最終更新日 2025-08-25

海ノ口城

武田信玄初陣伝説の舞台、海ノ口城。その実像は史料に乏しく、伝説と史実の狭間に揺れる。佐久侵攻の要衝に築かれ、武田氏の信濃支配戦略を物語る要害である。

信濃 海ノ口城の総合的研究:武田信玄初陣伝説と城郭の実像

第一章:序論 ― 伝説のベールに包まれた山城

戦国時代の甲斐国を治めた武田信玄、その若き日、元服まもない武田晴信が、父・信虎ですら攻略できなかった難攻不落の城を、わずかな兵を率いた鮮やかな奇襲によって陥落させ、華々しい初陣を飾ったとされる。この英雄譚の舞台となったのが、信濃国佐久郡に位置する山城「海ノ口城」である 1 。この逸話は、信玄の天才的な軍才を象徴する物語として、江戸時代の軍記物語『甲陽軍鑑』を通じて広く知れ渡り、今日に至るまで多くの人々を魅了し続けている。

しかし、その輝かしい伝説の光とは対照的に、海ノ口城の歴史的実像は深い霧に包まれている。築城者や正確な築城年代、そしていつ、どのような経緯で廃城となったのか、基本的な情報すら不明確なままである 4 。さらに、物語の中心人物である城主・平賀源心なる人物に至っては、その実在性さえも疑問視されているのが研究の現状である 4

本報告書は、この伝説と史実の間に横たわる深い溝を主題とし、海ノ口城という一つの城郭を多角的な視点から徹底的に分析することを目的とする。具体的には、城が築かれた地理的条件とその戦略的重要性、現存する遺構から読み解く城郭の構造的特徴、そして物語の根源である『甲陽軍鑑』の記述を他の一次史料と比較検討する厳密な史料批判を通じて、海ノ口城の多面的な実像に迫る。

この城の評価は、単に戦国時代の一軍事拠点としてだけでなく、後世に形成された「武田信玄像」という巨大な文化的記憶の中で、いかなる役割を与えられたのかという視点から捉え直す必要がある。海ノ口城に関する情報のほとんどが信玄の初陣伝説に集約されているという事実は 2 、この城が同時代の記録として重要視されていなかった可能性を示唆している。むしろ、江戸時代以降、信玄の英雄性を確立するための物語装置として「発見」され、象徴的な意味を付与された「物語の城」としての側面が極めて強い。本稿は、史実の探求にとどまらず、一つの山城が伝説をまとい、歴史的記憶として形成されていく過程をも解き明かしていく。

第二章:地理的立地と戦略的重要性

2-1. 地勢と眺望

海ノ口城は、現在の長野県南佐久郡南牧村海ノ口に位置する山城である。その立地は、信濃川の源流である千曲川と、その支流である大月川が合流する地点の北方にそびえる山頂、標高約1250メートル、麓からの比高約210メートルの峻険な地形に築かれている 2 。この場所は、甲斐国(現在の山梨県)と信濃国佐久郡を結ぶ交通の要衝を抑える上で、絶妙の位置を占めている。

城の西側には鳥井峠が控え、この峠道は甲斐から佐久、さらには南相木村方面へと抜ける重要な街道であった 5 。海ノ口城は、この鳥井峠を直接的に扼し、甲信国境を越えてくる敵の侵攻を監視・阻止する役割を担っていた。別名を「鳥井城」とも呼ばれるのは、この地理的関係性に由来する 5 。城の主郭からは八ヶ岳連峰の雄大な姿を望むことができ、眼下には佐久方面へ続く街道や盆地が広がるため、軍事的な眺望は極めて良好であったと推察される 6 。敵の進軍をいち早く察知し、狼煙などで後方の本城へ通報する監視拠点としての機能も有していたと考えられる。

2-2. 甲斐武田氏の佐久侵攻における前線基地として

武田信虎の時代、甲斐国内は度重なる飢饉や疫病に見舞われており、国外への出兵は、敵地での略奪による経済的利益を確保するという、切実な飢饉対策の一環でもあった 12 。その主要な標的の一つが、隣接する信濃国佐久郡であった。武田氏は諏訪氏や村上氏と連携し、佐久郡への侵攻を繰り返していた 13

