興国寺城は、早雲伝説に彩られし境目の城。今川・北条・武田が争奪し、大土塁と大空堀で強化された。戦国の動乱を映す要衝は、平和と共に役目を終え、今にその威容を伝える。
駿河国東端、現在の静岡県沼津市にその痕跡を留める興国寺城は、戦国時代の幕開けを象徴する城郭として広く知られている。通説では、後に関東一円を支配する後北条氏の祖、北条早雲(伊勢宗瑞)がその覇業の第一歩を記した「旗揚げの城」として語られる 1 。この物語は、一介の素浪人が下剋上によって大名へと成り上がるという、戦国時代のダイナミズムを体現する逸話として、後世の人々を魅了してきた。
しかし、興国寺城が戦国史において担った真の重要性は、一人の英雄の出発点という伝説的側面に留まるものではない。その本質は、駿河の今川氏、相模の北条氏、そして甲斐の武田氏という、当代屈指の戦国大名たちの勢力が複雑に衝突し、また結びつく国境地帯に位置した「境目の城」としての地政学的な役割にある 3 。この城は、三大名のパワーバランスの変化を敏感に反映し、その時々の支配者の戦略思想によって絶えずその姿を変貌させ続けた、まさに「生きた城」であった。
本報告書は、この興国寺城を多角的に分析することを目的とする。まず、北条早雲にまつわる「旗揚げの城」という伝説の成立過程とその史実性を、近年の研究成果に基づいて徹底的に検証する。次に、城が位置した地理的条件とその戦略的価値を明らかにし、なぜこの地が争奪の的となったのかを解明する。さらに、今川・北条・武田による目まぐるしい攻防の歴史を追い、城主の変遷と城の役割の変化を具体的に記述する。そして、発掘調査の成果を交えながら、大土塁や大空堀に代表される圧巻の城郭構造が、いかなる軍事的要請のもとに生まれ、時代と共にいかに変遷していったのかを考察する。
伝説と史実、地政学と城郭構造、そして歴史的役割の変遷を統合的に分析することを通じて、興国寺城が戦国時代という激動の時代において果たした真の意義を浮き彫りにする。
興国寺城の起源は、戦国時代の幕開けを告げる象徴的な出来事と密接に結びつけて語られてきた。しかし、その通説は近年の研究によって大きな見直しを迫られている。本章では、まず広く知られる通説の内容を整理し、次いで史料的・考古学的見地からその伝説を検証する。
従来、興国寺城の築城は、後の北条早雲である伊勢新九郎盛時(宗瑞)の経歴における最初の輝かしい一歩として位置づけられてきた。その物語は、概ね次のようなものである。
文明8年(1476年)、駿河守護であった今川義忠が遠江で戦死すると、今川家では家督を巡る内紛が勃発した 5 。義忠の嫡男・龍王丸(後の今川氏親)はまだ幼く、義忠の従兄弟にあたる小鹿範満が家督を狙ったのである。この危機に際し、龍王丸の叔父、すなわち龍王丸の母・北川殿の兄であった伊勢新九郎が駿河に下向し、卓越した調停手腕を発揮して内紛を鎮圧したとされる 3 。
この功績により、新九郎は龍王丸(氏親)から駿河国富士下方十二郷の所領と共に興国寺城を与えられ、長享元年(1487年)頃に初めて一城の主となった 1 。これが、関東に覇を唱える後北条氏百年の歴史の始まりであった。新九郎はこの城を拠点として力を蓄え、延徳3年(1491年)には伊豆の堀越公方を攻め、その支配権を奪取するための足がかりとしたのである 7 。
この物語は、出自不明に近い一人の武士が、自らの才覚のみで戦国の世を駆け上がっていく「下剋上」の典型例として、特に江戸時代以降の軍記物などを通じて広く流布した 10 。人生50年と言われた時代に、56歳にして初めて城主となったという逸話は、大器晩成の英雄譚として多くの人々の共感を呼んだのである 10 。
しかし、この魅力的な物語は、近年の実証的な歴史研究によってその根幹が揺らいでいる。複数の観点から、早雲による興国寺城築城説には重大な疑問が呈されている。
