阿波国牛岐城は、那賀川河口の要衝に築かれ、安宅氏、新開氏が支配。長宗我部元親の阿波侵攻で新開実綱が謀殺され、長宗我部氏の拠点となる。蜂須賀家政が「富岡城」と改称し、廃城。
阿波国(現在の徳島県)南部に位置する牛岐城は、戦国時代の激動を体現する城郭である。那賀川の河口近く、紀伊水道を望む戦略的要地に築かれたこの城は、富岡城、あるいは浮亀城(うききじょう)とも呼ばれ、その歴史を通じて阿波南部における政治、軍事、そして経済の中心として機能した 1 。本報告書は、この牛岐城を単なる一地方の城としてではなく、在地土豪の興亡、四国統一を目指す覇権の衝突、そして近世大名による新たな支配体制の確立という、日本の歴史的力学が凝縮された舞台として捉え直し、その全貌を徹底的に解明することを目的とする。
牛岐城が築かれた阿南市富岡町一帯は、那賀川がもたらす肥沃な平野と、紀伊水道に面した海上交通の利便性を兼ね備えた地であった。この地理的優位性は、城の価値を時代ごとに規定し続けた。内陸部への水運と、畿内と土佐を結ぶ海上交通路の結節点に位置することから、この地を支配することは阿波南部、ひいては四国東部の制覇に不可欠であった 1 。後述するように、南北朝時代にこの地を最初に拠点化したとされる安宅氏が強力な水軍であった事実は、牛岐城が当初から海洋戦略を強く意識した城郭であったことを示唆している 1 。
城の名称そのものが、その歴史の重層性を物語っている。最も古い「牛岐」という名は、この地がかつて「牛牧荘(うしまきのしょう)」と呼ばれた荘園であったことに由来する 1 。これは、城が軍事拠点となる以前からの、土地に根差した経済活動と深い結びつきを示すものである。一方で、蜂須賀氏の統治下で名付けられた「富岡」は、新たな支配者が旧領主の記憶を塗り替え、自らの権威をこの地に刻み込もうとした政治的意図の表れである 2 。さらに、霧の中に城跡が亀のように浮かんで見えることから名付けられたという「浮亀の城」という雅称は、政治的・軍事的機能とは別に、地域の人々がこの城に寄せてきた美的感覚や愛着を伝えている 1 。このように、三つの名はそれぞれ異なる時代の権力構造と、土地との関わり方を反映しており、城の歴史を多角的に理解する上で重要な鍵となる。
本報告書は、牛岐城の築城から廃城、そして現代に至るまでの通史を詳細に記述する。特に、戦国時代における城主・新開氏の台頭と悲劇的な末路、四国の覇権を争った長宗我部元親の阿波侵攻における牛岐城の役割、そして豊臣政権下で阿波国主となった蜂須賀家による「阿波九城」体制下での位置づけと、それに伴う城の変容を重点的に分析する。考古学的知見や現存する絵図、伝説なども含め、多角的な視点から牛岐城の歴史的実像に迫る。
年代 |
主な出来事 |
観応二年 (1351) |
安宅頼藤が牛岐の地に城を築いたと伝わる 1 。 |
永正年間 (1504-1521) |
新開氏が城主となり、城下町が形成され始めたと推測される 1 。 |
天正八年 (1580) |
城主・新開実綱(道善)が長宗我部元親の軍門に降る 5 。 |
天正十年 (1582) |
新開実綱、丈六寺にて長宗我部元親に謀殺される 1 。元親の弟・香宗我部親泰が入城する 3 。 |
天正十三年 (1585) |
豊臣秀吉の四国征伐。蜂須賀家政が阿波国に入国。家老の賀島政慶が城代となる 2 。 |
慶長年間 |
賀島政慶により「牛岐」から「富岡」へ改称され、阿波九城の一つとして整備される 2 。 |
元和元年 (1615) |
徳川幕府により「一国一城令」が発布される 7 。 |
寛永十五年 (1638) |
一国一城令に基づき、富岡城(牛岐城)は廃城となる 2 。 |
大正二年 (1913) |
