但馬の竹田城は、山名宗全が築き、赤松広秀が総石垣の天空の城へと大改修。関ヶ原合戦で広秀は西軍に与し自刃、城は廃城となる。雲海に浮かぶ幻想的な姿は今も人々を魅了する。
雲海に浮かぶ威容から「天空の城」、あるいは「日本のマチュピチュ」と称され、多くの人々を魅了してやまない但馬国・竹田城 1 。その幻想的な景観は、映画『天と地と』や高倉健主演の『あなたへ』、さらには大河ドラマ『軍師官兵衛』のロケ地として映像化されることで、日本全国に知れ渡ることとなった 4 。秋から冬にかけての早朝、条件が揃えば眼下に広がる雲の海に、累々たる石垣群が島のように浮かび上がる光景は、まさに絶景と呼ぶにふさわしい 9 。
しかし、この現代的なイメージは、竹田城が持つ本来の歴史的価値や、戦国時代の過酷な現実を覆い隠してしまう危険性も孕んでいる。壮麗な石垣の一石一石には、権力者たちの野望、名もなき民の労苦、そして時代の奔流に翻弄された武将たちの悲劇が深く刻み込まれている。本報告書は、その表層的なイメージの奥深くへと分け入り、山名氏による創築から太田垣氏の長期統治、織田・豊臣政権下での大改修、そして関ヶ原合戦後の廃城と現代における再評価に至るまで、竹田城の全史を多角的に分析し、その歴史的実像に迫ることを目的とする。
年代 |
主要な出来事 |
嘉吉元年(1441) |
嘉吉の乱勃発。山名宗全が赤松満祐を討伐。 |
嘉吉年間(1441-43) |
山名宗全の命により、太田垣氏が竹田城の築城を開始。当初は土塁の城であった 1 。 |
応仁2年(1468) |
応仁の乱の最中、太田垣軍が夜久野にて細川軍を撃破 14 。 |
天正元年(1573) |
毛利軍(吉川元春)が但馬に侵攻。城主・太田垣輝延は降伏 14 。 |
天正3年(1575) |
丹波の赤井(荻野)直正が竹田城を一時占拠 14 。 |
天正5年(1577) |
織田信長の命により、羽柴秀長が但馬に侵攻。竹田城は落城し、秀長が城代となる 11 。 |
天正8年(1580) |
秀長が再度但馬を平定。太田垣氏による支配が完全に終焉。桑山重晴が城主となる 12 。 |
天正13年(1585) |
赤松広秀(斎村政広)が城主となる。これ以降、総石垣の城へと大改修が進められる 12 。 |
慶長5年(1600) |
関ヶ原合戦。赤松広秀は西軍に属す。戦後、鳥取城攻めに参加するも、放火の嫌疑で自刃。竹田城は廃城となる 12 。 |
昭和18年(1943) |
国の史跡に指定される 4 。 |
平成18年(2006) |
「日本100名城」に選定される 1 。 |
平成27年(2015) |
「竹田城跡保存活用計画」が策定される 21 。 |
竹田城の誕生を理解するためには、その直接的な引き金となった室町時代中期の大事件、「嘉吉の乱」にまで遡る必要がある。嘉吉元年(1441)、播磨・備前・美作の守護であった赤松満祐が、室町幕府6代将軍・足利義教を自邸に招いて暗殺するという前代未聞の事件が発生した 1 。この幕府の権威を根底から揺るがす事態に対し、但馬守護であった山名宗全(持豊)は、いち早く赤松氏討伐軍の総大将に名乗りを上げた。彼は一族を率いて播磨へ進軍し、赤松満祐を自刃に追い込む大功を立てる 1 。
この軍功により、山名宗全は幕府から播磨守護職をはじめとする赤松氏の旧領を与えられ、一躍、山陰・山陽にまたがる大守護大名へと躍進した 1 。しかし、この勢力拡大は新たな軍事的緊張を生む。山名氏の領国である但馬は、南に旧赤松勢力の温床である播磨、東に山名氏と幕政で対立する管領・細川氏の勢力圏である丹波と直接国境を接することになったのである。旧赤松残党によるゲリラ的な抵抗や、細川氏による但馬侵攻の脅威は、山名氏にとって喫緊の課題であった。竹田城が築かれた朝来の地は、まさにこの播磨・丹波からの侵攻ルートを扼する、地政学的に極めて重要な要衝であった 1 。竹田城の創築は、嘉吉の乱という中央政界の激変が、地方の軍事バランスに直接的な影響を与えたことを示す象徴的な出来事であり、応仁の乱へと向かう時代の転換点を体現していた。
