備後の要衝、神辺城は山名氏、毛利氏、福島氏と城主を変え、戦国の興亡を映す。七年にも及ぶ激戦を耐え、近世城郭へと変貌するも、福山城築城と共に廃城。その遺構は今も語り継がれる。
備後国(現在の広島県東部)の歴史を語る上で、神辺城(かんなべじょう)は避けて通ることのできない重要な存在である。福山市神辺町の中心部に聳える黄葉山(こうようざん)に築かれたこの城は、単なる一地方の山城ではない。南北朝の動乱から江戸時代初期に至る約300年間、備後国の政治、軍事、そして経済の中心として君臨し、西国における戦国大名の興亡を映し出す鏡のような役割を果たした戦略拠点であった 1 。
神辺城がこれほどまでに重要な拠点とされた最大の理由は、その卓越した地政学的位置にある。城は、備後国東部の広大な穀倉地帯である神辺平野を一望する標高約133メートルの黄葉山に位置している 3 。これにより、城主は地域の農業生産力を直接掌握することが可能であった。さらに重要なのは、古代から西国を結ぶ大動脈であった山陽道が城下を通過し、また芦田川や高屋川といった河川交通の結節点でもあったことである 1 。陸路と水路の双方を扼する(おさえる)この立地は、物資の流通と軍隊の移動を完全に支配下に置くことを意味した。このため、神辺城を制することは備後国を制することと同義であり、中国地方の覇権を狙う大内氏、尼子氏、そして毛利氏といった戦国大名たちが、この城を巡って熾烈な争奪戦を繰り広げることになったのである 6 。
今日、一般的に「神辺城」として知られるこの城であるが、歴史を深く探求する上ではその呼称について留意する必要がある。戦国時代の一次史料や同時代の記録においては、この城は「村尾城(むらおじょう)」と呼ばれているのが通例である 7 。これは、城が位置した村尾郷という地名に由来すると考えられる。「神辺城」という呼称が一般的に定着したのは、城がその役割を終えた16世紀末以降、あるいは江戸時代に入ってからと見られている 8 。
この名称の変遷は、単なる呼び名の違い以上の意味を持つ。局地的な地名を冠した「村尾城」から、より広域の地名である「神辺」を冠した「神辺城」への変化は、この城の役割が、一地域の拠点から備後国全体を代表する政治・軍事の中心へと昇華していった過程を象徴している。毛利氏や福島氏といった広域を支配する大名の拠点となる中で、その機能と象徴性が拡大し、それに伴って呼称も変化したと考えられる。本報告書では、歴史的正確性を期すため、文脈に応じて「村尾城」の名称も用いながら、広く認知されている「神辺城」を主として記述を進める。
本報告書は、神辺城を単なる攻防の舞台としてではなく、中世から近世への移行期における日本の社会変動を体現する複合的な存在として捉え、その実像を多角的に解き明かすことを目的とする。具体的には、築城の黎明期から、戦国時代のハイライトである「神辺合戦」、毛利氏支配下での最盛期、そして近世城郭への最終的な変貌と廃城に至るまでの全史を詳細に追う。さらに、城郭の構造分析を通じて、中世山城が戦術の進化に対応してどのように変化していったか、その技術的変遷を明らかにする。神辺城の歴史は、戦国大名の勢力争いの縮図であり、中世から近世へと移行する時代のダイナミズムを凝縮した貴重な歴史遺産なのである。
年代 |
主要な出来事 |
当時の城主または支配勢力 |
建武2年(1335) |
『備後古城記』に朝山景連による築城伝説が記される |
朝山景連(伝承) |
応永8年(1401) |
山名氏が備後守護となり、以後約137年間統治 |
山名氏 |
嘉吉3年(1443) |
黄葉山に新たな城が築かれる(現在の神辺城の原型) |
山名氏 |
天文7年(1538) |
山名理興が城主となる |
山名理興(大内方) |
天文11年(1542) |
山名理興、大内氏から離反し尼子方へ転じる |
山名理興(尼子方) |
天文12年(1543) |
大内・毛利軍による神辺城攻撃開始(神辺合戦の勃発) |
