肝付城は、大隅に根差した肝付氏の誇り高き本拠。島津氏の猛攻を退け「不落」を誇るも、戦わずして開城。その歴史は、南九州の覇権争いと時代の変遷を静かに語る。
日本の戦国時代、列島各地で群雄が割拠し、その覇を競った。中でも南九州の地は、中央の動乱から隔絶された独自の歴史力学が働き、熾烈な生存競争が繰り広げられた舞台である。この南九州の歴史を語る上で、島津氏の「三州統一」という偉業はあまりにも名高い。しかし、その輝かしい功績の陰には、最後までその野望に立ちはだかり、大隅半島に深く根を張った強大な在地勢力の存在があった。その中心こそ、今回詳述する肝付城(きもつきじょう)、別名・高山城(こうやまじょう)である。
肝付城は、単なる一地方の城郭ではない。それは、島津氏という鎌倉以来の外来の武家に対し、平安時代からこの地に土着した古豪・肝付氏が、数百年にわたりその独立と誇りをかけて守り抜いた最後の砦であった。その堅牢さは「一度も落城したことがない」と語り継がれるほどであり 1 、大隅の覇権を巡る争いにおいて、常に戦略上の最重要拠点として存在し続けた。
しかし、歴史の皮肉は、この難攻不落と謳われた名城が、一度も本格的な攻城戦を経ることなく、天正2年(1574年)に静かに城門を開いたという結末を用意した。なぜ肝付城は、それほどの堅城たり得たのか。そして、なぜその堅城が戦わずして降伏という道を選んだのか。本報告書は、城郭そのものが持つ物理的な構造、城主である肝付一族の興亡の軌跡、そして宿敵・島津氏との長きにわたる宿命的な対立という三つの軸から、この歴史の深層に迫ることを目的とする。肝付城の歴史を解き明かすことは、戦国時代における地方勢力の栄光と悲劇、そして南九州の勢力図が決定づされるまでのダイナミックな過程を理解する上で、不可欠な鍵となるであろう。
肝付氏の歴史は、戦国時代の島津氏よりも遥かに古く、その源流は古代ヤマト王権の中枢で軍事を担った名門・大伴氏に遡る 2 。大伴氏は後に伴氏(ともうじ)と改姓し、肝付氏の系譜はこの伴氏の流れを汲むとされている 4 。平安時代中期の廷臣であった伴善男の後裔とされ、その権威と家格は、後々まで一族の精神的支柱となった 2 。
南九州における肝付氏の歴史は、平安時代中期、一族の伴兼行(とものかねゆき)が薩摩掾(さつまのじょう)としてこの地に下向したことに始まる 4 。中央から派遣された官吏として南九州の地に足を踏み入れたことが、数百年にわたる大隅支配の礎となったのである。
一族が在地領主として確固たる地位を築く直接の契機は、長元9年(1036年)、兼行の孫にあたる伴兼貞(とものかねさだ)が大隅国肝属郡(きもつきぐん)の弁済使(べんざいし)、すなわち荘園の監督官に任じられたことである 4 。この職務を通じて、一族は肝属平野という穀倉地帯を経済的基盤とし、着実に勢力を拡大していった 10 。
そして、兼貞の子・兼俊(かねとし)の代に至り、所領の地名である「肝付」を氏として名乗るようになった 5 。ここに、在地の名族としての肝付氏が正式に誕生した。彼らは、鎌倉幕府によって地頭として派遣された島津氏とは異なり、それ以前からこの地に根を下ろした「古来の支配者」であった 3 。この事実は、後の島津氏との対立において、単なる領土争いを超えた、正統性を巡る矜持のぶつかり合いという側面を生み出すことになる。肝付氏のアイデンティティは、常に「中央から来た島津氏」に対する「土着の正統な支配者」という強い自負に支えられていたのである。
鎌倉時代、肝付氏は幕府が派遣した地頭である北条氏(名越氏)と土地の所有権を巡って激しく対立した。その緊張関係は、元亨3年(1323年)に6代当主・肝付兼藤(かねふじ)が北条方の凶刃に倒れるという悲劇的な事件にまで発展した 2 。この経験は、一族に中央権力への根深い不信感を植え付け、独立志向を一層強固なものにしたと考えられる。
