土佐仁井田の窪川城は、四万十川水運を扼する要衝に築かれた山城。国人領主窪川氏が本拠とし、津野・一条・長宗我部氏に従属し生き残りを図った。朝鮮出兵で家系は断絶。
土佐国西部の要地、現在の高知県四万十町にその名をとどめる「窪川城」について調査を行う際、まず解決すべき根本的な課題が存在する。それは、歴史上「窪川城」と称される城郭が、時代も性格も全く異なる二つの存在として確認される点である。一つは、本報告書の主題となる、戦国時代に国人領主・窪川氏が本拠とした山城「窪川城(茂串城)」。そしてもう一つは、江戸時代初期に土佐藩家老・林氏(窪川山内氏)が築いた近世城郭「窪川土居城(古渓山城)」である 1 。
観光情報サイトや一部の案内では、後者の江戸時代の城跡を指して「窪川城跡」と紹介することが多く、これが歴史的実像を把握する上での混乱を招いている 1 。この混同は、単なる名称の重複に起因するものではない。より時代が新しく、麓の町場の形成に直接関わった江戸時代の「土居」とそれに付随する城(古渓山城)の記憶が、より古く、山頂にあって人々の生活から切り離された戦国時代の山城の記憶を上書きしてしまった結果と解釈できる。これは地方史においてしばしば見られる現象であり、城郭研究においては、こうした歴史的記憶の層を一枚ずつ丁寧に剥がしていく作業が不可欠となる。
したがって、本報告書は、利用者からの依頼趣旨である「日本の戦国時代という視点」に厳密に立ち、前者の「窪川城(茂串城)」に焦点を当てる。そして、上書きされた記憶の奥にある、戦国時代の城の実像を明らかにすることを目的とする。後者の古渓山城については、第四章において、戦国期の窪川城との相違点を明確にし、歴史の連続性と断絶を理解するための一助として言及するに留める。
戦国期の窪川城は、高知県高岡郡四万十町の窪川市街地南方に聳える茂串山に築かれた山城である 4 。その標高は372メートル、麓からの比高は約160メートルに及び、地域を一望するに足る要害であった 5 。この城は、「茂串城」あるいは「繋石山城」という別名でも知られている 7 。
この城の最大の戦略的価値は、その立地にある。城の西麓には四国最大の大河・四万十川が流れ、その水運を直接的に扼する、まさに交通の要衝であった 8 。中世から近世にかけて、河川交通は物資輸送の大動脈であり、これを支配することは経済的・軍事的な優位を確立する上で極めて重要であった。窪川城は、仁井田郷における窪川氏の支配を支える物理的基盤として、理想的な場所に築かれていたのである。
窪川城の縄張り(城の設計)は、中世山城の典型的な形態である連郭式を採用している。これは、山の最高所に主郭である「詰ノ段」を設け、そこから派生する北東および北西の尾根筋に沿って、複数の曲輪(郭)を階段状に配置する構造である 4 。
城の中心となる詰ノ段は、山頂部に位置し、周囲を高さ約2メートルの土塁が堅固に囲んでいる 4 。遺構の残存状態は良好と評価されており、当時の姿をよく留めている 5 。この詰ノ段から延びる尾根上には、それぞれ曲輪群が形成されている。北東に延びる東曲輪群では、曲輪内に建物の基礎か区画を示すものと考えられる「石列」が確認されており、城内での施設の存在をうかがわせる 4 。一方、北西に延びる西曲輪群にも数段の曲輪が設けられ、こちらにも良好な状態の土塁が残存している 4 。
防御施設としては、土塁の他に堀切や竪堀が効果的に用いられている。堀切は、曲輪と曲輪の間や尾根筋を人工的に断ち切ることで、敵の直線的な侵攻を阻むためのものである。特に詰ノ段の手前に設けられた堀切には、城兵の通行路を確保するための土橋が架けられていたことが確認されている 4 。さらに、山の斜面には畝状竪堀群の存在も指摘されている 7 。これは、斜面を這い上がってくる敵兵の横移動を制限し、防御側からの攻撃を容易にするための、実戦的な防御施設である。
窪川城の構造を詳細に分析すると、城主であった窪川氏の政治的・社会的な「格」が浮かび上がってくる。この城は、大規模な石垣や、技巧を凝らした複雑な虎口(城の出入り口)を持たない。その防御は、土を盛り上げた土塁、山を削って造成した曲輪や堀切といった、土木工事を主体とするものであり、典型的な「土の城」の範疇にある。
この事実は、窪川城が、戦国大名クラスの巨大な権力と経済力、そして高度な築城技術を動員して築かれた城ではないことを示唆している。むしろ、在地領主である国人クラスが、自らの勢力範囲を防衛するために、必要十分な機能を持たせた実戦的な砦であったと考えるべきである。例えば、後に詳述する長宗我部氏の本拠・岡豊城では、多数の礎石を伴う建物跡が発掘され、一部には石積みも用いられるなど、より計画的で大規模な居住空間と防御施設が一体化している 10 。この構造の違いは、単なる技術力の差ではなく、城主の社会的地位の差を明確に反映している。窪川氏は仁井田郷の盟主ではあったが、土佐一国を支配する戦国大名ではなかった。彼らの城は、恒久的な政治的支配拠点というよりも、有事の際に立て籠もるための軍事要塞としての性格が強かったと推測される。城の構造そのものが、窪川氏の「国人領主」という身分を雄弁に物語る、何よりの物証なのである。