山名理興(尼子方) |
天文18年(1549) |
7年に及ぶ攻防の末、神辺城落城。理興は出雲へ敗走 |
大内氏(城番:青景隆著) |
弘治3年(1557) |
山名理興の死後、杉原盛重が毛利氏の後援で城主となる |
杉原盛重(毛利方) |
天正12年(1584) |
杉原氏改易。神辺城は毛利氏の直轄領となる |
毛利氏 |
天正19年(1591) |
毛利元就の八男・毛利元康が城主となる |
毛利元康 |
慶長5年(1600) |
関ヶ原の戦後、福島正則の領地となり、家老・福島正澄が入城 |
福島正澄 |
元和5年(1619) |
福島氏改易。水野勝成が入封し、一時的に在城 |
水野勝成 |
元和8年(1622) |
福山城の完成に伴い、神辺城は廃城となる |
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神辺城の歴史は、室町幕府の権威がまだ確立していなかった南北朝時代の動乱期にその源流を遡る。しかし、その初期の姿は伝説と考古学的推論の中にあり、確固たる記録は少ない。
江戸時代の地誌『備後古城記』には、神辺城の築城に関する最も古い記述が見られる。それによれば、建武2年(1335年)、後醍醐天皇による建武の新政の下で備後守護に任じられた朝山次郎左衛門景連が、この地に城を築き守護所を置いたとされている 1 。この記述は長らく神辺城の起源として語られてきた。しかし、『備後古城記』の成立は江戸時代であり、南北朝時代に関する記述の信憑性については、現代の歴史学では慎重な見方がなされている 10 。
近年の研究や発掘調査は、この築城伝説に新たな視点を提供している。特に注目されるのは、現在の神辺城跡(黄葉山)の北東約700メートルに位置する「古城山」と呼ばれる丘陵の存在である 10 。この地には「古城」という地名が残り、小規模な城郭遺構の存在が伝えられていることから、南北朝時代に築かれた初期の「神辺城」は、この古城山にあったのではないかと考えられている。この説が正しければ、神辺城の歴史は二段階の発展を遂げたことになる。つまり、まず在地領主が小規模な城を築き、後の時代に、より広域を支配する勢力が戦略的価値の高い黄葉山に大規模な城を移転・拡張したというシナリオである。
この拠点の移転は、単なる場所の移動以上の意味を持つ。古城山のような小規模な丘陵城郭は、在地領主が自身の所領を守るには十分であったかもしれない。しかし、備後国が中国地方全体の政争の舞台となり、大軍の動員や長期の籠城戦が想定されるようになると、より広大で防御力に優れた要害が求められる。黄葉山への移転は、神辺城が局地的な砦から、備後一国を統べるための広域戦略拠点へとその性格を変化させた決定的な瞬間を物語っているのである。
神辺城が備後国の明確な中心拠点として歴史の表舞台に登場するのは、室町時代、山名氏が備後守護に就任してからのことである。応永8年(1401年)、山名時熈が備後守護となって以降、天文7年(1538年)に至るまでの約137年間、山名一族がこの職を独占的に世襲した 1 。この長期間にわたり、神辺城は備後国における山名氏の支配の拠点、すなわち守護所として機能したと考えられている。ただし、山名氏の惣領(本家当主)自身は京都の幕府に出仕したり、本拠地である但馬国に在住したりすることが多く、備後の統治は守護代として派遣された一族や家臣に委ねられていた 4 。
現在の黄葉山に聳える神辺城の原型が築かれたのも、この山名氏の時代である。一説には、嘉吉3年(1443年)に山名氏によって新たに築城、あるいは既存の砦が大規模に改修されたとされている 8 。この時期に、前述の古城山から黄葉山へと拠点が移された可能性が高い。これにより、神辺城は名実ともに備後国を代表する城郭となった。
