伯耆国に南条氏が築いた羽衣石城は、尼子・毛利・織田の狭間で激動の歴史を刻んだ。堅固な要塞も関ヶ原で南条氏改易と共に廃城となるが、その記憶は今も地域に息づく。
本報告書は、日本の戦国時代において伯耆国(現在の鳥取県中部・西部)に存在した山城「羽衣石城(うえしじょう)」について、その歴史的変遷、城郭構造、そして城主であった南条氏の興亡を多角的に分析し、総合的に考察するものである。
伯耆国、とりわけ羽衣石城が位置する東郷池周辺は、古代から山陰道が通過する交通の要衝であった。戦国時代に入ると、この地は西方の出雲国を本拠とする尼子氏、中国地方の覇者として勢力を拡大する安芸国の毛利氏、そして畿内から東進する織田氏という三大勢力の力が交錯する最前線となった。このような地政学的条件下において、羽衣石城は単に一国人領主の居城という役割に留まらず、中国地方全体の勢力図を左右する極めて重要な戦略的拠点として機能した。
本報告書では、まず羽衣石城の歴史的経緯を概観するための年表を提示する。次いで、城の創築と文化的背景、その堅固な縄張と広域防御網、城主南条氏の尼子・毛利・織田との間で揺れ動いた激動の歴史、そして関ヶ原合戦による終焉と、廃城後の文化的継承に至るまでを章ごとに詳述する。これにより、羽衣石城が戦国史の中で果たした役割と、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。
年号(西暦) |
主な出来事 |
関連人物 |
典拠・意義 |
貞治5年 (1366) |
南条貞宗により羽衣石城が築城されると伝わる。 |
南条貞宗、足利義詮 |
東伯耆における南条氏の拠点形成の始点 1 。 |
大永4年 (1524) |
尼子経久の伯耆侵攻により落城(大永の五月崩れ)。尼子氏の支配下に入る。 |
南条宗勝、尼子経久、尼子誠久 |
尼子氏の勢力拡大と南条氏の一時的退去 2 。※近年の研究ではこの事件の存在自体に異説あり 4 。 |
天文9年 (1540) |
南条氏、尼子方として毛利元就の吉田郡山城攻めに参加。 |
尼子晴久、南条氏 |
この時点では南条氏が尼子氏に属していたことを示す 1 。 |
天文15年 (1546) |
南条国清(後の宗勝)、尼子方を離反し羽衣石城から退去。 |
南条宗勝(国清) |
南条氏が尼子氏から離れる契機 4 。 |
永禄5年 (1562) |
南条宗勝、毛利氏の支援を得て羽衣石城へ復帰。 |
南条宗勝、毛利元就 |
毛利氏の勢力下で東伯耆の支配権を回復 4 。 |
天正3年 (1575) |
南条宗勝が急死。子の元続が家督を継承。 |
南条宗勝、南条元続、吉川元春 |
元続は吉川氏に忠誠を誓う起請文を提出するも、父の死に不信感を抱く 6 。 |
天正7年 (1579) |
南条元続、毛利氏から離反し、織田信長(羽柴秀吉)に与する。 |
南条元続、羽柴秀吉、山田重直 |
織田氏の中国進出に伴う、南条氏の存亡を賭けた戦略的転換 6 。 |
天正9年 (1581) |
吉川元春が鳥取城救援のため馬ノ山に布陣。羽柴秀吉が後詰として高山(十万寺所在城)に対陣。 |
吉川元春、羽柴秀吉、南条元続 |
織田・毛利の二大勢力が羽衣石城を巡り直接対峙。秀吉は城に兵糧を補給 9 。 |
天正10年 (1582) |
吉川元春配下の山田重直により羽衣石城が落城。元続は播磨へ逃れる。 |
南条元続、山田重直、吉川元春 |
秀吉が備中高松城攻めに転じた隙を突かれ、一時的に城を失う 4 。 |
天正12年 (1584) |
本能寺の変後の和睦により、元続は羽衣石城を回復。東伯耆三郡の領有が確定。 |
南条元続、豊臣秀吉 |
豊臣政権下で伯耆東部の大名として地位を確立 10 。 |
天正19年 (1591) |
南条元続が病死。幼少の子・元忠が家督を継ぎ、叔父の小鴨元清が後見役となる。 |
南条元続、南条元忠、小鴨元清 |
南条氏の支配体制に不安定要素が生じる 5 。 |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦いで南条元忠は西軍に属し敗北。戦後、改易され羽衣石城は廃城となる。 |
南条元忠、石田三成、徳川家康 |
