最終更新日 2025-08-19

犬山城

犬山城は尾張・美濃国境の要衝に築かれ、織田信康が美濃攻略の拠点とした。信長との攻防、小牧・長久手の戦いでは秀吉軍の前線基地となり、関ヶ原では西軍に与した石川貞清が籠城。戦国の激動を映す城である。

戦国史における犬山城の戦略的価値と歴史的変遷に関する総合的研究

序論:尾張・美濃国境の要衝

本報告書は、国宝犬山城を、戦国時代の権力闘争と軍事戦略の変遷を映し出す「鏡」として位置づけ、その軍事的・政治的価値がいかにして形成され、時代のうねりの中で変容していったかを多角的に解明することを目的とする。単に城の沿革を追うのではなく、この城をめぐる武将たちの戦略的思考と、それが天下の動向にいかに深く関与したかを論じるものである。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の天下人が、その覇業の過程でいずれもこの城を重要拠点として手中に収めたという事実は、犬山城が単なる一地方の城郭に留まらない、特異な戦略的重要性を持っていたことを何よりも雄弁に物語っている 1

犬山城の価値を理解する上でまず押さえるべきは、その卓越した地政学的位置である。城は、広大な濃尾平野が木曽川によって形成された扇状地の、まさに扇の要に築かれている 1 。これは、眼下に広がる平野部を一望できる軍事的な監視拠点であると同時に、木曽川がもたらす水運と、中山道や木曽街道といった主要陸路が交差する交通の結節点を押さえることを意味した 4 。これにより、犬山城は経済、交易、そして政治の中心地としての機能を併せ持つことになったのである 4

さらに決定的だったのは、犬山城が戦国期を通じて常に緊張関係にあった二つの大国、すなわち織田氏が支配する尾張国と斎藤氏が支配する美濃国の国境線上に位置していたことである。この立地は、犬山城を平時においては交易の拠点として、しかし有事においては両国の勢力が激突する最前線基地へと変貌させる宿命を負わせていた。

犬山城の歴史を俯瞰すると、その戦略的価値は固定的なものではなく、戦局の中心が移動するにつれてその役割が動的に変化した点に本質があることが見えてくる。築城当初は、尾張から美濃を窺うための「攻勢の橋頭堡」であった。信長亡き後の時代には、秀吉と家康が天下の覇権を賭けて対峙する「最前線司令部」へとその重要性を増した。そして関ヶ原の戦いにおいては、東へ向かう徳川軍の背後を脅かす「戦略的抑えの拠点」として機能した。このように、犬山城の歴史は、織田家内部の権力闘争から天下人同士の直接対決へと、戦いの規模が拡大していく戦国時代後期の軍事史の縮図そのものであると言える。本報告書では、この価値の変遷を各時代の攻防戦を通じて詳細に分析していく。

第一章:築城と織田弾正忠家の尾張経営

築城者・織田信康の実像

犬山城の歴史は、天文6年(1537年)、織田信長の叔父にあたる織田信康によって築かれたことに始まる 1 。信康は、信長の父・織田信秀の弟であり、当時尾張で急速に台頭しつつあった織田弾正忠家の有力な一員であった 8 。彼は単なる地方領主ではなく、兄・信秀の覇業を軍事的・政治的に支える重要な片腕であり、その活動は当時の公家の日記である『言継卿記』にも記されている 8

伝承によれば、信康はそれまで居城としていた木之下城を廃し、木曽川沿いの小高い丘陵、通称「三光寺山」に城郭を移築したとされる 4 。この移転は、単なる居城の移動ではなく、高度な戦略的判断に基づくものであった。旧来の木之下城に比べ、新たな立地は木曽川の断崖を背後にした天然の要害であり、防御において格段に優れていた。同時に、木曽川の水運を直接掌握することで、経済的・兵站的利点を最大限に享受することが可能となった。ただし、この時期に築かれたのは城の基本的な郭(くるわ)であり、現在我々が目にする壮麗な天守は、信康の時代にはまだ存在しなかったと考えられている 8

築城の戦略的意図:美濃への圧力

信康による犬山城築城の背景には、当時の尾張国が置かれていた複雑な政治状況がある。この頃の尾張は、守護代として力を持っていた清洲の織田大和守家と岩倉の織田伊勢守家が対立し、統一された支配体制にはなかった 9 。信秀・信康兄弟が属する織田弾正忠家は、本来これらの家の家臣筋にあたる新興勢力であった。