14世紀、日本全土を巻き込んだ南北朝の動乱が始まると、肝付氏はその独立性をかけて南朝方として決起する。8代当主・肝付兼重(かねしげ)は、北朝方についた薩摩守護・島津貞久や畠山直顕の軍勢と、南九州を舞台に数十年にわたり激闘を繰り広げた 3 。
当初、兼重は日向国三股院(みまたいん)の高城(たかじょう)を拠点としていたが、暦応2年(1339年)に猛攻を受けて落城すると、一族の本拠地である大隅国の高山城へと退いた 9 。この後退こそが、高山城が単なる居館から、南九州屈指の軍事要塞へと変貌を遂げる決定的な転換点となった。絶え間ない戦乱の中で、城は恒常的な戦闘に耐えうるよう、本格的な改修と拡張を余儀なくされたのである 9 。
この時代の山城の実態を伝える史料として、兼重の甥が守る加瀬田城の戦いを記録した軍忠状が残されている。そこには「大手」「水手」といった城の区画や防御施設の存在が記されており、当時の城郭がすでに高度な防衛思想に基づいて構築されていたことが窺える 9 。高山城の難攻不落の伝説は、この南北朝時代の過酷な戦争体験の中から生まれたと言っても過言ではない。それは、平時の居館が発展したものではなく、一族の存亡をかけた総力戦の必要性から、極めて実践的な軍事要塞として設計・改修されたことの証左なのである。その設計思想は、後の戦国時代に至るまで城の基本構造を規定し、その名を不動のものとした。
肝付城の堅固さは、城主である肝付氏の武勇のみならず、その地形を最大限に活かし、緻密に計算された城郭構造そのものに由来する。シラス台地という南九州特有の地形を巧みに利用し、自然と人工の防御施設を融合させたこの城は、まさに「大隅の巨城」と呼ぶにふさわしい威容を誇っていた。
肝付城は、その立地において既に圧倒的な防御上の優位性を有していた。城は、南を本城川、北を栗山川、西を高山川という三方の河川に囲まれ、東はシラス台地が侵食されてできた急峻な崖となっている 8 。この地形は、敵軍の接近を物理的に困難にし、城を天然の堀で囲まれた要塞へと変えていた。
さらに肝付氏は、単に自然地形に頼るだけでなく、それを能動的に活用する高度な技術を持っていた。合戦の際には、川を堰き止めて水を溜め、城の周囲に広大な沼沢地を出現させることで、敵の侵入を完全に遮断する戦術をとったと伝えられている 10 。これは、治水技術と軍事技術が一体となった、この地域ならではの防衛思想の表れであった。
最盛期の肝付城は、南北約550メートル、東西約1300メートル、総面積は50ヘクタール(55万平方メートル)にも及ぶ、南九州でも屈指の規模を誇る広大な山城であった 4 。その縄張り(城の設計)は、一つの丘陵を複数の堀切(ほりきり)によって人工的に分断し、それぞれ独立した機能を持つ曲輪(くるわ)群を配置する「群郭式山城」と呼ばれる形態をとる。
城の中心部は、本丸、二の丸、三の丸、そして特異な名称を持つ山伏城(やまぶしじょう)や奥曲輪といった区画が、尾根に沿って直線的に配置される「連郭式」の構造を基本としていた 8 。各曲輪は深い空堀で隔てられており、仮に一つの曲輪が突破されても、次の曲輪で敵を食い止められるよう、徹底した縦深防御が意識されていた。
近年の発掘調査では、城の周辺地から15世紀から16世紀にかけての貿易陶磁器や、人々の生活の痕跡である竪穴建物跡などが発見されている 16 。これは、肝付城が単なる軍事拠点に留まらず、領国経営の中心地として政治、経済、そして生活の機能を併せ持っていたことを物語る重要な証拠である。
肝付城の防御施設は、シラス台地という脆くも加工しやすい地質を逆手に取り、極めて効果的に配置されていた。
長期にわたる籠城戦を想定し、城内には生命線を維持するための施設が完備されていた。