南条氏の滅亡と、約234年続いた城の歴史の終焉 8 。 |
慶長19年 (1614) |
大坂冬の陣で、南条元忠が豊臣方として籠城するも、徳川方への内応が露見し切腹。 |
南条元忠 |
南条氏の嫡流が完全に断絶 2 。 |
昭和6年 (1931) |
南条氏の子孫により、本丸跡に鉄骨トタン製の模擬天守が建立される。 |
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近代における祖先顕彰の動きと、城跡保存の契機 4 。 |
平成13年 (2001) |
「羽衣石城跡」として鳥取県指定史跡に指定される。 |
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城跡の歴史的・文化的価値が公的に認定される 4 。 |
羽衣石城の創築は、南北朝時代の貞治5年(1366年)、南条貞宗によってなされたと伝えられている 1 。『羽衣石南条記』などの後世の記録によれば、貞宗は当初、城の南方に位置する十万寺集落での築城を計画していた。しかし、その予定地のそばにある日向池にツバメが落ちるという出来事があり、これを不吉と感じた貞宗は築城地を現在の羽衣石山へと変更したという伝承が残っている 4 。
この築城主とされる南条氏の出自については、複数の説が存在し、その起源は必ずしも明確ではない。『羽衣石南条記』や『伯耆民談記』といった江戸時代の編纂物では、出雲守護であった塩冶高貞の子・高秀が、高貞の滅亡後に伯耆国へ逃れ、南条貞宗と名を改めて羽衣石城を築いたとし、近江源氏佐々木氏の一族であるとされている 15 。しかし、より信頼性の高い一次史料の分析が進んだ近年の研究では、南条宗勝・元続・元忠の三代が発給した文書において、自らの姓を「賀茂姓」と記していることが確認されている 5 。これは、南条氏が少なくとも戦国時代後期において、賀茂氏の系統を自認していたことを示す有力な証拠であり、塩冶氏後裔説とは異なるルーツを持っていた可能性を示唆している。
いずれの出自であれ、南条氏は南北朝時代から室町時代にかけて、伯耆国の守護大名であった山名氏の配下で有力な国人領主として徐々に勢力を拡大していった。応仁の乱(1467年-1477年)で守護の権威が揺らぐと、南条氏はその機に乗じて独立性を強め、戦国時代を迎える頃には東伯耆において守護の力を凌ぐほどの武力を保持するに至ったのである 5 。
羽衣石城という優美な名称は、この地に古くから伝わる「羽衣天女伝説」に深く根差している。その伝説は次のようなものである。
昔、一人の天女がこの山に舞い降り、大きな石にその羽衣を掛けて麓の池で水浴びをしていた。そこを通りかかった麓の農夫が、石に掛けられた美しい羽衣を見つけ、これを持ち去ってしまった。天に帰る術を失った天女は、やむなくその農夫の妻となり、二人の子供をもうけた。月日が経ったある日、天女は子供たちから羽衣の隠し場所を聞き出し、ついにそれを取り戻す。羽衣を身にまとった天女は、泣き悲しむ子供たちを残して天へと昇っていった。二人の子供は母を呼び戻そうと近くの山に登り、太鼓を打ち、笛を吹いて母が好きだった音楽を奏で続けたが、母が戻ることはなかった 9 。
この伝説に基づき、天女が羽衣を掛けたとされる巨石は「羽衣石(はごろもいし)」、天女が舞い降りた山は「羽衣石山」、そして子供たちが鼓を打ち鳴らし笛を吹いた山は、現在の倉吉市にある「打吹山(うつぶきやま)」と呼ばれるようになったと伝えられている 9 。
この伝説には、天女の夫を単なる農夫ではなく、初代城主である南条貞宗とするバリエーションも存在する 9 。これは、単なる偶然の一致ではなく、南条氏が自らの支配を正当化し、地域に根付かせるための巧みな戦略であったと考えられる。地域の神聖な伝承と自らの祖先を結びつけることで、南条氏は単なる武力による支配者ではなく、その土地の神話的秩序を受け継ぐ正統な統治者としての権威を確立しようとしたのである。羽衣石城の創築は、軍事拠点の建設であると同時に、支配の正当性を強化する文化的装置としての役割をも担っていたと言えよう。
