那古野城は今川氏が築き、織田信秀が奪取し熱田湊を掌握。若き織田信長が城主となり人間形成の舞台となった。清洲城への本拠移転で廃城となるが、名古屋城の礎となった。
徳川家康によって築かれた壮大なる近世城郭、名古屋城。その威光の影に、戦国時代の尾張を動かしたもう一つの城、「那古野城」が存在した事実は、今日広く知られているとは言い難い 1 。本報告書は、この那古野城の築城から廃城、そしてその歴史的遺産に至るまで、現存する史料と最新の考古学的知見を駆使して、その全貌を徹底的に解明することを目的とする。
那古野城の歴史は、約60年という短い期間に凝縮された、戦国時代のダイナミズムそのものである。駿河の雄・今川氏が尾張進出の橋頭堡として築いた軍事拠点として産声を上げ 3 、やがて尾張の風雲児・織田信秀の手に落ち、織田家飛躍の経済的・軍事的足掛かりとなった 3 。若き日の織田信長が「うつけ」と呼ばれながら多感な時期を過ごした人間形成の舞台であり 6 、尾張統一という大事業の過程でその戦略的役割を終え、歴史の表舞台から姿を消した 8 。そして最終的には、その故地が徳川の名古屋城の敷地として選定され、日本有数の大都市・名古屋が誕生する直接的な礎となったのである 10 。
物理的には完全に後世の名古屋城に飲み込まれ、その遺構の多くは今なお地下に眠っている 2 。しかし、その存在意義は消え去ったわけではない。約半世紀の時を経て、天下人となった徳川家康が、尾張支配の新たな中心地として数ある候補の中から全く同じ場所を選定したという事実は、単なる偶然ではない 9 。それは、那古野城が占めていた名古屋台地北西端という立地が持つ、時代を超越した軍事・経済・政治上の戦略的価値を、今川、織田、そして徳川という三つの異なる権力主体が等しく認識し、評価していたことの証左である 3 。したがって、那古野城の歴史を紐解くことは、物理的な城郭の変遷を追うだけでなく、その「場所の記憶」とも言うべき無形の戦略的価値が、いかにして戦国の覇者たちに認識され、継承されていったのかという、より大きな歴史の連続性を解明することに繋がるのである。
16世紀初頭の尾張国は、守護であった斯波氏の権威が失墜し、その下で実権を握っていた守護代の織田氏も、岩倉城を拠点とする伊勢守家と清洲城を拠点とする大和守家に分裂し、さらにその家臣たちが勢力を争うという、混沌とした政治状況にあった 13 。この尾張の権力の空白に乗じ、駿河・遠江を支配し勢力を拡大していた今川氏親は、西への領土拡大という壮大な戦略の一環として、尾張への侵攻を本格化させた 3 。
その前線拠点、そして尾張支配の橋頭堡として築かれたのが那古野城である。築城年代は、大永年間(1521年~1528年)とされており、今川氏の尾張経略における明確な意図をもって建設された 2 。城主としてこの地に置かれたのは、氏親の子(一説には末子)とされる今川氏豊であった 3 。これにより、今川氏は尾張国内に安定した軍事拠点を確保し、在地勢力への影響力を強めていくこととなる。
築城当初、この城は「那古野城」ではなく「柳ノ丸」と呼ばれていたことが史料から確認できる 2 。この「柳」という呼称の由来は定かではないが、当時の城周辺が柳の木が多く自生する湿潤な土地であった可能性が指摘されている 16 。また、「丸」という言葉は、戦国時代においては城の中核をなす区画(曲輪)を指す用語であり、当初の柳ノ丸が、複数の曲輪を持つ大規模な城郭ではなく、単郭、あるいはそれに近い小規模な城館であったことを示唆している 18 。
城が築かれた場所は、名古屋台地の北西端に位置し、北と西が崖となっており、その下には湿地帯が広がる天然の要害であった 1 。この立地は、濃尾平野を一望でき、敵の動きを監視しやすいという軍事的な利点と、後述する経済の動脈である熱田湊にも近いという経済的な利点を両立させる、極めて戦略的な選択であった。
初代城主・今川氏豊は、今川義元の弟、あるいは一族とされ、尾張における今川勢力の代理人として重要な役割を担った 4 。彼の存在は、単なる軍事司令官に留まらなかった。外部勢力である今川氏が尾張支配を安定させるためには、在地勢力との融和が不可欠であった。そのための政治的戦略として、氏豊は在地領主であった那古野氏の家督を継いだ、あるいは尾張守護・斯波義達の娘を娶ったという説が存在する 2 。
これらの説が事実であれば、今川氏の戦略は武力一辺倒ではなく、婚姻政策を通じて在地社会に深く根を張り、支配の正当性を確保しようとする高度なものであったことがわかる。この観点から見れば、那古野城は単なる軍事的な「橋頭堡」であると同時に、今川氏の影響力を尾張の在地社会に浸透させるための政治的な「楔」としての機能も期待されていたと考えられる。
今川氏が築いた那古野城は、やがて尾張国内で急速に台頭してきた織田信秀の手に落ちる。その奪取の経緯については、信秀の智将ぶりを伝える逸話が複数残されている。一つは、風流を好み連歌に興じる城主・今川氏豊の性格を利用した計略である。信秀は連歌会に足繁く通って氏豊を完全に信用させ、城内に逗留するほどの仲となり、その油断に乗じて城を乗っ取ったという 4 。もう一つは、信秀が病を装って城内で療養し、見舞いと称して家臣たちを城内に引き入れた上で、夜陰に乗じて城下に放火。その消火活動で城内の守りが手薄になった隙を突いて、内外から攻め立てて城を奪ったというものである 23 。