しかし、15世紀後半になると応仁の乱などを経て室町幕府の権威は失墜し、各地の守護大名の力も衰退していく。備後国も例外ではなく、守護である山名氏の統制力は次第に弱まり、それに乗じて在地の中小領主である国人(こくじん)たちが自立性を強め、勢力を拡大し始めた。彼らは生き残りをかけて、西の周防国から勢力を伸ばす大内氏や、北の出雲国から南下する尼子氏といった、より強力な外部の戦国大名と結びつきを深めていった。この備後国内の勢力図の流動化が、後の神辺城をめぐる大乱の土壌を形成していくことになる。山名氏の拠点であった神辺城は、もはや安泰の地ではなく、次なる時代の覇権を争う者たちの標的となっていたのである。
16世紀中盤、神辺城は中国地方の二大勢力、出雲の尼子氏と周防の大内氏、そしてその狭間で急速に台頭する安芸の毛利氏が激突する、戦国時代屈指の激戦の舞台となった。天文12年(1543年)から天文18年(1549年)にかけて、実に7年もの歳月にわたって繰り広げられたこの一連の戦いは「神辺合戦」と呼ばれ、神辺城の歴史における最大のクライマックスである。
この神辺合戦の主役の一人であり、籠城側の将であったのが山名理興(やまな ただおき)である。彼の出自については、いくつかの説があり、その経歴の複雑さを物語っている。通説では、彼は元々、沼隈郡山手の国人領主・杉原氏の一族で、名を杉原理興といったとされる 1 。天文7年(1538年)、強大な大内義隆の後ろ盾を得て、当時尼子氏と通じていた神辺城主・山名忠勝を攻撃し、これを敗走させた。その功績により神辺城主となり、名門「山名」の名跡を継ぐことを許され、山名理興を名乗ったというものである。
しかし、近年の研究ではこの通説に疑問が呈されている。一次史料(同時代に書かれた信頼性の高い文書)には、理興が杉原姓であったことを示す直接的な証拠が見つかっていない。むしろ、彼が神辺城主となる以前から備後南部で相当な勢力を有していたことを示す文書が存在することから、元々山名氏の一族であり、但馬の惣領家とは別の家系の人物であった可能性が指摘されている 14 。この出自の謎は、理興が備後の在地勢力を代表しつつも、大内・尼子という二大勢力の間を渡り歩く、複雑な政治的立場にあったことを象徴している。
当初、大内氏の支援で神辺城主となった理興であったが、その立場は安泰ではなかった。天文11年(1542年)、大内義隆は数万の大軍を率いて尼子氏の本拠地・出雲月山富田城へ遠征するも、尼子晴久の前に歴史的な大敗を喫する(第一次月山富田城の戦い)。この敗戦で大内氏の威信は大きく揺らぎ、嫡男の晴持を失った義隆は政治への意欲を失ってしまった 16 。
この西国におけるパワーバランスの激変を、理興は好機と捉えた。彼はこれまで属していた大内氏を見限り、勢いに乗る尼子氏へと寝返ったのである 9 。備後南部の最重要拠点である神辺城の離反は、大内氏にとって看過できない痛手であった。これが、7年間に及ぶ神辺合戦の直接的な引き金となった。
天文12年(1543年)6月、大内義隆は重臣の弘中隆兼と、当時まだ大内氏の有力な国人領主であった毛利元就に神辺城の攻略を命じ、戦いの火蓋が切られた 1 。理興もただちに反撃し、沼田小早川氏の領地へ侵攻するが、救援に駆けつけた毛利軍によって阻止されるなど、緒戦は一進一退の様相を呈した 9 。
大内・毛利軍は、神辺城を力攻めにするだけでなく、兵站と補給路を断つための包囲網を周到に形成していく。特筆すべきは、海上からの圧迫である。大内方は瀬戸内海の制海権を確保するため、神辺城の南方に位置する手城島(現在の福山市手城町)に城を築いた 1 。この海上拠点の確保には、毛利元就の三男で、当時まだ15歳であった小早川隆景が動員され、天文14年(1544年)から2年間にわたり鞆の浦に在陣した。これは隆景の初陣とされ、彼はこの戦いを通じて水軍の運用と陸海連携作戦の重要性を実践で学んだ 1 。これにより神辺城は陸と海の両面から圧迫され、尼子氏からの救援も困難となり、次第に孤立を深めていった 9 。