羽衣石城は、標高372メートル、比高約280メートルの峻険な羽衣石山の自然地形を最大限に活用して築かれた、鳥取県内でも最大規模を誇る中世山城である 2 。その縄張(城郭の設計)は、山頂部を主郭とし、そこから放射状に延びる尾根筋に多数の曲輪(くるわ)を階段状に配置した連郭式の構造を基本とする 8 。
主郭部は、山頂に設けられた東西66メートル、南北20メートルの細長い長方形の本丸を中心に、二の丸、三の丸が連なり、それらを二段の帯曲輪が取り巻く形で構成されている 4 。本丸への主要な入口である虎口(こぐち)は西側に設けられ、部分的に石垣が用いられており、防御意識の高さが窺える 4 。発掘調査では瓦の出土が確認されておらず、城内の建物は基本的に板葺きであったと推定されている 4 。また、帯曲輪からは物見櫓や板塀の存在を示す柱穴や柵穴が検出されており、厳重な警戒態勢が敷かれていたことがわかる 4 。
城全体の防御施設は多彩かつ堅固である。尾根筋には敵の進軍を断ち切るための巨大な堀切(ほりきり)が設けられ、斜面には敵兵の横移動を妨げるための竪堀(たてぼり)が掘られている 2 。特に大手口(正面の登城路)には、高さ5メートルほどの自然の崖をそのまま防壁として利用した「天然の塁壁」と呼ばれる防御施設があり、攻め手の侵入を容易に許さない構造となっている 4 。
山城における生命線である水の確保についても、大手口の途中に「お茶の水井戸」と呼ばれる井戸が存在し、籠城戦に備えていたことが推測される 2 。城跡からは16世紀代を中心とする陶磁器や土器、鉄砲玉などが多数出土しており、この城が戦国時代を通じて、合戦の際の籠城拠点として実際に機能していたことを物語っている 21 。
しかし、この堅城にも構造上の弱点が存在した。城の東側に連なる尾根は、峰伝いに攻撃を受けやすく、防御の要であった。南条氏もこの弱点を認識し、数段の砦と堀切を設けて防御を固めていたが、天正10年(1582年)に吉川元春の軍勢に攻められた際には、この東方尾根からの攻撃を支えきれずに落城を喫している 4 。
羽衣石城の防御思想は、城単体で完結するものではなく、周辺に配置された多数の支城や砦と連携した、広域的な防御ネットワークの中核として構想されていた。文献には、白石砦、河口城、田尻城、高野宮城、松崎城といった支城群の存在が記録されており、これらが一体となって南条氏の領国を防衛していた 4 。
この支城網の中でも特に重要な役割を担っていたのが、羽衣石城の北北東約500メートルに位置する「番城(ばんじょう)」である。標高400メートルと羽衣石城よりも高い位置に築かれたこの砦は、北方、すなわち毛利・吉川勢の動向を監視するための物見として、極めて重要な戦略的価値を持っていた 9 。
さらに、城の南方約850メートルには「十万寺所在城(じゅうまんじしょざいじょう)」と呼ばれる大規模な城郭遺構が存在する 4 。この城は、主郭が土塁で囲まれ、尾根には巨大な堀切が穿たれるなど、非常に堅固な構造を持つ。地元では古くから「たいこうがなる(太閤ヶ平)」と呼ばれており、天正9年(1581年)に南条氏救援のために出陣した羽柴秀吉が、対峙する吉川元春軍を見据えて築いた陣城(じんじろ)であった可能性が近年、考古学的調査からも強く指摘されている 4 。
羽衣石城の構造は、自然地形を活かした中世山城の伝統的な特徴を色濃く残す一方で、部分的な石垣の導入や、支城網との有機的な連携といった近世城郭への過渡的な要素も併せ持っている。しかし、戦国時代末期のトップクラスの武将であった羽柴秀吉が、救援に駆けつけた際に羽衣石城へ入城せず、より戦略的に優位な地点に新たな高性能の陣城を構築したという事実は、当時の戦術の高度化を物語ると同時に、羽衣石城の構造が最新の攻城戦術に対しては必ずしも万全ではなかったことを示唆している。この一連の城郭群は、戦国末期の緊迫した攻防戦の実態を今に伝える貴重な遺構なのである。
戦国時代、伯耆国は西の尼子氏と南の毛利氏という二大勢力の狭間に置かれ、南条氏の歴史もまた、この両勢力との関係によって大きく左右された。
