白地城は、四国四国を結ぶ「ヘソ」に位置し、大西氏の拠点から長宗我部元親の四国統一本営となる。高度な築城技術と戦略的価値を誇るも、豊臣政権下で阿波九城の一つとなり、後に廃城となる。
阿波国(現在の徳島県)西部に位置した白地城は、戦国時代の歴史において特異な重要性を持つ城郭である。単に一地方豪族の居城という枠に収まらず、阿波・讃岐・伊予・土佐の四国四国を結ぶ交通の結節点、すなわち「四国のヘソ」と称されるべき地政学的な要衝にあり、戦国時代の主要な権力闘争の舞台となった 1 。その歴史は、在地領主・大西氏の盛衰、土佐から勃興した長宗我部元親の四国統一事業、そして豊臣・徳川政権下での新たな支配体制構築という、戦国時代から近世への移行期における日本の縮図を色濃く映し出している。
本報告書は、この白地城を主軸に据え、その築城から廃城に至るまでの全貌を、城郭構造、戦略的価値、そして周辺勢力の政治的動向という多角的な視点から詳細に解き明かすことを目的とする。白地城の歴史を追うことは、地方の動向が如何に中央の政局と密接に連動し、互いに影響を及ぼし合っていたかを明らかにすることに繋がるであろう。
なお、本報告書の作成にあたり、複数の調査資料を精査した。その過程で、中国の著名な史跡である「白帝城」 3 や、千葉県野田市、新潟県上越市、静岡県浜松市などに見られる「白地」という地名が確認されたが 4 、これらは本調査の対象である阿波国三好郡の白地城とは歴史的・地理的に一切関係がないため、分析の対象から除外したことをここに明記する。
年代(西暦) |
主要な出来事 |
関連人物・勢力 |
平安末期(1150年頃) |
荘官・近藤京帝により館が築かれる(一説) |
近藤京帝、西園寺家 |
建武2年(1335年) |
近藤氏により城が築かれる(一説) |
近藤氏 |
南北朝時代 |
近藤氏が「大西」に改姓 |
大西氏 |
戦国時代後期 |
大西頼武、三好長慶の妹を娶り全盛期を迎える |
大西頼武、三好長慶 |
天正3年(1575年) |
大西覚養、長宗我部元親に人質を出し一時服属 |
大西覚養、長宗我部元親 |
天正5年(1577年) |
覚養が元親から離反。元親の攻撃により白地城落城。大西氏滅亡 |
大西覚養、大西頼武、長宗我部元親 |
天正5年~13年 |
長宗我部元親、白地城を本営とし四国統一を進める |
長宗我部元親 |
天正13年(1585年) |
豊臣秀吉の四国平定。元親は土佐へ退く。蜂須賀家政が阿波入国 |
豊臣秀吉、蜂須賀家政 |
天正13年以降 |
蜂須賀氏の「阿波九城」の一つとなり、牛田一長が城番となる |
蜂須賀家政、牛田一長 |
寛永15年(1638年) |
一国一城令により廃城 |
徳川幕府、徳島藩 |
白地城の起源については、複数の説が存在し、その正確な年代は確定していない。これは、城の歴史の深さと、在地領主であった大西氏の成立過程の複雑さを物語っている。
有力な説の一つが、平安時代末期にその起源を求める「近藤京帝説」である。現地の説明板によれば、この地はもともと西園寺家の荘園「田井之庄」であり、平安末期の久安年間(1150年頃)、荘官として派遣された近藤京帝が館を構え、城を築いたのが白地城の始まりとされる 7 。この説は、鎌倉時代以前からの在地支配の連続性を示唆しており、京から来た荘官が次第に土着し、武士化していく中世初期の典型的な領主の姿を浮かび上がらせる 8 。
もう一方の説は、南北朝時代の動乱期に築城されたとする「建武年間説」である。別の説明板や文献では、建武二年(1335年)に田井庄の庄司であった近藤氏によって築かれたとされている 7 。この時期は、全国的に戦乱が激化し、在地領主が自衛のために防御施設を強化した時代背景とよく合致する。
これら二つの説は、約200年の隔たりがあるが、必ずしも矛盾するものとは限らない。平安末期に荘官の館として政治・経済の拠点が成立し、その後の南北朝の動乱という軍事的緊張の高まりの中で、館が本格的な防御機能を持つ「城郭」として大規模に整備・拡張されたという発展的な解釈が可能である。いずれにせよ、白地城の黎明期は、中央から派遣された管理者であった近藤氏が、その土地に根を張り、自立した武士領主へと変貌を遂げていく過程と密接に結びついている。
