武田氏の本拠躑躅ヶ崎館は、信虎が築き三代の栄枯盛衰を見守った。平時の居館と詰城を一体運用し、城下町甲府と共に発展。武田滅亡後は近世城郭へと変貌、現代の発掘調査でその歴史が明かされた。
躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた)は、甲斐国(現在の山梨県甲府市)に位置した、戦国大名武田氏の本拠地である。永正16年(1519年)に武田信虎によって築かれて以来、信玄、勝頼の三代、約62年間にわたり甲斐国の府中として機能し、領国経営における政治、経済、文化、そして軍事の中枢を担った 1 。一般に「館」と称されるものの、その実態は単なる居館にとどまらない。背後に詰城である要害山城を控え、周囲に計画的な城下町を一体的に展開させたその構造は、実質的な「城」としての機能を備えた複合的拠点であった 3 。
本報告書は、この躑躅ケ崎館を「日本の戦国時代」という視座から多角的に分析し、その歴史的意義を解明するものである。築城に至る政治的背景、時代と共に変遷した館の構造と縄張り、領国経営の拠点としての中枢機能、館で繰り広げられた武士たちの生活と文化、そして武田氏の衰退と共に訪れる拠点移転と滅亡後の運命、さらには現代の考古学的調査によって明らかになった新たな事実まで、あらゆる側面から徹底的に詳述する。躑躅ケ崎館の歴史は、戦国大名武田氏の栄枯盛衰そのものであり、また、中世から近世へと移行する時代の大きな転換点を映し出す貴重な証言者なのである。
躑腅ケ崎館の建設は、単なる居館の移転事業ではなく、武田信虎が甲斐国に新たな政治秩序を打ち立てるための、極めて戦略的な国家プロジェクトであった。それは、長年にわたる内乱を終結させ、戦国大名として飛躍するための礎を築くという、強い意志の表れだったのである。
躑躅ケ崎館が築かれる以前の甲斐国は、統一された強力な権力基盤が存在しない、不安定な状態にあった。甲斐源氏の嫡流である武田氏は、鎌倉時代以来、甲斐守護職を世襲してきたが、室町時代に入るとその権威は揺らぎ、国内の有力国人衆が各地で割拠していた。さらに武田宗家内部でも、信虎の祖父・信昌の代に、嫡男・信縄と次男・信恵(油川氏)との間で家督を巡る深刻な内訌が発生し、国を二分する争いが続いていた 3 。
永正4年(1507年)、父・信縄の死によりわずか14歳で家督を継いだ信虎は、この混乱を収拾すべく、ただちに武力統一に乗り出す 5 。翌永正5年(1508年)には、叔父・信恵を討ち取り、長年の内訌に終止符を打った 3 。その後も国内の反抗勢力を次々と制圧し、甲斐国内における武田氏の支配権を徐々に確立していった。この過程で信虎が直面した課題は、旧来の分裂した支配体制をいかにして解体し、自らを頂点とする中央集権的な領国経営システムを構築するか、という点にあった。
信虎以前、武田氏の本拠は笛吹川沿いの石和(いさわ)にあった川田館であった 3 。しかし、この地には二つの大きな問題点があった。一つは地理的な問題で、石和一帯が水害の常襲地帯であったことである 3 。そしてもう一つが、より重要な政治的含意を持つ問題であった。石和は、父祖伝来の地ではあるが、それは同時に、旧来の権力構造やしがらみを象徴する場所でもあった。
信虎が目指したのは、単なる甲斐の最大実力者ではなく、甲斐国全体を直接統治する戦国大名としての地位の確立であった。そのためには、物理的にも精神的にも、過去の秩序から脱却した新しい政治の中心地を創設する必要があった。そこで選ばれたのが、甲府盆地のほぼ中央に位置し、相川扇状地の扇頂部に広がる躑躅ケ崎の地であった 3 。この地は、甲斐一円を見渡せる戦略的要衝であり、自己の政権を不動のものとし、国外の強敵である今川氏や北条氏に対抗する新たな拠点として、まさに理想的な場所だったのである 5 。