これらの施設から見えてくるのは、肝付城の防御思想が、物理的な防御と精神的な防御の二本柱で成り立っていたという事実である。堀切や枡形による「徹底した遅滞戦闘」で敵の消耗を誘うと同時に、軍神の加護や呪術的な儀礼によって将兵の結束と士気を高める。肝付城は、単なる軍事要塞ではなく、一族の運命そのものを背負った「聖地」としての性格を色濃く帯びていたのである。
曲輪名称 |
推定される機能・役割 |
主要な遺構・特徴(典拠) |
本丸 |
城の中枢。城主の居館、政務、最終防衛拠点。 |
城内最大の郭。周囲を土塁で囲む。枡形状の虎口を持つ 8 。 |
二の丸 |
本丸に次ぐ主要曲輪。重臣の屋敷など。 |
本丸と堀切で区画。比較的広い平坦地を持つ 4 。 |
三の丸 |
外郭。兵士の駐屯地や倉庫など。 |
現在は田地となっているが、区画は明瞭 8 。 |
山伏城 |
宗教的儀礼、戦勝祈願、呪術的防御の拠点。 |
「看経所トモ云」との記録。枡形に隣接 4 。 |
球磨屋敷跡 |
同盟軍(肥後相良氏)の駐屯地。 |
大来目神社の奥に位置。外交関係の証左 4 。 |
大手門・搦手門 |
城の主要な出入り口。厳重な防御が施される。 |
跡地には標柱が設置されている 8 。 |
馬乗馬場 |
訓練場、または防衛用の空間。 |
本丸北側の大きな空堀がその役割を担ったとの絵図あり 9 。 |
16世紀中盤、肝付氏はその歴史上、最も輝かしい時代を迎える。その立役者となったのが、16代当主・肝付兼続(きもつきかねつぐ、1511-1566)である。彼は、卓越した軍事・外交の才覚をもって一族を率い、宿敵・島津氏を一時的に圧倒するほどの勢力を築き上げた、戦国大名としての肝付氏の最盛期を現出した名将であった 5 。
兼続が家督を継いだ当初、肝付氏と島津氏の関係は比較的穏やかであった。兼続は島津氏の事実上の当主であった島津忠良(日新斎)の長女・御南(おみなみ)を正室に迎え、さらに自身の妹を忠良の子である島津貴久の正室として嫁がせるなど、二重の姻戚関係を結ぶことで協調路線を模索していた 3 。この安定した関係を背景に、兼続は大隅半島内での勢力拡大を着々と進め、肝付氏の版図を最大のものとした。
しかし、共に南九州の覇権を目指す両者の共存は、長くは続かなかった。大隅半島における領土問題をきっかけに、両者の関係は次第に悪化。兼続は、島津氏と敵対関係にあった日向国の伊東義祐(いとうよしすけ)と連携し、島津包囲網を形成することで、全面対決への道を歩み始める 2 。
この同盟破綻の象徴的な逸話として「鶴の羹(つるのあつもの)事件」が伝えられている。永禄4年(1561年)、兼続が島津氏を訪れた際の酒宴の席で、島津方の重臣が戯れに「鶴の羹でもてなしてはどうか」と発言した。肝付氏の家紋は鶴であり、これは一族に対する最大の侮辱であった。この一言がきっかけで両者は決裂したとされるこの逸話は、水面下で高まっていた両者の緊張関係が、もはや隠しきれない段階に達していたことを示している 22 。
永禄4年(1561年)5月、兼続は島津方の廻城(めぐりじょう)を攻略。これに対し、島津貴久・義久親子が自ら大軍を率いて出陣し、廻城を包囲したことで、両者の雌雄を決する大規模な合戦の火蓋が切られた 22 。
同年7月、廻城の南に位置する竹原山で両軍は激突する。この「竹原山の戦い」において、兼続の軍才は遺憾なく発揮された。彼は巧みな伏兵戦術を用いて島津軍を翻弄し、混乱に陥った敵本隊に猛攻をかけた。この戦いで、島津貴久の実弟であり、一族屈指の猛将として知られた島津忠将(ただまさ)を討ち取るという、歴史的な大金星を挙げるのである 5 。