白地城を拠点とした大西氏は、前述の近藤氏がその祖である。近藤氏は、南北朝時代に至り、阿波国三好郡西部を指す広域の地名であった「大西郷」にちなんで、その姓を「大西」と改めた 7 。これは、単なる改姓に留まらず、荘園の一管理者の立場から、その地域全体を代表する領主へと、その性格を明確に変質させたことを示す重要な画期であった。
大西氏の出自に関しては、この荘官・近藤氏を祖とする説が最も有力であるが、その他に名門である小笠原氏や、古代氏族である忌部氏を祖とする説も伝わっている 10 。これらの情報の揺れは、単なる記録の不備とは考えにくい。むしろ、戦国時代に至る過程で、大西氏が自らの家格を高め、支配の正当性を補強するために、より古い起源や権威ある家系との繋がりを由緒として取り込んでいった結果である可能性が考えられる。これは、自己の権威付けが生存に直結した中世武士団の成立過程において、しばしば見られる現象である。
特に、承久の乱(1221年)の後に阿波国守護職として入部した小笠原氏との関係は重要である。当時、田井之庄を支配していた近藤氏は、荘園領主である西園寺家が幕府方であったため、その地位を安堵されたとみられる。そして、吉野川対岸に守護所を置いた新守護・小笠原氏の傘下に入ることで、在地支配を維持し、協力関係を築いたと推測される 7 。
こうして基盤を固めた大西氏は、南北朝の動乱期には南朝方として活動したが、南朝勢力が衰退すると、時勢を読んで足利方の細川氏に従うなど、巧みな政治判断で生き残りを図った 11 。この過程を通じて、彼らは阿波西部における支配権を確固たるものにしていったのである。
戦国時代後期、白地城主・大西頼武の代に、大西氏はその全盛期を迎える。この飛躍の最大の要因は、当時、畿内において将軍を凌ぐ権勢を誇った三好長慶との間に結ばれた強力な同盟関係であった。頼武は、三好長慶の妹を妻として娶ったのである 10 。
これは単なる婚姻ではなく、阿波守護代の家柄から天下の実権を握った三好氏と、阿波西部の在地領主である大西氏との間に結ばれた、極めて戦略的な軍事・政治同盟であった。当時、三好長慶にとって、本拠地である阿波をはじめとする四国の諸勢力を安定させ、背後を固めることは、畿内での覇権を維持する上で不可欠の課題であった。その長慶が妹の嫁ぎ先として大西頼武を選んだという事実は、彼が白地城の持つ「四国のヘソ」という地政学的な重要性を極めて高く評価していたことの証左である。
この同盟により、大西氏は三好氏という中央の絶大な権威を背景に、その影響力を飛躍的に拡大させた。その勢力は、本拠の阿波西部のみならず、国境を接する讃岐南部、伊予東部、そして土佐北部にまで及ぶ広大なものであり、この地域における最大勢力へと成長した 13 。この婚姻は、白地城が単なる阿波の一城から、畿内と四国を結ぶ三好政権の広域支配ネットワークの一翼を担う戦略拠点へと、その役割を大きく変えた画期的な出来事だったのである。
白地城は、その戦略的価値を裏付ける極めて優れた立地に築かれていた。四国三郎と称される吉野川とその支流である馬路川の合流点に面した、比高約40メートルの河岸段丘の先端部を巧みに利用した平山城である 1 。
城の東側は吉野川に面した天然の断崖絶壁となっており、加工を施すまでもなく堅固な防御線(切岸)を形成していた 14 。また、城の西側にも谷が深く入り込んでおり、天然の堀として機能していた。このように、白地城は自然地形を最大限に活用した、防御に非常に適した要害の地に築かれていたのである 14 。