武田氏の家臣・駒井高白斎が記したとされる『高白斎記』によれば、躑躅ケ崎館の建設が開始されたのは永正16年(1519年)のことである。同年8月15日に「新府中御鍬立テ初ム」として鍬入れ式が執り行われ、翌16日には信虎自らが敷地の見分を行ったと記録されている 3 。
特筆すべきは、この築城が、甲斐国内の情勢が完全に安定しない中で断行された点である 5 。事実、館の造営直前には今川氏との戦闘があり、竣工直後には有力国人の離反を招いている 5 。このような状況下での築城強行は、信虎の強い決意と、新時代への移行を急ぐ戦略的判断があったことを示唆している。
信虎は、単に居館を建設しただけではなかった。彼はこの地を「甲府」、すなわち「甲斐府中」と命名し、名実ともに甲斐国の中心とすることを宣言した 5 。そして、館の完成と共に石和から移り住むと、ただちに「甲州府中一国大人様ヲ集リ居給候」(『勝山記』)と、国内の有力国人層を新府中に強制的に移住させたのである 5 。これは、彼らを本来の領地から切り離し、武田家当主の足元に置くことで直接的な支配下に組み込み、権力の中央集権化を達成するための極めて巧妙な政策であった。躑躅ケ崎館の建設は、物理的な土木工事であると同時に、甲斐国の社会構造そのものを再編する、壮大な政治的プロジェクトの幕開けだったのである。
年代 |
元号 |
主要な出来事 |
1508年 |
永正5年 |
武田信虎、叔父・信恵を討ち、甲斐統一を本格化させる。 |
1519年 |
永正16年 |
信虎、躑躅ケ崎に館の建設を開始(鍬立式)。石和から本拠を移転。 |
1520年 |
永正17年 |
詰城として背後の山に要害山城の築城を開始。 |
1551年 |
天文20年 |
武田信玄、嫡男・義信の婚礼に伴い、西側に西曲輪を増築。 |
1581年 |
天正9年 |
武田勝頼、織田・徳川軍の脅威に備え、韮崎に築いた新府城へ本拠を移転。館は一時的に破却される。 |
1582年 |
天正10年 |
武田氏滅亡。織田信長の家臣・河尻秀隆、次いで徳川家康の家臣が館を甲斐統治の拠点として再利用。 |
1590年以降 |
天正18年以降 |
豊臣政権下で加藤光泰、浅野長政らが領主となり、石塁や天守台を設けるなど大規模な改修が行われる。 |
1600年頃 |
慶長5年頃 |
南方に築かれた甲府城がほぼ完成し、統治機能が移転。躑躅ケ崎館は廃城となる。 |
1919年 |
大正8年 |
館跡の中心部(主郭跡)に、武田信玄を祀る武田神社が創建される。 |
1938年 |
昭和13年 |
「武田氏館跡」として国の史跡に指定される。 |
平成期以降 |
- |
継続的な発掘調査と史跡整備事業が進行し、大手周辺の遺構などが復元される。 |
躑躅ケ崎館の構造と縄張り(設計思想)は、武田氏の権勢の拡大と、その内部構造の変化を如実に物語っている。信虎による築城当初の簡素な方形館から、信玄の時代に諸施設が拡張され、さらに武田氏滅亡後には新たな支配者によって近世城郭へと大きく姿を変えていく様は、まさに時代の変遷を刻んだ地層そのものである。
館は、甲府盆地の北端、南流する相川が形成した扇状地の扇頂部に位置する 3 。この場所は、東西を藤川と相川に挟まれ、背後には要害山をはじめとする山々が連なる、天然の要害であった 3 。同時に、南に甲府盆地を一望できるこの立地は、甲斐一国を支配する拠点としての象徴性を備えていた 8 。近年の地中レーダー探査では、館の東方から続く尾根状の旧地形を巧みに利用して造営された可能性も指摘されている 9 。
館の縄張りは、時代と共に拡張されていった。当初は主郭のみの単郭形式であったが、武田氏の勢力拡大に伴い、複数の曲輪が増設され、東日本でも最大級の規模を誇る戦国期居館へと発展した 7 。
躑躅ケ崎館は平地に築かれた居館であるが、随所に高度な防御思想が見られる。
躑躅ケ崎館の真価は、その建物単体にあるのではなく、計画的に建設された城下町「甲府」と一体となって、甲斐国の領国経営システムそのものを変革した点にある。館の建設は、武田氏の支配体制を新たな段階へと引き上げる、壮大な都市計画の始動を意味していた。