総大将の弟を失った島津軍は大きな打撃を受け、撤退を余儀なくされた。この勝利は、単なる一戦の勝利に留まらなかった。これにより肝付氏は、島津氏から志布志(しぶし)の地を奪取するなど、大隅半島における覇権をほぼ手中に収め、その威勢は頂点に達した 5 。兼続の戦略は、島津氏が薩摩統一に専念している隙を突き、伊東氏との連携によって外交的に孤立させ、軍事的に消耗させるという、長期的な視野に立ったものであった。竹原山の戦いは、その周到な戦略が見事に結実した瞬間であった。
栄華を極めた肝付氏であったが、その絶頂は長くは続かなかった。屋台骨であった名将・兼続の死を境に、一族の運命は急速に暗転していく。後継者問題、内部対立、そして宿敵・島津氏の執拗な切り崩し工作によって、かつて大隅に君臨した大名は、落日の坂道を転がり始める。
永禄9年(1566年)、島津氏の反攻が本格化する。この年の兼続の死については、謎に包まれている。通説では、島津軍の攻撃によって居城である高山城が落城したとの報を聞き、隠居城であった志布志において自害したとされている 6 。享年56。
しかし、この自害説には有力な反論が存在する。肝付氏側の史料に自害を明確に記したものはなく、また「一度も落城したことがない」と伝えられる高山城がこの時に落城したという記録も確たるものではない 1 。当時の肝付氏の勢力が依然として島津氏に匹敵するものであったことを考えれば、城の落城という一つの敗戦で当主が自害に追い込まれるとは考えにくい 5 。真相は定かではないが、いずれにせよ、指導者であった兼続という巨星の喪失が、肝付氏にとって計り知れない打撃となったことは間違いない。
兼続の跡を継いだのは、長男の肝付良兼(よしかね)であった。彼は父の遺志を継ぎ、伊東氏との同盟を堅持して島津氏への抵抗を続けたが、元亀2年(1571年)に病のため早世してしまう 21 。
その後継者となったのが、良兼の弟である肝付兼亮(かねすけ)であった。彼は父・兼続の復讐を果たすべく、強硬な反島津路線を掲げた。しかし、この方針は家中を二分する深刻な対立を引き起こした。長年の戦乱に疲弊した家臣団の中には、島津氏との和睦を望む声が根強く存在した。さらに、兼亮の義母であり、島津貴久の姉でもある御南(おみなみ)も和平を強く主張し、兼亮の指導力に公然と異を唱えた 5 。この一族内部の亀裂は、島津氏にとって絶好の機会となり、肝付氏の衰退を決定的なものとした。
島津義久は、この肝付氏の内部対立を見逃さなかった。彼は武力による正面からの攻撃と並行して、巧みな調略によって肝付氏の同盟網を切り崩していく。
元亀4年(1573年)、その最初の標的となったのが、大隅半島南部に勢力を持つ禰寝(ねじめ)氏であった。禰寝氏は長年にわたり肝付氏の重要な同盟者であったが、島津氏の度重なる説得に応じ、ついに肝付氏から離反して島津方に寝返った 25 。これにより、肝付氏は背後を脅かされる形となり、戦略的に極めて苦しい立場に追い込まれた。
そして天正元年(1573年)末から翌年にかけて、大隅の要衝・牛根城(うしねじょう、別名・入船城)を巡る攻防戦が勃発する。城を守るのは肝付方の勇将・安楽兼寛(あんらくかねひろ)であったが、島津軍の猛攻の前に孤立。肝付氏は日向の伊東氏に必死の救援を求めるも間に合わず、牛根城はついに陥落した 6 。
肝付氏の強さの源泉は、名将・兼続の指導力、伊東・禰寝氏らとの強固な同盟網、そして本拠・高山城という三つの戦略的資産にあった。兼続の死で指導者が失われ、禰寝氏の離反と牛根城の陥落によって、同盟網という第二の資産も崩壊した。もはや肝付氏に残されたのは、高山城という物理的な拠点のみであった。しかし、それを支えるべき政治・外交基盤が失われたとき、城の堅牢さだけでは、もはや時代の大きな流れに抗うことはできなかったのである。
