下野烏山城は「臥牛城」と称され、那須氏の本拠として450年君臨。佐竹氏の猛攻を退け「難攻不落」を誇るも、小田原征伐遅参で那須氏改易。江戸期は城主交代頻繁も、今は国史跡として堅固な遺構を伝える。
下野国那須地方、現在の栃木県那須烏山市にその遺構を残す烏山城は、戦国時代の関東を代表する山城の一つである 1 。標高202メートルの八高山に築かれ、その山容が牛の寝そべる姿に似ていることから「臥牛城」の別名でも知られる 3 。応永25年(1418年)の築城から明治2年(1869年)の版籍奉還に伴う廃城に至るまで、実に450年以上にわたり、この地域の政治・軍事の中心として君臨し続けた 4 。
特に戦国時代においては、下野の名門・那須氏の本拠として、東から勢力を拡大する常陸の佐竹氏による度重なる侵攻をことごとく退けたことから、「難攻不落の名城」としての評価を確立した 6 。その歴史的価値は現代においても高く評価され、2023年3月20日には国の史跡に指定されている 2 。
烏山城の戦略的な重要性は、その立地に根差している。城の東には大きく蛇行する那珂川が天然の堀をなし、西に江川、南には那珂川、江川、荒川の三河川が合流する広大な氾濫原が広がる 8 。北側は複雑に入り組んだ丘陵地帯となっており、まさに四方を自然の要害に囲まれた地形を巧みに利用して築かれている 9 。この傑出した地勢的優位性が、城の卓越した防御能力の根幹をなしていたのである。
本報告書は、この烏山城を単なる一地方の城郭として捉えるのではなく、戦国期北関東の激しい政治情勢を映し出す鏡であり、また中世から近世へと移行する城郭技術の変遷を体現する貴重な遺構であることを、歴史、構造、そして考古学という三つの側面から徹底的に解明することを目的とする。那須氏の興亡と共にあった戦国時代の姿から、江戸時代の藩庁としての変容、そして発掘調査によって明らかになった新たな事実までを統合し、烏山城の実像に迫る。
烏山城の誕生は、15世紀初頭の関東地方を覆った動乱と深く結びついている。応永23年(1416年)に勃発した上杉禅秀の乱を契機として、関東公方と室町幕府の対立は激化し、地域の諸勢力も二分される状況にあった。この混乱の中、下野の名門であった那須氏もまた、宗家である上那須氏と分家の下那須氏に分裂するという内紛を抱えていた 11 。
烏山城は、この下那須氏の初代当主、沢村五郎資重によって築かれた。那須与一宗隆の子孫と伝えられる資重は、兄の那須資之との不和から本拠であった城を追われ、応永25年(1418年)、新たな拠点として八高山に城を構えたとされる 8 。築城に際して、一羽の烏が幣束を咥えてこの地に飛来し、資重に築城の場所を示したという伝説も残されており、「烏山」という地名の由来ともなっている 11 。
当初の烏山城は、資重個人の拠点的性格が強い、比較的小規模な砦であったと推定される。しかし、那須氏の権力構造の変化と共に、城もまたその姿を変えていく。3代城主・那須資実の時代、明応2年(1493年)には城郭の拡張が行われ、城域にあった筑紫山の八幡宮が宮原へ移転された記録が残る 13 。この出来事は、城が単なる軍事拠点から、信仰をも含めた領国支配の中心地としての性格を帯び始めたことを示している。
そして、4代城主・那須資房の治世であった永正13年(1516年)、上那須氏が内紛によって断絶したことで、分裂していた那須氏は統一される 13 。これにより、烏山城は名実ともに那須惣領家の本拠城としての地位を確立し、その重要性は飛躍的に高まった。城の物理的な拡張と、那須氏内部の権力統合のプロセスは、まさに軌を一にしていたのである。城の発展の歴史は、那須氏が分家の立場から領国全体を統べる宗家へと成長していく過程そのものを、石垣や土塁、曲輪の広がりとして物理的に体現していると言えよう。その後も、7代城主・那須資胤が永禄3年(1560年)に牛頭天王を城下に勧請するなど 13 、城と城下町は一体となって発展を遂げていった。