信虎は躑躅ケ崎に館を構えると同時に、その南側に広がる緩やかな傾斜地を利用して、大規模な城下町を整備した 5 。この新たな町は、単なる門前町ではなく、明確な都市計画思想に基づいて設計されていた。南北に5本の基幹街路を通し、それに直交する東西の通りによって区画された碁盤目状の町割りは、当時の文化の中心であった京の都の条坊制を意識したものであった 13 。
この計画的な町並みは、武田氏の権威を内外に誇示する象徴的な意味を持つと同時に、防御上の機能も考慮されていた。そして、この新たな首都を「甲斐府中」、すなわち「甲府」と命名したこと自体が、ここが甲斐国唯一の中心地であるという信虎の強い意志表示であった 5 。
この新たな都市計画の核心は、甲斐国内の有力国人衆を強制的に城下町へ移住させたことにあった 5 。それまで各自の領地に拠点を構えていた国人衆を、当主の膝元である甲府に集住させることには、複数の戦略的意図があった。
第一に、彼らを在地盤から切り離し、武田家当主への依存度を高めることで、謀反の危険性を削ぎ、直接的な支配下に置くことが可能となった 5 。第二に、彼らの家族を城下に住まわせることは、事実上の人質政策として機能し、当主への忠誠を確保する上で効果的であった。館の周囲には、武田信繁や武田信廉といった親族衆、そして高坂昌信や馬場信春といった譜代の重臣たちの屋敷が配置され、館を中心とする同心円状の支配体制が空間的に表現されていた 5 。
この家臣団集住政策は、軍事システムの変革にも直結していた。在地領主であった家臣を土地経営から切り離し、城下に常住させることは、兵農分離の初期段階と見なすことができる。これにより、当主の命令一下、即座に出陣できる常備軍的な軍事力を編成することが可能となり、武田軍の機動力と強さの源泉の一つを制度的に作り出したのである。
甲府の城下町は、政治・軍事の拠点であると同時に、領国の経済的中心地としても計画的に整備された。城下町の南部には商人や職人が住む町人地が設けられ、東西の入口にはそれぞれ八日市場、三日市場といった定期市が開設され、商業活動が奨励された 17 。発掘調査では、鍛冶や鋳物などの手工業生産が行われていたことを示す工房跡や遺物も発見されており、活発な経済活動の様子がうかがえる 13 。
信玄の時代になると、釜無川の治水事業、いわゆる「信玄堤」の構築が進められる 11 。この大規模な治水工事は、甲府盆地を水害から守り、農業生産性を飛躍的に向上させただけでなく、城下町の安定と発展にも大きく寄与した。安定した基盤の上に、各地から商人や職人が集まり、甲府は東日本でも有数の大都市へと繁栄を遂げたのである 11 。
躑躅ケ崎館は、緊迫した政治や軍事の舞台であると同時に、武田氏当主とその家族、家臣たちが日々の生活を営み、また、高度な文化活動が繰り広げられる場でもあった。戦国の世にあって、武勇一辺倒ではない、洗練された文化がこの館で花開いていた。
館の中心である主郭は、領国統治の拠点として機能していた。ここでは日夜、家臣たちが参集して政務が執られ、戦の前には軍議が開かれた 1 。一方で、館は当主とその家族が暮らす私的な空間でもあった。
武田氏は、甲斐という山国にありながら、中央である京の文化を積極的に取り入れ、高い文化水準を誇っていた。躑躅ケ崎館は、その文化交流の拠点であった。
躑躅ケ崎館におけるこれらの文化的活動は、武田氏が単なる軍事力だけでなく、文化的な権威、いわば「ソフトパワー」をも駆使して領国を統治していたことを示している。茶の湯や連歌、禅といった文化は、武田氏の強さを支えるもう一つの重要な柱だったのである。
天正9年(1581年)、武田勝頼は、信虎・信玄と三代にわたって武田氏の栄華を支えてきた躑躅ケ崎館を放棄し、本拠を韮崎の新府城へ移すという重大な決断を下す。この拠点移転は、武田氏が直面していた深刻な危機に対応するための合理的な戦略であった一方で、結果的にその滅亡を早める一因ともなった、悲劇的な一手であった。