このような背景において、海ノ口城は甲斐から佐久へ侵攻する武田軍にとって、まさに最初の関門であった。この城を確保することは、佐久郡の国衆の抵抗を抑え、その後の本格的な侵攻作戦における兵站基地や中継地として利用するための橋頭堡を築く上で、戦略的に不可欠であった 15

近隣には、より規模の大きい海尻城が存在しており、海ノ口城は海尻城の支城、あるいは連携して防衛線を構成する城砦群の一つであったとする見方が有力である 10 。両城の関係性については、海尻城が平時の拠点や兵の駐屯地として機能し、海ノ口城は有事の際の詰城、あるいは国境を監視する最前線の砦という役割分担があった可能性が考えられる。

しかし、海ノ口城の戦略的価値は、その地理的特異性に起因する限定的なものであった。この城の機能は、大規模な軍隊を長期間駐屯させる「拠点」としてではなく、鳥井峠という特定の交通路を封鎖し、敵の動向を察知する「栓」としての役割に特化していた。城郭の規模が比較的小さく、数千の兵を収容することが困難であるという物理的な制約も 11 、その役割が限定的であったことを裏付けている。武田氏の勢力圏が佐久郡全域に及び、さらに北の小県郡(対村上氏)や北信濃(対上杉氏)へと前線が移動するにつれて、甲斐との国境に近い海ノ口城の軍事的重要性は急速に低下していった。この戦略的価値の時限性こそが、後に武田氏による大規模な改修を受けず、歴史の表舞台から姿を消していく根本的な理由であったと結論付けられる。

第三章:城郭の構造(縄張り)と遺構の現状

3-1. 全体構造 ― 山頂の要害と山麓の居館

海ノ口城の縄張り、すなわち城の設計思想は、山頂の尾根筋を利用した典型的な山城の形態を示している。尾根上に主郭、二の郭、三の郭といった曲輪を直線的に配置した連郭式、あるいは主郭とその周辺の小規模な曲輪で構成される単郭に近い構造と評価されている 16 。その構造は、戦国前期の素朴な山城の特徴を色濃く残している。

一方で、信濃の城郭研究の第一人者である宮坂武男氏の研究によれば、城の範囲は山頂部分に限定されない可能性が指摘されている。氏の鳥瞰図では、山頂の城郭本体だけでなく、山麓の三方を尾根に囲まれた谷間に「内小屋」と呼ばれる居館部や宿を備えた、より広範な城域が想定されている 9 。これは、有事の際に山頂へ立て籠もる「詰城(つめのしろ)」と、平時の生活空間である「根古屋(ねごや)」が一体となった、信濃地方の山城にしばしば見られる形態である。もしこの構造が事実であれば、海ノ口城は単なる砦ではなく、在地領主の生活拠点としての機能も併せ持っていたことになる。

3-2. 主要な遺構の詳細

現在、海ノ口城跡では、戦国時代の面影を伝えるいくつかの遺構を確認することができる。

主郭(本丸)

城の中心部であり、最も高い位置に存在する。広さは約70坪(約230平方メートル)と、さほど広くはない 16 。現在は城址碑や東屋が設置され、訪れる者を出迎える 2 。主郭の北西側には「屏風岩」と呼ばれる巨大な天然の岩壁がそそり立ち、これがそのまま城壁の一部として利用されている 4 。加工が困難な自然の断崖を防御に組み込むのは、山城築城の巧みな技術であり、海ノ口城の大きな特徴の一つである。

曲輪群

主郭の東西に連なる形で、二の曲輪、三の曲輪と伝わる複数の平坦地が確認できる 16 。これらは兵の駐屯や物資の集積に使われた空間であるが、現在は樹木に覆われ、往時の姿を明確に把握することは難しい状態にある 19

堀切

海ノ口城の防御施設の中で、最も顕著で保存状態が良いのが堀切である。堀切とは、尾根を人工的に深く掘り下げて寸断し、敵兵が尾根伝いに侵攻してくるのを防ぐための強力な防御施設である。特に主郭の東側に設けられた大堀切は、規模が大きく深さもあり、この城最大の見どころとされている 6 。この大堀切によって、主郭は東側の尾根から完全に切り離され、独立した防御区画となっている。西側にも複数の堀切が確認できるが、これらは比較的浅く、埋没が進んでいる 16