このような背景のもと、嘉吉年間(1441-1443年)に山名宗全の命によって竹田城の築城が開始された 11 。伝承によれば、その工事には12年から13年もの歳月が費やされたとされ、山名氏がいかにこの城を重視していたかが窺える 1 。その目的は、第一に播磨・丹波方面からの敵の侵攻を防ぐための防衛拠点、第二に、逆にこちらから両国へ出撃するための攻撃拠点としての役割を担うことにあった 12 。山名氏の本拠である此隅山城(出石)の支城として、国境防衛の最前線を担うことが期待されたのである 12 。
ここで極めて重要な点は、この創築期の竹田城が、現在我々が目にする壮麗な総石垣の城郭とは全く異なる姿をしていたという事実である。当時の城は、山を削り、土を盛り上げて造成した曲輪を、土塁や堀切、急峻な切岸といった防御施設で固めた、典型的な中世山城であったと推定されている 13 。石垣が全くなかったとは断定できないものの、それはあくまで土塁の補強などに部分的に用いられる程度であり、城の主たる構造は土であった。現代にまで残る石垣の威容は、150年以上後の豊臣政権下で大改修されたものであり、創築時の姿と混同してはならない。この初期の形態は、当時の標準的な築城技術と思想を反映したものであり、実用本位の軍事要塞としての性格を色濃く示している。
竹田城が完成すると、城主として山名氏の重臣・太田垣氏が配された 11 。太田垣氏は、垣屋氏、八木氏、田結庄氏と並び「山名四天王」と称された但馬の有力国人領主であり、古くから山名氏に仕えた名族であった 12 。嘉吉の乱で山名宗全が播磨守護となると、太田垣誠朝が播磨守護代に任じられたという記録もあり、一族は山名氏の勢力拡大において中心的な役割を担っていた 15 。
竹田城の初代城主については、太田垣光景とする説 14 と、前述の太田垣誠朝とする説 21 があり、判然としない部分も残る。いずれにせよ、太田垣一族がこの城を拠点として、播磨国境の防衛という重責を担うことになったのは間違いない。彼らはこれより約130年間にわたり、竹田城主としてこの地を治めることになる。初代城主とされる光景は、築城に苦労した領民を労い、産業振興に努めるなど善政を敷いたとされ、城の守護神として信州から諏訪明神を勧請したと伝わる 24 。また、麓の常光寺には光景の供養塔が現存しており、太田垣氏とこの地の深いつながりを今に伝えている 14 。
山名宗全を西軍の総大将として勃発した応仁の乱(1467年-)は、但馬国をも戦火に巻き込んだ。当時の竹田城主・太田垣景近は、主君である宗全に従い、嫡男と共に京都の西陣に参陣している 13 。主力が京都に集中する中、その隙を突いて東軍の細川氏が但馬へと侵攻を開始した。
応仁2年(1468年)、細川方の軍勢が朝来郡に迫ると、竹田城で留守を預かっていた景近の次男・宗近(通称・新兵衛)が城兵を率いて出撃。丹波との国境に近い夜久野の地でこれを迎え撃ち、見事に撃破するという大功を立てた 14 。この「夜久野の合戦」は、竹田城が単なる籠城用の砦ではなく、状況に応じて打って出る機動的な出撃拠点として、極めて効果的に機能していたことを証明するものである。京都でこの報せを聞いた山名宗全は大いに感激し、自らが将軍・足利義満より下賜されたという宝刀「御賀丸」を宗近に与えてその功を賞したと伝えられており、太田垣氏の武威と竹田城の戦略的重要性が改めて示された 15 。
応仁の乱が終結した後も、但馬の情勢は安定しなかった。守護・山名氏の権威は失墜し、但馬国内では太田垣氏をはじめとする国人領主たちが自立性を強め、時には主家内の後継者争いに介入して実権を握ろうとするなど、下剋上の風潮が強まっていった 21 。