城郭全体の規模や構成については、近代の開発によって多くが失われたため、文政年間の絵図や明治期の『郡村誌』、そして昭和30年代の古写真などから推定するほかない。これらの資料を総合すると、城域は東西約90メートル、南北約280メートルに及ぶ、南北に細長い「柿の種」のような形状をしていたとされる 16 。城の中心部であった本丸跡とされる場所には、かつて二重の堀や櫓が存在し、堅固な構えであったことが記録から窺える 10 。城の西側の山中には、出丸として機能したと考えられる神社が三つほど配置され、さらに南約700メートルには詰城としての役割を担った太鼓山城が良好な状態で現存しており、これらが一体となって白地城の防衛網を形成していた 17 。
現在、城跡の主要部分は宿泊施設「あわの抄」の敷地となっており、建設の際に大規模な地形改変が行われたため、往時の姿を留める遺構は極めて少ない 15 。しかし、注意深く観察すれば、今なお城の痕跡を見出すことができる。敷地内に建立された大西神社の背後には、土塁の一部とされる土盛りが残り、城の周囲の急斜面には、明らかに人の手によって削り出された切岸の跡が明瞭に確認できる 10 。
中でも特に注目すべき遺構が、城の北方、風呂の谷と八幡神社の間に残る大規模な竪堀(たてぼり)の痕跡である。竪堀とは、山の斜面を垂直に掘り下げた空堀のことで、斜面を登ってくる敵兵の横移動を妨害し、動きを制限するための防御施設である。この白地城の竪堀遺構は、最大幅16メートル、斜面に沿った長さが48メートルにも及ぶ巨大なものであったと報告されている 17 。
この竪堀の規模と、用いられている築城技術の先進性から、これが大西氏の時代に造られたものとは考えにくい。むしろ、天正五年(1577年)に白地城を攻略し、自らの四国統一事業の本営とした長宗我部元親が、城の防御力を飛躍的に向上させるために施した大規模改修の跡である可能性が極めて高い 17 。元親は、土佐の険しい山城で培った高度な築城技術を、この新たな司令部の防衛のために惜しみなく投入したのである。この竪堀は、城の支配者が大西氏から長宗我部氏へと交代し、それに伴い城に求められる戦略思想が変化したことを物語る、貴重な物証と言える。
白地城が歴史上、繰り返し争奪の的となった最大の理由は、その比類なき戦略的価値にあった。城は、吉野川の水運を利用して東へ下れば阿波の中心である徳島平野へ、南へ遡れば土佐国へ、また支流の馬路川を西へ進み境目峠を越えれば伊予国へ、そして北にそびえる猪ノ鼻峠を越えれば讃岐国へと至る、まさに四国四国を結ぶ交通網の結節点に位置していた 1 。この立地は、白地城を「四国のヘソ」と呼ぶにふさわしいものにしていた。
この地理的優位性は、軍事・経済の両面に絶大な利益をもたらした。吉野川の水運は、城に直接川船を着けることを可能にしたとされ、物資の集積・輸送拠点としての経済的重要性を高めていた。軍事的には、この場所を拠点とすることで、四国のどの方面へも迅速に軍隊を展開することが可能となり、四国全土を制圧するための最高の司令部となり得たのである 2 。
さらに、白地城の戦略的価値を考える上で、南に広がる広大な山岳地帯・祖谷山との関係性を見過ごすことはできない。驚くべきことに、この広大な祖谷山地域には中世の城館がほとんど存在しない 17 。一方で、その祖谷山への出入り口となる谷筋や峠道は、白地城をはじめ、川崎城や天神山城といった堅固な山城によって厳重に押さえられている 17 。この城郭の配置は、祖谷山全域が一種の巨大な天然の要塞、あるいは阿波と土佐の勢力圏を隔てる戦略的な緩衝地帯として認識されていたことを示唆している。そして白地城は、平地の交通網を支配するだけでなく、この巨大な山岳緩衝地帯へのアクセスをも監視・制御する役割を担っていた。これにより、白地城の支配者は、敵の意表を突く侵攻路を確保する一方で、敵の侵入を未然に防ぐことができ、その戦略的価値は単なる交通の要衝に留まらない、多層的で極めて重要なものとなっていたのである。
白地城の大西氏が三好氏との同盟によって全盛期を謳歌していた頃、四国の政治情勢は大きな転換点を迎えようとしていた。畿内で絶大な権勢を誇った三好長慶が永禄七年(1564年)に死去すると、三好家は後継者問題や家臣団の内紛、そして畿内における織田信長の台頭によって、急速にその勢力を衰退させていった。阿波国における三好氏の支配力も大きく揺らぎ、その政治的中心であった勝瑞城も、かつての輝きを失いつつあった 19 。