虎口

虎口は曲輪への出入り口であり、城の防御における重要な要素である。海ノ口城では、本丸下の腰曲輪に虎口の跡が指摘されているが 4 、その構造は単純なものであったと推測される。後年の武田氏の城郭に特徴的に見られる、土塁や石垣で複雑に囲い込んだ「枡形虎口」のような、先進的で堅固な構造は確認されていない 20

3-3. 現状と文化財指定

海ノ口城跡は、その歴史的重要性が認められ、南牧村の指定史跡となっている 21 。山麓の登山口から主郭までは、約30分から50分程度の登山が必要であり、道標などが整備されている 2 。しかし、現在までに本格的な学術的発掘調査は行われておらず、出土遺物などに基づく考古学的な知見は極めて限定的である 16

城に残る遺構の全体像を考察すると、一つの重要な結論が導き出される。それは、海ノ口城の縄張りが、武田氏による本格的な改修を受ける以前の、佐久地方の在地国衆が築いた素朴な山城の形態を今日に伝えている可能性が高いということである。武田氏は信濃支配の拠点とした城(内山城、小諸城、戸石城など)において、丸馬出や三日月堀、枡形虎口といった独自の高度な築城技術を導入し、大規模な改修を行っている 20 。海ノ口城にそうした痕跡が全く見られないことは、前章で述べた「戦略的価値の早期低下」を構造的な側面から裏付けている。すなわち、この城は佐久侵攻の初期段階で一時的に利用された後、恒久的な拠点として投資されることなく、その役割を終えたのである。城の構造そのものが、武田氏の信濃支配戦略における役割の変遷を静かに物語っている。

第四章:海ノ口城の戦い ― 『甲陽軍鑑』の記述とその詳細

海ノ口城の名を不朽のものとした「海ノ口城の戦い」。その劇的な展開は、江戸時代初期に成立した軍学書『甲陽軍鑑』に詳述されている。この書物が描く物語は、後の武田信玄像を決定づける上で極めて重要な役割を果たした。

4-1. 武田信虎の攻城と頓挫

物語は、天文5年(1536年)11月、甲斐守護・武田信虎が8千と号する大軍を率いて信濃佐久郡へ出陣するところから始まる 15 。目標は、佐久の有力国衆である平賀氏の出城、海ノ口城。城には城主・平賀源心(玄信)入道成頼が2千(一説には3千)の兵とともに立て籠もっていた 15

信虎は圧倒的な兵力差を背景に城を包囲し、幾度となく攻撃を仕掛けた。しかし、城兵は源心の指揮のもと、地の利を生かして頑強に抵抗し、武田軍の猛攻をことごとく跳ね返す。攻防は36日間に及び、武田軍は多大な損害を出しながらも、城を陥落させる糸口を見出せずにいた 4 。季節は冬、折からの大雪が甲斐の兵たちの士気をさらに奪う。業を煮やした信虎は、ついにこの難攻不落の城の攻略を断念し、全軍に甲斐への撤退を命じた。

4-2. 晴信の奇襲と落城

この屈辱的な撤退において、本隊が安全に退くための最も危険な役割である殿軍(しんがり)を自ら申し出たのが、当時16歳で初陣に臨んでいた嫡男・晴信であった 2 。父信虎はこれを許し、晴信はわずか300の手勢とともに最後尾に位置した。

本隊が甲斐への帰路につく中、晴信は冷静に戦況を分析していた。武田の大軍が撤退したことで、籠城を続けていた城兵たちの緊張は緩み、警戒が疎かになっているに違いない。晴信はこの一瞬の隙を見逃さなかった。彼は独断で、率いる300の兵の向きを反転させ、再び海ノ口城へと引き返したのである 15

晴信の読みは的中していた。城内では、敵が去ったことに安堵した兵たちが、年末年始の準備やささやかな祝宴を開き、完全に油断しきっていた 9 。厳重だったはずの城門の警備も解かれ、静寂に包まれていた。そこへ、晴信率いる精鋭部隊が夜陰に乗じて殺到した。不意を突かれた城兵はなすすべもなく大混乱に陥り、組織的な抵抗は不可能であった。城はたちまちのうちに陥落し、剛勇で知られた城主・平賀源心も乱戦の中で討ち取られたとされる 4

父信虎がひと月以上かけても落とせなかった城を、16歳の若武者がわずか300の兵で一夜にして攻略する。この鮮やかな勝利は、晴信の非凡な軍才を天下に示す、伝説的な初陣として語り継がれることとなったのである。

