江戸城は太田道灌が築き、扇谷上杉氏の戦略拠点として機能。後北条氏の支配下で江戸湾水運を掌握し、対里見氏の最前線となる。小田原征伐後、徳川家康が入府し、天下普請で近世城郭へ。
徳川幕府の政庁として二百数十年の長きにわたり日本の中心であり続けた江戸城。その巨大な城郭のイメージは、近世以降に徳川家によって築かれたものである。しかし、その歴史の源流を遡ると、戦国乱世の真っ只中に、一人の武将がこの地に戦略的価値を見出し、最初の礎を築いた事実に辿り着く。本報告書は、「戦国時代」という特定の時代区分に焦点を当て、太田道灌による築城から後北条氏の支配、そして徳川家康の入府に至るまでの約130年間における江戸城の役割と、その戦略的価値の変遷を詳細に分析するものである。
江戸城が築かれた場所は、武蔵野台地の一角である麹町台地の東端に位置する 1 。西には広大な武蔵野台地が後背地として控え、東には日比谷入江へと続く低湿地帯が広がるという地形は、防御と経済活動の両面において極めて有利な条件を備えていた 2 。高台は堅固な防御拠点となり、眼下の低地と海は水運を利用した経済活動の舞台となる。この高低差のある地形は、後に徳川家康が大規模な都市開発を行う際に、高台を武家地、低地を町人地として区画整理する都市計画の原型となった可能性が指摘されている。
太田道灌が築城した当時、この地の防御上の優位性はさらに顕著であった。城の大手門の直下まで日比谷入江の海水が迫り、天然の外堀として機能していた 2 。さらに、東からは平川(後の日本橋川の原型)が日比谷入江に注ぎ込み、北には神田山(現在の駿河台)が聳え、西には広大な溜池の沼沢地が広がっていた 3 。これら四方を囲む自然の障害物は、敵の大軍が容易に展開することを許さず、まさに「天然の要害」と呼ぶにふさわしい地形を形成していたのである 3 。
しかし、この地の価値は単なる防御拠点に留まらなかった。日比谷入江とそれに注ぐ河川網は、物資輸送の終着点としての潜在能力を秘めていた。関東平野の各地で生産された米などの物資は、河川を利用した舟運によって効率的に運搬されており、水運の結節点を押さえることは経済的な優位に直結した 5 。江戸の地は、東京湾の最奥部に位置し、関東の水運ネットワークの「ハブ」となりうる地政学的な重要性を当初から内包していたのである 6 。
この地に最初に根拠地を置いた武家は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活動した江戸氏であった 2 。江戸氏は鎌倉幕府の有力御家人として名を連ねたが、南北朝時代の動乱、特に応安元年(1368年)の武蔵平一揆の乱で関東管領上杉氏に討伐された結果、その勢力を大きく後退させる 7 。その後の享徳の乱などの戦乱の中で江戸氏はさらに没落し、江戸城のあった地域は扇谷上杉氏の直轄地となっていた 7 。この政治的空白と、後述する享徳の乱という軍事的緊張が重なったことこそが、扇谷上杉氏の家宰であった太田道灌が、この「天然の要害」に新たな戦略拠点を築く直接的な背景となったのである。
年代(西暦) |
元号 |
主要な出来事 |
関係する主要人物 |
出来事の意義 |
1457年 |
長禄元年 |
太田道灌、享徳の乱の最中、扇谷上杉氏の拠点として江戸城を築城 1 。 |
太田道灌、上杉持朝 |
関東における対古河公方の最前線基地が誕生。 |
1486年 |
文明十八年 |
太田道灌、主君・上杉定正により謀殺される 1 。 |
太田道灌、上杉定正 |
扇谷上杉氏の弱体化と、後の後北条氏台頭の遠因となる。 |
1524年 |
大永四年 |
高輪原の戦い。北条氏綱が扇谷上杉朝興を破り、江戸城を奪取 8 。 |
北条氏綱、上杉朝興、太田資高 |
江戸城が後北条氏の支城となり、武蔵進出の拠点となる。 |
1526年頃 |
大永六年頃 |
里見・武田連合軍が品川に侵攻。江戸城を拠点とする後北条氏と衝突 11 。 |
北条氏綱、里見義豊 |
江戸城が江戸湾の制海権を巡る争いの最前線となる。 |
1590年 |