時を同じくして、南の土佐国では、長宗我部元親が国内の統一を成し遂げ、その矛先を国外へと向けていた。元親は四国全土の統一という壮大な野望を抱き、天正年間に入ると阿波国への侵攻を本格化させたのである 10 。三好氏の衰退と長宗我部氏の伸長という二つの大きな力の潮流が、阿波西部を、そして白地城を、否応なく動乱の渦へと巻き込んでいった。
天正年間の四国情勢は、単なる地方の戦乱ではなく、織田信長を中心とする中央の政治力学と密接に連動していた。当時、天下統一を進める信長にとって、石山本願寺と手を結び、畿内で抵抗を続ける三好三人衆をはじめとする阿波三好勢力は、打倒すべき敵対勢力の一つであった 21 。
この状況を巧みに利用したのが長宗我部元親であった。天正三年(1575年)、元親は信長に使者を送り、その重臣・明智光秀を通じて誼を通じた。信長は、敵である三好氏を背後から牽制させるため、元親に対して四国を「手柄次第に切り取る」ことを許可したのである 23 。これは、元親の阿波侵攻に対する事実上の「お墨付き」であり、中央の覇者の意向が、四国の一地方の力関係を劇的に変える決定的な要因となった瞬間であった。
しかし、この関係は長くは続かなかった。同年、三好一族の重鎮であった三好康長が、一族を裏切って信長に降伏したことで、状況は一変する 23 。信長は、元親を介さずとも四国に直接影響力を行使できる足がかりを得た。これにより、当初は良好であった信長と元親の関係には次第に亀裂が生じ始め、やがて元親は信長の四国政策における協力者から警戒対象、そして敵対者へとその立場を変えていくことになる 24 。
このような複雑で流動的な情勢の中、白地城主・大西覚養(頼武の子)は、極めて困難な舵取りを迫られた。信長の後ろ盾を得て阿波へ侵攻してきた長宗我部元親の軍事力は、大西氏単独で対抗できる規模ではなかった。頼みとしていた三好宗家も衰退し、有効な援軍を期待できる状況にはない。
この圧倒的な軍事的圧力の前に、覚養はひとまず抵抗を断念し、元親に服従する道を選んだ。彼は弟の頼包(一説には養子の上野介)を人質として差し出し、元親と講和を結んだのである 10 。これは、大西家が独立した領主としての地位をかろうじて維持するための、苦渋に満ちたぎりぎりの選択であった。しかし、この一時的な服従は、やがて大西氏の運命を決定づける、より大きな悲劇の序章に過ぎなかった。
一度は長宗我部元親に服従した大西覚養であったが、その心は常に揺れ動いていた。天正五年(1577年)、覚養はついに元親からの離反を決意し、再び旧主である三好方へと与した 10 。
この行動は、単なる裏切りとは言い切れない、高度な政治的判断に基づく戦略的な賭けであった。当時、中央では織田信長と元親の関係が悪化し、一方で三好一族の三好康長が信長に帰順するという政局の激変が起きていた 23 。覚養から見れば、目前の脅威である元親に従い続けることは、いずれ中央の覇者である信長と敵対することを意味する。それに対し、信長に降った三好方に与することは、間接的に信長に繋がることで、大西家の安泰を図る道筋となり得た。彼は、地方の力関係だけでなく、中央の政局を天秤にかけ、自らの家の存亡を賭けたのである。
しかし、この賭けは最悪の結果を招いた。覚養の離反は、四国統一計画の根幹を揺るがす重大な背信行為として元親の逆鱗に触れた。元親は即座に白地城への再侵攻を決定し、攻略軍を派遣した。そしてその先導役として、皮肉にも人質として預かっていた覚養の弟・頼包を立てたのである 10 。
元親の攻略軍は、まず白地城の重要な支城である田尾城へと向かった。ここで、人質であった大西頼包の存在が決定的な役割を果たした。元親から厚遇されていた頼包は、兄を裏切り、城の内部事情や防御の弱点を熟知する道案内役を務めた。その手引きにより、堅固なはずの田尾城は、いとも簡単に陥落してしまった 10 。
