葛尾城は、北信濃の猛将・村上義清の本拠。武田信玄を二度破るも、調略により落城。この落城が川中島の戦いを招き、信濃の勢力図を変えた。今は史跡として歴史を伝える。
本報告書は、戦国時代の信濃国、特に北信濃の動乱の中心に位置した葛尾城について、その構造、歴史、戦略的意義を多角的に分析するものである。単なる城郭の解説に留まらず、城主村上義清の栄光と挫折、そして武田信玄の信濃平定戦略の転換点としての役割を深く掘り下げる。
葛尾城が位置する長野県埴科郡坂城町は、千曲川の北岸にあり、善光寺平と上田平を結ぶ交通の要衝である 1 。標高817メートル、麓からの比高約387メートルの葛尾山頂に築かれたこの山城は 3 、眼下に千曲川と北国街道を見下ろし、村上氏の広大な勢力圏を一望できる、まさに戦略の拠点であった 2 。この絶妙な立地こそが、葛尾城を北信濃の覇権を巡る争いの中心へと押し上げた根源的な要因であり、その存在は甲斐の武田信玄による信濃侵攻において、最大の障壁として立ちはだかることとなる。
村上氏は、清和源氏頼信流を称する信濃の名門である。その起源は、平安時代後期の嘉保元年(1094年)に源盛清が信濃国更級郡村上郷に配流され、その子が村上氏を名乗ったことに始まると伝えられる 3 。平安末期より千曲川左岸の村上郷を本拠としていたが、南北朝時代には勢力を拡大し、川の右岸である坂木(現在の坂城町)へと拠点を移した 5 。以来、戦国時代に至るまで、北信濃に深く根を張り、地域に大きな影響力を持つ一族として存続した。
この村上氏の最盛期を築いたのが、文亀元年(1501年)生まれの村上義清である 7 。父・村上顕国の跡を継いだ義清は、卓越した武勇をもって周辺の豪族をまとめ上げ、その勢力圏を本拠地の埴科郡のみならず、佐久、小県、水内、高井の各郡にまで広げた 9 。その支配領域は信濃国の東部から北部に及び、北信濃における最大級の戦国大名として君臨したのである 2 。
村上義清は、後世に「信濃最強」と謳われるほどの猛将であった 7 。『村上家伝』によれば、越後の守護代・長尾為景と一日に六度戦って勝利したと伝えられるほどの豪勇ぶりで、その武名は広く知れ渡っていた 9 。後に敵対することになる武田信玄でさえ、その強さを認めざるを得ず、また義清が越後に亡命した際には、上杉謙信から「弓矢の父」として敬意を払われたという逸話も残っている 9 。
しかし、その強固な武力とは裏腹に、義清の統治基盤は必ずしも盤石ではなかった。当時の信濃国は、300を超える小豪族が割拠する状態であり、村上氏や中信の小笠原氏はその中心的な存在ではあったものの、絶対的な支配者ではなかった 7 。義清の支配体制は、強力な中央集権的なものではなく、独立性の強い在地豪族(国衆)が盟主である義清のもとに集う連合体という性格が強かった 9 。各豪族はそれぞれの領地と利害関係を有しており、その結束は義清個人のカリスマと武勇に大きく依存していた。この統治構造に内包された脆弱性が、後に武田信玄の巧みな調略の前に露呈することになるのである。
天文10年(1541年)、父・信虎を駿河へ追放して家督を継いだ武田晴信(後の信玄)は、父の路線を継承し、本格的な信濃侵攻を開始する 7 。諏訪氏を滅ぼし、佐久の大井氏を攻略するなど、破竹の勢いで信濃国内に勢力を拡大していった 12 。
村上氏と武田氏の関係は、当初は複雑であった。義清は信玄の父・信虎と同盟を結び、天文10年(1541年)の海野平の戦いでは、諏訪頼重と共に武田軍と連携して滋野一族を破り、海野平一帯をその支配下に収めている 8 。しかし、信玄の代になると、信濃の覇権を巡る両者の利害は完全に衝突する。北信濃の独立を守ろうとする村上義清と、信濃全土の統一を目指す武田信玄との対決は、もはや避けられない運命であった 13 。信玄の勢力が村上氏の領国に迫るにつれ、両者の緊張は急速に高まっていった。
葛尾城は、葛尾山の険しい地形を最大限に利用して築かれた、典型的な「連郭式」の山城である 1 。これは、山の尾根上に主郭、二の郭、三の郭といった主要な曲輪を直線的に配置する構造を指す 1 。城の最高所である標高817メートルの地点に本郭(主郭)を置き、そこから南に下る尾根筋に沿って二の郭、三の郭が連続して設けられている 15 。
