近江国水口城は、戦国時代の甲賀の地に徳川家光の上洛宿館「御茶屋」として築かれ、天下泰平の象徴となった。水口岡山城落城後、徳川の威光を示す堅固な城郭として建設され、後に水口藩の藩庁となる。
近江国甲賀郡、水口。この地に静かに佇む水口城は、その築城年である寛永11年(1635年)という数字だけを見れば、戦国時代の動乱とは無縁の、徳川泰平の世に生まれた城郭である。事実、三代将軍徳川家光の上洛における宿館「御茶屋」としてその歴史は始まり、後に水口藩の藩庁として幕末まで存続した。しかし、この城の本質を理解するためには、時計の針を一度、戦乱の記憶が色濃く残る時代へと戻す必要がある。
本報告書は、水口城を単なる江戸時代の城郭として静的に捉えるのではなく、戦国という時代の記憶と力学の上に築かれた「天下泰平の記念碑」として、その多層的な歴史的意義を解き明かすことを目的とする。大坂夏の陣から20年、徳川の治世が盤石となった寛永期に、なぜこの地に壮麗な城郭が築かれなければならなかったのか。この問いこそが、水口城研究の出発点である。
したがって、本報告書における「戦国時代という視点」とは、水口城が戦国期の遺構であると主張するものではない。むしろ、その立地、設計思想、そして存在そのものが、いかに戦国時代の終焉と新たな秩序の到来を雄弁に物語っているかを分析するための視角である。城が築かれた甲賀という土地は、古代より東海道が貫く交通の要衝であり、戦国期には六角氏の支配下で「甲賀郡中惣」という独自の自治共同体を形成し、高い独立性を誇った特異な地域であった。この「独立と抵抗の記憶」が残る土地に、徳川幕府が巨大な城郭を築いた行為には、極めて高度な政治的含意が込められていた。水口城は、過去の記憶を塗り替え、未来の秩序を可視化するために築かれた、石垣と堀で書かれた歴史書なのである。
水口城が誕生する以前、戦国時代の甲賀・水口の地は、中央の権力と地域の自立性が激しくせめぎ合う、動乱の舞台であった。この地に刻まれた記憶、すなわち水口城の「前史」を紐解くことは、徳川幕府がなぜこの地を選び、どのような城を築いたのかを理解する上で不可欠である。
中世から戦国期にかけて、近江国は守護・六角氏の支配下にあった。その中で甲賀郡の地侍たちは、「甲賀五十三家」に代表される武士団を形成し、地域の自治組織「甲賀郡中惣」を通じて強固な団結を誇っていた。彼らは、ある時は六角氏の有力な兵力として、またある時は傭兵集団として各地の戦でその名を馳せた。その一方で、惣の掟に基づき地域の運営を行うなど、中央権力から半ば独立した存在であった。この地理的条件と人的資源が、甲賀を戦略的に極めて重要な土地たらしめていたのである。
しかし、天下布武を掲げる織田信長の登場により、甲賀の独立性は大きな転機を迎える。信長が近江に侵攻すると、甲賀武士団は主家である六角氏と共に激しく抵抗した。だが、信長の圧倒的な軍事力の前に六角氏は滅亡し、甲賀の地侍たちもその軍門に降らざるを得なかった。これにより、長らく続いた甲賀の自治と独立の時代は、一度大きく揺らぐこととなる。
信長亡き後、天下を掌握した豊臣秀吉は、全国の支配体制を再編する。その過程で甲賀の地は、秀吉子飼いの吏僚派として知られ、五奉行の一人にまで上り詰めた長束正家(ながつか まさいえ)に与えられた。天正13年(1585年)、正家はこの地における支配の拠点として、古城山の山頂に「水口岡山城」を築城する。この城は、山頂に本丸を置き、麓に居館や家臣団の屋敷を構えるという、当時の最新鋭の築城術を取り入れた織豊期城郭の典型であったと推察される。水口岡山城の出現は、甲賀の地がもはや独立した共同体ではなく、豊臣政権という中央集権体制に完全に組み込まれたことを示す象徴的な出来事であった。