天文16年(1547年)頃から、大内・毛利軍の攻撃は本格化する。彼らはまず、神辺城の防衛網を形成する外郭の支城群を標的とした。神辺城の南方にあった坪生の龍王山城や坪生要害などが、激しい戦闘の末に次々と攻略されていった 1 。外からの守りを失った神辺城は、裸同然の状態で大軍と向き合うことになった。
そして天文17年(1548年)6月、大内方は雌雄を決するべく、空前の規模での総攻撃を開始した。総大将には大内家随一の猛将・陶隆房(後の晴賢)が就き、弘中隆兼、毛利元就・隆元親子、そして元就の次男・吉川元春、三男・小早川隆景といった、後の毛利両川体制を担う若き武将たちが顔を揃えた 1 。まさに大内・毛利軍のオールスターともいえる布陣であり、その総勢は一万五千余に達したという。攻撃は苛烈を極め、城内に突入する部隊も出るほどであったが、城主・山名理興と、その家老であった杉原盛重らの決死の防戦により、堅固な神辺城はついに落ちなかった 4 。
力攻めでの攻略が困難であると判断した大内方は、戦術を持久戦へと切り替える。神辺城の対岸にある要害山に新たに向城(むかいじろ)を築き、そこに平賀隆宗らの部隊を配置して、城への圧迫を続けた 15 。断続的な攻撃と、城下の田畑を刈り取る「稲薙(いななぎ)」によって兵糧を断つ作戦が執拗に続けられ、籠城する城兵の士気と体力は徐々に削られていった。そして天文18年(1549年)9月、7年間の長きにわたる抵抗もついに限界に達し、山名理興は城を放棄。再起を期して尼子氏を頼り、出雲へと敗走した。こうして神辺城は、ついに大内・毛利軍の手に落ちたのである 3 。
この神辺合戦は、単なる一つの城の攻防戦にとどまらず、後の中国地方の歴史を大きく左右する転換点であった。特に、毛利氏のその後の飛躍に与えた影響は計り知れない。
毛利元就にとって、この7年間の戦いは、備後国の国人衆を自らの影響下に組み込むための絶好の機会であった。彼は巧みな調略と軍事行動を組み合わせ、備後国内の諸勢力を着実に掌握し、後の備後経略の強固な基盤を築き上げた 9 。
若き日の小早川隆景にとっては、鞆への在陣が水軍指揮官としてのキャリアの第一歩となった。この経験は、後に毛利水軍を率いて厳島の戦いを勝利に導く礎となった 1 。
また、吉川元春は、敵将であった杉原盛重の類稀なる武勇に深く感銘を受けた。この時の出会いが、後に元春が盛重を毛利家臣として推挙する伏線となり、毛利氏の人材層を厚くすることに繋がった 14 。
このように、神辺合戦は毛利氏にとって、単に城を一つ手に入れた以上の意味を持っていた。それは、備後国という戦略的要地を支配下に収め、次代を担う指導者たちを実戦で鍛え上げ、さらには敵方から有能な人材を発掘するという、多岐にわたる戦略的目標を達成するための壮大なプロジェクトであった。神辺城の落城は、毛利氏が中国地方の覇者へと駆け上がるための、重要な一里塚だったのである。
神辺合戦の終結後、神辺城は毛利氏の備後支配における中核拠点として、新たな時代を迎える。その統治は、有能な在地領主の登用から始まり、やがて一族による直接支配へと移行していく。この過程は、毛利氏が国人領主の連合体から、中央集権的な戦国大名へと変貌を遂げる姿を映し出している。
神辺城落城後、城には大内氏の城番として青景隆著が入った 3 。しかし、天文20年(1551年)に陶隆房の謀反によって大内義隆が滅亡(大寧寺の変)すると、中国地方の政治情勢は再び激動する。毛利元就はこの機を逃さず大内氏から独立し、備後国の支配権を巡って旧主と対峙することになった。
この混乱の中、かつての城主・山名理興は毛利氏に恭順の意を示し、一時的に神辺城への復帰を許された 1 。しかし、帰城からわずか2年後の弘治3年(1557年)に理興は病死してしまう 22 。跡継ぎが定まらない中、神辺城主の後継者として白羽の矢が立ったのが、かつて理興の家老として籠城戦を戦い抜いた杉原盛重であった。彼の武勇と器量を神辺合戦で見抜いていた吉川元春が、元就に強く推薦したことによる抜擢であった 14 。敵方の有能な武将であっても、その能力を評価し、積極的に自陣営に引き入れるという毛利氏の現実的な人材戦略を示す象徴的な出来事である。