各曲輪の規模を見ると、城の中枢である主郭ですら、南北に約30メートル、東西に約12メートルと、北信濃最大の国主の居城としては決して広くはない 3 。この事実は、葛尾城が日常的な居住や政務を行うための城ではなく、有事の際に立て籠もるための「詰城」としての性格が強かったことを示唆している。平時の生活や政治の中心は、山麓に構えられた居館(現在の満泉寺周辺と推定される)にあったと考えられる 1 。二の郭、三の郭、そしてその下に階段状に連なる数多くの小規模な段郭は、主郭を防衛するための緩衝地帯として、多層的な防御ラインを形成していた 15 。
葛尾城の縄張りにおいて、最も特筆すべきは、主郭の背後(北側)に設けられた連続する巨大な堀切群である 1 。城の弱点となりうる尾根続きからの敵の侵入を完全に遮断するため、岩盤を深く、そして鋭く削り込んで造られている 2 。その規模と迫力は、訪れる者をして「巨大彫刻刀で削り取ったようだ」と感嘆させるほどである 2 。特に主郭のすぐ背後に穿たれた二重堀切は、土塁を挟んで二条の堀が並ぶ構造で、極めて高い防御思想が見て取れる 17 。
これらの堀切に加え、各曲輪の斜面は、敵兵が容易によじ登れないよう、人工的に急角度に削り落とした「切岸」となっている 1 。主郭の北側には防御効果を高めるための低い土塁も確認できる 3 。さらに、城内には用途が特定されていない石塁や、土橋を補強したと思われる石積みの遺構も点在しており 3 、土木工事だけでなく、石垣の技術も部分的に用いられていたことがわかる。これらの防御施設群は、葛尾城が戦国時代の山城の中でも特に堅固な要塞であったことを物語っている 1 。
葛尾城の防御システムは、単独の城で完結するものではなく、周辺の支城と一体となって巨大な防衛ネットワークを形成していた 19 。この複合的な山城群こそが、葛尾城の真価であった。
主郭から南に伸びる尾根の先端、矢場佐間山(標高646メートル)には、出城である「姫城」が築かれている 18 。姫城は、葛尾城本体よりも多くの兵を駐屯させることが可能な広い郭を有しており、単なる物見台ではなく、実質的な前線基地としての役割を担っていたと考えられる 16 。
また、西へ伸びる尾根筋には「岩崎城」が配置され、西側からの攻撃に備えていた 21 。この城は村上氏の時代から存在したが、村上氏の没落後、武田氏によって改修が加えられたとも伝えられている 21 。このことは、武田氏が葛尾城を攻略した後も、この地域の戦略的重要性を高く評価し、防御網を維持・強化しようとしたことを示している。
これらの支城群は、葛尾城本体への敵の接近を早期に察知し、多方面からの攻撃に対して組織的に対応するための重要な役割を果たしていた 16 。葛尾城と姫城、岩崎城は、互いに連携することで、山全体を一つの巨大な要塞として機能させていたのである。
葛尾城を巡る歴史は、武田信玄の信濃侵攻という時代の大きなうねりの中で、劇的な展開を見せる。猛将・村上義清が率いる葛尾城は、信玄の前に二度にわたり立ちはだかり、その野望を打ち砕いた。しかし、最終的には武力ではなく、巧みな調略によってその堅城も陥落の時を迎える。
年(西暦) |
主要な出来事 |
1520年 |
村上義清、家督相続。 |
1541年 |
武田晴信(信玄)、家督相続。信濃侵攻を本格化。 |
1548年 |
上田原の戦い 。村上軍、武田軍に大勝。 |
1550年 |
砥石崩れ 。村上軍、再び武田軍を撃退。 |
1551年 |
真田幸隆の調略により砥石城が落城。 |
1553年4月 |
武田軍の侵攻と調略により、村上氏配下の国衆が離反。義清、葛尾城を放棄し越後へ。 |
1553年8月 |
義清、上杉軍の支援を得て一時葛尾城を奪還するも、再び敗走。 |
1553年~ |
第一次川中島の戦い勃発。以降、5回にわたる合戦へ。 |
1573年 |
村上義清、越後根知城にて病死。武田信玄も同年死去。 |
1600年 |
関ヶ原の戦い 。森忠政、葛尾城を上田城監視の拠点として使用。 |
1615年以降 |
一国一城令により廃城か。 |
天文17年2月、小県郡に侵攻してきた武田晴信率いる7,000から8,000の大軍を、村上義清が迎え撃った 8 。これが「上田原の戦い」である。兵力では劣勢であった村上軍だが、義清は地の利を活かし、猛進する武田軍の先鋒を巧みに誘い込んで包囲、これを撃滅した 9 。この戦いで武田軍は、宿将として名高い板垣信方、甘利虎泰といった重臣を失い、信玄自身も二か所の傷を負うという惨敗を喫した 6 。連戦連勝を続けてきた若き信玄にとって、これは生涯初の大敗北であり、村上義清の名を天下に轟かせる一戦となった 12 。
上田原での雪辱を期す信玄は、天文19年9月、村上方の重要拠点である砥石城に狙いを定める。砥石城は三方を険しい崖に囲まれた天然の要害であり、攻め口が極めて限られた難攻不落の城であった 24 。