第一に、早雲自身の出自に関する認識の変化である。かつては素浪人と考えられていた早雲だが、現在では室町幕府の政所執事を務めた名門・伊勢氏の一族であり、彼自身も将軍に仕える幕府の高級官僚であったことが明らかにされている 10 。彼の姉妹である北川殿が今川義忠の正室であったことから、彼が今川家の家督争いに介入したのは、単なる客将としてではなく、幕府の権威を背景に持つ、今川家の正規の後見人としての立場からであった可能性が高い 3 。この事実は、彼の行動が個人的な野心のみによるものではなく、中央政権の意向を汲んだ公的な性格を帯びていたことを示唆しており、「無名の武士が一旗揚げた」という従来のイメージを覆すものである。
第二に、史料的根拠の欠如である。早雲が今川氏親から興国寺城を拝領したことを直接的に証明する同時代の一次史料は、現在のところ一点も確認されていない 10 。興国寺城に関する最も古い確実な史料は、それから半世紀以上も後の天文18年(1549年)に、今川義元が城の普請(拡張・改修工事)を行うにあたり、城地にあった興国寺という寺院に対して移転を命じた文書である 10 。この文書の存在は、早雲の時代ではなく、今川義元の時代に、興国寺城が大規模な城郭として本格的に整備されたことを強く示唆している。
第三に、考古学的な知見である。近年の発掘調査によれば、興国寺城の遺構のうち最も古い段階と考えられるのは、城域の南端に位置する三の丸を中心とした区域であり、その築造年代は出土遺物から16世紀半ば頃と推定されている 15 。これは、まさに今川義元が大規模な普請を行った時期と一致する。早雲が城主であったとされる15世紀末とは、年代的に大きな隔たりがある。
これらの研究成果を総合すると、興国寺城の起源に関する新たな歴史像が浮かび上がる。すなわち、早雲の時代に何らかの小規模な館や砦が存在した可能性は否定できないものの、今日我々が見るような大規模な城郭の基礎を築いたのは、北条氏との抗争(河東一乱)の激化を受け、駿河東部の防衛体制を強化する必要に迫られた今川義元であった可能性が極めて高いのである。
興国寺城の「起源」を巡る議論は、単なる築城年代の特定に留まらない。それは、後世に創られた英雄「北条早雲」の物語と、史料や遺構が語る実証的な歴史との間の緊張関係を象徴している。早雲の「下剋上」物語をより劇的に演出するための装置として、興国寺城は「旗揚げの城」という役割を与えられた。しかし、城跡そのものは、より現実的な、今川氏による国境要塞の整備という歴史を静かに物語っているのである。
興国寺城が戦国時代を通じて今川、北条、武田という三大名の激しい争奪の的となった理由は、その卓越した地理的条件と、そこから生まれる戦略的価値にあった。城は単なる防御拠点ではなく、地域の軍事・経済交通を支配する上で決定的な意味を持つ「要衝」であった。
興国寺城は、愛鷹山の南麓から駿河湾沿いの低湿地帯「浮島沼」に向かって舌状に突き出した、篠山と呼ばれる低い尾根の先端に築かれている 5 。西と北は愛鷹山の山塊に守られ、東と南はかつて人馬の通行が困難であった広大な沼沢地によって天然の要害をなしていた 18 。この地形は、大規模な軍勢による包囲を困難にし、城に高い防御力を与えていた。
しかし、興国寺城の真価は、その防御力以上に、交通網の結節点を押さえる位置にあったことである。城のすぐ南麓を、東西に走る当時の主要街道「根方街道」が通過していた 13 。この街道は、駿河府中(現在の静岡市)と、箱根・足柄峠を越えて関東へ至るルートを結ぶ幹線道路であり、これを掌握することは駿河と関東間の交通を支配することを意味した。
さらに、城の東側からは、浮島沼を縦断して南の千本浜(旧東海道)へと至る南北の道「竹田道(浜方道、造り道とも)」が伸びていた 19 。この道は、根方街道と東海道という二大幹線を結ぶ重要な連絡路であり、その名は武田氏が軍用道として整備したことに由来するとも考えられている 19 。
