備前の要衝、砥石城は宇喜多直家生誕の地にして、その勢力拡大の礎となった。幾多の攻防を経て、やがて平城へと役割を譲るも、戦国の歴史を今に伝える貴重な史跡である。
備前国邑久郡、現在の岡山県瀬戸内市にその痕跡を留める砥石城は、戦国時代の梟雄として後世に名を馳せた宇喜多直家生誕の地として、また彼の一族が興亡の歴史を刻み始める原点として、極めて重要な意味を持つ城郭である 1 。しかし、その歴史は後世に編纂された軍記物語、特に『備前軍記』によって劇的に彩られ、宇喜多直家による祖父の仇討ちといった英雄譚として語り継がれてきた 3 。本報告書は、この砥石城について、その地理的・構造的特徴、史料に基づく歴史的変遷、そして周辺勢力との関係性を多角的に分析し、伝説と史実の両面からその全体像を総合的に解明することを目的とする。
近年の歴史研究、特に同時代の史料に基づいた実証的なアプローチは、『備前軍記』などが描く物語が、必ずしも史実を正確に反映したものではない可能性を強く示唆している 5 。本報告では、こうした巷説と史実の間に存在する乖離を明確に区別し、より客観的な歴史像の構築を試みる。
また、本調査の端緒となった「備前守護代・松田家臣・金光宗高が居城とし、1570年に宇喜多直家によって攻略された」という情報は、砥石城の歴史ではなく、後の岡山城の前身である「石山城」に関する記述との混同が見られる 7 。この点は、宇喜多直家による備前統一の過程を理解する上で極めて重要な論点であるため、本報告の第三章において詳細な解説を行い、砥石城と石山城、それぞれの歴史的役割を明確に切り分けて論じる。これにより、砥石城が戦国時代の備前において果たした真の役割を浮き彫りにする。
砥石城の戦略的価値と防御思想を理解するためには、まずその地理的条件と城郭構造(縄張り)を詳細に分析する必要がある。城は単なる軍事拠点ではなく、地域の経済と政治を支配するための装置でもあった。
砥石城は、岡山県瀬戸内市西部に広がる千町平野(せんちょうへいや)を北に一望する、標高約100メートルの独立丘陵上に築かれている 3 。この立地は、軍事的・経済的に絶大な優位性をもたらした。
第一に、千町平野は備前国でも有数の穀倉地帯であり、この地を直接的に監視・支配下に置くことは、地域の経済基盤を掌握することを意味した 5 。城からの眺望は極めて良好で、平野部における軍勢の動きや物資の輸送を手に取るように把握できたと考えられる。
第二に、城の北方には、中世を通じて備前国の政治・経済の中心地として栄えた「福岡」の地が広がっていた 10 。この地には備前守護所が置かれ、鎌倉時代の高僧の事績を描いた国宝『一遍上人絵伝』にもその賑わいが描かれる「福岡の市」が立っていた。この市は、吉井川の水運と山陽道が交差する交通の要衝であり、「福岡千軒」と称されるほどの繁栄を誇る西日本有数の商業都市であった 11 。砥石城は、この備前国の経済的動脈である福岡の市と吉井川水運を直接威圧し、その支配権を確立するための軍事拠点として、計り知れない価値を有していた。この地の支配権を巡る争いが、浦上氏や後の宇喜多氏にとって地域の覇権を握るための最重要課題であったことは想像に難くない。砥石城は単なる防御施設に留まらず、地域の富を収奪し、統制するための「経済的統制装置」としての側面を色濃く持っていたのである。
砥石城は、山の尾根筋に沿って複数の曲輪(くるわ)を直線的に配置した「連郭式山城」と呼ばれる典型的な中世山城の形態をとる 3 。城域は南北約300メートルに及び、大きく二つの主要な郭群から構成されている 3 。
これらの郭群は、現在もその遺構として確認することができる。