このような状況下で、犬山城の築城は二重の戦略的意図を持っていた。第一に、尾張国内のライバル勢力を牽制し、弾正忠家の軍事力と経済力を誇示すること。第二に、そしてより重要な目的は、国外の最大の敵であった美濃国の「蝮」斎藤道三に対する圧力を強化するための、恒久的な前線基地を確保することであった 8 。犬山城は、美濃攻略という弾正忠家の長期戦略を実現するための、まさに攻めの拠点として構想されたのである。

この城が当初から美濃攻略の最前線として機能していたことは、築城主である信康自身の最期が雄弁に物語っている。信康は天文13年(1544年)もしくは天文16年(1547年)、兄・信秀に従って美濃稲葉山城を攻めた加納口の戦いにおいて、斎藤道三軍との激戦の末に討死した 4 。城主自らが敵国との戦いで命を落としたという事実は、犬山城がまさに尾張・美濃国境の火薬庫であったことの証左に他ならない。このように、犬山城の誕生は、単なる防御拠点の構築ではなく、織田弾正忠家が尾張国内の主導権を確立し、さらに美濃へと勢力を拡大しようとする野心的な「攻めの経営戦略」を象徴する事業だったのである。

第二章:信長の天下布武と犬山城の攻防

二代目城主・織田信清と信長の確執

父・信康の戦死により、犬山城主の座は嫡男の織田信清が継いだ 4 。信清は織田信長の従兄弟にあたり、当初は信長の尾張統一事業に協力する姿勢を見せていた。しかし、信長が尾張国内の敵対勢力を次々と打ち破り、その権力が強大化するにつれて、両者の関係には亀裂が生じ始める。

信清が信長に反旗を翻すに至った背景は複合的であった。最大の原因は、信長が滅ぼした岩倉織田氏の旧領地の分与を巡る対立であったとされる 11 。信清は独立した領主として、信長と対等な立場での領地配分を期待したが、信長は信清を自らの指揮下に組み込まれるべき家臣と見なしており、両者の認識には埋めがたい溝があった。さらに、軽海の戦いで信清の弟・信益が戦死したことへの恨みや、美濃の斎藤龍興(道三の孫)との連携も、対立を決定的にした要因として挙げられる 11 。信清にとって、美濃斎藤氏との同盟は、強大化する信長から自らの独立性を守るための外交戦略であった。しかし、美濃攻略を国家目標とする信長から見れば、それは許されざる裏切り行為に他ならなかった。

この対立は、単なる一族内の個人的な不和ではない。それは、信長が目指す「統一された意志に基づく中央集権的な支配体制」と、信清が固執する「各分家が独立性を持つ旧来の分権的な割拠体制」とのイデオロギーの衝突であった。信清の敗北は、織田家という組織が中世的な封建体制から脱却し、近世的な支配機構へと変貌を遂げる過程で、避けては通れない最後の産みの苦しみだったのである。

永禄年間の犬山城攻防戦(1564-1565年)

美濃攻略を本格化させるにあたり、信長はまずその足元を固める必要があった。永禄6年(1563年)、信長は居城を清洲から小牧山城へと移す 2 。この移転は、美濃稲葉山城(後の岐阜城)を真正面に見据える絶好の位置取りであると同時に、信清の犬山城を南から圧迫し、戦略的に包囲下に置くという極めて巧妙な一手であった。

追い詰められた信清は犬山城に籠城し、信長の攻撃に抵抗を試みる 10 。しかし、尾張のほぼ全域を掌握した信長の圧倒的な軍事力の前に、その抵抗も長くは続かなかった。永禄7年(1564年)から翌年にかけての攻防の末、犬山城はついに落城。信清は城を脱出し、遠く甲斐国(現在の山梨県)へと逃亡したと伝えられる 4

この犬山城の攻略成功は、信長のキャリアにおいて画期的な意味を持っていた。これにより、信長は尾張国内の全ての抵抗勢力を排除し、名実ともに尾張一国を完全に平定したのである。美濃攻略における最大の国内障害が取り除かれたことで、信長の視線はもはや国内ではなく、天下へと向けられることになった。犬山城の落城は、信長の「天下布武」事業が本格的に始動する号砲となったのである。