道路工事により、瓢箪型をしていた城山が南北に分断される 2 。 |
現代 |
城跡南半分が「牛岐城趾公園」として整備される。発掘調査で野面積みの石垣が発見され、一部が館内で保存されている 2 。 |
牛岐城の歴史は、戦国時代の動乱よりも遥か以前、鎌倉・南北朝時代にまで遡る。城が築かれる以前のこの地は、その名の通り、牛馬の放牧地として利用されていた荘園であり、その経済的価値が後の軍事的重要性の礎となった。
史料によれば、牛岐城周辺は古く「牛牧荘(庄)」と呼ばれていた 1 。これは私的な牧場として牛や馬が多数飼育されていたことを示唆しており、地域の経済基盤を支える重要な土地であったと考えられる 2 。やがて、その価値の高さから中央の権力者の目に留まり、有力な寺社へと寄進されるようになる。建永二年(1207年、ただし 2 では1203年)には高野山領、延文六年・正平十六年(1361年、ただし 2 では1351年)には仁和寺領となった記録が残っており、中央の権門寺社と深く結びついた荘園であったことがわかる 2 。鎌倉幕府によって地頭職が設けられ、管理されていたことからも、この地が単なる辺境ではなく、中央政権の統治下にある重要な経済拠点であったことが窺える 2 。
この牛牧荘に初めて軍事施設としての城を築いたのは、南北朝時代の武将、安宅備後権守頼藤(あたぎびんごのかみよりふじ)であったと伝えられている 1 。その時期は観応二年・正平六年(1351年)とされる 1 。安宅氏は紀伊、淡路、阿波にまたがる海域で絶大な影響力を持った水軍であり、大坂湾から紀伊水道に至るまでの海上交通を掌握していた 1 。
この築城の背景には、単なる領地支配を超えた、広域的な海洋戦略が存在したと考えられる。安宅氏のような水軍にとって、牛岐の地は紀伊水道を扼し、那賀川を通じて阿波内陸部へ進出するための絶好の橋頭堡であった。彼らの活動は陸上の国人領主とは異なり、海を介した広域ネットワークの維持が生命線であった。したがって、牛岐城の起源は、在地領主が自らの館を要塞化したものではなく、外部の広域海洋勢力が戦略的必要性から築いた「前線基地」としての性格が強かったと分析できる。このことは、牛岐城がその誕生の瞬間から、局地的な争いだけでなく、より大きな政治的・軍事的文脈の中に位置づけられていたことを示している。
安宅頼藤は当初、足利幕府方に属していたが、足利尊氏の死後、延文四年・正平十四年(1359年)には南朝方に転じるなど、南北朝の動乱の中で巧みに立ち回った 1 。しかし、細川頼之らの北朝方による巻き返しにより阿波の南朝勢力は一掃され、安宅氏もまた阿波から追われることとなった 1 。安宅氏の支配は短期間で終わったが、彼らが築いたとされる城は、後の時代にこの地を支配する者たちにとって重要な軍事遺産となったのである。
南北朝の動乱が収束に向かうと、牛岐の地には新たな支配者として新開(しんがい)氏が登場する。彼らは阿波南部に深く根を張り、戦国時代を通じて牛岐城を拠点に一大勢力を築き上げた。
新開氏の出自については、複数の説が存在し、その権威の源泉を多角的に示唆している。
第一に、武蔵国新戒(現在の埼玉県深谷市)を発祥とする説である 5。この説によれば、新開氏は阿波守護であった細川氏の家臣として、主家の阿波支配に伴い関東から移住してきたとされる。これは、新開氏の権力が守護という公的な権威に由来することを示すものである。
第二に、より名門としての家格を強調する、桓武平氏の流れを汲む土肥(どい)氏の一族とする説である 10。具体的には、源平合戦で活躍した土肥次郎実平の子、荒次郎実重が新開氏の祖であるとされ、「千葉・下総系図」といった系図にその名が見えるという 10。
第三に、秦氏の後裔で、古くからの阿波の国人であるとする説も存在する 11。