天正十八年 |
豊臣秀吉の小田原征伐により、江戸城は無血開城。徳川家康が関東移封に伴い入府 12 。 |
豊臣秀吉、徳川家康、北条氏直 |
戦国の城としての役割を終え、近世城郭への変貌が始まる。 |
太田道灌による江戸城築城は、室町幕府の権威が著しく低下し、関東地方が深刻な内乱状態に陥っていた時代に行われた。その直接的な引き金となったのが、享徳三年(1455年)に始まる「享徳の乱」である 13 。
当時の関東は、京都の室町幕府から派遣された鎌倉公方と、それを補佐する関東管領によって統治されていた。しかし、鎌倉公方は次第に独立志向を強め、幕府としばしば対立するようになる 3 。この対立は関東内部にも波及し、五代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺したことで、約30年にも及ぶ大乱が勃発した 13 。これにより、成氏は下総国古河を本拠とする「古河公方」となり、上杉氏は幕府の支持を得てこれと対抗するという、関東が二分される状況が生まれたのである 3 。
関東管領を世襲する上杉氏は、山内家と扇谷家の両上杉家を筆頭とする一族連合であった。享徳の乱において、扇谷上杉氏は山内上杉氏と連携し、古河公方・足利成氏と熾烈な戦いを繰り広げた 7 。両勢力は利根川・荒川を挟んで対峙し、扇谷上杉氏は古河公方勢力に対抗するための前線基地網を構築する必要に迫られた 3 。この軍事戦略の中心人物として辣腕を振るったのが、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌(実名:資長)である 7 。
道灌の戦略構想において、江戸城は孤立した拠点ではなかった。それは、同時期に築かれた川越城(埼玉県川越市)および岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)と連携する、一大防衛線の一部として計画されたものであった 15 。
これらの三城は相互に補完しあう戦略的な配置にあり、軍事道路で結ばれていた可能性も指摘されている 21 。これは、単一の城で敵を迎え撃つ「点」の防衛ではなく、複数の拠点が連携して敵の進攻を遅滞させ、側面を突くことを可能にする「面」での防衛、すなわち「ネットワーク型防衛」の思想であった。この先進的な戦略思想は、広大な領国を多数の支城で守る後の後北条氏の統治システムの先駆けとも評価でき、道灌の卓越した戦略眼を示している。
徳川時代の壮麗な江戸城とは異なり、太田道灌が築いた城は、戦国初期の関東における典型的な中世城郭の姿をしていた。その実像は、断片的な史料や後世の絵図、そして考古学的な知見から推測されている。
当時の江戸城は、「子城(しじょう)」「中城(ちゅうじょう)」「外城(がいじょう)」と呼ばれる三重の曲輪で構成されていたと伝えられている 7 。これは防御区画を段階的に配置する設計思想であり、中世城郭としては大規模なものであった 7 。
これらの曲輪群は、現在の本丸・二の丸付近の台地上に集中しており、徳川時代の城郭に比べれば遥かに小規模なものであった 25 。
道灌時代の城の主たる防御施設は、石垣ではなく、土を盛り上げた土塁と、地面を掘り下げた堀(水堀・空堀)、そして台地の斜面を人工的に削って急崖にした切岸であった 21 。これは当時の関東の城郭に共通する特徴である。
現在、皇居の西の丸には「道灌堀」と呼ばれる堀が現存している 24 。その名称から、道灌時代の遺構であるとの説が広く知られているが、学術的にはその信憑性に疑問が呈されている。その理由として、堀の規模が道灌時代の技術水準や城の規模から見て大きすぎること、またその形態が後世の様式を示していることなどが挙げられる 24 。道灌の築城者としての名声が高かったことから、後世の人々がその功績を称えて命名した可能性が極めて高いと考えられている 21 。したがって、道灌時代の遺構が完全に現存しているとは考え難く、その実像の多くは徳川家康による大改修の際に失われたか、あるいは地下に埋もれていると推測される 21 。