第五章:史料批判 ― 伝説の初陣は史実か

前章で詳述した劇的な海ノ口城の戦いは、武田信玄の人物像を語る上で欠かすことのできない逸話である。しかし、歴史学の観点からは、この物語の史実性に対して数多くの疑問符が付けられている。その根拠を、史料批判の手法を用いて多角的に検証する。

5-1. 依拠する史料の偏り

海ノ口城の戦いの経緯は、そのほぼ全ての情報源が江戸時代初期に成立した軍学書『甲陽軍鑑』に依拠している 2 。『甲陽軍鑑』は武田氏の軍学や事績をまとめた読み物として非常に価値が高い一方で、史実を伝える歴史書としては、多くの文学的脚色や創作が含まれていることが指摘されている 28

この逸話の信憑性を揺るがす最大の要因は、武田氏の動向を記した同時代の信頼性の高い一次史料に、この戦いに関する記述が全く見られないことである。例えば、武田家の重臣であった駒井高白斎が記した詳細な年代記『高白斎記』や、甲斐国の出来事を客観的に記録した『妙法寺記』には、天文5年(1536年)に海ノ口城で大規模な合戦があったという記録は存在しない 7 。富士北麓の年代記である『勝山記』には、この年に晴信が初陣を飾り平賀源心を討ち取ったと簡潔に記すものもあるが 30 、信虎の苦戦や晴信の奇襲といった劇的な合戦の経緯は一切触れられておらず、『甲陽軍鑑』の物語を裏付けるものとは言えない。

5-2. 登場人物と規模の不自然さ

物語に登場する要素にも、史実性を疑わせる点が複数存在する。

平賀源心の実在性

城主とされる平賀源心(玄信)は、『甲陽軍鑑』やそれに影響を受けた後代の書物を除き、同時代の確実な史料でその存在を確認することが極めて難しい 4 。戦国期の佐久地方を治めた平賀氏に関する一次史料自体が乏しいこともあり 31 、源心は信玄の武功を際立たせるために創出された架空の人物か、あるいは実在したとしてもその人物像が大幅に誇張されたものである可能性が高いと研究者からは指摘されている。

兵員数の問題

『甲陽軍鑑』が記す籠城兵2千~3千、攻城兵8千という兵員数も、城の物理的な規模から考えると現実的ではない 11 。海ノ口城の主郭は約70坪、全ての曲輪を合わせても数千の兵が長期間籠城できるスペースはなく、これは晴信が打ち破った敵の規模を大きく見せるための文学的な誇張であると考えるのが妥当である。

5-3. 歴史的評価 ― 創作の可能性

以上の史料的、物理的な観点から、今日、歴史学の世界では「信玄の初陣を飾る海ノ口城の戦い」は、『甲陽軍鑑』の作者が、若き日の信玄の英雄像を劇的に演出し、読者に強い印象を与えるために創作した逸話であるという見方が通説となっている 2

もちろん、この時期に武田氏が佐久方面で何らかの軍事行動を起こし、若き晴信がそれに参加していた可能性は否定できない。天文9年(1540年)など、別の時期に行われた小規模な戦闘が、後世に語り継がれる中で年代や規模を誤り、晴信の初陣という象徴的な出来事と結びつけられて脚色されたという説も考えられる 26 。いずれにせよ、『甲陽軍鑑』が描くような、父の失敗を子の鮮やかな成功で覆すという劇的な物語が、そのまま史実であった可能性は極めて低いと言わざるを得ない。

以下の表は、主要な歴史史料における海ノ口城の戦いの記述の有無を比較したものである。これにより、情報源がいかに『甲陽軍鑑』に偏っているかが一目瞭然となる。

史料名

成立年代

海ノ口城の戦いに関する記述

史料的性格と評価

甲陽軍鑑

江戸初期

詳細な記述あり(信虎の失敗、晴信の奇襲成功など)

武田氏の軍学・事績をまとめた軍記物語。史料価値について議論はあるが、文学的脚色が多いとされる 28

高白斎記

戦国時代(同時代)

記述なし

武田家臣・駒井高白斎による年代記。武田氏の動向に関する一次史料として信頼性が高い 7

妙法寺記

戦国時代(同時代)

記述なし

甲斐国の出来事を記録した年代記。信頼性の高い史料 7

勝山記

戦国時代(同時代)

