂点に達し、一族で但馬、因幡、伯耆、播磨など11ヶ国の守護職を兼帯するに至った。これは当時の日本全66ヶ国のうち6分の1を占める規模であり、彼らは畏敬の念を込めて「六分一殿(ろくぶのいちどの)」と称された 4 。
この広大な支配圏を支えたのが、「惣領制」と呼ばれる同族連合体制であった 9 。但馬国を本拠地とする惣領家を頂点に、因幡、伯耆などの分家が強い血縁的結束のもとに連携し、巨大な軍事・政治連合体を形成していた 10 。この体制は、応仁の乱において山名宗全が西軍の総大将として絶大な動員力を発揮したように、強大な勢力の源泉となった。しかしその一方で、惣領の座を巡る内紛や、分家・被官の自立化といった遠心力も常に内包しており、山名氏の歴史はこの結束と分裂の繰り返しであったとも言える 10 。山名氏の但馬支配は、単に一国を統治するという意味合いに留まらず、この広大な「山名連合」全体の司令塔としての機能を担っていた。その視点に立つと、後に詳述する守護所の移転は、単なる但馬国内の問題ではなく、連合体全体の引き締めと惣領家の権威再確立という、より広域的な政治的意図の表れであったと解釈できる。
山名氏が本拠とした但馬国は、日本海に面し、中国山地によって山陽地方と隔てられた地理的環境にある。しかし、孤立していたわけではなく、古来より畿内と山陰、さらには大陸とを結ぶ重要な回廊であった。国内交通においては、播磨国姫路を起点に生野、和田山を経て豊岡、城崎へと至る「但馬道(生野街道)」が南北の動脈として機能していた 12 。また、養父市から出石へと抜ける「出石街道」は、藩政時代には参勤交代にも利用された要路であった 14 。
さらに重要なのが、但馬国を貫流して日本海に注ぐ円山川の存在である。この河川は、古代から中世にかけて、内陸部と日本海を結ぶ水運の大動脈であった 15 。流域の物資は円山川を下って津居山などの港に集積され、そこから北前船などに代表される日本海交易網を通じて、西は九州・朝鮮半島、東は北陸・蝦夷地、そして若狭湾を経由して畿内へと繋がっていた 16 。
此隅城が位置する出石地域は、周囲を山々に囲まれた盆地であり、防御に適した地形である 18 。同時に、円山川の支流である出石川が盆地を流れ、本流へと合流することで、水運の利便性も確保されていた 19 。この防御性と交通・経済性を両立した地理的条件こそが、山名氏がこの地を最終的な本拠地として選定した最大の理由であったと考えられる。
山名氏は、14世紀末に応安五年(1372年)に但馬守護職に任ぜられて以降、長らく但馬国を支配した 21 。当初の守護所は、円山川下流の豊岡市九日市周辺に置かれていたと推定されている 22 。この地は、円山川を天然の堀とし、背後の戸辺羅山に城砦群を配した防御拠点であった。
しかし、15世紀末頃、山名氏はその本拠地を内陸の出石、すなわち此隅城とその山麓一帯へと移転する 6 。この拠点移動の背景には、応仁の乱後の権威低下と、それに伴う被官国人衆の台頭があった。特に、但馬国内で勢力を増していた垣屋氏との対立が深刻化し、より防御能力が高く、惣領家の直轄性が強い出石郡西部へと退く必要に迫られたのである 22 。この移転により、此隅城は単なる但馬国の守護所であるだけでなく、揺らぎ始めた山名惣領家の権威を再確立するための、新たな政治的・軍事的中心地としての役割を担うことになった。
此隅城の正確な築城者と年代については、複数の史料に異なる記述が見られ、現在も議論が続いている。
一つの説は、山名時義が文中年間(1372年-1374年)に築城したとするものである 1 。時義は但馬守護職となり、この地を拠点とした人物である。一方で、同じ文中年間に山名師義が築いたとする説も有力である 1 。さらに、城域内に山名氏の菩提寺である宗鏡寺が存在することから、同寺を建立した山名氏清を築城者と見る見解もある 1 。