これらの出自に関する複数の伝承は、単なる記録の混乱として片付けるべきではない。むしろ、戦国時代に台頭した在地土豪が、自らの支配を正当化するために、複数の権威の源泉を巧みに利用しようとした戦略の表れと解釈することができる。関東から下向した守護の家臣という側面は、中央との繋がりと公的な支配の正統性を主張するものであり、桓武平氏という武家の名門の血筋を引くという側面は、在地社会におけるカリスマ性と武威を高めるものであった。このように、出自の曖昧さそのものが、新開氏が流動的な戦国社会を生き抜く中で築き上げた、したたかな自己演出の一環であった可能性が高い。
新開氏は当初、阿波守護・細川氏の家臣として牛岐城を拠点としていた 3 。しかし、戦国時代に入り、細川家の家臣であった三好氏が下剋上によって実権を握ると、新開氏もまた時代の潮流に応じて主家を三好氏へと移していく 5 。特に、城主であった新開遠江守実綱(さねつな、入道して道善)は、阿波の実力者であった三好実休(じっきゅう)の娘を妻に迎えることで、三好氏との間に強固な姻戚関係を築いた 11 。この婚姻政策により、新開氏は三好政権下で阿波南部における地位を盤石なものとし、その勢力を大いに伸張させた。永正年間(1504-1521)頃には、牛岐城を中心に小規模ながら城下町が形成され始め、港湾を押さえることで水運・海運の利を生かした経済的発展も見られたと推測される 1 。
戦国期の牛岐城は、その特徴的な地形を最大限に活用した堅固な城であった。城が築かれた小山は、南北に細長く、中央がくびれた「瓢箪型(ひょうたんがた)」をしており、この地形が城の基本的な縄張りを決定づけていた 1 。南側の郭に本丸が置かれていたと考えられている 6 。
さらに、周囲の自然環境が城の防御力を高めていた。城の南は広大な湿地帯であり、大軍の接近を困難にしていた 2 。北は「多門が淵」と呼ばれる深い川が流れ、天然の堀として機能していた 2 。このように、牛岐城は人工的な普請だけでなく、湿地と河川という自然の要害に囲まれた、攻め難い城郭であった。周囲には堀も巡らされていたと見られるが、後世の宅地開発によりその遺構のほとんどは失われている 2 。この堅城こそが、新開氏が阿波南部の雄として長らく君臨できた力の源泉であった。
天正年間に入ると、土佐(現在の高知県)から急速に勢力を拡大した長宗我部元親が四国統一の野望を掲げ、阿波国へ侵攻を開始する。この新たな強敵の出現は、牛岐城主・新開実綱の運命を大きく揺るがし、阿波戦国史における最も悲劇的な事件の一つを引き起こすことになる。
天正五年(1577年)、長宗我部元親は阿波南部の海部城を攻略し、弟の香宗我部親泰(こうそかべちかやす)を軍代として配置、阿波侵攻の拠点とした 1 。土佐勢の破竹の勢いは、やがて牛岐城にも及んだ。新開氏は当初、三好方として長宗我部勢に抵抗したものの、その圧倒的な軍事力の前に抗しきれず、天正八年(1580年)には元親の軍門に降ることとなった 1 。
降伏後、実綱は長宗我部氏の配下として、その四国統一戦に加わった。讃岐など各地を転戦し、元親の信頼を得ようと努めたと考えられる 5 。天正十年(1582年)八月には、元親自らが二万三千と号する大軍を率いて牛岐城に入城し、ここを拠点に讃岐の十河氏攻撃へと出陣した記録も残っている 5 。この時点では、牛岐城と新開氏は長宗我部氏の阿波支配において重要な役割を担っているように見えた。