つまり、興国寺城は東西交通の動脈である根方街道と、南北の連絡路である竹田道が交差する、まさに交通の十字路に睨みを利かせる位置にあったのである 20 。この立地は、城に以下のような多大な戦略的価値をもたらした。
三大名がこの城を巡って血で血を洗う争いを繰り広げた背景には、単に領土という「面」の支配権を巡る争いだけでなく、街道という「線」の支配、すなわち地域の物流と軍事機動の主導権を確保するという、より高度な戦略的意図が存在した。興国寺城の争奪戦は、地政学的な領土紛争であると同時に、経済と兵站の生命線を巡る攻防でもあったのである。
16世紀半ば以降、興国寺城は駿河・相模・甲斐の三国が繰り広げる覇権争いの渦中に投げ込まれる。城の支配者は目まぐるしく入れ替わり、その歴史は東国全体のパワーバランスの変動を如実に映し出す鏡となった。本章では、複雑な城主の変遷を年表で整理しつつ、各時代の攻防と城の役割を詳述する。
表1:興国寺城 年表
西暦 |
和暦 |
支配勢力 |
主要城主・城代 |
主要な出来事 |
c. 1487 |
長享元 |
(今川) |
(伊勢新九郎) |
(通説) 伊勢新九郎(北条早雲)、今川家の家督争いを調停し城主となる 7 。 |
1537 |
天文6 |
北条 |
(不明) |
第一次河東一乱。北条氏綱が駿河に侵攻し、河東地域を制圧 12 。 |
1545 |
天文14 |
今川 |
(不明) |
第二次河東一乱。今川・武田連合軍が侵攻し、河東地域は今川領となる 9 。 |
1549 |
天文18 |
今川 |
(不明) |
今川義元、城の大規模な普請のため、城地の興国寺を移転させる 13 。 |
1568 |
永禄11 |
北条 |
(不明) |
武田信玄の駿河侵攻。三国同盟が破綻し、北条氏が河東地域を占領 9 。 |
1569 |
永禄12 |
北条 |
垪和氏続 |
垪和(はが)氏続が城主に任じられる。武田軍の攻撃を複数回撃退 6 。 |
1571 |
元亀2 |
武田 |
保坂掃部 |
甲相同盟の再締結。同盟の条件として興国寺城は武田方に譲渡される 13 。 |
c. 1577 |
天正5 |
武田 |
向井正重 |
武田水軍の将・向井正重が在城 13 。 |
1582 |
天正10 |
徳川 |
曽根昌世、松平清宗 |
武田氏滅亡。城は徳川家康の支配下に入る 4 。 |
1590 |
天正18 |
豊臣 |
(河毛重次) |
小田原征伐後、豊臣配下の中村一氏の所領となる 19 。 |
1601 |
慶長6 |
徳川 |
天野康景 |
関ヶ原合戦後、天野康景が1万石で入封し、興国寺藩が成立 13 。 |
1607 |
慶長12 |
- |
- |
天野康景の出奔により改易。興国寺城は廃城となる 2 。 |
北条早雲の時代が終わり、その子・氏綱、孫・氏康の代になると、かつては同盟関係にあった今川氏と北条氏の関係は緊張を増していく。決定的な亀裂は、天文6年(1537年)、今川義元が甲斐の武田信虎と同盟を結び、信虎の娘を正室に迎えたことで生じた 13 。これに激怒した北条氏綱は駿河へ侵攻し、富士川以東のいわゆる「河東地域」を電撃的に制圧した(第一次河東一乱) 12 。この時、興国寺城も北条方の手に落ちたと考えられる。
その後、今川義元は武田信玄(晴信)の支援を得て反撃に転じ、天文14年(1545年)には再び河東地域へ侵攻(第二次河東一乱) 13 。この戦いの結果、河東地域は今川氏の支配下に復帰した 6 。この一連の争いを通じて、興国寺城が国境防衛の最重要拠点であることを痛感した義元は、天文18年(1549年)から大規模な城の改修・拡張工事に着手する 9 。これが、現在の興国寺城の原型を形作った普請であった。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、今川氏の勢力は急速に衰退する。この機を捉え、永禄11年(1568年)、武田信玄は長年の甲相駿三国同盟を一方的に破棄し、駿河への全面侵攻を開始した 9 。今川氏真を支援する形で北条氏康・氏政父子も駿河へ出兵し、興国寺城を含む河東地域を再び占領した 13 。