16世紀前半、出雲の尼子経久が山陰地方にその勢力を拡大すると、伯耆国もその影響下に置かれる。通説によれば、大永4年(1524年)、尼子氏の本格的な伯耆侵攻(大永の五月崩れ)によって羽衣石城は落城し、城主であった南条宗勝は因幡国へ退去を余儀なくされた 2 。その後、羽衣石城には尼子経久の一族である尼子誠久(あるいは新宮党の尼子国久)が城主として入ったとされる 2 。ただし、近年の研究では、この「大永の五月崩れ」と呼ばれる一連の出来事の存在自体を疑問視する見解も提示されている点には留意が必要である 4 。
いずれにせよ、南条氏は一時的に尼子氏の支配下に入ったことは確かと見られる。天文9年(1540年)の尼子晴久(経久の孫)による毛利元就の吉田郡山城攻めには、南条氏が尼子軍の一員として参加した記録が残っている 1 。
しかし、尼子氏の勢力に陰りが見え始め、代わって安芸の毛利元就が中国地方の覇者として台頭してくると、南条宗勝は生き残りをかけて巧みな外交手腕を発揮する。天文15年(1546年)頃には尼子方から離反し 4 、最終的に毛利氏へと転属した。そして永禄5年(1562年)、毛利氏が尼子氏を滅ぼす過程で、宗勝はその支援を受けてついに羽衣石城へと復帰し、毛利氏の支配下で東伯耆三郡(河村・久米・八橋郡)の支配を安堵されるに至った 4 。
毛利氏の傘下で東伯耆の支配を固めた南条氏であったが、天正年間に入ると、中央で天下統一を進める織田信長の勢力が中国地方に及び始め、再び大きな時代の転換点を迎える。
天正3年(1575年)、当主の南条宗勝が、毛利氏の本拠である月山富田城に吉川元春らを訪問したその帰途に急死するという事件が起こる 4 。家督を継いだ嫡男の南条元続は、この父の死が毛利方による謀略ではないかと深く疑い、毛利氏に対して強い不信感を抱くようになった 4 。家督相続直後には、元続は吉川元春・元長親子に対して、亡父同様の忠誠を誓う血判の起請文を提出しており、当初は関係維持を模索していた様子が窺えるが、水面下では疑念が渦巻いていた 7 。
この状況下で、元続は織田信長の部将として山陰方面へ進出してきた羽柴秀吉と密かに連絡を取り始める。そして天正7年(1579年)、ついに毛利氏からの離反を決意し、織田方へと寝返った 6 。この離反の過程で、南条家中にありながら毛利氏との繋がりが深かった重臣・山田重直との対立が表面化する。元続は重直の居城である堤城を攻撃し、これを追放。これにより、南条氏と毛利氏の関係は決定的に破綻し、伯耆国は再び戦乱の渦に巻き込まれることとなった 26 。
南条氏の歴史は、中央の巨大権力の動向に翻弄され続けた辺境国人領主の典型的な軌跡を示している。彼らの所属先の変更は、単なる「裏切り」といった道徳的な評価でなく、一族の存亡を賭けた冷徹な地政学的判断の結果として理解する必要がある。特に、父の不可解な死という個人的動機と、織田氏の伸長というマクロな情勢変化が重なった元続の代の決断は、その象徴的な事例と言えるだろう。
南条氏の離反に対し、毛利方は即座に軍事行動を開始した。天正9年(1581年)、羽柴秀吉が因幡鳥取城に対して「渇え殺し」と呼ばれる壮絶な兵糧攻めを行っている最中、毛利軍の山陰方面司令官であった吉川元春は、鳥取城を救援すべく大軍を率いて出陣した 9 。
元春の戦略目標は、まず織田方に寝返った南条氏の拠点・羽衣石城を攻略し、秀吉軍の背後を脅かすことにあった。同年10月25日、吉川軍は東郷池の北岸に位置し、羽衣石城を一望できる要衝・馬ノ山に陣を敷き、臨戦態勢を整えた 9 。
まさにその時、鳥取城が落城し、城主の吉川経家が自刃したとの報が元春のもとに届く。鳥取城救援という大義を失った元春であったが、矛先を羽衣石城に定め、攻撃準備を進めていた。一方、鳥取城を攻略した秀吉のもとへ、南条元続と弟の小鴨元清から「吉川元春が羽衣石城に迫っている」との緊急の救援要請が届く 9 。これに応じた秀吉は、姫路へ帰還する予定を返上し、軍を率いて急遽伯耆国へと取って返した。10月27日、秀吉軍は羽衣石城南方の「高山」(現在の十万寺所在城と推定される)に布陣し、馬ノ山の吉川元春と直接対峙する形勢となった 9 。
織田・毛利の二大勢力を代表する名将同士の対決であったが、秀吉は犠牲の大きい決戦を避け、兵糧と弾薬を峰伝いに羽衣石城内へ運び込むという兵站作戦を選択した。吉川軍はこれを阻止すべく出撃し、小競り合いが発生したが、秀吉軍は補給任務を完遂する 9 。互いに相手の実力を測り、決戦の不利を悟った両軍は、その後、睨み合いの末に兵を引いた。