しかし、元親の真意は別のところにあった。阿波をほぼ平定した元親は、旧来の在地有力国人をそのまま存続させることが、将来的な支配の不安定要因になると判断した。これは、降伏した在地領主を家臣団に組み込むという従来の封建的な主従関係から、征服地の有力者を排除し、一族による直接支配体制を確立するという、より中央集権的な国家建設への移行を意味していた。この冷徹な国家戦略の犠牲者として、新開実綱に白羽の矢が立てられたのである。元親が同時期に一宮城主の一宮成祐(しげひろ)をも謀殺している事実は、これが単独の事件ではなく、計画的な有力国人排斥政策の一環であったことを物語っている 1 。
天正十年(一説には天正九年)十月十六日、元親は「和談」を名目に、実綱を徳島市内の名刹・丈六寺(じょうろくじ)に誘い出した 1 。知勇兼備の将として知られた実綱を力攻めでは落とせないと考えた末の、周到な謀略であった 12 。酒宴が催され、和やかな雰囲気の中で夜が更けていった。そして、実綱主従が宴を辞して帰ろうと縁側に出た瞬間、予め待ち伏せていた元親の兵たちが一斉に襲いかかった 14 。不意を突かれた実綱と家臣たちは奮戦したものの、多勢に無勢であり、その場で全員が斬り殺された 12 。この謀殺により、阿波南部に君臨した新開氏は滅亡した 7 。
この丈六寺の惨劇は、後世に生々しい伝説を残した。「血天井」の伝説である。言い伝えによれば、殺害された実綱と家臣たちの血が縁側の床板に飛び散り、おびただしい血痕を残した。寺の者たちがいくら拭ってもその血痕は消えることがなく、人々を恐れさせた 11 。そこで、供養のためにその床板を剥がし、決して人に踏まれることのないよう、天井板として用いたという 15 。
この「丈六寺の血天井」は、現在も丈六寺の塔頭である徳雲院の回廊に現存しており、当時の血しぶきや血染めの手形とされる跡を今に伝えている 14 。この伝説は、長宗我部元親の謀略の非情さと、無念の死を遂げた新開実綱の悲運を象徴する物語として、阿波の地に深く刻み込まれることとなった。
新開氏を滅ぼした元親は、直ちに牛岐城の接収にかかった。彼は阿波南部の新たな支配者として、海部城にいた弟の香宗我部親泰を牛岐城へと移した 1 。これにより、牛岐城は在地国人の拠点から、長宗我部氏による阿波直接支配の最重要拠点へとその性格を完全に変えた。阿波南部の政治・軍事の中心地としての牛岐城の価値は、支配者が変わっても揺らぐことはなかったのである。
長宗我部氏による支配もまた、長くは続かなかった。天下統一を目前にした羽柴(豊臣)秀吉が四国に目を向けたことで、阿波の情勢は再び大きく転換する。牛岐城は新たな支配者、蜂須賀家政を迎え、近世城郭への道を歩み始める。
天正十三年(1585年)、豊臣秀吉は弟の羽柴秀長を総大将とする大軍を四国へ派遣した。いわゆる「四国征伐」である。圧倒的な物量の前に長宗我部元親は降伏し、土佐一国に減封された 1 。この戦役の結果、阿波国は秀吉の重臣である蜂須賀家政に与えられた 1 。阿波国内の長宗我部勢力は一掃され、牛岐城を守っていた香宗我部親泰も、木津城の落城など戦況の不利を悟り、城を放棄して土佐へと撤退した 3 。こうして牛岐城は、蜂須賀家の支配下に入ることとなった。
阿波に入国した蜂須賀家政は、広大な新領国を安定的に統治するための現実的な課題に直面した。阿波には旧三好家臣団や長宗我部氏に与した在地勢力が数多く残っており、彼らの反乱を抑え、新たな支配体制を隅々まで浸透させる必要があった。そこで家政が採用したのが、領内の九つの主要な城郭に重臣を配置し、地域ごとに軍事・行政を統括させる「阿波九城」体制であった 3 。
この体制は、単なる防衛網の構築に留まらない、巧みな transitional governance(過渡的統治)モデルであった。蜂須賀氏という外部から来た支配者にとって、いきなり徳島城一城から領国全土を掌握することは困難かつ危険であった。そこで、既存の城郭を活用し、信頼できる家臣を「城代」として各地に派遣することで、権力の分散と集中を両立させたのである。城代たちは地域の軍事指揮官であると同時に、郡奉行として行政も担い、蜂須賀氏の支配を末端まで浸透させる役割を果たした 19 。