この白地城の落城劇は、戦国時代における人質という制度が持つ非情な側面を象徴している。人質は単なる忠誠の証ではなく、敵の内部情報を引き出し、内部分裂を誘発するための「戦略的資産」として冷徹に利用された。頼包一人によって、大西氏の防衛網は内側から崩壊したのである。
重要な支城を失い、頼みの三好氏からの援軍も間に合わない中、白地城は完全に孤立無援の状態に陥った。城兵の士気は崩壊し、もはや組織的な抵抗は不可能な状況となった 12 。
万策尽きた城主・大西頼武(覚養の父)は、落城を悟り、城から落ち延びる途中で自害して果てたという 10 。一方、覚養は辛くも城を脱出し、国境を越えて讃岐国の麻城主・近藤国久のもとへ落ち延びた 10 。
しかし、覚養の苦難はこれで終わりではなかった。その後、彼は阿波の重清城の守備を任されるが、三好方の十河存保に攻められ、天正七年(1579年)7月、ついに願成寺において自害し、その波乱の生涯を閉じた 27 。こうして、平安の昔から阿波西部に君臨した名族・大西氏は、歴史の舞台からその姿を消したのである。
人物名 |
立場・役職 |
白地城との関わり |
近藤京帝 |
荘官 |
平安末期の築城者とされる(一説) |
大西頼武 |
白地城主 |
三好長慶の妹を娶り、大西氏の全盛期を築く。落城時に自害。 |
大西覚養 |
白地城主(頼武の子) |
長宗我部元親に一時服属後、離反。落城後、逃亡するも後に自害。 |
大西頼包 |
覚養の弟 |
元親への人質となる。白地城攻略の際に道案内役を務めた。 |
三好長慶 |
畿内の覇者、阿波守護代 |
妹を大西頼武に嫁がせ、同盟関係を結ぶ。 |
長宗我部元親 |
土佐国主 |
天正5年に白地城を攻略。以後、四国統一の本営とする。 |
牛田一長 |
蜂須賀家臣 |
蜂須賀氏入部後、阿波九城の一つとなった白地城の城番を務める。 |
天正五年(1577年)、大西氏を滅ぼし白地城を手中に収めた長宗我部元親は、この城が持つ比類なき地政学的重要性を即座に見抜いた。彼は、この城を自らの四国平定事業における最重要拠点と位置づけ、本拠地を土佐の岡豊城からこの阿波の白地城へと移したのである 7 。
戦国大名が本拠地を安易に動かすことは稀である。この元親の決断は、彼の戦略が単なる領土拡張に留まらず、四国という地理的単位を一体として支配する、より広範な「国家」経営の構想に基づいていたことを示している。四国の地理的中心に位置し、四国四国への交通網を掌握できる白地城は、その「四国国家」構想における事実上の「首都」として選ばれたのであった。この拠点移転は、元親が土佐一国の領主という枠組みから脱却し、四国全体の統治者へと飛躍しようとする意志の表れであり、彼の軍事的天才に留まらない、統治者・経営者としての一面を浮き彫りにしている。
新たな司令部となった白地城に対し、元親は大規模な改修を施した 7 。この改修は、単に城の防御力を強化するだけでなく、大軍を駐屯させ、兵站を管理し、広域にわたる作戦を指揮統制するための司令部機能を拡充することを目的としていた。第二章で詳述した、土佐の山城で培われた高度な築城技術の粋である大規模な竪堀遺構も、この時期に造成されたものと考えるのが最も合理的である 17 。
また、元親は城の守りも固めた。江戸時代の地誌『阿波志』によれば、彼は谷忠兵衛や中内喜助といった信頼の厚い家臣を城将として配置し、この最重要拠点の管理を任せたという 17 。
白地城を拠点としていた時期の元親の気概と野望を象徴する有名な逸話が残されている。四国統一を着々と進めていた元親は、阿波と讃岐の国境にある雲辺寺を訪れ、住職である俊崇坊に自らの夢を語った。これに対し、住職は「土佐という小さな薬缶の蓋で、四国という大きな水瓶に蓋をしようとするようなものだ(到底、無理なことだ)」と諭した。すると元親は、臆することなくこう答えたという。「我が蓋は、元親という名工が鋳造した特別な蓋である。いずれは四国全土を覆うほどの大きな蓋となるであろう」 21 。