しかし、その栄華は長くは続かなかった。慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。豊臣恩顧の正家は当然のごとく西軍に与し、主戦場へと赴いた。その間、城主不在の水口岡山城は、東軍に属する池田長吉・亀井茲矩の軍勢による猛攻を受ける。城兵は奮戦したものの、衆寡敵せず、城はあえなく落城し、炎上したと伝えられる。そして関ヶ原での西軍敗北の報を受け、長束正家もまた日野の地で自刃し、その生涯を閉じた。
水口岡山城の落城と城主・長束正家の死は、単に一つの城が失われた以上の意味を持っていた。それは、この地域における豊臣系の支配権力が、物理的にも象'徴的にも完全に消滅したことを意味した。これにより、水口の地は徳川幕府にとって、新たな支配体制を「上書き」するための、いわば「政治的空白地帯」となったのである。旧勢力の拠点が灰燼に帰したことで、徳川家は既存の城を改修・再利用するという妥協的な選択を採る必要がなくなった。全く新しい場所に、全く新しい思想に基づき、徳川の威光を純粋な形で示すための建築物をゼロから建設することが可能となったのだ。この「空白」の創出こそが、35年の時を経て、壮麗な水口城(御茶屋)がこの地に誕生する直接的な遠因となったのである。
時代区分 |
時期 |
主要支配者 |
拠点城郭 |
備考 |
戦国時代 |
16世紀中頃まで |
六角氏 / 甲賀郡中惣 |
(特定の支配拠点なし) |
自治的共同体としての性格が強い |
織豊政権期 |
天正13年(1585)~ |
長束正家(豊臣系) |
水口岡山城 |
豊臣政権による直接支配の象徴 |
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慶長5年(1600) |
(不在) |
水口岡山城落城 |
関ヶ原の戦いにより旧権力が消滅 |
江戸時代初期 |
慶長5年(1600)~ |
徳川幕府(天領) |
(拠点なし) |
政治的空白期間 |
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寛永11年(1635)~ |
徳川将軍家 |
水口城(御茶屋) |
徳川の権威を示す新拠点の誕生 |
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天和2年(1682)~ |
加藤明友(譜代大名) |
水口城(藩庁) |
幕藩体制下での安定的支配へ |
水口岡山城の灰燼から30余年の歳月が流れた。徳川の治世は三代将軍・家光の代となり、幕藩体制は盤石のものとなっていた。この泰平の世に、なぜ突如として水口の地に壮麗な城郭が築かれたのか。その背景には、徳川幕府による周到に計算された国家的な威信発揚事業が存在した。
寛永11年(1634年)、徳川家光は30万7千余という空前絶後の大軍を率いて上洛を挙行した。これは、単に天皇への拝謁や朝廷への挨拶といった儀礼的な目的を遥かに超える、一大政治的デモンストレーションであった。大坂の陣以降も依然として潜在的な抵抗勢力が存在した西国大名に対し、徳川の圧倒的な武威と財力を誇示し、その支配が揺るぎないものであることを天下に知らしめることが、この大行列の真の狙いであった。
この大規模な軍事行動を円滑に遂行するためには、将軍および随行する大名・旗本たちの宿泊施設を道中に整備する必要があった。そこで幕府は、東海道沿いの要衝に「御茶屋」あるいは「御殿」と呼ばれる将軍専用の宿館を建設する国家的な大事業に着手した。水口城もまた、この壮大な計画の一環として、京都への最後の宿城として築かれたのである。
この水口城築城の総責任者である作事奉行に任じられたのが、小堀遠州であったことは極めて重要である。遠州は、当代一流の文化人であり、茶人、建築家、造園家としてその名を馳せた人物であった。彼が手掛ける建築は、単なる機能性を超え、洗練された美意識と哲学が体現された芸術作品として高く評価されていた。