信長政権下での犬山城

尾張統一の最終段階で手に入れた犬山城を、信長がいかに重視していたかは、その後の城主の人選からも明らかである。落城後、城主には信長の乳兄弟であり、最も信頼する重臣の一人であった池田恒興が任じられた 4 。その後、元亀元年(1570年)に恒興が別の戦功で移封されると、天正9年(1581年)には信長の五男である織田勝長(信房)が城主となっている 9 。一族や譜代の重臣を配置したことは、犬山城が美濃に対する最前線基地として、また東方の武田氏を牽制する重要拠点として、信長政権下でも一貫して高い戦略的価値を認められていたことの証左である。

第三章:本能寺後の激動と小牧・長久手の戦い

信長死後の政治情勢と犬山城

天正10年(1582年)の本能寺の変による織田信長の突然の死は、天下の情勢を一変させた。信長の後継者を巡る争いの中で、尾張国は信長の次男・織田信雄の支配下に入った。これに伴い、犬山城には信雄の家臣である中川定成が城主として配置された 4

一方、信長の家臣団の中から急速に台頭してきたのが羽柴秀吉であった。秀吉は信長の弔い合戦を制し、清洲会議を経て事実上の後継者としての地位を固めつつあった。しかし、信長の正統な後継者としての自負を持つ信雄は、秀吉の権力拡大を快く思わず、両者の対立は次第に深刻化していく。この対立構造の中で、信雄は三河の徳川家康と同盟を結び、秀吉に対抗しようとした 15 。こうして、次代の覇権を賭けた秀吉対信雄・家康連合という構図が形成され、戦乱の機運が再び高まっていった。

戦いの発端:池田恒興による電撃的占拠

この新たな対立の火蓋が切られた場所こそ、犬山城であった。天正12年(1584年)3月13日、かつて信長によって犬山城主に任じられた経験を持つ池田恒興が、突如として秀吉方に寝返り、犬山城を電撃的に占拠したのである 4 。恒興は、城主の中川定成が秀吉方の侵攻を受けた伊勢方面へ援軍として出払い、城の守りが手薄になっているという絶好の機会を逃さなかった 16 。夜陰に乗じて軍勢を率い、美濃側から木曽川を静かに渡河すると、守備兵の抵抗を瞬く間に排して城を奪取した 4

この池田恒興による犬山城占拠は、単なる局地的な戦闘ではなく、「小牧・長久手の戦い」という大規模な戦役全体の流れを決定づける極めて重要な一手であった。秀吉の戦略は、広大な尾張の中でなぜ真っ先に犬山城を狙ったのかを考察することで、その本質が理解できる。犬山城は、秀吉の勢力圏である美濃と、敵地である尾張とを結ぶ結節点に位置する。この一点を先取することで、美濃からの大軍を安全に木曽川の対岸へ渡らせ、尾張国内に展開させるための確固たる橋頭堡を築くことが可能となる。秀吉は犬山城という「点」を確保することで、美濃から小牧に至る補給と進軍の「線」を確立し、尾張北部という「面」を事実上の勢力下に置くことに成功したのである。この見事な先制攻撃により、秀吉は戦役の戦略的優位を確立し、家康と信雄を「受け」の立場に追い込むことに成功した。

秀吉軍の前線司令部としての機能

犬山城の失陥という報に接した家康は、直ちに行動を起こし、同月15日には小牧山に駆けつけ、ここを本陣とした 15 。これに対し、秀吉も同月27日には犬山城に着陣し、両軍は木曽川を挟んで睨み合う形勢となった 17 。その後、秀吉は本陣を犬山の南に位置する楽田城へと移すが、犬山城は引き続き、美濃からの兵員・物資を受け入れる兵站基地として、また小牧山の家康軍と対峙する最前線司令部として、戦役を通じて極めて重要な役割を果たし続けた 2

この対陣は長期に及び、両軍は互いの陣地の周囲に多数の砦や土塁を築き、戦いはさながら「築城合戦」の様相を呈した 16 。犬山城を拠点とする秀吉軍は、羽黒などに前線を押し出し、家康軍との間で小競り合いを繰り返した。この膠着状態を打破するために秀吉軍が敢行した「三河中入り作戦」は、長久手での戦術的敗北に終わるが、戦役全体としては、犬山城という戦略的拠点を押さえていた秀吉の優位は揺るがなかった。