太田道灌は、武将としてだけでなく、築城家、さらには歌人としても優れた才能を発揮した文武両道の人物であった 15 。享徳の乱においては30数回もの合戦に出陣し、ほぼ独力で主家である扇谷上杉氏の危機を救った 1 。しかし、その功績と高まりすぎた名声が、彼の悲劇的な最期を招くことになる。
道灌の威光は主君を凌ぐほどになり、扇谷上杉家内部では彼への讒言が囁かれるようになった 28 。また、山内上杉家との対立の中で、道灌が謀反を企てているとの疑念も生まれた 28 。文明十八年(1486年)、道灌は主君・上杉定正に招かれた相模国の糟屋館において、入浴中を襲われ暗殺された 7 。享年55歳であった。その最期に「当方滅亡(当方とは扇谷上杉家のこと)」と叫んだという逸話は、自身がいなくなれば主家は滅びるであろうという、彼の予見を物語っている 28 。
道灌という大黒柱を失った扇谷上杉氏は、その予言通り、衰退の道を歩む。道灌の死を契機に山内上杉氏との対立は決定的となり、長年にわたる内紛(長享の乱)へと突入した 7 。この内紛は両上杉家の国力を著しく消耗させ、その隙を突いて伊豆から台頭した新興勢力、伊勢宗瑞(後の北条早雲)に関東進出の好機を与える結果となったのである 13 。道灌の死は、単なる一個人の悲劇に留まらず、関東の勢力図を根底から覆す歴史の転換点であった。道灌の死後、江戸城は扇谷上杉氏の直轄となったが、かつての戦略的重要性は薄れ、やがて新たな支配者の手に渡る日を待つこととなる 7 。
太田道灌の死とそれに続く両上杉氏の内紛は、関東の政治情勢に大きな力の空白を生み出した。この機を捉え、瞬く間に関東の覇者へと駆け上がったのが、伊勢宗瑞(北条早雲)を祖とする後北条氏である。二代目当主・氏綱の時代、後北条氏は武蔵国への本格的な進出を開始し、その戦略目標の第一に江戸城を据えた。
後北条氏二代目の氏綱は、父・早雲の遺志を継ぎ、本拠地である相模国小田原城から武蔵方面への勢力拡大を積極的に推し進めた 10 。その前に立ちはだかったのが、江戸城を拠点とする扇谷上杉朝興であった。
氏綱は武力侵攻と並行して、扇谷上杉家の家臣に対する調略を進めた。そして大永四年(1524年)1月、決定的な転機が訪れる。江戸城の城代であった太田資高が、後北条氏に内応したのである 10 。資高は奇しくも江戸城を築いた太田道灌の孫であった。この内応を絶好の機会と捉えた氏綱は、大軍を率いて武蔵への侵攻を開始した 10 。
これに対し、扇谷上杉朝興も軍を率いて迎撃に向かい、両軍は1月13日に高輪原(現在の東京都港区高輪)で激突した 9 。戦いは激戦となり、一進一退の攻防が繰り返されたが、最終的に上杉軍は敗れ、江戸城へと撤退する 10 。しかし、北条軍の猛追を受けた朝興は江戸城を支えきれず、城を放棄して本拠地である河越城へ逃走した 9 。この「高輪原の戦い」の結果、江戸城は後北条氏の手に落ち、その後の武蔵国、ひいては南関東支配の重要な足掛かりとなったのである 8 。
後北条氏の領国支配システムは、本城である小田原城を頂点とし、関東各地の要衝に配置された支城が網の目のように連携する「本城支城体制」によって特徴づけられる 32 。この体制は、軍事的な防衛網であると同時に、広大な領国を効率的に統治するための行政ネットワークでもあった。江戸城もまた、この広域支配ネットワークの重要な一翼を担う支城として位置づけられた 6 。
江戸城の主な役割は、武蔵国東部から下総国西部にかけての地域支配の拠点であった 35 。城代には、北条氏の信頼厚い家臣である遠山氏などが置かれ、地域の統治にあたった 36 。後北条氏の支配下で、江戸城は扇谷上杉氏時代のような対古河公方の最前線という性格から、後北条氏の広域支配体制を支える地域拠点へとその役割を変化させたのである。
後北条氏の支配下において、江戸城の戦略的価値は、陸上の軍事拠点という側面から、江戸湾(現在の東京湾)を介した「経済的・地政学的」な拠点へと大きくその重心を移した。