この「薬缶の蓋」の逸話は、白地城という四国の中心から天下を見据えていた元親の、並々ならぬ自信と決意を雄弁に物語っている。白地城は、まさに彼の野望が最も燃え盛っていた時代の象徴的な舞台だったのである。
白地城を拠点に四国統一をほぼ手中に収めた長宗我部元親であったが、その前には中央の巨大な権力が立ちはだかった。織田信長が本能寺の変で倒れた後、天下統一事業を引き継いだ豊臣秀吉である。秀吉は元親の四国支配を認めず、両者の対立は避けられないものとなった。
天正十三年(1585年)、秀吉は弟の羽柴秀長を総大将とする10万を超える大軍を四国へ派遣した(四国攻め)。元親は白地城を本営としてこの圧倒的な軍勢に抗戦したが 9 、衆寡敵せず、やがて降伏を決断する。元親は土佐一国のみの領有を安堵される形で秀吉に臣従し、長年拠点とした阿波の地から撤退した 7 。これにより、白地城は再びその主を失うこととなった。
四国平定後、秀吉の命により、阿波国にはその腹心である蜂須賀家政が新たな領主として入国した 28 。家政は、広大で地形も複雑な阿波国を効率的に、かつ確実に統治するため、国内の主要な戦略拠点に九つの支城を配置し、それぞれに重臣を城番として置くという独自の支配体制を構築した。これが世に言う「阿波九城」である 30 。
白地城(この頃には大西城とも呼ばれた)は、その卓越した戦略的重要性から、当然のごとくこの阿波九城の一つに選ばれた。そして、阿波国の西端、旧領回復を狙う可能性のある土佐の長宗我部氏に対する最前線の防御拠点として、また三好郡一帯を管轄する行政拠点として、新たな役割を担うことになったのである 14 。この役割は、元親時代の四国全土へ打って出るための「攻撃拠点」から、蜂須賀氏の領国支配を盤石にするための「領域支配と国境防衛の拠点」へと、その性格を質的に転換させたものであった。
阿波九城の一つとなった白地城の城番には、蜂須賀家の重臣である牛田一長(又右衛門・掃部助)が任命された 14 。牛田一長は、もともと三河国牛田城主の一族で、織田信長、羽柴秀吉に仕えた後、蜂須賀正勝の家臣となった歴戦の武将である 33 。
彼は単なる城の軍事的な管理者ではなく、三好郡の郡奉行を兼務し、5,328石という高い知行を与えられていた 31 。一長は、郡内の村々において代官らによる恣意的な支配を禁じ、小農民を保護するなど、民政の安定に尽力したと記録されている 33 。彼の統治は、長年の戦乱で疲弊した地域の復興と、新たな支配者である蜂須賀氏の支配体制を領国の末端まで浸透させる上で、極めて重要な役割を果たした。軍事機能と行政機能を一体化させ、領域支配を盤石にするという、近世大名の統治体制への移行を象徴するものであった。
城名 |
所在地(郡) |
城番 |
石高 |
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大西城(白地城) |
三好郡 |
牛田掃部助一長 |
5,300石 |
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一宮城 |
名東郡 |
益田宮内少輔持正 |
- |
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脇城 |
美馬郡 |
稲田佐馬尉 |
4,700石 |
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川島城 |
麻植郡 |
林図書能勝 |
5,500石 |
|
西条城 |
板野郡 |
森監物 |
5,500石 |
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撫養城 |
板野郡 |
益田内膳正正忠 |
5,000石 |
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牛岐城 |
海部郡 |
細山帯刀 |
10,000石 |
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仁宇城 |