城主となった杉原盛重は、その期待に応え、毛利氏の忠実な将として各地を転戦。特に山陰方面での対尼子氏戦線で目覚ましい活躍を見せ、伯耆国(現在の鳥取県中西部)の要衝・尾高城主も兼任するなど、毛利軍団の重鎮としてその地位を不動のものとした 3 。
盛重の時代、神辺城は毛利氏の東方における一大拠点として安定した。しかし、彼の死後、杉原氏の支配は揺らぐことになる。家督を継いだ息子の元盛と景盛の間で内紛が発生し、家中は分裂。最終的に、弟の景盛が豊臣秀吉に通じているとの嫌疑をかけられ、天正12年(1584年)に毛利氏によって討伐され、杉原氏は改易(領地没収)の処分を受けた 6 。
この一連の出来事は、毛利氏の支配体制の転換点を物語っている。当初、杉原盛重のような有力な在地領主に統治を委ねる間接的な支配を行っていたが、その子孫が信頼を裏切ると、毛利氏は迅速かつ断固たる措置をもってこれを排除した。そして、神辺城とその所領を毛利氏の直轄領として組み込んだのである 6 。これは、半独立的な国人領主との同盟に依存した体制から、重要な戦略拠点を一門や譜代の家臣によって直接管理する、より中央集権的な支配体制へと移行していく毛利氏の姿を明確に示している。
毛利氏の直轄領となった神辺城は、その戦略的重要性をさらに高めていく。その価値を最も的確に表現したのが、毛利元就の孫である当主・毛利輝元の言葉である。輝元は天正13年(1585年)に家臣に宛てた書状の中で、「神辺は郡山同前候、つねづね之大事候」(神辺は、本拠地の郡山城と同じであり、常に大事な場所である)と述べている 6 。
これは、神辺城が毛利氏の本拠地である安芸吉田の郡山城と並び立つ、国家の最重要拠点と認識されていたことを示す決定的な証拠である。その理由は、単に軍事的な要衝であるからだけではない。備後一国の豊かな農業生産力、山陽道と水運が交差する交通・物流の結節点を押さえることで、毛利氏の支配領域東半分の経済基盤を支えていた。また、東から迫る織田・豊臣勢力に対する防衛線の要であり、山陽方面における毛利氏の政治的プレゼンスを象徴する拠点でもあった。
この重要性を背景に、天正19年(1591年)、毛利元就の八男である毛利元康(末次元康)が神辺城主として入城した 6 。豊臣秀吉による天下統一後も、毛利氏がこの地を極めて重視し、一門の中でも信頼の厚い有力者を配置していたことの証左である。神辺城は、毛利氏の栄光と苦悩の歴史と共に、その最盛期を歩んだのである。
神辺城は、その長い歴史の中で、時代の要請と戦術の変化に応じて幾度となく改修が繰り返された。その結果、城跡には中世山城の峻厳な防御思想から、近世城郭の権威的な構造まで、複数の時代の築城技術が重層的に残されている。
神辺城の基本的な構造は、中世の山城の典型である「連郭式山城(れんかくしきやまじろ)」である。これは、山の尾根筋に沿って複数の曲輪(くるわ、城内の平坦地)を直線的に配置する形式を指す。神辺城の場合、黄葉山の山頂(標高133m)に本丸(甲之丸)という中核的な曲輪を置き、そこから西と北へ伸びる二つの主要な尾根上に、階段状に曲輪を連ねている 4 。
確認されている曲輪の数は25箇所に及び、それぞれが主郭部、家臣の居住区、兵糧や武具を保管する兵站区といった異なる機能を持っていたと推測される 4 。近年の発掘調査では、山頂の本丸跡から三期にわたる礎石建物の跡が発見されており、時代ごとに大規模な改築が繰り返されてきたことが考古学的にも裏付けられている 4 。この複雑な縄張りは、長年にわたる機能拡張の歴史そのものである。
神辺城の防御施設は、中世山城の特色を色濃く残している。