牛岐城も、その戦略的重要性を高く評価され、この阿波九城の一つに選ばれた 3 。安宅氏、新開氏、長宗我部氏と、歴代の支配者がこの城を重視したように、蜂須賀氏もまた、阿波南部を統括するための拠点として牛岐城が不可欠であると認識していたのである 1 。
牛岐城の城代として任命されたのは、蜂須賀家の重臣、細山帯刀(ほそやま たてわき)であった 1 。彼は後に賀島主水正政慶(かしま もんどのしょう まさよし)と改名し、蜂須賀家中で二番家老を務めるほどの有力者となる 1 。政慶には一万石の知行が与えられ、兵五百と共に牛岐城に入城した 1 。
政慶は入城後、一つの重要な施策を実行する。それは、この地の名称を「牛岐」から「富岡」へと改めたことであった 1 。この改称は、単なる地名の変更ではない。旧領主である新開氏の記憶と、長宗我部氏による支配の痕跡を民衆の意識から払拭し、蜂須賀家による新たな時代の到来を明確に宣言する、象徴的な意味合いを持つ行為であった。地名ごと歴史を上書きすることで、新たな支配の正統性を確立しようとしたのである。政慶は城の改修や城下町の整備にも尽力し、富岡は阿波南部の中心地として新たな発展の時代を迎えた 1 。
戦国の世が終わり、徳川幕府による泰平の時代が訪れると、全国の城郭は大きな転機を迎える。軍事拠点としての役割を終え、新たな秩序の下でその存在意義を問われることになったのである。富岡城と改称された牛岐城も、その例外ではなかった。
元和元年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした徳川幕府は、全国の大名に対し「一国一城令」を発布した 7 。これは、大名の軍事力を削ぎ、幕府への反乱の芽を摘むことを目的としたもので、原則として国主の居城以外、すべての支城の破却を命じるものであった。
この法令により、阿波九城も廃城の対象となった。しかし、興味深いことに、阿波九城が実際に廃城とされたのは、法令発布から23年後の寛永十五年(1638年)であった 2 。この23年間という長い遅延は、蜂須賀家の慎重な領国経営戦略を浮き彫りにしている。一国一城令は幕府の絶対命令であり、表向きは遵守する必要があったが、領内の支城ネットワークを即座に完全撤廃することは、一揆や旧勢力の抵抗といった不測の事態への対応力を著しく低下させる危険を伴った。蜂須賀家は、徳島藩の支配体制が完全に安定するまで、有事の際の再利用を視野に入れ、城郭の機能を維持し続けたと考えられる 19 。そして、島原の乱(1637-1638年)が鎮圧され、徳川の治世が盤石となったことを見届けた上で、最終的な廃城に踏み切ったのであろう。この遅延は、戦国の気風が完全に払拭され、近世の安定した支配体制へと移行するまでの、計算された移行期間であったと分析できる。寛永十五年、富岡城はその歴史的役割を終え、蔵屋敷などを残して取り壊された 2 。
廃城後、かつての城山は次第にその姿を変えていった。特に大きな変化が訪れたのは近代に入ってからである。大正二年(1913年)、道路建設工事のため城山の中央部が削られ、南北に長い瓢箪型をしていた丘は二つに分断されてしまった 2 。これにより、往時の城の縄張りを完全に復元することは困難となった。
現在、かろうじて残った城山の南半分は「牛岐城趾公園」として整備され、阿南市民の憩いの場となっている 2 。春にはソメイヨシノが咲き誇る桜の名所として親しまれている 23 。また、LED(青色発光ダイオード)発祥の地である阿南市を象徴するように、夜間にはイルミネーションが点灯し、「恋人の聖地」にも認定されるなど、かつての軍事拠点とは全く異なる形で地域のシンボルとなっている 5 。