戦国時代中期、常陸国(現在の茨城県)を統一し、その勢力を下野へと拡大しようとした佐竹義重にとって、那須氏の本拠である烏山城は最大の障壁であった 1 。永禄年間(1560年代)を中心に、佐竹軍は烏山城に対して繰り返し大規模な侵攻を行った。永禄6年(1563年)の大海の戦い、永禄9年(1566年)の治部内山の戦い、そして永禄10年(1567年)の大崖山の戦いなど、幾度となく城下にまで攻め込まれる激戦が繰り広げられたが、那須氏はそのすべてを撃退し、城を守り抜いた 1 。
当時の緊迫した状況は、現存する史料からも窺い知ることができる。佐竹義重が家臣の赤坂宮内太輔に宛てた書状の写しには、「千本・中妻筋・興野を攻め、昨十一日には烏山宿・根小屋を打ち散らす戦果をあげた」と記されている 15 。これは、佐竹軍が城下町や山麓の武家屋敷群を蹂躙するほどの猛攻を加えたことを示しているが、同時に城そのものを攻略するには至らなかった事実を裏付けている。城下は焼かれても、城本体は決して落ちなかったのである。
那須氏が佐竹氏の猛攻に耐え得た背景には、巧みな外交戦略の存在もあった。那須氏は単独で佐竹氏に対峙したわけではなく、会津の蘆名盛氏や皆川俊宗といった周辺勢力と連携し、反佐竹連合を形成していた 15 。これにより、佐竹氏は背後を突かれる危険性を常に警戒せねばならず、烏山城への攻撃に全戦力を集中させることが困難であった。烏山城は、受動的な防衛拠点であるだけでなく、北関東の外交戦略における要衝としての役割も担っていたのである。
烏山城の「難攻不落」という評価は、こうした外交戦略に加え、城自体の堅固な構造と地勢的優位性によって支えられていた。前述の通り、河川と丘陵に囲まれた天然の要害であることに加え、尾根筋を巧みに利用して複数の曲輪を直線的に配置した連郭式の縄張りは、敵の侵攻を段階的に阻む構造となっていた 9 。深く掘られた空堀や尾根を断ち切る堀切、高く盛られた土塁、そして城壁を屈折させて側面から攻撃を加える「横矢掛かり」など、多彩な防御施設が効果的に配置されていたのである 8 。
したがって、烏山城の「難攻不落」という名は、単に城の物理的な堅牢さ(ハードウェア)のみによって得られたものではない。それは、那須氏が展開した巧みな外交や、城を最終防衛線と位置づけた領国全体の縦深防御思想(ソフトウェア)が一体となって初めて機能した結果であった。敵軍を城下まで引き込み、疲弊させた上で堅城に籠って撃退するという戦略が、烏山城の伝説を築き上げたのである。
天正18年(1590年)、天下統一の総仕上げに乗り出した豊臣秀吉は、関東に覇を唱える北条氏を討伐すべく、未曾有の大軍を動員した。世に言う「小田原征伐」である 16 。秀吉は、北条氏の小田原城を包囲すると同時に、関東・東北地方の諸大名に対し、小田原への参陣を厳命した 18 。これは、秀吉への服従を誓うか否かを問う、事実上の踏み絵であった。
この時、那須家の当主であった那須資晴は、秀吉の呼びかけに即座に応じず、静観するという重大な決断を下した 18 。資晴の重臣であった大田原氏や大関氏は、天下の趨勢を的確に読み、主君に秀吉方への参陣を再三にわたり進言した。しかし、資晴は最後まで動かなかった 20 。結果として、大田原氏らは資晴を見限り、独自に小田原へ参陣して秀吉に恭順の意を示し、所領を安堵されている 16 。
資晴がこのような危険な賭けに出た背景には、奥州の雄・伊達政宗の動向が大きく影響していたと考えられている。那須家に伝わる文書の中には、天正18年3月21日付と推定される伊達政宗からの書状が存在し、その内容が資晴の参陣を遅らせる一因となった可能性が指摘されている 21 。資晴は、北関東から南東北にかけて広域な影響力を持つ政宗の出方を窺い、それに自らの行動を合わせようとしたのである。これは、周辺大名との力関係を最優先する、戦国大名としてはごく自然な判断であった。