このように築城者には諸説あるものの、築城年代が南北朝時代の末期にあたる文中年間(1372年-1374年)頃であるという点では、多くの資料がおおむね一致している。この時期は、山名氏が但馬守護として入部し、その支配体制を確立しようとしていた時期と重なる。
此隅城の遺構を詳細に分析すると、その縄張り(城の設計思想)が、大きく二つの異なる時期の様式によって構成されていることが指摘されている 24 。これは、此隅城が長期間にわたって山名氏の本拠として使用される中で、時代の要請に応じて改修が繰り返されたことを物語っている。
この城郭構造の変遷は、単なる増改築の歴史ではない。それは、比較的平穏だった室町時代の「守護の権威」を象徴する城から、実戦を勝ち抜くための「戦国の要塞」へと、城の性格そのものが変質していく過程を刻んだ「生きた記録」なのである。古い縄張りと新しい縄張りが混在している事実は、山名氏が伝統的な権威に依拠しつつも、時代の激変に必死で適応しようとした苦闘の証左と言えよう。
此隅城は、中世の守護大名の本拠地によく見られる典型的な構造、すなわち二元的な拠点形態をとっていた。一つは、戦時に立て籠もるための最終防衛拠点としての山城部分(詰の城)、もう一つは、平時の政治・生活の拠点である山麓の守護館(御屋敷)である 6 。
山城部分は、此隅山の山頂から尾根筋にかけて広がる曲輪群であり、純粋な軍事施設であった。一方、山麓の西側には「御屋敷」という地名が現代まで伝承されており、ここに守護の居館があったと考えられてきた 23 。この伝承は、近年の宮内堀脇遺跡の発掘調査によって考古学的に裏付けられ、壮大な守護館の実態が明らかになりつつある 6 。この山上の城と山麓の館が一体となって、此隅城という巨大な政治・軍事複合体を形成していたのである。
此隅城は、標高約140メートル(143.7メートルとも 1 )の独立した山容を持つ此隅山全体を要塞化した、但馬最大級の山城である 4 。その城域は南北約750メートル、東西約1200メートルという広大な範囲に及ぶ 1 。
縄張りの形式は、山頂に主郭(本丸)を置き、そこから四方に伸びる複数の尾根上に、曲輪を階段状に連続して配置する「放射状連郭式」と呼ばれるものである 1 。この形式は、自然の地形を最大限に活用し、どの方向からの攻撃に対しても多層的な防御線を構築できる利点を持つ。尾根という尾根すべてに曲輪を築き、山全体をハリネズミのように要塞化するその姿は、山名氏の権勢を象徴するにふさわしいものであった 26 。
広大な城域の中には、それぞれ異なる機能を持つ複数の重要な曲輪が存在する。
此隅城には、中世山城の防御施設が良好な保存状態で残されており、その構造を詳細に観察することができる。
これらの防御施設が有機的に組み合わさることで、此隅城は難攻不落の要塞として君臨していたのである。
表1:此隅城の主要な遺構とその機能一覧
遺構名 |
位置 |
規模・特徴 |
推定される機能 |
関連資料 |
主郭 |
山頂部 |
城内最高所。周囲の支城を一望。 |
司令部、最終防衛拠点。 |
26 |
千畳敷 |
南西尾根 |
広大な平坦地。 |
兵の駐屯地、御屋敷の防衛ライン。 |
1 |
西曲輪群 |
主郭西部 |
土塁で囲まれた方形の曲輪。 |
重要建造物(櫓、倉庫など)の所在地。 |
8 |
大堀切 |
東南尾根端 |
尾根を完全に分断する大規模な堀。 |
宗鏡寺砦との分離、敵進軍の最終阻止。 |
1 |
土塁 |
各曲輪の縁 |
折れを伴う箇所あり。 |
敵の直進を防ぎ、横矢をかける。 |
8 |
宮内堀脇遺跡 |
西側山麓 |
堀と土塁で囲まれた方形居館跡。 |
守護館(政庁、邸宅)。 |
6 |
「永禄拾弐年」銘木簡 |
宮内堀脇遺跡 |