戦役の終結と犬山城の返還

約9ヶ月に及んだ小牧・長久手の戦いは、最終的に秀吉が信雄の本領である伊勢方面で軍事的圧力を強めた結果、信雄が単独で秀吉と和睦を結ぶという形で終結した 21 。この和睦の条件に基づき、戦いの発端となった犬山城は、再び織田信雄の許へと返還された 4 。しかし、この戦役を通じて秀吉は信長の事実上の後継者としての地位を不動のものとし、家康もまたその武威を天下に示し、両者が互いの実力を認め合う結果となった。犬山城は、この歴史の転換点において、まさにその中心舞台となったのである。

第四章:豊臣政権下から関ヶ原へ

豊臣政権下での城主の変遷

小牧・長久手の戦いの後、一度は犬山城を取り戻した織田信雄であったが、天正18年(1590年)の小田原征伐後の領地替えを拒否したことで秀吉の怒りを買い、改易されてしまう。これにより尾張国は豊臣家の直轄領となり、秀吉の甥であり後継者であった豊臣秀次の所領となった。

これに伴い、犬山城も豊臣政権の重要拠点として位置づけられ、城主には秀次の一門が次々と配置された。まず秀次の実父である三好吉房、次いでその弟の豊臣秀勝が城主を務めている 9 。これは、犬山城が単なる支城ではなく、豊臣一門によって直接管理されるべき戦略的要衝と見なされていたことを示している。

しかし、文禄4年(1595年)、関白であった秀次が秀吉に謀反の疑いをかけられて切腹に追い込まれるという「秀次事件」が勃発する。これにより、秀次の一族は粛清され、犬山城主も交代を余儀なくされた。新たに城主に任じられたのは、秀吉子飼いの武将であり、使番などを務めた譜代の家臣、石川貞清(光吉とも)であった 4

関ヶ原の戦いと石川貞清の動向

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、天下は再び動乱の時代へと突入する。五大老筆頭の徳川家康が影響力を強める中、慶長5年(1600年)、石田三成らが家康に対して挙兵し、天下分け目の「関ヶ原の戦い」が勃発した。

犬山城主・石川貞清は、秀吉・秀次から受けた恩義に報いるため、迷わず三成方の西軍に与した 9 。彼のこの決断は、当時の多くの豊臣恩顧の大名が直面した苦悩を象徴している。彼らにとってこの戦いは、単純な徳川対豊臣の構図ではなく、豊臣家内部の主導権を巡る争いであり、家康の行動は亡き太閤の遺志に背き、幼い主君・秀頼を蔑ろにする簒奪行為と映ったのである。

貞清の犬山城は、東国から関ヶ原へ向かう東軍諸将の進路上、特に中山道を押さえる上で極めて重要な位置にあった。その背後を脅かす犬山城の存在は、東軍にとって看過できない脅威であった。貞清は当初、稲葉貞通ら西軍の諸将と共に犬山城に籠城し、東軍の進路を妨害する構えを見せた 23

しかし、東軍の優勢が明らかになるにつれ、城内の結束は揺らぎ始める。東軍の先鋒である中村一忠(伯耆米子城主)らが犬山城に迫ると、籠城を共にしていた稲葉氏をはじめとする諸将が、密かに東軍の井伊直政らと通じて次々と寝返ってしまう 23 。孤立無援となった貞清は、もはや犬山城での玉砕は無意味と判断し、関一政らの説得を受け入れて開城を決断した 2

貞清の戦後と犬山城の新たな時代へ

ここで特筆すべきは、石川貞清のその後の行動である。彼は開城したからといって東軍に寝返ったわけではなかった。あくまで豊臣家への忠義を貫くため、城を明け渡した足で西軍本隊への合流を目指し、関ヶ原の本戦に駆けつけたのである 23 。本戦では宇喜多秀家隊の右翼に布陣し、奮戦したと伝えられる。

しかし、西軍は小早川秀秋の裏切りなどもあり、わずか一日で壊滅。敗軍の中、貞清は捕らえられた。本来であれば厳罰は免れないところであったが、犬山城に籠城していた際に、東軍に味方した木曽衆の人質を危害を加えることなく解放していたことなどが評価された 14 。加えて、東軍の有力武将・池田輝政の助命嘆願もあり、死罪を免れることができた 23