遠州が設計した水口城は、したがって、単なる軍事施設や宿泊施設ではなかった。それは、武家の棟梁たる徳川将軍の権威を、武骨な力としてではなく、洗練された「雅(みやび)」と融合した形で表現する装置であった。戦国の世が終わり、文化と秩序によって天下を治める新時代の支配者の姿を、建築という媒体を通じて体現したのである。
水口城は「御茶屋」という、どこか穏やかで文化的な響きを持つ名称で呼ばれた。しかし、その実態は名称から受ける印象とは全く異なり、紛れもない堅固な城郭であった。城は総石垣造りで、周囲には幅の広い水堀が巡らされ、侵入者を阻んだ。本丸には二重の隅櫓が二基聳え、多聞櫓や厳重な城門も備えられていた。その規模と構造は、同じく家光上洛のために整備された永原御殿や伊庭御殿といった他の御茶屋を遥かに凌駕するものであった。
この意図的な名称と実態の乖離にこそ、徳川の支配戦略の巧みさが凝縮されている。水口城は、「もてなし」や「休息」を連想させる柔和な仮面を被りながら、その内実には圧倒的な軍事力を秘めた「威圧」の装置であった。それは、戦国時代の城が「戦うための道具」であったのに対し、水口城が「見せるための装置」「秩序を体現する象徴」として設計されたことを意味する。徳川の支配は、これほど堅固な城を一夜の宿のためだけに、しかもこれほど美しく築くことができるほど、絶対的で洗練されたものである――。水口城は、訪れる者すべてに、そう無言のうちに語りかける、強力な政治的メッセージの発信拠点だったのである。
将軍家光の上洛という一過性の、しかし極めて象徴的な目的のために築かれた水口城は、その歴史的役割を終えた後、新たな使命を帯びることになる。それは、この地域における恒久的な支配拠点への転換であった。この変化は、徳川幕府による地方支配が、より深く、より実務的な段階へと移行したことを示している。
水口城が築かれてから約半世紀後の天和2年(1682年)、伊勢亀山藩主であった石川憲之が改易されるという事件が起こる。これに伴い、幕府は憲之の庶子であった加藤明友に対し、近江国甲賀・蒲生・栗太三郡内において新たに2万石を与え、水口藩を立藩させた。
この加藤家は、賤ヶ岳の七本槍の一人として名高い猛将・加藤嘉明を祖とする名門であり、徳川家への忠誠篤い譜代大名であった。かつて甲賀武士団が強い独立性を誇り、豊臣系大名が支配した歴史を持つこの甲賀の地に、幕府が信頼の厚い譜代大名である加藤家を配置したことには、明確な意図があった。それは、この戦略的要衝を幕府の直接的な管理下に置き、西国への睨みを効かせるとともに、地域の支配を盤石なものにしようとする幕藩体制の基本戦略の現れであった。
水口藩主となった加藤明友は、幕府から正式に水口城を居城として与えられた。これにより、水口城は将軍個人のための特別な空間から、水口藩2万石の領地を治めるための恒常的な行政拠点、すなわち「藩庁」へとその役割を大きく転換させたのである。
この機能転換に伴い、城の内部も大きく変化したと考えられる。将軍の宿館として建てられた壮麗な本丸御殿は、藩主の公邸であると同時に、藩の政務が執り行われる政庁としての役割を担うようになった。また、二の丸には家老などの重臣たちの屋敷や、藩の諸施設が整備されていったと推察される。かつては将軍上洛の時のみに賑わいを見せた城は、藩主とその家臣団、役人たちが常駐する、生きた政治の中心地へと生まれ変わった。
この一連の出来事は、徳川幕府による地方支配の深化の過程を象徴している。将軍の上洛という、いわば街道という「線上」における「点」の支配(一時的・象徴的支配)のために築かれた城が、譜代大名を配置することによって、水口藩領という「面」を恒常的に支配する拠点(実務的・恒久的支配)へと変貌を遂げた。これは、戦国時代に見られたような実力による領地支配とは根本的に異なる、幕藩体制という巨大で精緻な統治システムの中に、水口の地が完全に組み込まれたことを示す決定的な出来事であった。水口城の歴史は、戦国的な地域の独立性が、巨大な中央集権システムに吸収・統合されていく過程の縮図と言えるだろう。