晴信の初陣と平賀源心討ち取りを簡潔に記すが、合戦経緯の記述はなし 30

富士北麓の年代記。武田氏関連の記述も含むが、詳細は不明。

この表が示す通り、物語の根幹をなす詳細な記述は『甲陽軍鑑』にしか存在せず、信頼性の高い同時代史料は沈黙している。この事実こそが、海ノ口城の戦いを「史実」ではなく「伝説」として位置づけるべき最大の論拠である。

第六章:武田氏の信濃支配と海ノ口城の役割の再検証

仮に天文5年の海ノ口城落城が何らかの史実を反映していたとしても、その後の武田氏による信濃支配の文脈において、この城が果たした役割は極めて限定的であったと考えられる。

6-1. 佐久侵攻の拠点として

武田氏による佐久侵攻の初期段階において、海ノ口城は甲斐からの兵員や物資を送り込むための「中継地」あるいは「兵站基地」として、一時的に機能した可能性は高い 15 。国境を越えてすぐの場所に確保されたこの城は、さらなる奥地へ進軍するための足掛かりとなったであろう。

しかし、武田氏の佐久郡支配が本格化し、天文15年(1546年)に大井貞清の拠る内山城を攻略し 15 、さらに伴野氏の拠点であった前山城や野沢城を支配下に置くと 23 、佐久支配の中心は、より盆地の中心部に近いこれらの城郭へと明確に移っていった。特に内山城は天然の要害であり、武田氏はここを佐久支配の重要拠点として活用した。やがて小諸城が築かれ、佐久・小県方面の拠点となると 39 、甲斐国境に近い海ノ口城の戦略的価値は相対的に大きく低下した。

『甲陽軍鑑』では、その後も信玄が佐久方面での作戦時に海ノ口城を陣所として利用したとされているが 15 、これも他の一次史料による裏付けは乏しく、初陣の地としての象徴性を強調するための記述である可能性が考えられる。

6-2. 武田氏による改修の可能性

前述の通り、海ノ口城の現存遺構には、武田氏特有の高度な築城技術の痕跡は認められない。この事実は、武田氏がこの城を恒久的な支配拠点として重視せず、大規模な改修を行わなかったことを強く示唆している。もし武田氏がこの城を重要拠点とみなしていれば、防御力を向上させるための改修、例えば枡形虎口の設置や堀切の増強、石垣の導入などが行われたはずである。

また、武田氏が特定の城を重要拠点とした場合、信頼の置ける家臣を城代として配置するのが通例であったが、海ノ口城に城代が恒常的に置かれたという記録も見当たらない 8 。これらの状況証拠は、海ノ口城が武田氏の信濃支配体制の中に恒久的に組み込まれることなく、侵攻路上の「通過点」としての一時的な役割を終えた後、歴史の舞台から静かに退場したことを物語っている。

第七章:城の終焉と近世以降

7-1. 廃城時期の謎

海ノ口城がいつ、どのような経緯で廃城になったのかを直接的に示す史料は存在せず、その終焉は謎に包まれている 5 。しかし、これまでの考察から、その時期をある程度推測することは可能である。

最も可能性が高いのは、武田氏による佐久郡の支配が安定し、軍事的な前線がさらに北の小県郡や川中島方面へ移行した段階で、その軍事的価値を完全に失い、維持管理されることなく自然に廃されたというシナリオである。甲斐との国境防衛という当初の役割は、佐久郡全域が武田領となった時点で意味をなさなくなり、城は放棄されたと考えられる。

天正10年(1582年)、織田信長の侵攻により武田氏が滅亡すると、信濃国は主を失い、「天正壬午の乱」と呼ばれる徳川・北条・上杉による激しい覇権争いの舞台となった。この動乱において、佐久郡では徳川家康の麾下に入った依田信蕃が、春日城や岩村田城などを拠点に北条方と激しい攻防戦を繰り広げた 41 。信濃の諸城が再び軍事拠点として活性化する中で、海ノ口城が再利用されたという形跡は一切見られない。この事実は、天正壬午の乱の時点では、海ノ口城がすでに城としての機能を完全に喪失していたことを示唆している。