焼土層から出土。落城直後の日付。 |
落城の時期と状況を裏付ける一次史料。 |
1 |
此隅城の歴史を語る上で欠かすことのできない人物が、山名持豊、法名「宗全」である。彼は室町幕府の四職(ししき)の一角を占める山名氏の惣領として、管領・細川勝元と並び幕政に絶大な影響力を持っていた。16世紀末に成立した説話集『塵塚物語』には、宗全が「先例ではなく、今現在の状況を判断の基準にすべき」と語ったと記されており、旧来の権威や慣習にとらわれない、現実主義的で剛毅な人物像がうかがえる 29 。この革新的な思考こそが、彼を未曾有の大乱へと突き動かす原動力となった。
応仁元年(1467年)、将軍家の後継者問題と有力守護大名家の家督争いが複雑に絡み合い、日本全土を巻き込む「応仁・文明の乱」が勃発する。山名宗全は西軍の総大将として細川勝元率いる東軍と対峙した。
この国家的な大乱に際し、此隅城は極めて重要な役割を果たした。宗全は開戦に先立ち、本国但馬はもとより、因幡、伯耆など一族が支配する領国から2万6千ともいわれる大軍を動員し、その全兵力をこの此隅城に集結させたのである 3 。そして、この地から京都へと進軍し、洛中に陣を構えた。この事実は、此隅城が単なる但馬一国の拠点ではなく、広大な「山名連合」全体の軍事的中核であり、国家規模の戦争を遂行するための兵站基地として機能していたことを明確に示している。
11年に及んだ応仁の乱は、宗全、勝元両将の死もあって明確な勝者を生まないまま終結した。しかし、この大乱は室町幕府の権威を決定的に失墜させ、日本の社会構造を大きく変容させた。京都は焼け野原となり、守護大名の力は削がれ、代わりに各地で被官や国人衆が実力をつけ、自立化していく「下剋上」の時代が到来した。
山名氏もその例外ではなかった。宗全という強力なカリスマを失った後、一族の結束は緩み、惣領家の権威は徐々に衰退していく 8 。但馬国内においても、垣屋氏をはじめとする有力被官の力が強まり、惣領家の支配は盤石とは言えなくなった 10 。応仁の乱は山名氏の権勢を天下に示した最後の輝きであり、同時に、その後の長い衰退の始まりを告げる画期でもあった。
1560年代後半、上洛を果たし畿内を制圧した織田信長は、天下統一事業を本格化させていた。その視線が次に向かったのは西国であった。当時、中国地方には「謀神」毛利元就亡き後を継いだ毛利輝元が一大勢力を築いており、信長にとって最大の潜在的脅威となっていた 32 。信長が庇護する足利義昭と毛利氏が連携する可能性もあり、両者の対立は時間の問題であった 34 。
但馬国は、東の織田、西の毛利という二大勢力が睨み合う、地政学的な最前線に位置していた 35 。信長にとって但馬の制圧は、毛利氏への圧力を強め、西国進出の足掛かりを築く上で不可欠な戦略であった。
さらに、この侵攻には極めて重要な経済的動機が存在した。但馬国には、当時日本有数の銀産出量を誇った生野銀山があった 23 。銀は、鉄砲の購入や兵の雇用など、信長の先進的な軍事行動を支えるための莫大な軍資金の源泉であった 37 。生野銀山を確保することは、自らの財政基盤を強化すると同時に、毛利氏の経済力を削ぐという一石二鳥の効果をもたらす、まさに死活問題だったのである 38 。此隅城の攻略は、この銀山支配と不可分一体の作戦であった。
永禄12年(1569年)8月1日、織田信長は満を持して但馬侵攻の軍を発した。その総大将に抜擢されたのが、木下藤吉郎(後の羽柴秀吉)と、信長側近の坂井政尚であった 23 。この但馬侵攻は、秀吉が方面軍司令官として頭角を現す最初の戦いの一つであり、後の大規模な中国攻めの前哨戦とも位置づけられる 40 。
織田軍が但馬へ進撃すると、山名氏の支配体制は内部から急速に崩壊し始める。長年の権威低下により、但馬国内の国人衆の中には、もはや山名氏の将来性に見切りをつけ、新興勢力である織田方に寝返る者が相次いだのである 40 。山名氏は、正面からの軍事圧力と、内部からの切り崩しという二正面作戦に直面することになった。