しかし、この判断は致命的な過ちであった。秀吉が求めたのは、地域勢力間の駆け引きではなく、自身への絶対的な服従であった。遅参の末に政宗も秀吉に服属し、小田原城は開城。天下の趨勢は完全に決した。戦後、秀吉が宇都宮城に入って戦後処理(奥州仕置)を行った際、資晴はようやく秀吉に謁見するが、時すでに遅かった 18 。その遅参を厳しく咎められ、那須氏伝来の所領はすべて没収、すなわち改易という最も厳しい処分が下された 13 。烏山城は明け渡され、170年以上にわたった那須氏の支配は、ここに終焉を迎えたのである。
那須資晴の悲劇は、単なる情勢判断の誤りとして片付けることはできない。それは、戦国時代を通じて機能してきた「地域ブロック内の力学」という旧来の秩序が、秀吉がもたらした「中央集権的な天下秩序」という新たな価値観によって無効化された、時代の転換点を象徴する事件であった。資晴の改易は、二つの異なる時代の秩序が衝突した際に、古い秩序に固執した者が淘汰されるという、歴史の必然的な帰結だったのである。
那須氏の退去後、烏山城は激動の時代を迎える。城主の座は、まるで駆け足で過ぎるかのように、次々と交代していった。
最初に城主となったのは、織田信長の次男・織田信雄であった。しかし、これは小田原征伐後の論功行賞を不服としたことに対する、秀吉からの懲罰的な左遷であり、在城期間はわずか2ヶ月余りであった 11 。次いで、小田原の役で北条方として忍城の防衛戦を指揮した成田氏長が入城する 1 。成田氏の下で江戸時代を迎え、烏山城は烏山藩の藩庁となるが、その成田氏も数代で家督相続を巡る御家騒動を起こし、改易の憂き目に遭う 1 。
その後、烏山城は徳川幕府にとって、北関東の要衝を管理するための戦略的な拠点として位置づけられる。松下氏、堀氏(外様)を経て、寛文12年(1672年)には幕閣の重鎮であった板倉重矩が入封するなど、幕府の信頼が厚い譜代大名が配置されるようになる 1 。しかし、その統治は長続きせず、板倉氏、永井氏、稲垣氏と、数年から十数年という短期間での転封が繰り返された 1 。
この頻繁な城主交代は、幕府が烏山城を、江戸の北方を固め、伊達藩など東北の有力外様大名を監視するための重要拠点と見なしていたことを示唆している。特定の譜代大名がその地に深く根付くことを避けつつ、様々な大名に要地の統治を経験させることで、その能力を評価・選別し、幕府全体の統治能力を強化する狙いがあったと考えられる。
延宝9年(1681年)、那須資弥が入封し、約90年ぶりに「那須氏」の名が烏山城に帰還した 1 。しかし、これは名目上の復帰に過ぎなかった。資弥は旧那須氏の血筋ではなく、4代将軍・徳川家綱の生母である宝樹院の弟、すなわち将軍の縁戚という出自によって名門那須家を継いだ人物であった 1 。これもまた、旧来の地域的権威を幕府の権威に塗り替えようとする、幕府の巧みな統治術の一環であった。だが、この新たな那須氏もまた、資弥の死後に養子・資徳の代で家督相続を巡る御家騒動(烏山騒動)を起こし、わずか6年で改易となった 1 。
目まぐるしい変転の時代は、享保10年(1725年)に大久保常春が入封したことで、ようやく終わりを告げる。以降、明治維新に至るまで、大久保氏が8代140年余りにわたって城主を務め、烏山藩の藩政は安定期に入った 1 。幕府の支配体制が盤石となり、烏山城の持つ軍事的な意味合いが薄れたことで、ようやくこの地にも平穏な時代が訪れたのである。
時代区分 |
城主名 |
在任期間(西暦) |
石高 |
主要な出来事・備考 |
那須氏時代 |
那須資重 |
1418-1434 |
- |
烏山城を築城 |
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(中略) |
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那須資晴 |
1583-1590 |
- |
小田原征伐に遅参し、所領没収(改易) |
安土桃山時代 |