牛根城の陥落は、肝付氏にとって最後の支えを失ったことを意味した。かつて島津氏を脅かした同盟網は完全に崩壊し、日向の伊東氏も木崎原の戦いで島津軍に大敗を喫して以来、もはや肝付氏を助ける余力はなかった 25 。高山城に籠る肝付氏は、南九州の広大な勢力図の中で、完全に孤立した存在となっていた。
この状況を好機と見た島津義久は、武力による総攻撃ではなく、外交交渉による決着を選択する。交渉役として白羽の矢が立てられたのは、重臣の新納忠元(にいろただもと)であった。新納忠元は肝付氏の一門と姻戚関係にあり、この血縁を利用して降伏を勧告するという、巧みな心理戦が展開された 25 。
島津方の使者は、これ以上の抵抗が無益であることを説き、一族の存続を条件に和睦の道を提示した。肝付氏の内部では、徹底抗戦を主張する兼亮ら主戦派と、もはや勝ち目はないとして和睦を受け入れようとする和平派との間で、激しい議論が交わされたことであろう。
「一度も落城したことがない」という高山城の歴史と、大伴氏の末裔としての誇り 1 。それは、城と共に玉砕する道を選ぶに十分な理由であったかもしれない。しかし、家臣団の疲弊と領民の苦しみを前に、現実的な判断が優先された。特に、親島津派の家臣や義母・御南の影響力は大きく、城内の趨勢は次第に降伏へと傾いていった。
最終的に、天正2年(1574年)、18代当主・肝付兼亮は、苦渋の決断を下す。難攻不落を誇った高山城の城門は、戦いを交えることなく、静かに開かれたのである 2 。この出来事は、肝付城という物理的な城郭が敗れたのではなく、城を拠点として島津氏に対抗するという肝付氏の国家戦略そのものが破綻した瞬間であった。堅固な城壁も、それを支える政治・外交基盤が崩壊すれば、その戦略的価値を失うという戦国時代の冷厳な現実を、この降伏は如実に示している。
降伏にあたり、肝付氏は廻、市成、恒吉といった重要拠点を島津氏に明け渡すことを余儀なくされた 25 。これにより、肝付氏の所領は大幅に削減されたが、島津氏への臣従を誓うことで、家名そのものの存続は許された。
この無血開城によって、島津氏は大隅国の平定を事実上完了させた 26 。肝付氏という最大の障壁を取り除いた島津義久は、悲願であった薩摩・大隅・日向の「三州統一」へ向けて、大きく前進することになる 25 。高山城の開城は、南九州の歴史における一つの時代の終わりと、新たな時代の幕開けを告げる象徴的な出来事だったのである。
天正2年の降伏は、肝付氏と高山城の運命を大きく変えた。独立大名としての地位を失い、城はその存在意義を問われることになる。そして、一族は本家と分家で対照的な道を歩むこととなり、その栄枯盛衰は戦国から江戸へと移行する時代の激動を色濃く反映している。
島津氏に臣従した後も、肝付氏はしばらくの間、高山城を居城とすることを許されていた。しかし、それは長くは続かなかった。天正8年(1580年)、島津氏は肝付氏に対し、本拠地である高山から薩摩国阿多(あた、現在の南さつま市金峰町)への移封を命じた 2 。
この所領替えは、肝付氏から先祖伝来の地盤を完全に奪い、その影響力を削ぐための決定的な措置であった。これにより、戦国大名としての肝付氏は事実上滅亡した。そして、主を失った高山城も、その歴史的役割を終え、廃城となったのである 5 。城下にあった行政機能は、支城であった弓張城の麓に新たに設置された「高山麓(こうやまふもと)」へと移管され、城は静かに歴史の舞台から姿を消した 4 。
島津氏の一家臣となった肝付氏本宗家のその後は、苦難の連続であった。19代当主・肝付兼護(かねもり)は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦において、島津義弘の配下として参陣。世に名高い敵中突破の退却戦「島津の退き口」において奮戦し、壮絶な討死を遂げた 2 。