内憂外患の状態にあった山名氏に、織田の大軍を防ぎきる力は残されていなかった。史料によれば、織田軍は但馬侵攻開始からわずか13日後の8月13日には軍を引き上げており、この間に此隅城を含む18の城が落城したと記録されている 23 。圧倒的な兵力差と、内部の離反により、此隅城はほとんど抵抗らしい抵抗もできないまま陥落したと推測される。
この永禄12年の落城という歴史的事件は、近年の考古学調査によって、生々しい物証をもって裏付けられた。城の西側山麓に広がる宮内堀脇遺跡(守護館跡)の発掘調査において、建物の焼け跡と見られる焼土層が複数発見された 1 。そして、その第一整地層と第二整地層の間から、一枚の木簡(もっかん)が出土したのである。その木簡には、墨で「永禄拾弐年八月廿四日、乃木出羽守」と明確に記されていた 1 。
この日付、永禄12年8月24日は、史料が伝える織田軍の但馬侵攻(8月1日~13日)のわずか11日後である。この木簡は、落城直後の混乱の中、占領行政や戦後処理に従事していた織田方の武将(乃木出羽守)が残した記録と見られ、文献史料の記述を裏付ける第一級の考古史料と言える。焼土層と木簡は、此隅城がまさにこの時に焼き払われ、歴史の転換点を迎えたことを雄弁に物語っている。
落城に際し、城主であった山名祐豊は城を脱出し、和泉国堺へと逃れた 1 。当時、堺は海外貿易で栄える自治都市であり、多くの有力商人が拠点を置いていた。祐豊は、その中でも信長と繋がりが深かった茶人でもある豪商・今井宗久を頼った 36 。宗久の仲介により、祐豊は信長への降伏を許され、但馬への帰国が認められたのである 23 。
この一連の動きは、信長の巧みな戦後処理戦略を示唆している。信長は山名氏を軍事的に打倒し、生野銀山という実利は確保しつつも、山名氏が長年培ってきた但馬における伝統的権威を完全には否定しなかった。むしろ、それを自らの支配体制に組み込むことで、西国統治を円滑に進めようとした可能性がある。此隅城の落城は、単なる軍事的な勝利に終わらない。それは、経済的利益の確保、在地勢力の調略、そして商人のネットワークを活用した戦後処理までをも視野に入れた、織田信長の新しい時代の「天下統一の戦争」の縮図であった。旧来の守護としての権威に依存した山名氏は、この総合戦の前に為すすべもなかったのである。
織田信長の許しを得て但馬に帰国した山名祐豊であったが、彼は落城した此隅城を再興することはなかった。一度は織田軍の圧倒的な軍事力の前に蹂躙されたこの城の防御能力に、もはや限界を感じていたからであろう。祐豊は新たな本拠地として、此隅山の南約2.5キロメートルに位置し、より標高が高く険峻な有子山(ありこやま、標高321m)を選定した 3 。
天正2年(1574年)頃、有子山の山頂に新たな城の築城が開始され、山名氏の本拠はここに移された 1 。これにより、南北朝時代から約200年にわたり但馬支配の中心であった此隅城は、その歴史的役割を終え、完全に放棄されることとなった(廃城) 1 。より高く、より堅固な山城を求めるこの動きは、戦国時代末期の城郭思想の潮流を反映したものであった。
また、有子山城の命名には、「此隅(このすみ)」という音が「子盗(こぬすみ)」に通じることを嫌い、家の再興を願って「有り子(ありこ)」と名付けたという伝承も残されている 4 。落城によって失墜した権威を、新たな城で取り戻そうとする祐豊の悲痛な願いが込められているのかもしれない。