窪川氏の歴史は、室町時代後期の明応九年(1500年)に始まるとされる。この年、山内備後守宣澄なる人物がこの地に来住し、茂串山に城を築き、その地名をとって「窪川」を名乗ったのが初代であると伝えられている 8 。
しかし、この始祖・宣澄の出自については、二つの異なる説が存在し、今なお明確な結論は出ていない。一つは、相模国鎌倉の山内氏の出身であるという説である 6 。これは多くの文献で言及されており、鎌倉幕府の御家人に連なる権威ある家系であることを示唆する。もう一つは、土佐国中部の有力豪族である津野氏の一族であるという説である 13 。
どちらが史実であるかを断定することは困難である。外部から来た権威ある一族(相模山内氏)を祖とすることは、在地での支配の正当性を高めるための、後世の潤色であった可能性も否定できない。一方で、窪川氏が当初、津野氏の勢力圏に属していた事実から 4 、津野氏と何らかの血縁関係、あるいは強固な主従関係があった可能性は高い。この出自の謎は、戦国期の地方豪族が、自らの権威を高めるために系譜をいかに利用したかという問題を考える上で、興味深い事例と言える。
戦国時代の土佐国西部、特に四万十川上流域の高南台地一帯は「仁井田郷(仁井田庄)」と呼ばれていた。この地域は、単一の大名による支配ではなく、窪川氏を含む五つの有力な国人領主による連合支配体制、すなわち「仁井田五人衆」によって統治されていた 4 。窪川氏は、その五人衆の中でも最大の勢力を誇る筆頭格であったと記録されている 4 。
彼らの歴史は、より大きな勢力の動向に翻弄され、巧みに従属先を変えながら生き残りを図った、典型的な国人領主の姿を映し出している。
このように、窪川氏は津野氏、一条氏、長宗我部氏と、その時々の土佐における最大勢力に臣従することで、自らの所領を安堵され、仁井田郷における地位を維持し続けたのである。
長宗我部氏に臣従した窪川氏は、もはや独立した領主ではなく、長宗我部氏という巨大な軍事組織の一員として、土佐国外の戦役にも動員されることとなる。彼らの運命を決定づけたのは、天下を統一した豊臣秀吉が引き起こした文禄・慶長の役(朝鮮出兵)であった。
当時の当主であった窪川宣秋(あるいはその子)は、主君・長宗我部元親の軍に加わり、朝鮮半島へと渡海した 6 。しかし、この異郷の地での戦いにおいて、釜山付近で討死を遂げたと伝えられている 6 。この戦死により、窪川氏は家督を継ぐべき嗣子を失い、明応九年の創始から約一世紀にわたって続いた国人領主としての家系は、ここに断絶したのである 8 。
窪川氏の歴史は、戦国時代の地方国人領主が辿る典型的な軌跡を凝縮している。彼らは地域内での覇権を確立し、より大きな権力構造に組み込まれることで生き残りを図った。しかし、最終的にはその従属関係の末に、自らの領地とは全く関係のない、中央政権が引き起こした対外戦争という巨大な渦に飲み込まれ、滅び去った。彼らの滅亡の原因が、隣接するライバル豪族との局地的な争いではなく、日本の統一を成し遂げた豊臣政権の対外政策であったという事実は、極めて示唆に富んでいる。土佐の山奥の一領主の運命が、畿内の天下人の意向によって左右される。これこそが、戦国時代の終焉と、それに続く近世統一国家の幕開けを象徴する出来事と言えるだろう。
仁井田郷は、窪川氏を中心としながらも、複数の豪族が割拠する、さながら「小宇宙」のような様相を呈していた。『窪川町史』などの郷土史料を紐解くと、仁井田五人衆の筆頭であった窪川氏が、周辺のより小さな勢力を併合していくことで、地域内での覇権を確立していった過程が見て取れる 20 。
その一例が、西原氏が拠点とした鵜ノ巣城である。この城は、当初は独立した勢力であったが、後に窪川氏の支配下に組み込まれ、併合されている 20 。これは、仁井田郷という限られた地域世界の中においても、弱肉強食という戦国乱世の非情な論理が厳然と働いていたことを示している。
長宗我部元親の支配下に入った後は、状況が一変する。窪川氏、西原氏、東氏、志和氏といった、かつては競い合った旧仁井田五人衆は、元親という新たな主君の命令の下で、一つの軍団として行動することを余儀なくされた。朝鮮出兵への従軍は、その典型的な例である 20 。しかし、彼らの多くは、窪川氏と同様に、戦死したり、あるいは元親にその勢力を警戒されて謀殺されたりするなど、悲劇的な末路を辿り、断絶の道を歩むこととなった 20 。