那賀郡 |
山田織部佐宗重 |
5,000石 |
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海部城 |
海部郡 |
中村右近太夫重友 |
5,000石 |
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出典: 31 |
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江戸時代に入り、徳川の世が安定すると、幕府は全国の大名の軍事力を削減し、支配体制を盤石にするための方策を次々と打ち出した。その一つが、慶長二十年(1615年)に発布された一国一城令である。これは、大名に対し、居城以外のすべての城(支城)を破却するよう命じたものであった 30 。
この法令により、全国の多くの城がその役目を終えた。しかし、阿波九城の廃城は、法令の発布から20年以上も後の寛永十五年(1638年)であったと多くの記録が伝えている 29 。この異例の遅延は、単なる法令遵守の遅れではなく、高度な政治的背景があったことを示唆している。
その理由として、一つには、一揆などの国内の有事に備え、蜂須賀氏が城を再利用する目的で存続を願い出たとする説がある 34 。もう一つは、より重要な理由として、幕府自身が、旧長宗我部領である隣国・土佐藩への警戒をこの時期まで完全には解いていなかった可能性が考えられる。徳島藩は阿波・淡路合わせて25万石を超える大藩であり、その政治力を背景に、国境防衛の重要性を幕府に訴え、特例的な存続を認められていたのかもしれない。白地城の終焉は、江戸初期における幕府と外様大名との間の緊張感や、全国の安定化が完了するまでの過渡的な状況を反映した、政治的な出来事であったと言える。いずれにせよ、寛永十五年、白地城はその長い歴史に幕を下ろし、廃城となった 11 。
廃城後、白地城は管理者を失い、徐々に自然に還っていった。しかし、江戸時代後期の地誌『阿波志』には「壕塁猶存す(堀や土塁が今なお存在する)」と記されており、当時までは遺構が比較的良好な状態で残っていたことが窺える 17 。
しかし、近代以降、城跡は大きくその姿を変えることになる。特に昭和期に入り、城跡の中心部に旧郵政省の簡易保険保養センター(後の宿泊施設「あわの抄」)が建設された際、城の主要な遺構はほぼ完全に破壊されてしまった 15 。
それでもなお、白地城の歴史を伝える痕跡は現代にも残されている。城跡の麓には、その名を冠した「白地城址」のバス停が立ち 15 、敷地内には城址碑が建立されている 10 。城主であった大西頼武を祀るために創建されたと伝わる大西神社は、今も城跡の一角に鎮座し 10 、その背後にわずかに残る土塁や、周囲の急峻な切岸と共に、この地で繰り広げられた栄枯盛衰の歴史を静かに今に伝えている。
阿波白地城は、その誕生から終焉に至るまで、常に「四国のヘソ」という地政学的な宿命を背負い続けた城郭であった。平安末期から続く在地領主・大西氏の拠点として阿波西部に君臨し、畿内の覇者・三好氏との連携によってその勢威を極めた。続く戦国乱世の渦中においては、土佐の雄・長宗我部元親の四国統一事業における司令塔となり、その歴史上、最大の輝きを放った。そして、天下統一後の近世社会においては、蜂須賀氏が築いた阿波九城体制の西の要として、新たな支配体制の礎として重要な機能を果たした。
白地城の歴史は、支配者が交代するたびにその役割を劇的に変えながらも、一貫してその戦略的価値を失わなかった稀有な事例である。それは、城という軍事施設が、時代の要請や支配者の戦略思想によって、その機能や意味をいかに変容させていくかを示す、極めて貴重な歴史的証人と言える。現代において、その物理的な姿の多くは失われてしまった。しかし、残された僅かな遺構と、記録に残る豊富な歴史的文脈は、我々に対し、戦国時代における四国のダイナミズムと、歴史の転換点に立ち続けた一つの城の壮大な物語を、今なお雄弁に語りかけているのである。