16世紀後半になると、竹田城を取り巻く脅威は、西から大きく変化する。中国地方の覇者となった毛利氏の勢力が但馬にまで及んできたのである。天正元年(1573年)、毛利元就の次男・吉川元春が率いる軍勢が但馬に侵攻すると、当時の城主・太田垣輝延はこれに抗しきれず、毛利方に降伏を余儀なくされた 14 。さらに天正3年(1575年)には、「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井(荻野)直正が竹田城と山名氏の本拠・有子山城を急襲し、一時的に占拠するという事態も発生した 14 。この時、山名祐豊は中央で勢力を拡大していた織田信長に救援を要請。信長が派遣した明智光秀による丹波攻め(第一次黒井城の戦い)が開始されたため、赤井直正は竹田城からの撤退を余儀なくされた。この一連の出来事は、但馬国が西の毛利、東の織田という二大勢力の草刈り場と化し、太田垣氏のような中小領主が巨大勢力の狭間で翻弄される典型的な状況に陥っていたことを如実に物語っている。
やがて織田信長と毛利氏の関係が決定的に悪化すると、但馬国は織田軍の本格的な侵攻目標となる。天正5年(1577年)、信長は羽柴秀吉を総大将とする中国方面軍を編成し、播磨へと派遣。これと連動して、秀吉の弟・羽柴秀長が率いる別動隊が但馬へと侵攻を開始した 11 。この織田軍の侵攻が、太田垣氏にとっての決定的な転機となった。
嘉吉の時代から約130年間、5代から7代にわたって竹田城を守り続けてきた太田垣氏の支配は、織田軍の圧倒的な軍事力の前に、ついに終焉の時を迎える 11 。彼らの歴史は、守護大名の忠実な被官として出発し、時代の流れと共に自立性を高め、最終的には織田信長という中央集権化の巨大な波に飲み込まれていった一地方国人の栄光と没落の軌跡そのものであった。そして竹田城は、その全ての舞台となったのである。この城主交代は、但馬という一国が旧来の守護・国人体制から、織田政権という新たな全国規模の支配体制へと組み込まれる画期を意味する、象徴的な出来事であった。
天正5年(1577年)、織田信長は宿敵であった毛利氏との全面対決を決意し、腹心である羽柴秀吉を中国方面軍の総司令官に任命した 14 。秀吉は黒田官兵衛の献策を受け入れて姫路城に本陣を置くと、播磨の国衆たちを次々と帰順させていった。その一方で、秀吉は弟の羽柴秀長に別動隊を預け、播但街道を北上させて但馬国へと進軍させた 12 。
秀長軍に与えられた任務は、単なる領土の制圧ではなかった。その最大の戦略目標は二つ。一つは、毛利方に与する但馬の国人領主たちを制圧し、秀吉本隊の背後を固めること。そしてもう一つは、当時、日本有数の産出量を誇り、織田軍の財政を支える上で極めて重要な戦略資源であった生野銀山を確保することであった 16 。竹田城は、この生野銀山の目と鼻の先に位置しており 16 、銀山を管理し、その輸送路を確保するためには、何としても攻略しなければならない最重要拠点であった。秀長軍は銀山周辺の岩洲城などを次々と攻略し、竹田城へと迫った 16 。
太田垣輝延が籠城する竹田城に対し、羽柴秀長は約3000の兵力で攻撃を開始したとみられている 16 。この戦いの様子について、最も信頼性の高い一次史料である『信長公記』には、「直に但馬国へ相働き、先山口岩州の城を落城し、此競に小田垣(太田垣)楯籠る竹田へ取懸り、是又退散」と、簡潔ながらも秀長軍が竹田城を攻略した事実が明確に記されている 17 。
一方、後世の編纂物であり史料的価値には議論があるものの、詳細な記述で知られる『武功夜話』には、より劇的な戦闘の様子が描かれている 28 。それによれば、太田垣軍は険峻な地形を利して岩石を投げ落とすなど激しく抵抗した。しかし、秀長軍はこれをものともせず、山谷を駆け巡り、三百挺もの鉄砲を揃えて一斉に射撃を加えるという猛攻を展開した。この近代的な火力戦の前に、旧来の戦術に頼る太田垣軍はついに抗しきれず、3日間の激闘の末に降伏し、城を明け渡したとされる 14 。『武功夜話』の記述には誇張が含まれる可能性を考慮すべきだが、織田軍が鉄砲を効果的に運用した可能性は高く、その先進的な戦術が勝利の決め手となったことは想像に難くない。城主・太田垣輝延は城を脱出し、毛利氏のもとへ落ち延びた 13 。