堀切(ほりきり) : 城の弱点となりやすい、山続きの尾根からの攻撃を防ぐため、尾根を人工的に断ち切る巨大な溝が掘られた。特に、城の背後(南東)の尾根筋に設けられた「毛抜堀(けぬきぼり)」と呼ばれる大堀切は圧巻である 4 。硬い岩盤を深く削り込んで造られたこの堀切は、尾根伝いに攻め寄せる敵の進軍を完全に遮断する、極めて効果的な防御施設であった。
畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん) : 城の西側尾根の先端部斜面には、放射線状に掘られた多数の竪堀(たてぼり)が残されている 4 。これは畝状竪堀群と呼ばれ、斜面を駆け上がってくる敵兵の動きを左右に制限し、混乱させると同時に、城内から側面攻撃を加えやすくするための巧妙な戦術的施設である。
石垣(いしがき) : 後述する福山城への転用によって、その多くが失われてしまったものの、本丸南側の斜面などには、往時の石垣が部分的に現存している 4 。また、山麓にあったとされる城主の居館跡周辺の発掘調査では、水を湛えた堀(水堀)に用いられた石垣も検出されており、防御施設が山上の戦闘区域だけでなく、山麓の居住・政治区域まで一体的に整備されていたことがわかる 4 。
関ヶ原の戦いの後、毛利氏に代わって芸備二国の領主となった福島正則は、この神辺城に筆頭家老の福島正澄を配置した 7 。この福島氏の時代に、神辺城はその最終形態へと大きく姿を変える。
中世的な土木工事を中心とした山城から、織田信長や豊臣秀吉の時代に発展した「近世城郭」へと大規模な改修が行われたのである。城の主要部分は総石垣造りとなり、山上には権威の象徴である天守をはじめ、多数の櫓が林立する壮麗な姿になったと推定されている 4 。これにより、神辺城は純粋な軍事拠点から、領国を統治する政治的中心地としての威容を兼ね備えた城郭へと変貌を遂げた。
神辺城に残る遺構は、このように複数の時代の築城思想が積み重なった「歴史の地層」ともいえる。畝状竪堀のような中世戦国期の対歩兵戦闘を想定した土の防御施設と、福島氏による権威の象徴としての石垣や天守という近世的な要素が同居していた。この城は、日本の城郭が、実戦本位の「砦」から、統治のシンボルである「城」へと移行していく過渡期の姿を今に伝える、貴重な考古学的遺産なのである。
約300年にわたり備後国の中心として栄華を極めた神辺城であったが、その歴史は江戸時代初期に突如として幕を閉じる。しかし、城そのものは姿を消しても、その遺構と記憶は形を変えて地域に受け継がれていった。
元和5年(1619年)、広島城の無断改修を咎められた福島正則が改易されると、その後釜として徳川家康の従兄弟にあたる譜代大名・水野勝成が10万石で備後に入封した 3 。勝成に与えられた重要な任務は、西日本の外様大名を監視する「西国の鎮衛」という役割であった 4 。
当初、勝成も神辺城に入城したが、この重要な任務を遂行する上で、いくつかの問題点を感じていた。山城である神辺城は城地が狭く、大規模な城下町を整備して領国経営の拠点とするには不便であった。また、過去に何度も激しい攻防戦の舞台となった歴史も、新たな時代の政庁としては縁起が悪いと捉えたのかもしれない 4 。勝成は、徳川の権威を西国に示すためには、平地に築かれた壮大で新しい城が必要であると判断した。
そして、幕府から例外的な許可を得て、芦田川河口の常興寺山と呼ばれた場所に、新たな城「福山城」の築城を開始する。福山城が元和8年(1622年)に完成し、勝成が居城を移すと、それに伴い神辺城は廃城とされた 3 。備後国の中心としての役割は、完全に福山城へと引き継がれ、神辺城はその歴史的使命を終えたのである。
神辺城の廃城は、単なる破壊ではなかった。それは、新しい時代の中心地を建設するための、戦略的な資源の再配分であった。水野勝成は、神辺城の櫓、門、石垣といった部材を組織的に解体し、その多くを福山城の建築資材として転用したのである 7 。これは、古い時代の権威の象徴を解体し、その構成要素そのものを使って新しい時代の権威を築き上げるという、極めて象徴的な行為であった。