窪川城が戦国期の土佐においてどのような位置づけにあったのかを客観的に評価するため、その城郭の規模や構造を、当時の土佐における三大勢力の拠点と比較分析することは極めて有効である。比較対象とするのは、土佐を統一した長宗我部氏の本拠「岡豊城」、公家大名として幡多郡に君臨した一条氏の本拠「中村城」、そして窪川氏がかつて属した津野氏の本拠「蓮池城」である。
これらの大名の拠点城郭と比較すると、窪川城は規模においても、構造の複雑さにおいても、明らかに一段階小規模なものである。この事実は、窪川氏が土佐一国の覇権を争う「プレイヤー」ではなく、その時々の有力者に従う「リージョナル・パワー(地域勢力)」であったことを、城郭という物理的証拠が裏付けている。
項目 |
窪川城(茂串城) |
岡豊城 |
中村城 |
城主 |
窪川氏 |
長宗我部氏 |
一条氏 |
位置づけ |
国人領主の拠点 |
戦国大名の本拠 |
公家大名の本拠 |
城郭規模 |
中規模 |
大規模 |
大規模 |
構造的特徴 |
土木主体の実戦的山城。居住機能は限定的か。 |
礎石建物多数。政治・居住機能が充実。 |
広大な山稜を利用。計画都市と一体。 |
防御思想 |
尾根筋を活かした標準的な防御施設(堀切、土塁)。 |
計画的な曲輪配置と竪堀群。拠点防衛思想。 |
地域全体の防衛を視野に入れた大規模な構え。 |
この比較表は、各城の特性を明確に示している。窪川城が、あくまで自領を防衛するための実戦的な砦であったのに対し、岡豊城や中村城は、より広域な領国を支配するための政治・経済・軍事の中枢として機能していた。城の姿は、城主の志向性と権力の大きさを映す鏡なのである。
文禄・慶長の役で窪川氏が断絶した後も、窪川城が即座に放棄されたわけではなかった。主君である長宗我部元親は、この地の戦略的重要性を認識しており、家臣の八木正久を城番として窪川城に配置した 8 。これにより、城は長宗我部氏の仁井田郷支配の拠点として、引き続きその軍事的な機能を維持していた。
しかし、その役割も長くは続かなかった。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、長宗我部氏は西軍に与して敗北。戦後処理の結果、土佐一国は没収され、改易の憂き目に遭う。主家を失った窪川城もまた、その存在意義を失い、ここに廃城となったのである 8 。
関ヶ原の戦いの後、土佐国には徳川家康から山内一豊が新たな国主として入封する。一豊は、家康への忠功篤い重臣・林勝吉(後の山内一吉)に対し、窪川周辺に五千石の知行を与えた 2 。
新たな領主となった林一吉は、慶長八年(1603年)、戦国期の窪川城(茂串城)があった茂串山の対岸に位置する古渓山に、全く新しい城を築いた 1 。これが「窪川土居城(古渓山城)」である。この城は、石垣も用いられた小規模ながら近世的な城郭であり、戦国期の山城とは設計思想も構造も異なっていた 2 。
しかし、この新たな城の命運もまた、時代の大きな変化に左右される。元和元年(1615年)、江戸幕府は全国の大名に対し、居城以外の城を破却するよう命じる「一国一城令」を発布。これにより、築城からわずか12年で古渓山城も取り壊されることとなった 1 。
その後、林氏(窪川山内氏)は、城を持つことを許されず、古渓山の麓に土居(居館)を構えてこの地を治めた 8 。この土居を中心に武家屋敷や町人町が形成され、これが近世窪川の町の直接的な起源となったのである 25 。
以上の歴史的経緯こそが、序論で述べた二つの「窪川城」の混同を生む根本的な原因である。すなわち、現代に繋がる窪川の町並みの直接の祖先は、山頂にあり廃城後に忘れ去られた戦国期の窪川城(茂串城)ではなく、江戸時代に麓に築かれ、地域の行政中心地となった窪川山内氏の土居なのである。
本報告書で詳述したように、窪川城(茂串城)は、戦国時代の土佐西部における一国人領主・窪川氏の興亡を象徴する城郭である。その構造は、国人領主の勢力規模を反映した、土木を主体とする実戦的な山城であった。そして、その歴史は、津野、一条、長宗我部という土佐国内のより大きな勢力の間で翻弄されながらも巧みに生き残りを図り、最終的には豊臣政権による日本統一という、より巨大な歴史の潮流に飲み込まれていった地方勢力の典型的な姿を示している。
窪川城と窪川一族の歴史を研究することは、単に一つの城や一つの家の盛衰を追うことに留まらない。それは、戦国時代という激動の変革期において、地方に根差した武士たちがどのように生き、そして歴史の舞台から消えていったのかを理解するための、極めて貴重な窓を提供してくれる。今日、茂串山の山頂に静かに眠る土塁や堀切の痕跡は、四百数十年の時を超え、彼らの束の間の栄光と、乱世の非情さを我々に静かに語りかけているのである。