竹田城を攻略した羽柴秀長は、そのまま城代として入城した 13 。これは、竹田城が単なる前線基地ではなく、生野銀山と一体となった恒久的な支配拠点として、信長・秀吉から極めて高く評価されていたことを示している。この城を掌握することは、但馬一国の支配と、莫大な富を生む銀山の支配を同時に意味したのである。
この戦略的重要性を裏付けるように、『信長公記』には、秀長が城代となった直後、信長が「普請申付け」、つまり城の改修を命じたと記されている 17 。これが、竹田城が中世の土の城から、近世的な石垣の城へと変貌を遂げる第一歩となった。天正8年(1580年)、秀長は再び但馬に侵攻し、一度は毛利方の支援を得て城に復帰していた太田垣輝延を完全に駆逐 14 。これにより太田垣氏の支配は名実ともに終わりを告げ、竹田城は完全に織田・豊臣政権の直轄拠点となった。その後、秀長は有子山城主として転出し、竹田城には彼の配下であった桑山重晴が新たな城主として入城した 12 。織田・豊臣政権は、竹田城を単なる「山城」としてではなく、「生野銀山とセットになった経済・軍事複合体」として捉えていた。この視点こそが、後にこの城が壮大な総石垣の城へと大改修されるに至った根本的な理由である。
時代 |
城主(または関連人物) |
主要な事績・役割 |
室町時代(嘉吉年間) |
山名 宗全 |
築城命令者。嘉吉の乱後、対播磨・丹波の拠点として築城を命じる 1 。 |
室町~戦国時代 |
太田垣氏 (光景、輝延ら) |
初代から約130年間にわたり城主を務める。但馬国境の防衛を担う 11 。 |
安土桃山時代(天正5年~) |
羽柴 秀長 |
織田軍の将として竹田城を攻略。城代として入城し、信長から改修を命じられる 13 。 |
安土桃山時代 |
桑山 重晴 |
秀長の配下。羽柴政権下で城主を務める 12 。 |
安土桃山時代(天正13年~) |
赤松 広秀 (斎村 政広) |
最後の城主。豊臣政権下で入城し、城を総石垣の近世城郭へと大改修する 18 。 |
天正13年(1585年)、城主であった桑山重晴が和歌山城へ転封となると、その後任として播磨龍野城主であった赤松広秀(後に斎村政広と改名)が、朝来郡2万2千石の領主として竹田城に入城した 12 。彼こそが、竹田城を現在見られる姿へと変貌させた、最後の城主である。
広秀は、羽柴秀吉の播磨侵攻の際にいち早く恭順の意を示し、その後は秀吉の重臣・蜂須賀正勝の与力として、備中高松城の水攻め、賤ヶ岳の戦い、四国攻めなど、豊臣政権の主要な戦役で武功を重ねた叩き上げの武将であった 14 。その功績が認められ、秀吉の直臣、いわゆる「豊臣大名」の一員として竹田城主に抜擢されたのである。彼はその後も、九州征伐、小田原征伐、そして二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に従軍した。これらの経験、特に朝鮮半島で日本軍が築いた「倭城(わじょう)」の築城に携わった経験は、彼に最新の石垣技術や防御施設の設計思想を学ぶ絶好の機会を与えたと考えられる 16 。この戦場での実践的な知識が、竹田城の大改修において遺憾なく発揮されることになった。
現在、竹田城跡を訪れる者を圧倒する壮大な総石垣の遺構は、この赤松広秀が城主であった時代、すなわち文禄年間から慶長初期(1590年代)にかけて整備・完成されたというのが定説である 11 。これは、羽柴秀長時代に始まった改修計画を引き継ぎ、完成させたものと考えられる。