現代の公園整備に伴い、牛岐城の歴史を解明する上で重要な発見があった。公園内に牛岐城趾館(旧称:牛岐城趾公園産業展示館)を建設するに先立ち行われた発掘調査で、主郭部分から石垣の遺構が発見されたのである 2 。
この石垣は、自然石をほとんど加工せずに積み上げる「野面積み(のづらづみ)」と呼ばれる技法で築かれており、蜂須賀家の居城であった徳島城の石垣と同様のものであった 2 。この発見は、牛岐城が蜂須賀氏の阿波九城体制下で、単に利用されただけでなく、当時の最新技術を用いて本格的な改修が施された近世城郭であったことを示す動かぬ証拠である。この石垣は、中世の土塁中心の城から、石垣を備えた近世城郭へと変貌を遂げたことを物理的に証明しており、阿波九城としての重要性を裏付けている。発見された石垣の一部は、現在、牛岐城趾館の内部で大切に保存・展示されており、訪問者は往時の姿を偲ぶことができる 3 。
また、城の姿を伝える貴重な史料として、明和五年(1768年)に描かれた「牛岐・富岡城絵図」が現存している 2 。これは廃城後に描かれたものであるが、城の縄張りや周辺の地理を推測する上で極めて価値が高く、2010年に阿南市指定文化財となっている 2 。
阿波国・牛岐城の歴史は、一つの城郭が経験した変遷の物語であると同時に、戦国時代から江戸初期にかけての日本の権力構造のダイナミックな変化を凝縮した縮図である。その歴史を通じて、性質の異なる複数の権力者がこの城をめぐって交錯し、自らの戦略に基づいてその価値を再定義し続けた。
南北朝時代、広域海洋勢力である安宅氏が築いたとされるこの城は、当初から海を意識した戦略拠点であった。戦国時代に入り、在地土豪の新開氏が支配者となると、城は阿波南部の地域支配の核となり、城下町を伴う経済の中心地へと発展した。しかし、四国統一を目指す長宗我部元親の前に、その地域的安定は脆くも崩れ去る。新開実綱の謀殺という悲劇は、知謀や武勇だけでは生き残れない戦国時代の非情さと、旧来の封建的な主従関係から、より中央集権的な支配体制へと移行する時代の大きな転換点を象徴している。
続く蜂須賀氏の時代、牛岐城は「阿波九城」の一つとして新たな支配体制に組み込まれ、「富岡城」と名を変えて近世城郭へと改修された。これは、城が個別の領主の私有物から、藩というより大きな統治機構の一部へと変質したことを示している。そして、泰平の世の到来と共に「一国一城令」によってその軍事的役割を終え、廃城となった。
今日、城郭から公園へと姿を変えた牛岐城跡は、訪れる人々に安らぎを与えている。しかし、その地下に眠る石垣の遺構、丈六寺に残る血天井の伝説、そして「牛岐」と「富岡」という二つの地名に刻まれた記憶は、阿波国の、ひいては日本の戦国時代が内包していた権力闘争の激しさと、そこに生きた人々の歴史を、今なお雄弁に物語っているのである。
時代 |
城主(城代) |
主家/所属勢力 |
城の役割と主な出来事 |
地位・石高 |
南北朝時代 |
安宅頼藤 (伝) |
足利幕府→南朝 |
水軍の海上戦略拠点として築城。 |
阿波・淡路等を拠点とする有力水軍。 |
戦国時代 (三好氏期) |
新開実綱 (道善) |
細川氏→三好氏 |
阿波南部の支配拠点。城下町が形成される。長宗我部氏に降伏後、謀殺される。 |
阿波の有力国人。三好実休と姻戚。 |
戦国時代 (長宗我部氏期) |
香宗我部親泰 |
長宗我部氏 |
長宗我部氏の阿波支配の重要拠点。 |
長宗我部元親の弟。阿波南方軍代。 |
安土桃山~江戸初期 |
賀島政慶 |
蜂須賀氏 (豊臣政権→徳川幕府) |
阿波九城の一つ。「富岡」と改称され、阿波南部の総押さえとなる。寛永十五年に廃城。 |
蜂須賀家家老。一万石。 |