7-2. 伝説の地としての再発見

軍事拠点としての役割を終え、歴史の中に埋もれていった海ノ口城が再び脚光を浴びるのは、戦乱の世が終わった江戸時代に入ってからである。『甲陽軍鑑』が武士の教養書、あるいは大衆向けの読み物として広く流布するようになると、そこに描かれた若き晴信の鮮やかな初陣の物語が人々の心をとらえた。これにより、海ノ口城は単なる山城の跡ではなく、「武田信玄公初陣の地」という特別な意味を持つ場所として再認識されるようになった。

近代以降、史跡としての価値が見直されると、現地には城の沿革を記した案内板や城址碑が設置された 4 。これらの顕彰物は、訪れる人々に『甲陽軍鑑』が描いた物語を伝え、城の伝説をさらに強固なものにした。かつて甲信国境の兵どもが見たであろう風景の中に、今では歴史ロマンを求める人々が訪れ、若き英雄の姿に思いを馳せている。物理的な城は朽ち果てても、物語としての城は生き続けているのである。

第八章:結論 ― 史実と伝説が織りなす山城の歴史的価値

本報告書では、信濃国佐久郡の山城・海ノ口城について、地理的条件、城郭構造、そして歴史的経緯を多角的に分析した。その結果、この城が持つ二重の性格、すなわち「史実の城」としての一面と、「伝説の城」としての一面が明らかになった。

総括すると、海ノ口城は、戦国時代の確固たる一次史料に裏付けられた歴史に乏しい。城郭の構造も、佐久地方の在地国衆が築いた、尾根筋を利用した比較的小規模な山城の域を出るものではない。しかし、この城は『甲陽軍鑑』という後世の媒体を通じて、若き武田信玄の非凡な才能を世に示すための象徴的な「物語の舞台」として選ばれ、その物理的な規模をはるかに超える不朽の名声を得たのである。

この城の歴史的価値は、以下の三つの側面から再評価することができる。

第一に、 軍事史的価値 である。海ノ口城は、甲斐から佐久への入り口である鳥井峠を扼する戦略的要地に築かれており、国境を越える交通路を監視・封鎖するという、限定的だが重要な役割を担った山城の実例として価値を持つ。その素朴な縄張りは、武田氏のような先進的な築城技術が導入される以前の、在地勢力による城郭の姿を今に伝えている。

第二に、 考古学的価値 である。現在まで本格的な発掘調査が行われていないため、城跡の地下には未解明な情報が眠っている可能性が高い。今後の調査によっては、佐久地方における中世城郭の具体的な構造や、当時の人々の生活様式を解明する上で、貴重な知見が得られるかもしれない。

そして第三に、最も重要と言えるのが 文化史的価値 である。海ノ口城は、史実そのものよりも、後世の人々がどのように歴史を解釈し、英雄像を創り上げてきたかを示す、極めて興味深い事例を提供している。「信玄初陣の地」という強力な物語が、一つの忘れ去られた山城に特別な意味と価値を与え、今日に至るまで人々を引きつけてやまない。この城は、歴史が単なる過去の事実の記録ではなく、語り継がれる中で再生産されていく記憶の集合体であることを我々に教えてくれる。

したがって、海ノ口城を真に理解するためには、城郭そのものの物理的な分析と、それが背負うことになった伝説という無形の価値の両面からアプローチすることが不可欠である。史実の厳しさと、後世のロマンが交錯するこの地は、戦国という時代が持つ多層的な魅力を凝縮した、稀有な歴史の証人と言えるだろう。

引用文献

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  34. 「武田信玄」は不利な状況を抱えながら天下を見据えた名将だった! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/543
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  36. 1532年~天分年間~1555年 - 箕輪城と上州戦国史 https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/1532%E5%B9%B4%EF%BD%9E%E5%A4%A9%E5%88%86%E5%B9%B4%E9%96%93%EF%BD%9E1555%E5%B9%B4
  37. 武田信玄 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84
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  40. 海尻城合戦 http://koskan.nobody.jp/shigenoittou03.html
  41. 依田(芦田) 信蕃 | 信州・小諸|詩情あふれる高原の城下町 - こもろ観光局 https://www.komoro-tour.jp/spot/castle/history/person03/
  42. 「天正壬午の乱(1582年)」信長死後、旧武田領は戦国武将たちの草刈り場に! https://sengoku-his.com/453
  43. 曽根昌世、岡部正綱、依田信蕃、下条頼安~「天正壬午の乱」で徳川家康の窮地を救った人々 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10528?p=1