しかし、この山頂における大規模な普請事業は、2万2千石の一大名の財力だけで成し遂げられるものではなかった。その背後には、豊臣政権による強力な支援があったと見るのが自然である。その傍証として、近年の発掘調査では、山城としては極めて異例なことに、三の丸から南二の丸にかけての広範囲に石畳が敷設されていたことが判明している 30 。さらに、城跡から出土した瓦の文様が、当時の姫路城主であった木下家定(秀吉の正室・ねねの兄)や池田輝政の時代のものと酷似していることも指摘されている 21 。これらの事実は、竹田城の改修が、姫路城を拠点とする西国支配の元締めからの技術的・財政的支援を受けて行われた、豊臣政権の一大プロジェクトであった可能性を強く示唆している。それは、竹田城が依然として但馬支配と生野銀山防衛の要として、中央政権から重要視されていたことの証左に他ならない。この大工事は13年から15年を要したとされ、賦役を課せられた領民の間では「(労役で田畑が荒れ果て)田に松が生えた」という言葉が伝えられるほど、過酷なものであったという 31 。
竹田城の石垣普請を担ったのは、近江国穴太(現在の滋賀県大津市坂本)を拠点とする石工の専門技術者集団「穴太衆(あのうしゅう)」であったと伝えられている 11 。彼らは、もともと比叡山延暦寺などの寺社の石垣を手掛けていたが、織田信長の安土城築城でその名を天下に轟かせた 35 。その技術の特徴は、自然の石をほとんど加工せず、石の形や重心を見極めて巧みに組み上げ、堅固な石垣を築く点にあった 38 。
竹田城の石垣で主として用いられているのは、この穴太衆が得意とした「野面積み(のづらづみ)」という技法である 34 。大小様々な自然石を組み合わせたその見た目は荒々しいが、石同士がしっかりと噛み合い、隙間が多いため排水性にも優れ、地震や豪雨にも強いという優れた特性を持っていた 38 。さらに、石垣の強度を決定づける隅角部には、長方形に加工した石の長辺と短辺を交互に積み重ねる「算木積み(さんぎづみ)」という、当時最新の先進的な技法が採用されている 34 。これは、安土城以降に本格的に普及した技術であり、竹田城の改修に当時の最高水準の技術が投入されていたことを物語っている。壮麗な石垣は、赤松広秀個人の功績であると同時に、豊臣政権という巨大な権力がその背後に存在したことの証であり、山麓から見上げる人々に中央政権の威光を示す、強力な装置でもあった。
竹田城は、その山容が虎が伏せている姿に似ていることから、古くから「虎臥城(とらふすじょう、または、こがじょう)」の別名で呼ばれてきた 1 。その縄張り(城全体の設計)は、標高353.7メートルの古城山の山頂から三方へ延びる尾根全体を最大限に活用し、南北約400メートル、東西約100メートルにも及ぶ広大な規模を誇る、極めて巧みなものである 2 。
特筆すべきは、山頂に築かれた城郭でありながら、その主要な曲輪のすべてが石垣で囲まれた「総石垣」の城であるという点だ 2 。これは全国的に見ても極めて稀な例であり、竹田城を戦国末期の山城の到達点たらしめている最大の要因である。その構造は、中世的な山城の険峻さと、近世城郭の計画性・堅固さを併せ持っており、まさに時代の過渡期を象徴する傑作と言える。
城郭の配置は、最高所に位置する「本丸」を中心に構成されている。本丸内部には「天守台」が設けられており、これが城全体の核となっている 2 。天守台の規模は南北約12.7メートル、東西約10.7メートルで、発掘された礎石跡から、柱間6尺5寸の京間で設計された建物が存在したと推定されている。しかし、天守台には地下室にあたる穴蔵や直接登るための石段がなく、本丸御殿や隣接する付櫓から内部の階段を通じて出入りする、やや特殊な構造であったと考えられている 17 。