この時期、興国寺城は対武田氏の最前線基地として極めて重要な役割を担った。城主には北条家の重臣・垪和伊予守氏続が任じられ、彼は永禄12年(1569年)から元亀2年(1571年)にかけて、押し寄せる武田軍の猛攻を幾度となく撃退する奮戦を見せた 9 。
しかし、戦局が膠着する中、北条氏と武田氏の間で和睦の機運が高まる。元亀2年(1571年)末、甲相同盟が再び成立すると、その和睦の条件として、興国寺城は武田方へ譲渡されることになった 9 。城が単なる軍事拠点ではなく、大名間の外交交渉における重要な「カード」として扱われた象徴的な出来事である。武田氏の支配下では、駿河方面の責任者であった穴山梅雪の配下・保坂掃部や、武田水軍を率いた向井正重らが城代を務めた 6 。天正7年(1579年)に武田勝頼が対北条の新たな拠点として三枚橋城(沼津城)を築城すると、興国寺城の役割も変化し、三枚橋城を後方から支援する拠点となった 13 。
天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍の攻撃によって武田氏が滅亡すると、駿河国は徳川家康の支配下に入り、興国寺城もその所領となった 4 。家康は武田旧臣の曽根昌世や、譜代の家臣である松平清宗、牧野康成らを城主として配置し、甲斐・信濃方面の情勢安定化を図った 13 。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅亡し、家康が関東へ移封されると、興国寺城は豊臣配下の大名・中村一氏の支城となり、その家臣・河毛重次が城代を務めた 19 。この時期、城は関東の徳川家康を牽制するための拠点という新たな役割を担った。
関ヶ原の戦いを経て天下の実権を握った家康は、慶長6年(1601年)、譜代の家臣である天野康景に1万石を与えて興国寺城主とし、ここに興国寺藩が立藩された 2 。こうして興国寺城は、戦国時代を通じて果たしてきた軍事拠点としての役割を終え、近世大名の居城として新たな時代を迎えることになった。この城主の変遷は、駿河一国の支配権の移り変わりだけでなく、東国全体の政治情勢の変遷そのものを物語っている。
興国寺城の遺構は、戦国時代の激しい攻防と、各大名家の築城技術や戦略思想を現代に伝える貴重な証言者である。その縄張り(城の設計)は、時代ごとの軍事的要請に応じて絶えず改修が加えられた結果、極めて堅固で特徴的な構造を持つに至った。本章では、城の全体構造と特筆すべき防御施設を分析し、その構造がどのように歴史を反映しているかを考察する。
表2:興国寺城の主要な遺構と特徴
遺構名 |
規模・寸法 |
構造的特徴 |
推定される築造・改修年代 |
本丸 |
約60m × 50m |
コの字型の土塁で囲まれ、北側が特に高い。内部に伝天守台、石火矢台、礎石建物跡が存在 2 。 |
今川期に原型、武田・徳川期に改修、豊臣期に石垣導入か。 |
大土塁(本丸北側) |
高さ 約7m - 10m(最大14mとも) |
尾根続きの北側からの攻撃を防ぐため、圧倒的な高さを持つ土の壁 2 。 |
武田氏による大改修期(16世紀後半)の可能性が高い。 |
大空堀 |
幅 約22m - 30m、深さ 約15m - 20m |
本丸と北曲輪を完全に分断する巨大な堀切。堀底は薬研堀と箱堀の複合構造 6 。 |
武田氏による大改修期(16世紀後半)の可能性が高い。 |
伝天守台 |
約23m × 15m |
本丸北側土塁上の平坦地。南面に野面積みの石垣が残る。瓦は出土せず 2 。 |
建物は武田・徳川期、石垣は豊臣期以降の可能性。 |
二の丸・三の丸 |
- |
本丸の南側に連なる郭。三の丸が最も初期の城の中心部であったと推定される 2 。 |