城としての役目を終えた神辺城跡は、現在、黄葉山一帯が吉野山公園として整備され、桜や紫陽花の名所として多くの市民に親しまれる憩いの場となっている 3 。山頂に登れば、往時の曲輪の跡や堀切、そしてわずかに残る石垣が、かつての激戦の歴史を静かに物語っている 7 。
城跡の東側には福山市神辺歴史民俗資料館が建てられており、神辺城に関する資料や出土品が展示され、その歴史を学ぶことができる 3 。国の特別史跡に指定されている近隣の「廉塾(れんじゅく)」とは異なり、神辺城跡自体は国や県の史跡指定は受けていないが、都市計画公園として大切に保護されている 26 。訪れる者は、眼下に広がる神辺平野を眺めながら、かつてこの地で繰り広げられた英雄たちの夢の跡を偲ぶことができるのである。
神辺城の約300年にわたる歴史は、備後国が戦国時代という激動の時代にいかにして変貌を遂げていったかを雄弁に物語っている。その軌跡は、三つの重要な側面から総括することができる。
第一に、神辺城の歴史は、備後国が在地国人の割拠する時代から、広域大名の覇権争いの舞台となり、最終的に徳川幕藩体制下の近世大名領へと組み込まれていくマクロな歴史的過程そのものである。山名氏の支配が揺らぐ中で台頭した山名理興の存在、彼を巡る尼子・大内・毛利の角逐、そして毛利氏による盤石な支配体制の確立、最後に徳川譜代の水野氏による新たな秩序の構築。城主の変遷は、そのまま備後国の政治的地位の変遷を映し出している。
第二に、神辺城は日本の城郭史における過渡期の姿を留める、極めて貴重な実例である。当初は土塁や堀切を主とした中世山城であったが、神辺合戦という大規模な攻城戦を経てその防御機能は強化され、最終的には福島氏の手によって石垣と天守を備えた近世城郭へと変貌を遂げた。これは、城が純粋な軍事施設から、領国経営の拠点、そして大名の権威を象徴する政治的シンボルへとその役割を変化させていった、日本の城郭史の大きな流れを一つの城で体現していることを意味する。
第三に、神辺城の終焉は、単なる「終わり」ではなかった。福山城の礎となり、また地域の寺院建築としてその部材が再利用されたことで、その物理的な遺産は地域の歴史的アイデンティティの一部として生き続けている。城は廃されても、その記憶と物質は新たな時代の建造物に受け継がれ、地域の景観と文化の中に溶け込んでいるのである。
神辺城は、もはや天守も櫓も持たない静かな城跡である。しかし、その大地に刻まれた曲輪や堀切、そして各地に移築された遺構は、戦国時代の備後国の興亡と、そこに生きた人々の激しい息吹を、今なお我々に力強く語りかけている。
主要城主 |
在城期間(推定) |
所属勢力 |
主要な動向と意義 |
山名氏 |
1401年頃 - 1538年 |
室町幕府 |
備後守護として約137年間統治。黄葉山に城を築き、備後国の中心拠点とする。 |
山名 理興 |
1538年 - 1549年 |
大内方 → 尼子方 |
在地勢力を代表する武将。大内氏から尼子氏へ寝返り、7年間に及ぶ神辺合戦を主導。毛利軍の猛攻を耐え抜いた。 |
杉原 盛重 |
1557年 - 1582年頃 |
毛利方 |
元山名氏家老。毛利氏に登用され城主となる。毛利軍の重鎮として山陰などで活躍し、毛利氏の備後支配を安定させた。 |
毛利氏(直轄) |
1584年 - 1600年 |
毛利氏 |
杉原氏改易後、直轄領となる。輝元が「郡山同前」と評した最重要拠点。一門の毛利元康が城主を務めた。 |
福島 正澄 |
1600年 - 1619年 |
福島氏(豊臣恩顧) |
関ヶ原の戦後、福島正則の家老として入城。城を総石垣造りの近世城郭へと大規模に改修し、天守を建造したとされる。 |
水野 勝成 |
1619年 - 1622年 |
徳川幕府 |
福島氏改易後に入封。「西国の鎮衛」の任には不適と判断し、福山城を新たに築城。神辺城を廃城とし、その歴史に幕を下ろした。 |