項目 |
御茶屋時代 (寛永11年~) |
藩庁時代 (天和2年~) |
所有者 |
徳川将軍家(幕府直轄) |
水口藩主・加藤家 |
主要目的 |
将軍の上洛時の宿泊・休憩 |
水口藩の統治(行政・軍事) |
利用頻度 |
不定期(将軍上洛時のみ) |
常時 |
常駐者 |
城番(管理のための少数) |
藩主、家臣団、役人 |
本丸御殿の役割 |
将軍専用の宿館 |
藩主の公邸、藩の政庁 |
二の丸の役割 |
付属施設、随行員の滞在場所 |
重臣屋敷、藩の諸施設 |
象徴する権威 |
徳川将軍家の絶対的権威 |
幕藩体制下における藩の権威 |
水口城の構造と縄張(設計プラン)を詳細に分析することは、その建築に込められた徳川幕府の政治思想を読み解く上で極めて重要である。水口城は、戦国時代の城とは一線を画す、新たな時代の価値観を体現した近世城郭としての完成形を示している。
水口城は、山や丘陵を利用した山城や平山城ではなく、平地に築かれた「平城」である。その縄張は、ほぼ正方形の本丸を中心に、その西側に矩形の二の丸を配した「梯郭式」に近い構成であった。本丸は、高さのある堅固な石垣で四方を囲まれ、その外側には幅の広い水堀が巡らされていた。この整然とした幾何学的な区画は、単なる防御思想の表れであるだけでなく、徳川幕府が目指した合理的で揺るぎない「秩序」そのものを象徴しているかのようである。戦国期の城郭に見られるような、複雑で有機的な縄張とは対照的に、水口城の設計には計画的でシステマティックな思想が貫かれている。
水口城の構造における最大の特徴は、城の象徴ともいえる「天守」が築かれなかった点にある。戦国末期から織豊政権期にかけて、天守は城主の権威と武威を誇示するシンボルとして盛んに建てられた。しかし、水口城にはそれが存在しない。この「天守の不在」には、明確な時代の要請と政治的意図が反映されている。
第一に、江戸時代初期には「武家諸法度」によって大名による城の新規築城や増改築が厳しく制限されていた。天守のような華美で軍事色の強い建築物は、幕府の統制下にある大名にはもはや不要とされたのである。水口城は将軍の城ではあったが、この時代精神を色濃く反映していた。第二に、この城の第一目的はあくまで将軍の宿館であり、恒久的な支配の象徴である天守は、その目的にはそぐわなかった。
しかし、天守がないからといって、城の威容が損なわれていたわけではない。本丸の北西隅と南東隅には二重の隅櫓が聳え立ち、これらが事実上の天守の代用として城の威厳を示していた。加えて、多聞櫓や堅固な城門が石垣の上に連なり、城郭としての防御機能と威容を十分に備えていた。
水口城のこうした構造は、戦国時代の価値観からの決別を建築様式によって表明したものである。個人の武功やカリスマ性を象徴する天守を意図的に排除し、代わりに整然とした縄張と実用的な櫓を配置することで、「もはや個人の武勇で天下を争う時代ではない」というメッセージを発信した。それは、徳川幕府が構築したシステマティックで恒久的な秩序を建築の形で具現化したものであり、戦国的な価値観(個人の武勇、下剋上)の否定と、新たな時代の価値観(秩序、法治)の肯定を同時に行う、高度な思想的建築であった。
藩庁としての役割を担うようになった水口城は、江戸時代を通じて水口藩の政治・経済・文化の中心として機能し、その周囲には城下町が形成され発展していった。しかし、時代の大きなうねりは、やがて城の存在意義そのものを問い直し、その歴史に終止符を打つことになる。
天和2年(1682年)に入封した加藤家は、その後、幕末に至るまで10代にわたって水口の地を治めた。水口城は加藤家の居城として、藩政の中心であり続けた。城の周辺には、藩の行政を担う武士たちの屋敷が建ち並び、城下町が形成されていった。さらに、水口は東海道五十三次の五十番目の宿場町「水口宿」でもあり、城下町と宿場町という二つの顔を持つことで、多くの人々や物資が行き交う賑わいを見せた。城は藩の権威の象徴として聳え、その麓で町は発展し、地域の経済的中心地としての役割を果たした。