砥石城の「本城」と「出丸」という二元的な構造、そして約1キロメートル西に位置する高取山城との関係性は、この地域の防御体制を考える上で非常に示唆に富んでいる。従来、宇喜多氏の砥石城と島村氏の高取山城は敵対する国人の拠点と見なされてきた。しかし、砥石城の出丸が、まさに高取山城へと続く尾根上に築かれているという物理的な配置は、両者が敵対関係にあったという単純な見方に疑問を投げかける。むしろ、これらは対立する拠点ではなく、一つの尾根上で連携し、西からの脅威に対して一体的に機能する「複合防御システム」であった可能性が考えられる。この視点に立てば、個々の国人が独立して城を構えていたのではなく、彼らの上位権力者であった備前守護代・浦上氏が、備前東部一帯を防衛するために計画的に配置した拠点群の一部として、砥石城と高取山城を捉え直すことができる 17 。これは、地域の権力構造を城郭の配置から読み解く上で重要な視点である。
遺構名 |
位置 |
規模・形状 |
残存状況 |
特記事項 |
主郭(本丸) |
砥石山山頂 |
長さ約45m、幅約19mの細長い平坦地 10 |
良好。平坦地として明瞭に残る。 |
後世の神社建立により石垣などが改変されている 14 。 |
北側腰曲輪群 |
主郭から北東に下る尾根筋 |
大小十数面の小規模な段状の曲輪 15 |
一部は明瞭だが、藪化している箇所もある。 |
城の正面防御を担う多段階の防御線。 |
出丸(出城) |
本城の西方約200mの尾根上 |
4つの連なる曲輪で構成 9 |
良好。土塁や堀切の痕跡が明瞭。 |
後世の改変が少なく、中世山城の雰囲気をよく残している 14 。 |
堀切 |
出丸と本城の間、出丸の西側基部など |
尾根を分断する空堀 |
浅くなっているが、形状は確認可能 14 。 |
敵の水平移動を妨げる重要な防御施設。 |
野面積み石垣 |
主郭西側の一部 |
不明(一部現存) |
僅かに残存 14 。 |
戦国期のものと考えられる貴重な遺構。 |
砥石城の歴史は、宇喜多氏の台頭以前にまで遡り、その変遷は備前国における権力闘争の縮図とも言える。特に宇喜多直家との関わりは、彼が梟雄へと変貌していく過程と密接に結びついている。
宇喜多氏による築城という説が広く知られているが、砥石城の歴史はそれよりさらに古い。室町時代の禅僧、蔭涼軒主が記した公用日記『蔗軒日録(しゃけんにちろく)』には、文明17年(1485年)閏3月5日、備前守護代であった浦上則国(うらがみ のりくに)が、敵対する山名氏や備前の国人・松田元成(まつだ もとなり)との戦いの末に「戸石城」で戦死したという記録が残されている 10 。これが史料上で確認できる最も古い砥石城に関する記述であり、15世紀後半には既に城郭が存在し、備前国の覇権を巡る争いの重要な舞台となっていたことを示している。
この浦上則国の戦死は、応仁の乱に連動して備前国で繰り広げられた長期の内乱、いわゆる「備前文明錯乱」の最中の出来事であった 19 。当時、備前守護であった赤松氏の支配力は揺らぎ、その守護代であった浦上氏が実権を掌握しようとしていた。これに対し、旧守護家の山名氏が西から介入し、備前の有力国人である松田氏と結んで浦上氏と激しく争った。この文脈から、砥石城は当初、浦上氏が備前東部の拠点である福岡を防衛し、西の松田氏や山名氏の勢力に対抗するための戦略拠点として築かれ、整備されたものと考えられる。
砥石城の歴史において最も有名なエピソードが、宇喜多直家の祖父・能家(よしいえ)の時代である。
一般的に知られる巷説、すなわち『備前軍記』などが描く物語では、浦上氏の家臣であった宇喜多能家が、大永年間(1521-1528)に砥石城を築き、あるいは居城としたとされる 1 。しかし天文3年(1534年)、西に約1キロメートルと隣接する高取山城の城主・島村盛実(しまむら もりざね、通称:観阿弥)の夜襲を受けて城は陥落し、能家は自害して果てた。この時、当時6歳であった幼い直家は父の興家(おきいえ)に連れられて城を脱出し、長く苦しい流浪の生活が始まった、とされている 2 。この物語は、後の直家による島村氏への復讐劇へと繋がり、彼の梟雄としてのイメージを形成する上で大きな役割を果たしてきた。