しかし、山名氏再興の願いも虚しく、有子山城もまた短命に終わる。天正5年(1577年)から秀吉による本格的な中国攻めが始まると、但馬は再び織田と毛利の激突の舞台となった。当初、祐豊は両者の間で曖昧な態度をとり続けていたが、これが仇となる 35 。天正8年(1580年)、羽柴秀吉の弟・羽柴秀長が率いる軍勢による再度の但馬侵攻が行われ、堅城であるはずの有子山城もあえなく落城した 8 。
この落城をもって城主・山名祐豊は死去(自刃とも病死とも伝わる)、但馬における山名氏嫡流は事実上滅亡した 47 。但馬を完全に平定した秀吉は、弟の秀長を但馬統治の責任者に任命し、現地の国人衆の所領を没収するなど、旧来の在地支配体制を解体し、豊臣政権による直接的な支配体制を構築していく 48 。これは、後の太閤検地や兵農分離といった全国統一政策の先駆けとなるものであった 50 。
歴史の表舞台から姿を消した此隅城であったが、その廃城は、結果として戦国時代の姿を現代に伝えるタイムカプセルとして機能することになった。近世以降の大規模な改変を免れたことで、山城部分の遺構が良好に保存されたのである。
さらに特筆すべきは、平成7年(1995年)から兵庫県教育委員会によって継続的に行われている山麓の宮内堀脇遺跡の発掘調査である 5 。この調査により、これまで謎に包まれていた守護館と城下町の姿が劇的に明らかになった。
調査の結果、守護館は一辺が200メートル程にも及ぶ大規模な方形居館であった可能性が浮上し、その周囲を二重の堀と土塁が厳重に囲んでいたことが判明した 6 。これは、単なる邸宅ではなく、強固な防御機能を持つ政庁であったことを示している。堀の中からは、刀や鉄砲玉といった武器武具類に混じって、大量の土器や木製品、さらには高級な葉茶壺や天目茶碗なども出土している 5 。これらの遺物は、此隅城に暮らした上級武士たちが、京都の中央文化と密接に繋がり、洗練された生活を送っていたことを物語っている。
此隅城の「廃城」という事実は、歴史の表舞台からの退場を意味するが、同時にその遺跡としての価値を封じ込める決定的な要因となった。手付かずの山城部分と、発掘によって明らかになった山麓の居館部分がセットで現存することは極めて稀であり、中世守護大名の本拠地の全体像を具体的に復元できる、全国的にも屈指の貴重な事例となっている。その「忘れられた」という事実こそが、現代における歴史的価値を最大限に高めているのである。
但馬国此隅城は、その築城から廃城に至る約200年の歴史の中に、室町・戦国時代の日本の社会変容を凝縮して刻み込んでいる。本報告書で詳述した通り、この城の歴史的価値は多岐にわたる。
第一に、 山名氏の盛衰の象徴 としての価値である。「六分一殿」と謳われた栄華の時代、応仁の乱では西軍の出撃拠点としてその威勢を天下に示し、そして戦国の荒波の中で織田軍の前に脆くも崩れ去るまで、此隅城の運命は山名氏の歴史そのものであった。
第二に、 城郭史の過渡期の証人 としての価値である。城内に混在する古段階と新段階の縄張りは、守護の権威を象徴する中世的な城館から、実戦を勝ち抜くための戦国的な要塞へと、日本の城郭技術が大きく変貌を遂げる時代の様相を如実に示している。
第三に、 織田政権の拡大戦略の実例 としての価値である。生野銀山という経済的要衝をめぐる攻防、羽柴秀吉による調略を駆使した電撃的な攻略、そして堺の商人を介した巧みな戦後処理。此隅城の落城は、織田信長の天下統一事業が、軍事力のみならず経済力や情報戦を統合した、新しい時代の戦争であったことを示す一級のケーススタディである。
現在、此隅山城跡は、後に築かれた有子山城跡とともに、国の史跡「山名氏城跡」として一体的に保存されている 4 。未だ調査の及んでいない曲輪群や、広大な城下町の全容解明など、今後の考古学的調査によって新たな発見が期待される。この忘れられた巨大城郭が秘める歴史的価値を正しく理解し、後世へと継承していくことは、日本の戦国時代史の深層を解き明かす上で不可欠な課題であると言えよう。