この本丸から、三方の尾根に沿って主要な曲輪群が放射状に配置されている。北には「二の丸」「三の丸」を経て「北千畳」、南には「南二の丸」を経て「南千畳」、そして西には「花屋敷」と呼ばれる曲輪が延びている 2 。これらの曲輪配置で最も驚くべき点は、北千畳、南千畳、花屋敷という三つの大規模な曲輪が、標高約331メートルと、ほぼ同じ高さで計画的に造成されていることである 2 。これは、単に自然の地形に合わせただけでなく、城全体を立体的にも計算し、均整の取れた姿に見せようという高度な設計思想が存在したことを示している。発掘調査では、北千畳から御殿のような建物があったことを示す礎石や、中国製の陶磁器が出土しており、これらの曲輪が単なる防御空間ではなく、ある程度の居住空間としても機能していたことが窺える 42 。
竹田城の防御施設は、火縄銃による集団戦法が一般化した戦国末期の戦術思想を色濃く反映しており、極めて実践的かつ高度な設計となっている。城の正面口である大手口や三の丸には、「枡形虎口(ますがたこぐち)」が設けられている 34 。これは、門の内側に四角い空間を設け、進入してきた敵兵の動きを制限し、周囲の石垣の上から三方向、あるいは四方向から集中攻撃を加えるための強力な防御施設である。
また、三の丸から二の丸へ向かう通路には、道をクランク状に折り曲げることで敵の突進を防ぐ「食い違い虎口」が採用されている 34 。さらに、城全体の石垣は直線的ではなく、意図的に「折れ」や「出角・入角」が多用されている。これにより、石垣に取り付いた敵兵に対し、死角なく側面から矢や鉄砲による攻撃(横矢掛かり)を加えることが可能となっている 33 。これらの防御施設の組み合わせは、敵兵を城の奥深くまで誘い込み、段階的に消耗させていくという、計算され尽くした戦術思想の表れであり、竹田城が単なる威容を誇るだけの城ではなく、実戦を想定した戦闘要塞であったことを雄弁に物語っている。
竹田城は、しばしば備中松山城(岡山県)、岩村城(岐阜県)と共に「日本三大山城」と称される。これらの城郭と比較することで、竹田城の持つ独自性がより一層明確になる。
備中松山城は、天然の巨大な岩盤を石垣の基礎として巧みに取り込んだ、野性的でダイナミックな景観を特徴とする 44 。また、山城としては唯一、江戸時代に建造された現存天守を持つ点も際立っている 46 。
岩村城は、標高717メートルという日本で最も高い場所に本丸が築かれた城として知られる 47 。その最大の特徴は、本丸に至る道筋に幾重にも設けられた石垣群であり、特に「六段壁」と呼ばれる壮大な石垣は圧巻である 49 。
これら二城と比較した際の竹田城の際立った特徴は、第一に、尾根全体を一つのユニットとして計画的に設計した縄張りの完成度の高さであり、第二に、主要な曲輪のすべてを石垣で囲んだ「総石垣」という徹底性にある。備中松山城や岩村城が、より自然の地形に寄り添った中世的な要素を色濃く残しているのに対し、竹田城は近世城郭の規格性・計画性を大胆に導入している。それは、山城という形態がそのポテンシャルを極限まで発揮した、最後の輝きであったと言えるだろう。
城名 |
所在地 |
特徴 |
縄張り・石垣の特色 |
竹田城 |
兵庫県朝来市 |
天空の城。総石垣の完存遺構。計画的な縄張り。 |
尾根全体を活用した放射状の曲輪配置。枡形虎口、横矢掛かりなど高度な防御施設。穴太衆による野面積みが主体 2 。 |
備中松山城 |
岡山県高梁市 |
現存天守を持つ唯一の山城。国の重要文化財。 |
天然の岩盤を巧みに取り込んだ石垣が特徴。連郭式の縄張りで、天守と二重櫓が現存 44 。 |
岩村城 |
岐阜県恵那市 |
日本一標高の高い(717m)本丸を持つ。女城主の悲話。 |
本丸までの高低差が約180m。複雑に折れ曲がる登城路と、名物「六段壁」に代表される壮大な石垣群 47 。 |
慶長5年(1600年)、太閤・豊臣秀吉の死後、天下の実権を巡る徳川家康と石田三成の対立は頂点に達し、天下分け目の関ヶ原合戦が勃発した。この国家的な動乱の中、竹田城主・赤松広秀は、石田三成が率いる西軍に与するという、重大な決断を下す 12 。