織田信雄 |
1590-1591 |
2万石 |
秀吉の命により尾張から転封(左遷) |
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成田氏長 |
1591-1596 |
2万石 |
武蔵国忍より入封 |
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成田長忠 |
1596-1617 |
3万7千石→1万石 |
関ヶ原の戦功で加増。後に減封 |
江戸時代 |
成田氏宗 |
1617-1622 |
1万石 |
御家騒動により改易 |
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松下重綱 |
1623-1627 |
2万8百石 |
常陸国小張より入封 |
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堀親良 |
1627-1637 |
2万5千石 |
下野国真岡より入封 |
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堀親昌 |
1637-1672 |
2万5千石 |
万治2年(1659年)に三の丸を増築 |
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板倉重矩 |
1672-1673 |
5万石 |
城下町の改良に着手 |
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板倉重種 |
1673-1681 |
5万石 |
武蔵国岩槻へ転封 |
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那須資弥 |
1681-1687 |
2万石 |
将軍家縁戚として那須家を継ぎ入封 |
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那須資徳 |
1687 |
2万石 |
烏山騒動により改易 |
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永井直敬 |
1687-1702 |
3万石 |
河内国などから入封 |
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(幕府代官) |
1702-1703 |
- |
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稲垣重富 |
1703-1710 |
2万5千石→3万石 |
上総国大多喜より入封 |
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稲垣昭賢 |
1710-1725 |
3万石 |
志摩国鳥羽へ転封 |
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大久保常春 |
1725-1728 |
2万石 |
近江国より入封。以降、大久保氏が世襲 |
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(中略) |
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大久保忠順 |
1864-1869 |
3万石 |
版籍奉還により廃城 |
(注)本表は主要な城主の変遷をまとめたものであり、全ての交代を網羅するものではない。石高や年代については諸説ある場合がある 1 。
江戸時代に入り、世に平穏が訪れると、城郭に求められる機能もまた大きく変化した。かつて「戦うための機械」であった城は、次第に「統治するための装置」へとその本質を変容させていく。烏山城の近世における改修の歴史は、まさにこの日本全体の城郭史の大きな流れを凝縮したものであった。