戦後、貞清は所領を没収され、犬山城は徳川の世を迎える。新たな城主には、家康の家臣である小笠原吉次が入城した 4 。その後、尾張国には家康の九男・徳川義直が封じられ、名古屋城が築かれると、犬山城はその支城として、尾張徳川家の付家老である成瀬氏が代々城主を務めることとなった 4 。これにより、数々の攻防戦の舞台となった犬山城の激動の戦国時代は、完全に終わりを告げたのである。

第五章:戦国の城郭としての犬山城 ― 縄張と天守の謎

犬山城が戦国時代を通じて常に戦略的要衝であり続けた理由は、その地理的条件のみならず、城郭そのものが持つ優れた防御機能にあった。その構造は、戦国時代の築城技術の変遷を体現する、まさに「生きた軍事要塞」の証と言える。

縄張(城郭構造)の分析

犬山城の縄張り、すなわち城全体の設計思想は、中世的な山城の知恵と、近世城郭の萌芽となる新しい技術が融合した、過渡期的な特徴を明確に示している。

  • 後堅固(うしろけんご)の城
    城の最大の特徴は、北から西にかけてを木曽川の断崖絶壁が守る「後堅固の城」であることだ 4。この天然の要害を最大限に活用することで、防御兵力を城の正面、すなわち南側の大手方面に集中させることが可能となり、効率的かつ強固な防御体制を築くことができた。これは、自然地形を巧みに利用する中世山城の伝統的な設計思想を色濃く反映している。
  • 連郭式・梯郭式縄張り
    城の主要部分は、最北端の最も高い位置に本丸を置き、そこから南へ向かって二の丸(杉の丸、桐の丸、樅の丸、松の丸)、三の丸と、主要な曲輪を直線的に配置する「連郭式」の縄張りを基本としている 25。これにより、敵は南から順に曲輪を攻略せねばならず、防御側は段階的な防衛戦を展開できた。さらに、城山の東西に広がる谷地形も防御ラインに組み込んでおり、梯郭式の要素も併せ持つ複合的な構造となっている 26。
  • 外枡形の連続体
    近世城郭の技術的特徴を最もよく示しているのが、大手道に見られる「外枡形の連続体」である 27。枡形とは、城門の内外に設けられた四角い空間で、敵兵をこの空間に誘い込み、三方または四方から集中攻撃を加えるための防御施設である。犬山城では、この枡形が複数連続して配置されており、城内へ侵入しようとする敵に対し、幾重にもわたる致死的な空間を突破させることを強いた。これは、鉄砲の集団運用を前提とした高度な防御思想であり、織田・豊臣政権下で発展した最新の築城技術が導入されていたことを示している。
  • 総構え
    さらに、犬山城の防御思想は城郭内だけに留まらなかった。城下町全体を土塁や堀、天然の崖などで囲い込む「総構え」の構造が採用されていたことが指摘されている 5。これは、城と城下町が一体となった一大軍事都市を形成し、町全体で敵の侵攻を防ぐという壮大な構想であり、犬山城が単なる領主の居館ではなく、地域全体の軍事拠点として機能していたことを物語っている。

現存天守の構造と機能

現存する犬山城天守は、国宝五城の一つであり、現存する天守の中では最古の様式を持つとされる 1 。その構造は「望楼型」と呼ばれ、大規模な入母屋造の主屋の上に、物見櫓(望楼)を載せたような形態をしている 6 。これは天守の初期の形態とされ、その外観は質実剛健な戦国の気風を今に伝えている。

天守の構造で特に注目すべきは、その実戦的な機能性である。天守の南面と西面には「付櫓(つけやぐら)」と呼ばれる小さな櫓が付属している 25 。これらの付櫓は、天守台の石垣を登り、壁に取り付こうとする敵兵に対して、側面から矢や鉄砲を撃ちかけるための射撃陣地であった。付櫓の内部には、鉄砲を発射した際の煙を外部に排出するための窓(煙出し)も設けられており、極めて実践的な設計思想が見て取れる 32 。天守最上階の廻縁(まわりえん)や、各階に設けられた破風(はふ)も、単なる装飾ではなく、周囲を監視し、指揮を執るための重要な機能を担っていた 33

天守創建年代の謎

この現存天守がいつ建てられたのかについては、長らく議論が続いている。かつては、築城主である織田信康が天文6年(1537年)に一階と二階部分を建設し、その後の城主が上層部を増築したという説が有力であった 14