しかし、この戦いの翌年、天正10年(1582年)に秀吉が備中高松城攻めに主力を移した隙を突かれ、羽衣石城は再び吉川軍の猛攻に晒される。この時は吉川配下の武将・山田重直の働きにより、ついに落城。城主・元続は命からがら播磨国(現在の兵庫県)まで逃れた 4 。だが、その直後に本能寺の変が発生し、織田・毛利間で和睦(京芸和睦)が成立。その結果、天正12年(1584年)には伯耆国東三郡が南条領として確定し、元続は再び羽衣石城へと帰還を果たしたのである 10 。
天正19年(1591年)、数々の戦乱を乗り越え、豊臣政権下で伯耆東部の大名としての地位を確立した南条元続が中風を患い病没した 12 。家督は幼い息子の元忠が継承し、元続の弟で歴戦の武将であった小鴨元清がその後見人として政務を執ることとなった 5 。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢は徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍とが対立する構図へと急速に進んでいく。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、南条元忠は一族の運命を左右する重大な決断を迫られた。元忠は重臣たちと協議の上、父・元続の代から続く豊臣家への恩義に報いるべきであるとして、石田三成方の西軍に与することを決断した 14 。南条軍は畿内へ出陣し、伏見城の戦いや大津城の戦いに参加した記録が残っている 14 。
南条氏の最終的な滅亡は、この関ヶ原での一度の判断ミスに起因するものではなく、より構造的な問題に根差している。豊臣政権下で近世大名として組み込まれたことにより、かつての国人領主時代のように、状況に応じて所属勢力を柔軟に選択するという生き残り戦略の余地を失ってしまったのである。大名としての「豊臣家への忠誠」という論理が、国人としての「自家の存続」という実利を上書きし、結果として一族を滅亡へと導く最後の賭けとなってしまった。
関ヶ原の本戦において西軍が一日で壊滅的な敗北を喫すると、南条氏の運命もまた決した。戦後処理において、西軍に与した元忠は徳川家康から所領をすべて没収(改易)された 13 。これにより、貞治5年(1366年)の築城以来、約234年間にわたって南条氏10代の栄枯盛衰を見守り続けた伯耆屈指の堅城・羽衣石城は、その歴史的役割を終え、廃城とされた 2 。
南条氏改易後の伯耆国には、関ヶ原での戦功により、中村一氏の子・一忠が米子城主として17万5千石で入封した 33 。しかし、一忠は若くして急死し、跡継ぎがいなかったため中村家は無嗣断絶となる 35 。その後、寛永9年(1632年)に池田光仲が鳥取藩主として入国し、以後、幕末まで池田氏による安定した統治が続くこととなる 37 。
改易によって所領を失い、浪人となった南条元忠であったが、その武将としての生涯はまだ終わらなかった。元忠はその後、大坂城の豊臣秀頼に500石で仕え、再起の機会をうかがっていた 32 。
慶長19年(1614年)、徳川家康が豊臣家を滅ぼすべく起こした大坂の陣が勃発すると、元忠は父祖以来の恩義に報いるとして、旧臣らと共に豊臣方として大坂城に籠城した 31 。しかし、冬の陣の最中、元忠は徳川方の藤堂高虎を通じて、「伯耆一国を与える」という条件で徳川方への内応を約束したとされる 14 。この寝返りの計画は、城内の塀の柱を切って徳川軍を招き入れるという具体的なものであったが、事前に豊臣方の重臣・渡辺糺に露見してしまう 14 。裏切りが発覚した元忠は、城内の千畳敷において切腹を命じられ、その波乱の生涯を閉じた 2 。ここに、約250年にわたって伯耆国に勢力を誇った南条氏の嫡流は、完全に途絶えたのである。
慶長5年(1600年)に廃城となった後、羽衣石城の建造物は破却され、城跡は静かな山林へと還っていった。しかし、城の記憶が完全に失われたわけではなかった。江戸時代中期から後期にかけて編纂された『伯耆民談記』や『羽衣石南条記』といった地誌や軍記物において、南条氏の歴史と共に羽衣石城の栄枯盛衰が記録され、後世に伝えられた 11 。これらの文献は、南条氏滅亡から100年以上を経て成立したものであり、伝説的な記述も含まれるため史料批判が必要ではあるが、城の歴史を今日に伝える貴重な手がかりとなっている 17 。