彼のこの選択は、いくつかの要因から理解することができる。第一に、広秀は秀吉によってその才能を見出され、一国人領主から大名へと取り立てられた、典型的な豊臣恩顧の大名であった。豊臣家への忠誠心、あるいは恩義が、彼の行動を規定したであろうことは想像に難くない。第二に、竹田城のある但馬国は、毛利輝元や宇喜多秀家といった西軍の主力大名の勢力圏に囲まれており、地理的に東軍に与することが極めて困難な状況にあった。周囲の情勢に流される形で、西軍への参加を余儀なくされた側面もあったと考えられる。広秀は西軍の一員として、丹後田辺城に籠城する当代随一の文化人武将・細川幽斎(藤孝)の攻撃に参加した 12 。
しかし、広秀らが田辺城を攻めている最中の9月15日、美濃関ヶ原で行われた本戦は、わずか一日で西軍の壊滅的な敗北という形で決着した 16 。西軍敗戦の報せを受け、竹田城に戻った広秀は、自らの生き残りをかけて東軍へと寝返ることを決意する。彼は、かねてより東軍に通じていた因幡鹿野城主・亀井茲矩の誘いに乗り、当時まだ西軍方として鳥取城に籠城していた宮部長房を攻撃する軍に加わった 13 。
この鳥取城攻めの際、広秀の軍勢が城下町に火を放ったとされている 16 。この行為が、彼の運命を暗転させる。戦後、徳川家康からこの放火の責任を厳しく追及され、広秀は切腹を命じられてしまうのである 12 。西軍から寝返り、東軍として戦功まで挙げた武将に対するこの処断は、あまりに過酷であった。一説には、鳥取城攻略の功を独り占めしようとした亀井茲矩が、家康に対して広秀を讒言し、放火の罪をすべて彼になすりつけた謀略であったとも伝えられている 13 。真相は定かではないが、広秀は多くを弁明することなく、武将としての誇りを保ち、慶長5年10月28日、鳥取の真教寺にて自刃して果てた。享年39歳の若さであった 13 。この処断は、家康による豊臣恩顧大名の排除と、徳川による新たな支配秩序構築のための、冷徹な政治的判断の結果であった可能性が高い。
悲劇的な最期を遂げた城主を失った竹田城もまた、その歴史に幕を閉じることとなる。江戸幕府が元和元年(1615年)に発した一国一城令を待つまでもなく、広秀の死とほぼ同時に、慶長5年(1600年)に廃城とされた 12 。強力な軍事拠点である竹田城を、新たな城主を置かずに即座に廃したのは、この地域に徳川家にとって不確定要素となりうる軍事力を残さないという、新政権の強い意志の表れであった。
城主の居館や櫓、門といった建物はすべて取り壊され、資材は他の場所へ転用されたと考えられる。しかし、膨大な労力と費用をかけて築かれた壮大な石垣は、破壊されることなく、そのままの姿で山上に残された。これが、400年後の現代において、竹田城が「戦国末期の石垣遺構が完全に残る、全国でも稀有な城跡」として、極めて高い歴史的価値を持つに至った理由である 11 。歴史の表舞台から退場した竹田城は、その後、生野代官所の管轄下に置かれ、静かに長い眠りにつくことになった 16 。
江戸時代を通じて、竹田城は歴史の中に埋もれた存在となった。城主を失った麓の城下町は、但馬と播磨を結ぶ宿場町としてその機能を変え、存続した。最後の城主・赤松広秀が奨励したとされる漆器づくりは、明治期には「竹田塗」として大成し、町に新たな産業をもたらした 53 。
近代に入り、竹田城の持つ歴史的価値が学術的な観点から再評価され始める。そして昭和18年(1943年)、その貴重な遺構が評価され、国の史跡に指定された 4 。戦後、さらにその価値は広く認識されるようになり、平成に入ると全国の山城研究者が集う「全国山城サミット」の開催地となり 14 、平成18年(2006年)には公益財団法人日本城郭協会によって「日本100名城」の一つに選定された 1 。これにより、竹田城は城郭愛好家や歴史研究者の間で、一度は訪れるべき重要な史跡としての地位を確立した。