しかし、近年の建築史的、考古学的な調査の進展により、この説には見直しが迫られている。2021年に発表された調査結果では、創建当初の部材ではない可能性が指摘された 18 。現在では、天守の原型が造られたのは、本能寺の変後に城主となった織田信雄の時代(1580年代)であり、その後、江戸時代初期の元和年間(1615-1624)に城主となった成瀬正成によって大規模な改修が加えられ、現在の姿になったという説が有力視されている 24

戦国時代の犬山城に、現在と全く同じ姿の天守が存在したか否かは断定できない。しかし、その卓越した縄張りや、度重なる激しい攻防戦の歴史を鑑みれば、城の中心には周囲を監視し、全軍を指揮するための拠点となる、何らかの高層建築が存在した可能性は極めて高いと言えるだろう。犬山城の構造は、一つの時代に完成した静的なものではなく、戦国という激動の時代を通じて、時の支配者たちの軍事的要請に応じて絶えず改修・強化され続けた、ダイナミックな歴史の積層そのものなのである。

第六章:目まぐるしく変わる城主たち ― 戦国時代の歴代城主とその変遷

戦国時代の犬山城の歴史を特徴づけるもう一つの側面は、城主が極めて短期間に、目まぐるしく交代したことである 3 。この頻繁な交代は、犬山城が政情不安な土地であったことを意味するのではない。むしろ正反対に、その戦略的価値があまりにも高かったために、各時代の覇者が、この重要拠点を自らの最も信頼する一門や譜代の重臣に委ねようとした結果であった。

犬山城の歴代城主の顔ぶれは、そのまま戦国時代後期の権力構造の変遷を映し出す「人事録」と言える。城主の所属勢力が、織田弾正忠家の一門から信長直臣へ、そして秀吉一門、豊臣恩顧の大名、最後には徳川譜代へと移り変わっていく様は、尾張地方、ひいては日本の支配者が誰であったかを如実に物語っている。

以下に、築城から関ヶ原の戦いに至るまでの、戦国時代における犬山城の主要な歴代城主とその背景を一覧表として示す。

代(推定)

城主名

在城期間(推定)

主要所属勢力/主君

主要な出来事・背景

初代

織田 信康

天文6年(1537)~天文13年(1544)頃

織田弾正忠家(信秀)

木之下城より移し犬山城を築城。対美濃の最前線として機能。加納口の戦いで戦死 4

二代

織田 信清

天文13年(1544)頃~永禄8年(1565)頃

独立勢力(対信長)

信長の従兄弟。当初は協力するも、領地問題等で対立。美濃斎藤氏と結び信長に抵抗するが、攻められ落城 4

三代

池田 恒興

永禄8年(1565)頃~元亀元年(1570)

織田信長

信長の乳兄弟。犬山城落城後、初代の信長直臣城主となる。対美濃攻略の拠点として城を維持 4

四代

織田 勝長

天正9年(1581)頃~天正10年(1582)

織田信長

信長の五男。信長一門による重要拠点支配を象徴。本能寺の変にて父と共に討死 9

五代

中川 定成

天正10年(1582)~天正12年(1584)

織田信雄

本能寺の変後、尾張を領した信長の次男・信雄の家臣として入城 4

六代

池田 恒興

天正12年(1584) 3月~4月

羽柴秀吉

小牧・長久手の戦いの緒戦で、秀吉方として犬山城を奇襲・占拠。秀吉軍の尾張における橋頭堡を築く 4

七代

加藤 光泰

天正12年(1584) 4月~11月

羽柴秀吉

池田恒興が長久手で戦死した後、秀吉の家臣として入城。戦役中、秀吉軍の前線基地として城を管理 4

八代

武田 清利

天正12年(1584)~天正15年(1587)頃

織田信雄

小牧・長久手の戦いの和睦により、城が信雄に返還され、その家臣が城代として入る 4

九代

三好 吉房

天正18年(1590)~天正19年(1591)

豊臣秀次

信雄改易後、尾張が豊臣秀次の所領となり、その実父が城主となる。豊臣一門による支配が始まる 9

十代

豊臣 秀勝

天正19年(1591)~文禄元年(1592)

豊臣秀次

秀次の実弟。豊臣一門による重要拠点支配を継続 9

十一代

石川 貞清

文禄4年(1595)~慶長5年(1600)