勝頼が拠点移転を決断した最大の要因は、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける織田・徳川連合軍への歴史的大敗にあった 11 。この敗戦により、武田軍は多くの宿将を失い、その軍事力は深刻な打撃を受けた。織田信長の天下統一事業が急速に進む中、その脅威は甲斐の本国にまで迫りつつあった。
このような状況下で、躑躅ケ崎館の防御上の脆弱性が深刻な問題として浮上した。甲府盆地の中心部に位置する平地の居館であり、大規模な籠城戦を想定した堅固な防御施設を持たない躑躅ケ崎館では、織田の大軍の侵攻に耐えられないことは明白であった 11 。勝頼は、領国の建て直しと対織田戦線の再構築のため、新たな戦略拠点の建設を迫られたのである。
勝頼が新たな本拠として選んだ韮崎の地は、複数の戦略的合理性に基づいていた。
この勝頼の計画は、軍事的・政治的には極めて合理的であったが、多くの譜代家臣たちの強い反対に遭った 28 。躑躅ケ崎館と甲府の城下町は、単なる「場所」ではなく、信虎・信玄の二代にわたって築き上げられた武田家の「伝統」と「権威」の象徴であった。父祖伝来の地を捨てるという決断は、家臣団に深刻な心理的動揺を与え、求心力の低下を招いた。
それでも勝頼は移転を強行したが、新府城は未完成のまま、天正10年(1582年)の織田・徳川連合軍による甲州征伐を迎えることとなる。圧倒的な兵力差の前に、勝頼は完成間もない新府城に自ら火を放ち、最終拠点としていた岩殿山城主・小山田信茂の裏切りにあい、天目山で自刃。武田家は滅亡した 11 。合理的なはずの戦略が、それを支える人々の支持、すなわち信玄が「人は城、人は石垣、人は堀」と看破した最も重要な要素を失った時、いかに脆く崩れ去るかを物語る、象徴的な結末であった。
武田氏の滅亡後、主を失った躑躅ケ崎館は、歴史の表舞台から姿を消すことはなかった。むしろ、天下統一へと向かう激動の時代の中で、新たな支配者たちの手によってその姿を大きく変貌させ、中世的な居館から近世城郭へと移行する過渡期の様相を色濃く刻み込むこととなる。
天正10年(1582年)、武田氏を滅ぼした織田信長は、甲斐国を家臣の河尻秀隆に与え、躑躅ケ崎館をその統治拠点とした 32 。しかし、同年6月に本能寺の変で信長が横死すると、甲斐国は主無き地となり、旧武田領を巡って徳川家康と北条氏政が争う「天正壬午の乱」が勃発する 32 。この争いを制した家康は、甲斐国をその支配下に収め、家臣の平岩親吉を躑躅ケ崎館に配置し、引き続き甲斐統治の中心拠点として利用した 5 。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の結果、家康が関東へ移封されると、甲斐国は秀吉の支配下に入った。以後、豊臣秀勝、加藤光泰、そして浅野長政・幸長親子といった豊臣系の大名が領主として入府し、甲府城の築城が本格化するまでの間、躑躅ケ崎館を拠点とした 18 。
この豊臣政権の時代に、躑躅ケ崎館はそれまでの姿から一変する大規模な改修を受けた。これは、新たな支配者が自らの権威と、旧来の武田氏とは異なる新しい築城技術を示すためのものであった。
浅野長政・幸長の時代に、館の南方約2キロメートルに位置する一条小山において、本格的な近世城郭である甲府城の築城が本格化する 18 。慶長5年(1600年)頃に甲府城がほぼ完成し、甲斐統治の中枢機能が完全にそちらへ移ると、信虎による築城から約80年、躑躅ケ崎館はその歴史的役割を終え、廃城となった 32 。
躑躅ケ崎館の遺構は、武田氏の歴史だけでなく、その後の天下統一期の歴史をも刻み込んだ「地層」となっている。特に大手口の発掘調査では、豊臣時代に築かれた石塁の下から、武田氏時代の防御施設である「三日月堀」と「丸馬出」の跡が発見された 15 。これは、新たな支配者が旧時代の防御施設を再利用するのではなく、意図的に埋め立て、その上に自らの新しい築城技術による施設を「上書き」したことを意味する。この行為は、武田氏という地域権力を、豊臣政権という中央の新しい権力が完全に支配下に置いたことを物理的に宣言する、象徴的な出来事であった。