しかし、このドラマティックな物語は、史料的価値が低いとされる後世の軍記物に依拠したものであり、近年の研究では大きく見直されている 5 。能家一族の失脚は、島村氏という一個人の裏切りによるものではなく、当時の備前国を二分していた、より大きな政治的対立の産物であった可能性が極めて高い。当時、備前守護代の浦上氏は、兄の政宗(まさむね)と弟の宗景(むねかげ)が家督を巡って激しく対立し、備前の国人たちも二つの派閥に分かれて抗争を繰り広げていた 5 。能家(あるいはその子の興家)の失脚は、この浦上氏の内紛の過程で、敵対派閥であった政宗方によって引き起こされた事件と見るのが、現在の有力な説である 5 。
この視点の転換は、宇喜多直家のその後の行動を理解する上で決定的に重要である。砥石城の陥落を「島村氏による個人的な裏切り」と捉えれば、直家の行動原理は「祖父の仇討ち」という個人的な動機に集約される。しかし、これを「浦上氏の内紛における派閥抗争の結果」と捉え直すならば、直家が後に砥石城を攻撃したのは、単なる私的な復讐ではなく、自らが仕える主君・浦上宗景の勢力拡大のために、敵対する政宗方の重要拠点を攻略するという、極めて政治的・軍事的な意味合いを持つ戦略行動であったと理解できる。これは、直家を感情に駆られた復讐者としてではなく、冷徹な計算のもとに行動する戦国武将として捉えるための、重要なパラダイムシフトなのである。
能家一族が砥石城を追われた後、城主となったのは、能家の異母弟とも伝えられる浮田大和守国定(うきた やまとのかみ くにさだ)であった 1 。彼は浦上政宗方に属していたと推測されており 6 、砥石城は直家が仕える浦上宗景方にとって、目と鼻の先にある敵対勢力の拠点となっていた。
やがて浦上宗景の家臣として乙子(おとご)城を与えられ、着実に力を蓄えた直家は、主君・宗景の命を受け、一族の故地である砥石城の奪還に乗り出す。その時期は弘治2年(1556年)から永禄2年(1559年)頃とされ、城下の仁生田畠(にゅうだばたけ)では激しい戦闘が繰り広げられたと伝わっている 1 。この戦いで直家は浮田国定を討ち滅ぼし、約20年の歳月を経て、ついに砥石城をその手に取り戻した。
この砥石城奪還は、直家にとって複数の重要な意味を持っていた。第一に、宇喜多一族の家督を名実ともに継承し、一族内の求心力を確立したこと。第二に、主君・宗景の期待に応えることで、浦上家臣団の中での発言力と地位を飛躍的に高めたことである。奪還後、直家は砥石城に実弟(あるいは異母弟)とされる宇喜多春家(はるいえ)を城主として配置し、備前東部における自らの勢力基盤を確固たるものとした 1 。
宇喜多直家がその勢力を拡大し、本拠を沼城(ぬまじょう)、さらに天正元年(1573年)には石山城(後の岡山城)へと移していく過程で、砥石城の戦略的重要性は相対的に低下していった 1 。城主であった弟の春家も、天正元年(1573年)頃には亀山城(沼城の別称か)へ移ったとされ、その後は宇喜多氏の家臣が城番として在城したと考えられる 1 。
砥石城が正式に廃城となった正確な時期を記す史料はなく、不明である 1 。しかし、直家が備前平野の中心である岡山に新たな本拠を構え、大規模な城下町の整備を本格化させると、備前支配の中心は完全に岡山へと移行した。これにより、防御を主眼とした中世的な山城である砥石城は、領国経営の拠点としての役割を終え、天正年間(1573-1592)の後半には実質的に廃城になったと推測される。
この砥石城の「誕生 → 失陥 → 奪還 → 支城化 → 廃城」という一連のライフサイクルは、奇しくも宇喜多直家という一人の武将が、地域の小領主から備前・美作を支配する戦国大名へと成長していく過程そのものを象徴している。初期の勢力基盤としての「誕生」、一族離散という挫折と雌伏の時代の「失陥」、再起の足がかりとなった「奪還」、そして、より大規模で政治・経済の中心機能を持つ平城を中核とした近世的な領国経営体制へ移行する中で、旧来の山城がその役目を終えていく「廃城」。この流れは、戦国時代の権力構造と城郭機能の変遷を、一つの城の視点から雄弁に物語る典型的な事例と言えるだろう。
西暦(和暦) |
出来事 |
関連人物 |
史料・備考 |
1485年(文明17) |