信玄は7,000の兵力でこの城を包囲したが、対する城兵はわずか500名ほどであった 24 。しかし、城兵の多くはかつて武田氏に滅ぼされた笠原氏の残党らで構成されており、武田軍への復讐心に燃え、その士気は極めて高かった 25 。武田軍は20日以上にわたって猛攻を繰り返したが、城兵は石や熱湯を落としてこれをことごとく撃退した 25 。攻めあぐねる中、村上義清の本隊が後詰めに迫っているとの報が入り、挟撃を恐れた信玄はついに撤退を決断する 25 。
この退却が、武田軍にとっての悲劇の始まりであった。撤退する武田軍の背後を、義清率いる村上軍が猛追。統制を失った武田軍は総崩れとなり、重臣の横田高松をはじめ1,000人以上もの将兵を失うという、上田原を上回る大敗北を喫した 25 。この一戦は、武田家中で「砥石崩れ」と長く語り継がれるほどの屈辱的な敗戦となった 13 。
二度にわたる直接対決での手痛い敗北は、武田信玄の戦略に大きな転換を促した。彼は、猛将・村上義清との武力による正面衝突を避け、謀略によって内部から切り崩す「調略」へと戦術の軸足を移したのである 8 。この謀略戦において中心的な役割を果たしたのが、信濃の地理と人脈に精通した真田幸隆であった 8 。
その最初の成果が、天文20年(1551年)の砥石城陥落である。武力では落とせなかったこの堅城を、真田幸隆は村上方の武将であった矢沢頼綱(幸隆の実弟)を内通させることで、わずか一日で手中に収めた 8 。葛尾城の南方を固める最重要拠点の喪失は、村上氏の防衛網に致命的な亀裂を生じさせた 23 。
この砥石城の陥落を契機に、これまで村上氏に従っていた北信濃の国衆たちの間に動揺が広がる。信玄の執拗な調略は、彼らの不安を煽り、離反を促した。天文22年(1553年)に入ると、屋代城主の屋代政国や塩崎城主の塩崎氏といった有力な国衆が相次いで武田方に寝返り、村上氏は急速に孤立していく 8 。義清の武勇も、味方の離反という内部崩壊の前には無力であった。
天文22年(1553年)4月、信玄は村上氏の孤立を好機と見て、満を持して葛尾城への総攻撃を開始した 21 。この出兵に際し、信玄は「砥石城の再興普請」を名目とするなど、村上方を油断させるための周到な情報操作を行っていた 35 。
もはや村上氏に抗戦の術は残されていなかった。千曲川右岸の支城である狐落城、荒砥城が相次いで陥落し、葛尾城内においても武田に内通した重臣による計略が発覚する 21 。周囲を完全に武田方の勢力に包囲され、味方の離反も相次ぐ中、籠城は不可能と判断された 35 。
4月9日、村上義清は決戦を前にして、本拠地・葛尾城を放棄。越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びた 10 。一度も城が攻め落とされることなく、戦わずして本拠地を失うという結末は、猛将として名を馳せた義清にとって最大の屈辱であったに違いない。この落城に際しては、義清夫人とその侍女たちにまつわる「笄の渡し」や「姫宮の跡」といった数々の悲話が生まれ、今に伝えられている 21 。
葛尾城の落城と村上義清の没落は、北信濃の勢力図を一変させた。これまで武田氏と越後長尾氏の間に存在した独立勢力という緩衝地帯が消滅し、武田氏の勢力が長尾景虎(上杉謙信)の本拠地・春日山城の間近にまで直接及ぶことになったのである 10 。
故郷を追われた村上義清や高梨政頼ら北信濃の国衆は、景虎に救援を懇願した。これに応える形で景虎が信濃に出兵したことが、戦国史に名高い「川中島の戦い」の直接的な引き金となった 7 。天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)までの12年間にわたり、両雄は5度にわたって激突する。葛尾城の落城は、この長きにわたる大抗争の序曲であった。
第一次川中島の戦い(布施の戦い)において、義清は上杉軍の支援を得て一時的に葛尾城を奪還することに成功する。しかし、上杉軍が越後に帰国すると、すぐに武田軍の反攻に遭い、再び城を奪われた 21 。旧領回復の夢は、ついに叶うことはなかった。
葛尾城落城後、武田氏はこの地を北信濃支配の重要拠点と位置づけた。城自体も、武田・上杉双方の支配下で、戦況に応じて改修が加えられたと考えられる 5 。しかし、武田氏の信濃支配戦略が深化するにつれ、その拠点としての役割は変化していった。