その象徴的な出来事が、万治2年(1659年)、当時の城主であった堀親昌による三の丸の増築である 1 。親昌は、戦国期以来の山上の主郭部での生活や政務が不便であると考え、城の東側山麓に新たに広大な平地を造成し、そこに藩庁としての機能を持つ御殿と、防御を固める多門櫓を築いた 25 。これにより、烏山城の中心機能は、山上の軍事拠点から、平時の行政を行いやすい山麓の政庁へと実質的に移行した。山上の主郭部は、藩の権威を象徴する存在、あるいは万が一の際の詰めの城としての役割に限定され、城の実質的な心臓部は山麓へと移ったのである。
この「中心機能の山麓化」は、近世城郭の発展における普遍的な傾向であり、烏山城一つの歴史の中に、日本の城が辿った大きな変遷の過程を見て取ることができる。
城郭施設の整備も進められた。堀親昌は三の丸増築に先立つ寛永17年(1640年)に、新たな大手口として「七曲り」の登城道を整備し、追手門と搦手門である神長門を創建した 9 。この神長門は、江戸時代末期に建て替えられたものと推測されるが、烏山城の建造物として唯一現存し、現在は市内の民家に移築されている 2 。
城主の交代が安定した大久保氏の時代には、城下町の発展も著しかった。寛文12年(1672年)に入封した板倉重矩が着手した城下町の改良事業は後代に引き継がれ 1 、大久保氏の治世下では、かの二宮尊徳の指導による報徳仕法が導入されて荒廃した農村の復興が図られたほか 13 、殖産興業の一環として新田開発のための隧道(耕便門)が掘られるなど、城下は藩政の中心として繁栄した 13 。烏山城は、戦乱の記憶を山上に残しつつ、山麓で新たな時代の営みを育んでいったのである。
烏山城の「難攻不落」を支えたのは、その卓越した縄張り(城郭の設計)にあった。城は八高山の険しい尾根筋を巧みに削平、あるいは盛り土して造成された、典型的な連郭式の山城である 9 。その規模は広大で、城域は東西約800メートル、南北約1300メートルにも及ぶ 14 。
城の主要部は、古くから「五城三郭」と称される複数の曲輪群で構成されている。これは、古本丸、本丸(二の丸)、北城、中城、西城の「五城」と、若狭曲輪、常磐曲輪、大野曲輪の「三郭」を指す 4 。
これらの曲輪群を守る防御施設は、実に多彩かつ徹底している。堀は水を張らない「空堀」が主体であり 8 、尾根を断ち切る「堀切」、斜面を縦に走らせて敵の横移動を妨げる「竪堀」、山の等高線に沿って巡らす「横堀」など、地形に応じて様々な種類の堀が使い分けられている 9 。曲輪の縁には高く土を盛り上げた「土塁」が築かれ、敵の侵入を防ぐ壁となった 9 。城の出入り口である「虎口」は、敵が直線的に進入できないよう道を屈曲させたり、土塁や石垣で囲んで枡形を形成したりといった工夫が凝らされている 26 。特に、常盤曲輪に設けられた吹貫門では、門の側面に石垣を築くことで、門に殺到する敵兵に対して側面から矢や鉄砲を射かける「横矢掛かり」の構造が採用されている 9 。
特筆すべきは、関東の山城が主に土塁や空堀といった土木工事を主体とする中で、烏山城が城内の各所で効果的に石垣を導入している点である。しかも、その技法は一様ではない。
常盤曲輪の吹貫門脇には、自然石をあまり加工せずに積み上げた古式の「野面積み」が見られる 9。一方で、城の威厳を示すべき本丸正門脇には、石を方形に整形し隙間なく積み上げる、最も高度な技術である「切込ハギ」が用いられている 9。さらに、江戸時代に築かれた三の丸の石垣隅部には、直方体の石の長辺と短辺を交互に積むことで強度を格段に高める「算木積み」という、近世城郭の技法が採用されている 6。
この城内に混在する多様な石垣技術は、極めて重要な事実を物語っている。それは、烏山城が特定の時代に一度に完成したのではなく、戦国期から江戸期に至る長い年月の間に、その時々の最新技術を取り入れながら、継続的に改修・強化され続けた「生きた要塞」であったことの動かぬ証拠である。異なる時代の築城思想が地層のように積み重なった、複合的な歴史遺産としての価値がここにある。