豊臣秀吉・秀頼

秀次事件後、秀吉譜代の家臣が入城。関ヶ原の戦いで西軍に与し籠城するも、開城。戦国時代最後の城主となる 4

典拠資料: 4

この一覧が示すように、犬山城は特定の家の世襲財産としてではなく、常に天下の情勢を左右する者が掌握すべき「公的な戦略資産」として扱われていた。城主の交代劇は、そのまま戦国時代の権力者の興亡の歴史と重なり合うのである。

結論:戦国時代における犬山城の歴史的意義の総括

本報告書で詳述してきたように、犬山城の戦国時代における歴史は、単なる一城郭の沿革に留まるものではない。それは、尾張と美濃の国境という地政学的な要衝であったことに加え、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の天下人の戦略が交差し、時代の趨勢を決定づける数々の歴史的事件の中心舞台となった「歴史的要衝」としての意義を持つ。

犬山城の歴史は、激動の時代を映す鏡であった。築城から関ヶ原の戦いに至るまでの約70年間の変遷は、織田弾正忠家による尾張国内の権力確立、信長による天下布武事業の始動、本能寺の変後の次代の覇権を巡る激突、そして豊臣政権の確立と崩壊、最終的な徳川の世の到来という、戦国時代後期の主要な歴史的段階をすべて凝縮して反映している。この城の支配者が誰であるかは、その時々の日本の中心権力が誰であったかを示す、極めて明快な指標であった。

さらに、犬山城は「戦う城」としての本質を最後まで失わなかった。木曽川の断崖を利した「後堅固」の縄張り、敵を段階的に消耗させる「連郭式」や「外枡形の連続体」といった防御施設、そして天守に付属する実戦的な「付櫓」の存在は、この城が単なる権威の象徴ではなく、常に戦いの最前線に置かれ、当代最新の軍事技術によって絶えず強化され続けた、生きた軍事要塞であったことを物語っている。

関ヶ原の戦いの終結と共に、犬山城はその軍事的役割に終止符を打ち、近世の尾張藩の支城として新たな時代を迎える。しかし、現存する国宝天守と、城山に残る土塁や石垣の遺構は、戦国という激動の時代を生きた武将たちの知恵と戦略、そして天下統一を巡る野望と葛藤の記憶を、今日にまで色濃く伝える貴重な歴史遺産である。犬山城を理解することは、戦国時代という時代の本質そのものを理解することに繋がるのである。

引用文献

  1. 国宝犬山城 | 観光・体験 https://inuyama.gr.jp/experience/detail/1/
  2. 三英傑が手にした犬山城 - なごや発あのまちこのまち https://www.meitetsu.co.jp/pr/co-machi/contents1/monogatabi.html
  3. 【愛知県】犬山城(白帝城)の歴史 織田信長の一族が築城。天守は現存、国の史跡に指定 https://sengoku-his.com/743
  4. 犬山城について https://inuyama-castle.jp/about/
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  18. 【国宝・犬山城】歴史や見どころ、観光情報を徹底解説! | ワゴコロ https://wa-gokoro.jp/tourism/japanese-castle/773/
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  24. 第1章 計画策定の沿革・目的 - 犬山市 https://www.city.inuyama.aichi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/001/053/1-3syou.pdf
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  26. 城郭・縄張り | 犬山城を楽しむためのウェブサイト https://www.takamaruoffice.com/shiseki-inuyamajyoato/
  27. 犬山城の縄張り! 【犬山城シンポジウム ルポ】 Vol.5 - たかまる。 - Ameba Ownd https://takamaruoffice.amebaownd.com/posts/1972449/
  28. 第 2 章 文化財の概要 - 犬山市 https://www.city.inuyama.aichi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/007/541/02.pdf
  29. 「本物」の歴史・文化に出会う - 犬山市 https://www.city.inuyama.aichi.jp/shisei/shokai/1005454/1005973.html
  30. 国宝犬山城|検索詳細|地域観光資源の多言語解説文データベース https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R1-00927.html
  31. ミステリーツアー・・国宝5城・現存12天守のひとつ犬山城と瀬戸焼の歴史にふれる瀬戸蔵ミュージアムを訪ねます。 (犬山) - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11935190
  32. 現存12天守のひとつ・犬山城、近世城郭としては規模も縄張も「並 ... https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/82303
  33. 犬山城|「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー|シリーズ記事 - 未来へのアクション https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro/08/
  34. 国宝犬山城天守の創建に関する新発見 https://inuyama.gr.jp/upload/site/castlenewss/3150dd1719b228d781e63defad6c246c.pdf