三の丸は今川期(16世紀半ば)、二の丸はその後か。 |
北曲輪・清水曲輪 |
- |
本丸の北と東に位置する外郭。城域が最大となった時期に取り込まれた 15 。 |
武田・徳川期(16世紀後半)に拡張された可能性。 |
丸馬出・三日月堀 |
- |
武田氏の築城術に特徴的な出撃・防御施設。痕跡が指摘されている 16 。 |
武田氏支配期(1571年以降)。 |
興国寺城は、愛鷹山の尾根を利用して築かれた「平山城」に分類される 9 。その基本的な縄張りは、城の南側から三の丸、二の丸、本丸が一直線に並ぶ「連郭式」の配置を採っている 2 。これは、尾根の地形に沿って郭を連続させることで、段階的な防御を可能にする設計である。
さらに、城の防御が最も強化された時期には、本丸の北側に巨大な空堀を挟んで「北曲輪」が、東側の谷を挟んで独立した峰に「清水曲輪」が設けられ、城域は最大規模に達した 15 。これらの外郭は、本丸という心臓部を守るための多重防御システムの一部を形成していた。
興国寺城の遺構の中で、訪れる者を最も圧倒するのは、本丸の北側を守る巨大な土塁と、その背後に穿たれた大空堀である。
本丸の北側と西側を囲む土塁は、特に北側で凄まじい規模を誇る。その高さは7メートルから10メートルに達し、一部では14メートルにも及ぶと計測されている 2 。これは単に土を盛り上げたものではなく、尾根そのものを削り残して形成されたものであり、敵兵がこれを乗り越えることは物理的に不可能に近い 23 。この大土塁は、城の弱点である尾根続きの北側からの攻撃を完全に遮断するという、徹底した防御思想の現れである。
さらに、この大土塁の背後(北側)には、本丸と北曲輪を分断する「大空堀」が横たわる。その規模は幅22メートルから30メートル、深さは最も深いところで15メートルから20メートルにも達し、現代のビルの数階分に相当する断崖絶壁を形成している 6 。小田原城の大堀切にも匹敵するとされるこの巨大な堀は、敵の突進を阻止し、本丸への到達を絶望的にする最終防衛線であった。
城の中枢である本丸は、前述の大土塁を含むコの字型の土塁に囲まれた空間である 2 。その北側土塁の最も高い部分には「伝天守台」と呼ばれる平坦地が設けられ、南面には自然石を巧みに組み合わせた「野面積み」の石垣が現存している 2 。
昭和57年(1982年)に行われた発掘調査では、この伝天守台から2棟の建物の礎石が検出された 19 。しかし、瓦が一切出土しなかったことから、これらの建物は後世にイメージされるような天守閣ではなく、物見櫓や、有事の際に指揮を執るための館のような施設であった可能性が高いと考えられている 2 。
本丸の東南には、大砲などの火器を据え付けたとされる「石火矢台」と呼ばれる土塁上の平坦部も残る 19 。また、発掘調査では、本丸内部の排水を目的とした石組水路も確認されており、その一部には墓石である宝篋印塔が転用されていた 16 。これは、今川義元が城地にあった興国寺を移転させたという記録と符合する興味深い発見である。
興国寺城の複雑な構造は、一度に造られたものではなく、各時代の支配者による度重なる改修の積み重ねによって形成された。考古学的な知見は、その変遷の過程を明らかにしている。
興国寺城の遺構は、単なる土や石の塊ではない。それは、時代ごとの切迫した軍事的要請や政治的思惑が刻み込まれた、戦国史の生きた標本なのである。
戦国の動乱を駆け抜け、数多の武将たちの興亡を見つめてきた興国寺城であったが、平和な時代の到来と共にその歴史的役割を終える時が来た。その終焉は、最後の城主となった一人の武将の劇的な運命と共に訪れた。
関ヶ原の戦いを経て、慶長6年(1601年)、徳川家康の譜代の家臣である天野康景が、加増を受けて合計1万石の大名となり、興国寺城に入城した 2 。ここに興国寺藩が成立し、城は近世大名の居城として新たな一歩を踏み出した。康景は、源頼朝の時代から続く名門・天野氏の末裔であり、家康に長く仕えた功臣であった 8 。