浦上則国が山名・松田連合軍との戦いで「戸石城」にて戦死。 |
浦上則国、松田元成 |
『蔗軒日録』 10 |
1521-28年(大永年間) |
(巷説)宇喜多能家が砥石城を築城、または居城とする。 |
宇喜多能家 |
『備前軍記』など 1 |
1529年(享禄2) |
宇喜多直家が砥石城で生まれる。 |
宇喜多直家 |
諸説あり 1 |
1534年(天文3) |
(巷説)島村盛実の奇襲により砥石城が陥落。宇喜多能家は自害。 |
宇喜多能家、島村盛実 |
『備前軍記』など 1 |
1534-56年頃 |
浮田国定が砥石城主となる。 |
浮田国定 |
浦上政宗方に属したと推定 6 |
1556-59年頃(弘治2-永禄2) |
宇喜多直家が浮田国定を攻め滅ぼし、砥石城を奪還。 |
宇喜多直家、浮田国定 |
浦上宗景の命による 1 |
1559年以降 |
直家の弟・宇喜多春家が城主となる。 |
宇喜多春家 |
1 |
1573年頃(天正元) |
直家が石山城(岡山城)へ入城。春家も亀山城へ移る。 |
宇喜多直家、宇喜多春家 |
1 |
天正年間後半 |
宇喜多氏の支配体制の変化に伴い、実質的に廃城か。 |
- |
時期は不明確 10 |
砥石城の歴史は、宇喜多一族だけでなく、当時の備前国に割拠した様々な勢力との複雑な関係性の中で形作られてきた。特に、利用者から提示された金光宗高に関する情報を正しく位置づけることは、宇喜多直家の戦略を理解する上で不可欠である。
砥石城は、宇喜多氏三代にとって、それぞれ異なる意味を持つ象徴的な場所であった。
砥石城をめぐる攻防は、宇喜多氏内部のドラマに留まらず、周辺のライバルたちとの熾烈な生存競争の文脈で理解する必要がある。
前述の通り、巷説では島村氏は能家を死に追いやった不倶戴天の敵として描かれる。しかし、史実としては、島村氏も宇喜多氏と同じく浦上氏に仕える国人であり、主家の内紛という大きな渦の中で、時には協力し、時には敵対するという、より複雑で流動的な関係にあったと考えるのが妥当である。砥石城の出丸と高取山城が一体の防御施設であった可能性を考慮すれば 17 、両者は少なくともある時期においては、浦上氏の指揮下で連携する関係にあったとさえ考えられる。
ここで、当初提示された「金光宗高の居城」「1570年の攻略」という情報について、明確な整理を行う。これは砥石城の歴史ではなく、宇喜多直家による備前統一過程における、別の二つの重要な出来事を指している。
これらの事実を正しく整理することで、宇喜多直家による備前統一の巧みな戦略が見えてくる。それは、砥石城、金川城、石山城という三つの城をめぐる、段階的かつ計画的な征服プロセスであった。
当初の情報にあった混乱は、結果的に、この直家の壮大な三段階戦略の最終段階を指し示すものであったと言える。
砥石城は、単に宇喜多直家生誕の地という伝承を持つに留まらず、戦国大名・宇喜多氏の権力形成の原点であり、15世紀後半から16世紀にかけての備前国における政治的・軍事的力学を体現する、極めて重要な城郭であった。その歴史は、後世の創作による英雄譚と、史料から浮かび上がるより複雑な政治的現実とが交錯する、戦国史研究の好例と言える。
城郭史の観点から見れば、現存する遺構、特にその縄張りは、戦国時代中期における山城の防御思想の特徴をよく示している。本城と出丸が有機的に連携する構造は、当時の戦闘様態を考察する上で貴重な事例である。その一方で、宇喜多氏の勢力拡大に伴う役割の低下と最終的な廃城は、戦国時代末期から近世にかけて起こる城郭機能の大きな転換、すなわち軍事拠点としての山城から、政治・経済の中心である平城(ひらじろ)へと主役が移っていく歴史的潮流と、それに伴う領国支配体制の変化を如実に物語っている。
今日、瀬戸内市の指定史跡として保存されている砥石城跡は、訪れる者に往時の姿を偲ばせるとともに、戦国の世の激しい権力闘争と、梟雄・宇喜多直家の原風景を静かに語りかけている 1 。後世の改変という課題を抱えながらも、その地形と遺構は、地域の歴史の重みを今に伝える、かけがえのない文化遺産である。