当時の江戸湾は、利根川や荒川など関東各地の河川舟運が集まる、物流の大動脈であった 5 。湾岸の品川や神奈川といった湊は交易で栄え、関東の経済はこの水運ネットワークに大きく依存していた 37 。したがって、江戸湾の制海権を掌握することは、関東の物流、ひいては経済そのものを支配することを意味した。
品川湊を間近に控える江戸城は、この江戸湾の水運を管理・支配するための拠点として、後北条氏にとって極めて重要な役割を果たした 6 。後北条氏は、領国内の湊に船番所を設置して船舶の監視や安全管理を行うなど、水運の統制に力を入れており 38 、江戸城もその司令塔の一つとして機能したと考えられる。
この江戸湾の制海権を巡り、後北条氏と約半世紀にわたって激しく争ったのが、房総半島を拠点とする里見氏であった 39 。里見氏は強力な水軍を擁し、江戸湾を舞台に活発な海上活動を展開した 40 。両者の争いは、互いの領地への上陸作戦に留まらず、相手方の湊に出入りする商船を拿捕する、あるいは通行料を徴収するといった「海賊行為」を伴うものであった 37 。これは単なる軍事衝突ではなく、関東の物流覇権を巡る経済戦争の側面を強く持っていた。
大永六年(1526年)には、里見氏が武田氏(甲斐武田氏とは別系統)と連合して江戸城下の品川に攻撃を仕掛けるなど、江戸城はまさに対里見氏との海上での争いの最前線基地となった 11 。後北条氏にとって江戸城は、里見水軍の活動を監視し、自国の通商路を守り、敵の経済活動を妨害するための、軍事・経済の両面における「海洋拠点」であった。この時代、江戸城の戦略的価値は、その背後に広がる陸地だけでなく、眼前に広がる広大な海と密接に結びついていたのである。これは、徳川時代に江戸が全国の物流の中心地となる歴史的な前史をなすものであった。
約65年間にわたった後北条氏による支配も、天下統一を目指す豊臣秀吉の前に終焉の時を迎える。戦国の城としての役割を終えた江戸城は、新たな支配者・徳川家康を迎え、日本の歴史を大きく動かす新たな舞台へと変貌を遂げることになる。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉は関東・奥羽の平定を目指し、約20万ともいわれる大軍を率いて小田原征伐を開始した 43 。後北条氏の当主・氏政と氏直は、難攻不落を誇る本拠・小田原城に籠城して対抗したが、圧倒的な物量の前に戦線は各地で崩壊し、約3か月の籠城の末に降伏した 12 。
この時、江戸城には城代が置かれ、約1千の兵が守備についていたとされる 12 。しかし、本城である小田原城が包囲され、関東各地の支城が次々と陥落する中、江戸城は豊臣方の浅野長吉(長政)軍の前に戦わずして開城した 12 。ここに、太田道灌の築城から約130年続いた、戦国の要塞としての江戸城の歴史は静かに幕を閉じた。
小田原征伐の後、徳川家康は豊臣秀吉の命令により、長年本拠としてきた東海五か国から、旧北条領である関八州への移封(国替え)を命じられた。そして、その新たな本拠地として選ばれたのが江戸であった。しかし、家康が初めて目にした江戸の姿は、後の大都市の面影もない、寂れたものであった。
家康が入府した当時の江戸城は、太田道灌の築城から130年以上が経過し、度重なる支配者の交代の中で十分な改修も行われず、かなり荒廃が進んでいた 44 。石垣もなく、残っていたのは「簡素な館と土塁がわずかにあるばかり」で、戦国末期の築城技術から見れば、もはや時代遅れの小規模な城郭に過ぎなかった 25 。
城の周辺の状況はさらに深刻であった。城の東側には、日比谷入江の海水が入り込む広大な葦原がどこまでも広がり、人家もまばらであった 2 。西側も武蔵野に連なる原野が続くだけで、大規模な城下町を建設する余地はほとんど存在しなかった 46 。家康が受け取ったのは、未開発の広大な土地と、その片隅に立つ古びた城だったのである。