竹田城が一部の専門家や愛好家だけでなく、広く一般にまでその名を知られるようになった最大のきっかけは、「天空の城」という、その景観を的確に表現した呼称の浸透であった 10 。この幻想的な光景を生み出す雲海の正体は、城下を蛇行して流れる円山川から発生する「蒸発霧(じょうはつぎり)」である 3 。
その発生メカニズムは気象学的に説明できる。秋から冬(9月下旬から12月上旬)にかけて、放射冷却によって夜から朝にかけて急激に冷え込む晴れた日、なおかつ風が弱いという条件が揃うと、空気の温度が円山川の水温よりも低くなる。すると、暖かい川面から蒸気が立ち上り、それが冷たい空気に触れて凝結し、濃い霧が発生する。この霧が、周囲を山に囲まれた盆地状の地形に滞留することで、雲の海が形成されるのである 55 。
この稀有な自然現象と壮大な城跡の組み合わせが、1990年の映画『天と地と』(春日山城のロケ地として使用)を皮切りに 5 、2012年公開の高倉健主演映画『あなたへ』で決定的に多くの人の知るところとなった 6 。さらに、スマートフォンの普及とSNSによる写真の拡散がその人気に拍車をかけ、観光客は爆発的に増加した。
年間50万人もの観光客が訪れるほどの急激な人気の上昇は、地域経済を潤すという正の側面をもたらす一方で、「オーバーツーリズム」という深刻な問題を引き起こした 8 。具体的には、大勢の観光客の踏圧による史跡(特に石垣)の損傷、麓の城下町や周辺道路における慢性的な交通渋滞、そして登山道での転倒事故や急病人の発生といった安全上の問題である 8 。
これらの課題に対し、地元の朝来市は様々な対策を講じている。まず、史跡の保存修理費用を捻出するために入城料(観覧料)を導入。城跡内の混雑緩和と遺構保護のために、見学ルートを一方通行に規制した。安全対策としては、救急隊の到着に時間がかかることを考慮し、城跡内に複数のAED(自動体外式除細動器)を設置するという先進的な取り組みも行っている 8 。交通問題に対しては、観光バスの駐車場を予約制とし、一度に車両が集中しないよう平準化を図るシステムを導入した 62 。
さらに、こうした対症療法的な対策に留まらず、より長期的・包括的な視点から、平成27年(2015年)には「竹田城跡保存活用計画」を策定した 21 。これは、文化財保護法に基づき、史跡の適正な保存と、教育や観光における活用をいかに両立させるかという、将来を見据えた指針を定めたものである 63 。竹田城は、歴史遺産を次世代に継承しつつ、持続可能な観光地として発展していくための、現代社会における一つのモデルケースとなっている。
竹田城の歴史を紐解くことは、一つの城の盛衰を追うことに留まらない。それは、室町幕府の権威が揺らぐ中で、山名氏が国境防衛のために築いた中世的な土の砦が、織田・豊臣政権という新たな中央集権体制の下で、生野銀山という経済的価値と結びついた戦略拠点へとその意味を変え、そして最後の城主・赤松広秀の手によって、近世城郭の威容を誇る権力の象徴へと昇華されていく、日本の歴史の大きな転換点を目の当たりにすることである。
その累々たる石垣の一つ一つは、沈黙のうちに多くを語りかけてくる。それは、戦国時代の激動、穴太衆に代表される築城技術の革新、そして天下統一という巨大なうねりの中で生きた人々の野望、名もなき民衆の労苦、そして志半ばで散った武将の悲劇である。竹田城は、中世から近世へと移行する時代のダイナミズムを、その山上の縄張りの中に凝縮した、他に類を見ない歴史の証人と言えよう。
現代において、我々は「天空の城」という美しくも表層的なイメージに魅了される。しかし、その雲海の向こう側にある、石垣が持つ本来の歴史的文脈を見失ってはならない。竹田城が真に語りかけるものに耳を傾け、その価値を理解し、未来へと継承していく責任が、現代を生きる我々には問われている。歴史遺産との共生とは何か。竹田城はその壮大な姿をもって、静かに、しかし雄弁に、我々に問い続けているのである。