しかし、その治世は長くは続かなかった。慶長12年(1607年)、藩の存亡を揺るがす事件が起こる。康景の家臣が、隣接する天領(幕府直轄地)で竹木を盗んだとして、天領の農民を殺害してしまったのである 6 。天領の代官であった井出正次がこれを問題視し、幕府に訴え出た。康景は自らの家臣の正当性を主張したが、事態は幕閣を巻き込む騒動に発展した。
幕府は裁定のため、当時権勢を誇っていた本多正純を派遣した。しかし、康景は正純の高圧的な態度に激昂し、「家臣に罪は無い。全ての責任は城主である自分にある」として、城主の地位も1万石の知行も全て投げ打ち、一族郎党を引き連れて城から出奔するという前代未聞の行動に出た 6 。武士としての義を貫いたこの行動は、後に高く評価されることとなる。
主を失った興国寺藩は、この事件を理由として改易(取り潰し)となり、それに伴い興国寺城も廃城と決定された 2 。およそ120年にわたる城の歴史は、こうして幕を閉じた。
この廃城の背景には、天野康景個人の事件という直接的なきっかけだけでなく、より大きな歴史的文脈が存在する。江戸幕府が成立し、日本全土が統一されると、かつて今川・北条・武田の国境であったこの地の戦略的重要性は完全に失われた 16 。幕府にとって、全国に数多く存在する城郭は、平時においては維持費がかさむだけでなく、潜在的な反乱の拠点となりうる危険な存在でもあった。そのため、不要と判断された城は積極的に廃城にするという方針が採られていた。天野康景の出奔は、幕府にとってこの興国寺城を取り潰すための、格好の口実となったのである。
興国寺城の終焉は、戦国という「戦争の時代」が終わりを告げ、近世という「統治の時代」が始まったことを象徴する出来事であった。戦のために生まれ、絶えず強化され続けた城は、平和の到来と共にその役目を終え、歴史の舞台から静かに姿を消したのである。
本報告書で詳述してきたように、興国寺城は、単に「北条早雲の旗揚げの城」という伝説に彩られた城郭ではない。その実像は、駿河・相模・甲斐の三国がしのぎを削った戦国時代の縮図であり、時の支配者たちの戦略思想によって絶えず改修され続けた「生きた城」であった。
その起源は、早雲の伝説よりも、今川義元が対北条氏の国境要塞として本格的に整備した16世紀半ばに求めるのがより史実に近い。その後、城は北条氏、そして武田氏の手に渡り、特に武田氏による支配期には、大土塁や大空堀といった、当時最先端の築城技術が投入され、難攻不落の要塞へと変貌を遂げた。城の構造の変遷は、戦国期の築城技術の進化と、城に求められる役割の変化を体現する「生きた標本」と言える。
また、城の所有者が目まぐるしく変わった歴史は、この地が三大名の勢力圏がぶつかり合う地政学的な要衝であったことを物語っている。城の支配権は、東国全体のパワーバランスを測る指標であり、時には外交交渉の切り札ともなった。
慶長12年(1607年)に廃城となった後、城跡は長い眠りについたが、その遺構は驚くほど良好な状態で今日まで残されている。特に、本丸北側を固める大土塁と大空堀の圧倒的な規模は、戦国中期の土木技術の到達点を示す貴重な遺産であり、見る者に当時の緊迫した情勢を雄弁に語りかける。
これらの歴史的・学術的価値が評価され、興国寺城跡は国の史跡に指定されている 1 。さらに、平成29年(2017年)には、公益財団法人日本城郭協会によって「続日本100名城」の一つにも選定された 2 。
今後も継続的な発掘調査や研究を通じて、未だ解明されていない多くの謎、特に各遺構の正確な築造年代や、絵図に描かれていない郭の機能などが明らかになっていくことが期待される。興国寺城は、戦国時代の歴史を解き明かす上で、これからも重要な役割を果たし続けるであろう。それは、過去の遺産であると同時に、未来へと歴史を語り継ぐ、我々の貴重な財産なのである。