時代は下り、近代に入ると、城跡は新たな形で脚光を浴びることになる。昭和6年(1931年)、大阪に在住していた南条氏の子孫・南條寅之助が私財を投じ、地元の村民と協力して本丸跡に鉄骨トタン葺きの模擬天守を建立したのである 4 。本来、羽衣石城のような中世山城に天守が存在した確証はなく、この建造物は歴史的考証に基づく復元ではない。しかし、天守を持たなかった城に建てられた「模擬天守の元祖」とも言える存在であり、近代における旧大名家の子孫による祖先顕彰という社会的な動きを象徴する、文化史的に興味深い事例である 13 。
この初代模擬天守は老朽化のため、平成2年(1990年)に現在の三層からなる模擬天守へと建て替えられ、同時に中腹までのアクセス道や駐車場も整備された 4 。そして平成13年(2001年)、羽衣石城跡はその良好な遺構の保存状態と歴史的重要性から、鳥取県指定史跡となり、その価値が公的に認められるに至った 4 。
羽衣石城の記憶は、文献や建造物だけでなく、地域に根差した民俗芸能の中にも生き続けている。その代表が、鳥取県の無形民俗文化財に指定されている「東郷浪人踊り」である 9 。
この踊りの起源は、天正年間に繰り広げられた南条氏と毛利氏の激しい合戦で亡くなった戦死者たちの霊を弔うため、城下で始まった念仏踊りにあるとされる 41 。そして、関ヶ原の戦いの後に南条氏が改易となり、主家を失った家臣たちが浪人として各地に離散した後、彼らが盆の夜に故郷へ密かに集まり、亡き主君や一族を偲んで供養のために踊り明かしたことから、「浪人踊り」という名がついたと伝えられている 21 。
揃いの黒装束に菅笠で顔を隠した踊り手たちが、笛や太鼓の物悲しい音色に合わせて静かに舞う姿は、滅び去った南条一族の哀史を現代に伝えている。現在も毎年夏に開催される水郷祭などで披露されており、羽衣石城と南条氏の記憶を体現する生きた文化遺産として、地域の人々によって大切に継承されている 9 。
羽衣石城の物語は、1600年の廃城によって終わりを迎えたのではない。それは、江戸期の文献による「歴史化」、昭和期の子孫による「顕彰」、平成期の行政による「文化財化」、そして地域共同体による「民俗芸能化」という、時代ごとの異なる眼差しによって再生産され、継承され続けている。城跡は、単なる物理的な遺構であると同時に、人々の記憶とアイデンティティを映し出す、重層的な文化的テクストとなっているのである。
伯耆国羽衣石城は、南北朝時代の創築から関ヶ原合戦による廃城まで、約240年間にわたり、東伯耆という地政学的な要衝において城主・南条氏の存亡そのものであった。尼子、毛利、織田という巨大勢力の狭間で、南条氏が繰り広げた生き残りを賭けた巧みな外交と激しい戦闘の歴史は、この城を舞台として刻まれている。
城の構造は、峻険な自然地形を活かした中世山城の堅固さと、石垣の導入や支城網との連携に見られる近世城郭への過渡的特徴を併せ持っていた。羽柴秀吉と吉川元春という戦国時代を代表する武将がこの城を巡って対峙した事実は、羽衣石城が単なる地方の城ではなく、天下の情勢を左右する戦略的価値を持っていたことを雄弁に物語っている。
最終的に南条氏は時代の大きなうねりの中で滅び、羽衣石城も廃城となった。しかし、その物語はそこで終わることはなかった。物理的な城郭が失われた後も、その記憶は江戸時代の地誌に記録され、近代には子孫によって顕彰され、現代では行政によって史跡として保護されている。そして何よりも、戦乱で命を落とした者たちを弔い、滅び去った主家を偲ぶ「東郷浪人踊り」として、地域の人々の心と身体の中に生き続けている。
羽衣石城の歴史は、中央の巨大権力の動向に地方勢力が如何に対応し、そして翻弄されていったかという、戦国時代の力学を象徴する縮図である。そして、物理的な遺構だけでなく、伝説や民俗芸能の中に今なお息づくその記憶は、羽衣石城が単なる過去の遺跡ではなく、地域の歴史と文化を形成し続ける生きた遺産であることを示している。