近年の考古学的調査は、文献史料や縄張りの観察だけでは知り得なかった烏山城の新たな姿を浮かび上がらせている。那須烏山市教育委員会は、平成21年度(2009年)から令和3年度(2021年)にかけて、国史跡指定を目指した総合的な確認調査を実施し、その成果を『烏山城跡確認調査報告書』として刊行した 30 。
この調査における特筆すべき発見の一つに、本丸の高段部分から出土した大量の「かわらけ」がある 5 。かわらけとは、素焼きの使い捨ての小皿のことで、100枚近くがまとまって発見された 9 。これらは日常的に使用される食器ではなく、祝宴や戦勝祈願、出陣の儀式といった、特別なハレの場で用いられ、一度きりで廃棄されたものと考えられている。山城という、本来は居住性よりも軍事機能が優先される空間の、しかもその中枢である本丸からこうした遺物が出土したことは、烏山城が単なる戦闘施設ではなかったことを強く示唆している。城主が家臣団を招集して大規模な儀式を執り行い、主従関係の確認や結束の強化を図るための、重要な政治的・儀礼的な空間としても機能していたのである。烏山城の本丸は、軍事的な司令塔であると同時に、那須氏の求心力を維持・強化するための「儀式の舞台」という、もう一つの顔を持っていたと言えるだろう。
発掘調査はまた、失われた建物の姿や、当時の高度な土木技術についても貴重な情報をもたらした。城内の各所からは、建物の柱を据えた礎石や、地面に直接柱を立てた掘立柱の痕跡が発見されている 9 。特に、江戸時代の藩庁が置かれた三の丸御殿跡では、建物の礎石が確認され、火災の痕跡や、建物が複数回建て替えられていた事実も判明した 25 。
さらに、古本丸西側の土塁を部分的に掘り下げた断ち割り調査では、当時の人々が単に土を盛り上げていただけではなかったことが明らかになった。土塁の内部は、排水を考慮して砂利、砂、土、そして粘土が意図的に層状に積み上げられており、極めて高度な土木技術が用いられていたことが判明したのである 9 。
その他、江戸時代の肥前(現在の佐賀・長崎県)で焼かれた伊万里焼の磁器なども出土しており 9 、当時の城主の生活水準の高さや、他地域との物資の交流があったことを物語っている。これらの考古学的知見は、烏山城で繰り広げられた人々の営みを、より具体的に、そして鮮やかに現代に伝えている。
烏山城の歴史的価値を正当に評価するためには、同時代に築かれ、関東の戦国史において重要な役割を果たした他の山城と比較することが不可欠である。これにより、烏山城の共通性と独自性が浮き彫りになる。
**唐沢山城(栃木県佐野市)**は、越後の上杉謙信による十数回もの猛攻を退けたことで知られる名城である 32 。特に、小田原征伐後に豊臣政権の影響下で築かれたとされる壮大な「高石垣」は、西国流の最新技術が導入されたことを示しており、関東の城郭の中では異彩を放つ 34 。烏山城が戦国期から江戸期にかけて段階的に石垣技術を発展させたのに対し、唐沢山城は政治情勢の変化に伴い、一気に先進技術が導入された好例として対比できる。
**箕輪城(群馬県高崎市)**は、甲斐の武田信玄の猛攻に長きにわたり耐えた長野氏の居城である。全国屈指の規模を誇る巨大な空堀や、防御の要となる巧みな馬出(うまだし)を備え、「土の城」の最高傑作の一つと評される 36 。石垣をほとんど用いず、土木技術を極限まで高めて防御力を追求した箕輪城は、関東の山城の伝統的な姿を代表する存在であり、石垣化を積極的に進めた烏山城とは異なる発展の方向性を示している。
**八王子城(東京都八王子市)**は、北条氏照の居城であり、小田原征伐の際に豊臣軍の猛攻を受け、わずか一日で落城した悲劇の城として知られる 38 。