二百数十年続いた徳川の泰平も、幕末の動乱期を迎えると大きく揺らぎ始める。水口藩もまた、時代の荒波に否応なく巻き込まれていった。そして、大政奉還、王政復古を経て明治維新を迎えると、日本は近代国家へと大きく舵を切る。武士の時代は終わりを告げ、藩は県へと再編された。
これにより、藩の統治拠点であった城は、その存在意義を根本から失うこととなった。明治6年(1873年)、新政府は全国の城郭の存廃を定めた「廃城令」を発布。水口城もまたその対象となり、城としての長い歴史に幕を閉じることとなった。城内にあった御殿や櫓、城門といった建造物はことごとく破却、あるいは民間に払い下げられ、その壮麗な姿は失われた。かつて将軍の威光を示し、藩政の中心であった城郭は、時代の変化の中でその役目を終えたのである。さらに、防御の要であった水堀も多くが埋め立てられ、市街地へと姿を変えていった。
現在、水口城の本丸跡は滋賀県立水口高等学校の敷地となり、二の丸跡も市街地化が進むなど、往時の面影を偲ぶことは容易ではない。しかし、歴史の証人は完全に消え去ったわけではない。本丸の北西隅には、今なお往時の石垣の一部が残り、その堅固な造りを伝えている。また、二の丸の出丸跡にも石垣がわずかに現存している。さらに、城下には乾矢倉の部材を転用して建てられたと伝わる民家も存在し、かつての城の記憶を現代に繋いでいる。
これらのわずかに残された遺構は、単なる石や木材ではない。それらは、水口城が確かにこの地に存在し、戦国の終焉を告げ、江戸の泰平を支えた歴史の証人である。これらの遺構を適切に保存し、その歴史的価値を後世に伝えていくことは、この地に生きた人々の記憶と、日本の歴史の大きな転換点を理解する上で、極めて重要な意義を持つと言えよう。
水口城は、単に江戸時代に築かれた一つの城郭として片付けることのできない、極めて重層的な歴史的意義を持つ存在である。その真価は、「戦国時代」という過去の記憶をいかに乗り越え、新たな時代をいかに構築するかという、徳川幕府の壮大な国家構想を体現している点にある。
総括すれば、水口城は、戦国動乱の記憶が生々しい甲賀という土地に、徳川幕府が打ち込んだ「平和と秩序の楔(くさび)」であった。その歴史は、明確な三段階のプロセスを経て展開された。第一に、関ヶ原の戦いによって豊臣系の水口岡山城を過去の遺物とし、その記憶を物理的に塗り替える「空白」を創出した。第二に、将軍家光の上洛に際して「御茶屋」という名の壮麗な城郭を築くことで、徳川の圧倒的な権威を天下に誇示した。そして第三に、譜代大名・加藤家を配置して「藩庁」とすることで、この地を幕藩体制という恒久的な支配システムに完全に組み込んだ。この一連の流れは、武力による支配から、権威と法による支配へと移行する時代の姿そのものである。
「戦国時代という視点」から水口城を再評価することで、我々はこの城が「戦いのための城」から「治めるための城」へと移行する、日本城郭史の大きな転換点に位置していることを深く理解できる。天守を持たず、整然とした縄張を持つその姿は、個人の武勇を称揚した戦国の価値観を否定し、システマティックな秩序を重んじる新たな時代の到来を告げるものであった。それは、二百数十年続く泰平の時代の始まりを告げた、静かなる勝利宣言に他ならない。
現代において、水口城の多くは失われた。しかし、残された石垣や古文書、そして城下町の佇まいは、今なお我々に多くのことを語りかけている。これらの歴史的遺産を丹念に調査・研究し、水口城が体現した徳川の国家構想と、それに翻弄され、あるいは順応していった地域社会の姿をより深く解明していくこと。それこそが、戦国と泰平の狭間に立ったこの稀有な城郭に対する、我々の責務であろう。