その跡を継いだ20代・肝付兼幸(かねゆき)もまた、悲劇的な最期を迎える。慶長15年(1611年)、琉球出兵を終えた主君・島津家久が琉球国王を伴って江戸へ向かう際に同行したが、その帰路、筑前国沖で暴風雨に遭い、乗船していた船が難破。兼幸は海に投げ出され、溺死した 2 。享年19、彼に嗣子はおらず、ここに肝付氏本宗家の直系血統は完全に途絶えた。
その後、家名の断絶を惜しんだ島津氏の計らいにより、一族である新納(にいろ)家から養子が迎えられ、肝付家の名跡は薩摩藩士として存続することになった 2 。
本宗家が悲劇的な運命を辿ったのとは対照的に、早くから島津氏に仕えていた分家は、新たな支配体制の中で繁栄の道を歩んだ。特に、室町時代に本家から分かれ、加治木(かじき)を拠点としていた系統は、江戸時代に入ると喜入(きいれ、現在の鹿児島市喜入)の領主となり、「喜入肝付氏」として薩摩藩内で「一所持」という高い家格を与えられ、重臣として重きをなした 2 。
そして幕末、この喜入肝付氏から、日本の歴史を大きく動かす人物が登場する。薩摩藩の家老として藩政改革と近代化を主導し、坂本龍馬らとも深く交流した小松帯刀(こまつたてわき、本名・小松清廉)である 3 。彼の元の名は肝付兼戈(きもつきかねたけ)といい、喜入肝付家から小松家へ養子に入った人物であった 2 。
最後まで独立を貫こうとして滅んだ本宗家と、新たな権力構造に巧みに適応して繁栄し、幕末には藩政の中枢を担う人材を輩出した分家。この対照的な運命は、旧来の価値観に固執した勢力が淘汰され、時代の変化に対応した者が生き残るという、戦国から近世への大きな時代の転換を象徴する、一つの典型例と言えるだろう。
戦国時代の終焉と共に廃城となった肝付城であったが、その歴史的重要性は忘れ去られることはなかった。昭和20年(1945年)2月22日、高山城跡は国の史跡として指定される 1 。この指定時期は、極めて異例であった。太平洋戦争の敗色が濃厚となり、日本本土への空襲が激化する中で、文化財の指定が行われたのである。
その背景には、当時の時代状況が色濃く反映されていたと考えられる。肝付城の歴史には、南北朝時代に南朝の忠臣として戦った肝付兼重の存在がある。この歴史的事実を、天皇への忠誠を絶対視する当時の皇国史観と結びつけ、国民の戦意高揚を図るという政治的な意図が、この異例の時期の史跡指定に働いた可能性は否定できない 1 。
幸いにも、高山城跡は近現代における大規模な開発を免れ、その遺構は驚くほど良好な状態で今日まで残されている 1 。シラス台地を削り出して作られた壮大な空堀や堀切、複雑に配置された曲輪群の跡は、今もなお訪れる者に戦国時代の山城の息吹を鮮烈に伝えてくれる。
現在、城跡は地元自治体によって大切に保存され、各所に案内板が設置されるなど、歴史を学ぶ貴重な探訪の場として活用されている 30 。また、麓にある肝付町歴史民俗資料館では、城跡周辺からの出土品や関連資料が展示されており、城と肝付氏の歴史をより深く理解することができる 32 。
肝付城は、南九州の特異な風土が生み出した、自然と一体の堅牢な城郭であった。それは、古代豪族の末裔としての誇りを胸に、数百年にわたり大隅の地に独立を貫いた肝付一族の魂の象徴でもあった。その栄光と没落の歴史は、戦国時代における武力、戦略、そして政治が複雑に絡み合う様を、現代に生きる我々に静かに語りかけている。
そして、一度も力で落とされることなく、戦わずして開城に至ったその結末は、一つの重要な教訓を示している。それは、いかに堅固な物理的な城壁を築こうとも、それを支える人々の結束、同盟者との信頼関係、そして時代の大きな潮流を見極める先見性なくしては、真の力とはなり得ないということである。肝付城の歴史は、城を動かすのは石垣や土塁ではなく、人々の意志と知恵であることを、我々に教えてくれる貴重な遺産なのである。