項目 |
武田氏時代(〜天正9年) |
織豊政権時代(天正10年〜) |
根拠となる遺構・調査成果 |
主たる素材 |
土、木 |
石垣(野面積み) |
発掘調査全般、天守台石垣 |
馬出の形状 |
丸馬出(曲線的で土塁主体) |
角馬出(直線的で石塁を伴う) |
大手周辺の発掘調査 15 |
堀の形状 |
三日月堀(馬出の前面に設けられた半月状の空堀) |
埋め立てられ消滅(石塁の基礎となる) |
大手石塁下層の発掘調査 22 |
防御思想 |
敵を複雑な経路に誘い込み、側面から攻撃する機動的防御 |
高い石垣と強固な門で敵の侵攻を正面から阻止する静的防御 |
遺構の構造分析 |
象徴的建造物 |
天守なし |
天守台(高石垣) |
現存遺構 1 |
廃城後、江戸時代を通じて「古城」として人々の記憶にとどめられていた躑躅ケ崎館跡は、近代以降、歴史遺産として再び光を浴びることとなる。そして、現代の考古学的調査技術は、文献史料だけでは知り得なかった、生きた戦国時代の姿を次々と地中から蘇らせている。
館跡が歴史的価値を再認識される大きな契機となったのは、大正8年(1919年)のことである。武田信玄を祭神とする武田神社が、館の中核であった主郭跡に創建された 1 。これにより、館跡は多くの人々が訪れる場となり、その保存への気運が高まった。そして昭和13年(1938年)5月30日、「武田氏館跡」として、その歴史的重要性が公的に認められ、国の史跡に指定されたのである 1 。
昭和後期から現在に至るまで、館跡では継続的に発掘調査が行われ、数多くの重要な発見がなされてきた。これらの成果は、我々の躑躅ケ崎館に対する理解を飛躍的に深めるものであった。
これらの発掘調査の成果に基づき、現在、史跡公園として大手周辺の惣堀や土塁、石塁、石段などが往時の姿に復元・整備されている 14 。躑躅ケ崎館は、今なお歴史の謎を解き明かす鍵を秘めた、生きた遺跡として未来へとその価値を伝えているのである。
躑躅ケ崎館は、日本の歴史、特に城郭史と都市史において、多岐にわたる重層的な意義を持つ稀有な遺跡である。
第一に、城郭史上の意義として、躑躅ケ崎館は、平時の政庁・居館である「館」と、有事の際の最終防衛拠点である「詰城(要害山城)」を一体で運用する、戦国期大名の拠点形態の典型例を示している。それは、信玄の言葉「人は城」を体現するかのように、過度に巨大な天守閣などを持たず、人と組織、そして城下町との連携を重視した拠点であった。しかし、その一方で、武田氏滅亡後には豊臣系大名によって天守台や高石垣が導入され、中世的な「土の城」から近世的な「石の城」へと変貌を遂げる過渡期の姿を、一つの遺跡の中に明確に留めている。武田流築城術の到達点と、それを乗り越えようとした織豊流築城術の萌芽が、同じ場所で「地層」として確認できる点は、他に類を見ない学術的価値を持つ。
第二に、都市史上の意義として、躑躅ケ崎館の建設とそれに伴う城下町の整備は、現在の山梨県の県都・甲府市の直接的な起源となった点で、極めて重要である 3 。信虎による計画的な都市建設は、その後の甲府城下町、そして近代都市甲府の骨格を形成した 13 。躑躅ケ崎館は、単なる歴史上の建造物ではなく、500年の時を超えて現代に続く都市の礎を築いた、生きた遺産なのである。
結論として、躑躅ケ崎館は、武田氏三代の栄枯盛衰という一地方大名の物語を内包しつつ、戦国時代の終焉と天下統一という新たな時代の到来という、日本の大きな歴史の転換点を一身に体現する、比類なき歴史遺産であると言える。今後も続くであろう調査研究と、その成果に基づいた適切な保存・活用は、この貴重な遺産が持つ物語を未来へと語り継いでいく上で不可欠な責務である。