武田氏の北信濃支配の主たる拠点は、葛尾城のような防御に徹した山城から、より支配と統治、そして次の軍事行動への展開に適した平城へと移っていく。その象徴が、川中島平の真ん中に新たに築かれた海津城(後の松代城)である 40 。海津城は対上杉の最前線基地として機能し、一方、信濃府中には深志城(後の松本城)を整備して信濃経営全体の兵站基地とした 43 。これにより、葛尾城は最前線の司令部としての役割を海津城に譲り、後方を固める一支城としての位置づけに変わったと推察される。この戦略転換は、在地領主の防衛思想から、広域支配を目指す戦国大名の合理的で先進的な領国経営思想への移行を明確に示している。
城郭名 |
葛尾城 |
海津城(松代城) |
深志城(松本城) |
立地 |
山城(標高817m) |
平城 |
平城 |
構造的特徴 |
尾根利用の連郭式。堀切・切岸主体。 |
輪郭式の平城。水堀と土塁。甲州流築城術。 |
三重の堀を持つ平城。馬出虎口。 |
主な役割(村上氏時代) |
本拠地。領国全体の防衛司令部。 |
- |
- |
主な役割(武田氏時代) |
一時的な前線拠点。後方支城。 |
対上杉の最前線基地。川中島平支配の中核。 |
信濃経営全体の兵站基地。府中支配の拠点。 |
戦国時代末期、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、葛尾城は再び歴史の表舞台に登場する。天下分け目の戦いに際し、東軍に与した森忠政(当時、海津城主)が、西軍に味方して上田城に籠る真田昌幸を監視・牽制するための戦略拠点として、葛尾城を使用したのである 1 。
これに対し、稀代の智将・真田昌幸は葛尾城に夜襲を敢行。城の二の丸まで攻め込むという激しい攻防戦が繰り広げられた 46 。この逸話は、築城から長い年月を経た戦国末期においても、葛尾城がその戦略的価値を失っていなかったことを証明している。
しかし、これが葛尾城にとっての最後の役目となった。江戸時代に入り、元和元年(1615年)に江戸幕府によって発せられた一国一城令など、泰平の世の到来を告げる政策の中で、その歴史的役割を終え、廃城になったと考えられている 1 。
現在、葛尾城跡は長野県の史跡に指定され、戦国時代の山城の姿を色濃く残す貴重な文化遺産として保護されている 5 。特に、保存状態の良い連続大堀切群は、当時の高度な土木技術と、城主の鉄壁の防衛意志を現代に雄弁に伝えている 5 。急峻な斜面に刻まれたこれらの遺構を目の当たりにすることは、図面や文献だけでは得られない、戦国のリアルな攻防の様相を肌で感じさせてくれる。
一方で、城内には用途が特定されていない石積み遺構なども残されており、未だ解明されていない謎も多い 3 。本格的な発掘調査に関する公式な報告は限られているが 4 、これらの未解明の遺構は、城郭考古学の観点からも重要な研究対象であり、今後の調査による新たな発見が期待される。
葛尾城の歴史をより深く知る上で欠かせないのが、麓にある関連施設である。坂城駅近くの「坂木宿ふるさと歴史館」では、村上氏に関連する資料が豊富に展示されている 4 。川中島合戦図屏風や村上義清の自筆とされる書状、葛尾城と上田原の戦いを再現したジオラマなど、貴重な史料を通じて村上氏の栄枯盛衰をたどることができる 50 。
また、地域には村上氏の記憶が今なお息づいている。山麓には村上氏代々の菩提寺である満泉寺が佇み 1 、町内には村上義清の墓所も存在する 18 。そして、落城の悲劇を伝える「笄の渡し」の碑は 18 、歴史が単なる過去の出来事ではなく、地域の伝承として人々の心に受け継がれていることを示している。
葛尾城は、単に一地方豪族の居城であったという評価に留まるものではない。それは、武田信玄という戦国最強と謳われた武将を二度にわたり撃退し、その信濃平定戦略に大きな転換を促した、歴史の重要な転換点に位置する城である。
葛尾城の興亡の物語は、戦国時代という大きな変革期を象徴している。一個人の武勇に支えられた旧来の在地領主の連合体が、組織力、情報戦、そして調略といった総合的な国力を駆使する新しい形の戦国大名によって、いかにして凌駕されていったか。その過程を、葛尾城の歴史は克明に示している。そして、その落城が村上義清の越後亡命を引き起こし、ひいては「川中島の戦い」という戦国史全体に多大な影響を与えた大抗争の幕を開けた城として、その歴史的意義は極めて大きい。天空の要塞・葛尾城が語る物語は、戦国という時代の厳しさとダイナミズムを、現代の我々に力強く語りかけているのである。