この荒廃した江戸を前に、家康は壮大な構想を抱いた。それは、この地を単なる戦国の城塞都市として再生させるのではなく、新たな天下統治の中心地、すなわち幕府の政庁であり、将軍の居城として、全く新しい都市を創造することであった 12 。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで勝利し、名実ともに天下人となった家康は、慶長八年(1603年)に征夷大将軍に就任し江戸幕府を開くと、いよいよ江戸の大改造に着手する 12 。この事業は、徳川家の財力だけでなく、全国の諸大名を動員して行われたため、「天下普請」と呼ばれた 47 。
その計画は、城の改修に留まらなかった。まず、城の北方にあった神田山を大々的に切り崩し、その膨大な量の土砂を使って、城の南東に広がっていた日比谷入江を埋め立てるという、地形そのものを根本から作り変える大規模な土木工事から始められた 2 。これにより、広大な武家屋敷地や町人地が生み出され、後の江戸市街地の基礎が築かれた。これは、戦国時代の城づくりとは発想を異にする、近世的な都市計画の幕開けであった。
一方で、新たに築かれる江戸城の縄張り(設計)には、戦国時代を通じて発展した日本の城郭技術の粋が集められた。築城の名手とされた藤堂高虎らが縄張りを担当した城は 50 、まさに「日本最強の要塞」を目指したものであった 51 。
この設計は、家康が東国(武田・北条)と西国(織田・豊臣)の武家の伝統を全て統合し、その頂点に立つ新たな支配者であることを象徴するものであった。
この天下普請は、単なるインフラ整備事業ではなかった。それは、徳川の権威を全国に誇示し、新たな支配体制を盤石にするための、高度な政治戦略であった。諸大名に普請を命じ、その費用を負担させることは、彼らの財力を削ぎ、謀反の余力を奪う絶大な効果を持った 48 。秀吉存命中は大坂城を超える規模の城を築くことを憚っていた家康が 12 、天下普請によって大坂城を遥かに凌ぐ空前の巨大城郭を築いたことは、徳川が豊臣を完全に超えた新たな支配者であることを、物理的に、そして視覚的に天下に示す行為であった。江戸城の石垣の一つ一つ、門の一つ一つが、単なる建築物ではなく、新たな政治秩序を可視化し、人々の意識に刷り込むための強力な「政治的装置」として機能したのである。
本報告書で詳述したように、戦国時代における江戸城は、その支配者の交代と共に、その戦略的価値と役割を劇的に変化させてきた。その変遷は、大きく三つの時代に区分できる。
第一は、 太田道灌による築城期 である。この時代の江戸城は、享徳の乱という関東の局地的な動乱に対応するための**「最前線の軍事拠点」**であった。それは単独の城ではなく、川越城、岩槻城と連携するネットワーク防衛の一翼を担う、純粋な戦国の要塞であった。
第二は、 後北条氏の支配期 である。後北条氏の広域支配体制の中で、江戸城の価値は陸上から海上へと拡大した。江戸湾の物流を掌握し、宿敵・里見氏の水軍と対峙するための**「地政学・経済的拠点」**へと変貌を遂げた。この時代、城の重要性は、眼前に広がる海の支配権と不可分に結びついていた。
第三は、 徳川家康の入府期 である。戦国の城としての役目を終えた江戸城は、新たな天下人によって、全国支配を象徴し、新たな政治秩序を確立するための**「天下の府(首都)」**の礎として再定義された。天下普請という巨大プロジェクトは、城と都市を一体的に創造する事業であり、徳川の絶対的な権威を可視化する政治的装置でもあった。
徳川家康が築いた巨大城郭の下には、後北条氏がその覇権をかけて争った江戸湾の海路が広がり、さらにその歴史の地層の下には、太田道灌が築いた中世の土の城が眠っている。この 歴史の重層性 こそが、江戸城という城郭の本質である。太田道灌が選んだ「天然の要害」という卓越した立地、後北条氏が着目した江戸湾の経済的重要性、そして戦国時代を通じて日本各地で培われた多様な築城技術。これら戦国時代の遺産は、決して無に帰したわけではなく、すべてが徳川幕府二百六十年の平和の礎となる世界最大の都市・江戸の骨格を形成する上で、不可欠な要素となったのである。戦国の要塞は、こうして天下の府へと昇華し、その歴史を次代へと繋いでいった。