山麓に広大な居館(御主殿)を構え、山上に要害部を配する構造は、戦国末期の高度な築城術を示している 40 。その防御力は決して低いものではなかったが、秀吉軍の圧倒的な物量の前に陥落した。この事実は、佐竹軍を幾度も撃退し続けた烏山城の戦歴と好対照をなし、攻防の条件や時代の違いを考察する上で重要な示唆を与える。
これらの城郭との比較を通して、烏山城の独自性が明確になる。それは、箕輪城に見られるような「土の城」としての高度な防御思想(巧みな縄張り)を基盤としながら、関東では先進的と言える「石の城」の要素(多様な石垣技術)を併せ持つ、過渡期的な特徴である。烏山城は、関東の山城が経験した「土の要塞」から「石の権威」への進化、そして「戦の拠点」から「政の拠点」への機能転換という、二つの大きな歴史的変遷を、その城跡全体で体現する「標本」のような城なのである。戦国時代を通じて一度も落城せず、江戸時代には藩庁として存続し続けたことで、中世から近世への城郭の機能と構造の変遷を一つの城跡の中で追うことができる。この点において、烏山城は学術的に極めて高い価値を持つ、稀有な事例と言えるだろう。
項目 |
烏山城 |
唐沢山城 |
箕輪城 |
八王子城 |
立地 |
山城 (標高202m) |
山城 (標高247m) |
平山城 |
山城 |
縄張りの特徴 |
連郭式、五城三郭 |
連郭式 |
梯郭式 |
居館と要害部の分離 |
防御施設 |
多彩な空堀、土塁、横矢掛かり |
堀切、土塁、くい違い虎口 |
巨大な空堀、巧みな馬出 |
堀切、竪堀、土塁 |
石垣 |
有(多様な技法が混在) |
有(壮大な高石垣) |
ほぼ無し(土塁主体) |
有(御主殿周辺) |
石垣技法 |
野面積み、切込ハギ、算木積み |
打込ハギ(高石垣) |
- |
野面積み |
主要な戦歴 |
佐竹氏の侵攻を複数回撃退 |
上杉謙信の侵攻を複数回撃退 |
武田信玄の侵攻により落城 |
豊臣軍の侵攻により落城 |
備考 |
中世から近世への変遷を体現 |
豊臣期の影響が顕著 |
「土の城」の最高峰 |
戦国末期の悲劇の城 |
(注)本表は各城の代表的な特徴を比較したものであり、全ての要素を網羅するものではない 9 。
450年以上にわたり那須地方に君臨した烏山城の歴史は、明治維新という時代の大きなうねりの中で、静かに幕を閉じた。明治2年(1869年)、版籍奉還によって烏山藩知事となった最後の大久保家当主・忠順が城を去り、烏山城はその役目を終え、正式に廃城となった 1 。
物理的な終焉は、その直後に訪れた。明治5年(1872年)、山麓の三の丸御殿が積雪の重みによって倒壊。さらに翌年の明治6年(1873年)には、山上の主郭部で失火が発生し、古本丸、二の丸、中城、北城に残されていた建物群がことごとく焼失した 1 。こうして、かつての威容を誇った城郭建築は地上から姿を消し、城は静かな山へと還っていった。
廃城後、城跡はスギやヒノキの植林地となるなど、人の手も加えられたが 31 、戦火による破壊を免れたこともあり、戦国期から江戸期にかけて築かれた石垣、土塁、空堀といった遺構は、奇跡的とも言えるほど良好な状態で現代にまで残された 2 。
現在、城跡は県立自然公園として、また市民の憩いの場として親しまれている。八雲神社から城山に至る遊歩道が整備され、訪れる人々は、往時の面影を色濃く残す遺構を巡りながら、歴史の息吹を感じることができる 24 。そして2023年、その卓越した歴史的価値が改めて認められ、烏山城跡は国の史跡に指定された 2 。これは、城跡を未来へと継承していくための新たな一歩であり、今後の保護と活用が一層期待される。
烏山城は、那須氏の栄枯盛衰、戦国時代の激しい攻防、そして近世への時代の移り変わりを、その身をもって語り続ける歴史の証人である。その巧みな縄張りと堅固な遺構は、自然の地形を最大限に活かした日本の伝統的な築城技術の粋を今に伝えている。地域の歴史と文化の核として、烏山城跡はこれからも重要な役割を果たし続けていくに違いない。