これらの逸話は、後の勝者である織田家の視点から信秀の英雄性を強調するために脚色された可能性が高く、その全てを史実と見なすことはできない。しかし、いずれの伝承も、信秀が単なる武力だけではなく、何らかの策謀を用いて今川方の油断を誘い、城を陥れたであろうことを示唆している。
信秀による那古野城奪取の時期については、長らく学術的な論争の的となってきた。従来、通説とされてきたのは天文元年(1532年)であった 3 。この説は、織田信長の生誕年である天文三年(1534年)との時間的整合性が高く、信長が父の居城である那古野城で生まれたとする「那古野城生誕説」の重要な根拠とされてきた。
しかし、この通説は、一次史料の発見によって大きく揺らぐことになる。公家・山科言継が記した日記『言継卿記』の中に、天文二年(1533年)七月から八月にかけて、言継自身が信秀の本拠地であった勝幡城を訪れた際、「那古屋の今川竹王丸(氏豊の幼名)」に面会したという明確な記述が確認されたのである 2 。この記録は、天文二年の時点では那古野城が依然として今川氏の支配下にあったことを示す動かぬ証拠となった。これにより、従来の天文元年説は否定され、現在では奪取年を天文七年(1538年)頃とする説が学界の有力説となっている 2 。
この奪取年の見直しは、単なる年代表の修正に留まらない。それは、織田信長の出自に関する物語を根底から書き換える、極めて重要な意味を持っていた。天文元年説の下では、信長は父がすでに支配を確立した城で生まれた「正統な後継者」であった。しかし、天文七年頃説が正しければ、信長が生まれた天文三年時点では父・信秀はまだ那古野城を支配しておらず、今川氏という強大な敵と対峙する緊迫した状況下にあったことになる。つまり、信長の出自は「安定した支配者の嫡男」から「下剋上の渦中で生まれた子」へと変わり、彼の生涯を貫く既成権威への挑戦や革新性の原点を、その出生の背景に求めることが可能になるのである 28 。
織田信秀が那古野城を渇望した最大の理由は、その軍事的重要性もさることながら、城が近接する経済的要衝「熱田湊」の支配にあった 31 。当時の熱田は、熱田神宮の門前町として、また伊勢湾の水上交通を利用した交易拠点として大いに繁栄していた 32 。信秀の父・信定が木曽川水系の物流拠点である津島湊を掌握したことに加え、信秀がこの熱田湊を手中に収めたことで、織田家は尾張の二大経済動脈を支配下に置くことに成功した 31 。
これは、当時の多くの戦国大名が米の収穫量(石高)を経済基盤としていたのとは一線を画す、先進的な戦略であった。織田家は、土地からの年貢収入に依存するのではなく、商業と流通から生まれる莫大な「銭(ぜに)」を富の源泉としたのである 32 。この潤沢な財力は、朝廷への巨額な献金を可能にし、それによって「三河守」の官位を得るなど政治的権威を高めると同時に、鉄砲の導入をはじめとする軍備の近代化を推し進める原動力となった 32 。那古野城の奪取は、この「軍事行動→経済支配→政治力・軍事力の強化」という織田家独自の成長サイクルを加速させる、決定的な一手だったのである。
前章で述べた那古野城奪取年の見直しは、織田信長の生誕地に関する長年の通説にも大きな影響を与えた。奪取が天文七年(1538年)頃であれば、天文三年(1534年)生まれの信長が那古野城で誕生した可能性は完全に否定される。これにより、信秀が那古野城を奪う以前に本拠地としていた勝幡城(現在の愛知県愛西市・稲沢市)こそが信長の生誕地であるとする説が、現在では最も有力視されている 28 。今日、名鉄津島線の勝幡駅前には、父・信秀と母・土田御前に抱かれた赤子の信長(吉法師)の像が建立されており、地域を挙げて生誕の地として顕彰されている 28 。
那古野城を手中に収めた信秀は、そこを新たな拠点としたが、やがて天文15年(1546年)頃にはさらに古渡城を築いて居城を移し、那古но城を嫡男の吉法師(後の信長)に譲り渡した 10 。最も信頼性の高い信長の一代記とされる『信長公記』にも、信長が元服(成人)する前に那古野城を譲られたと記されており、数え年で6歳(満5歳)という異例の若さで一城の主となった 40 。もちろん、実質的な城の運営は幼い城主には不可能であり、筆頭家老の林秀貞(通勝)や、傅役(もりやく)の平手政秀といった重臣たちがその後見役として付けられた 8 。
那古野城主となった少年期の信長は、常軌を逸した奇抜な服装や行動で周囲を驚かせ、「尾張の大うつけ」とあだ名されていた 6 。彼は城内に籠もることなく、身分の上下を問わず若者たちを引き連れて城下やその周辺を闊歩したという。この「うつけ仲間」の中には、後に加賀百万石の祖となる前田利家(犬千代)や、まだ中村の貧しい農民の子であった豊臣秀吉(日吉丸)もいたと伝えられている 41 。彼らは共に川で魚を獲り、それを津島の市で売るなど、自由奔放な日々を送っていた。これらの行動は、旧来の価値観や身分制度に縛られない信長独自の情報収集術であり、後の人材登用術の萌芽であったと評価されている。
この那古野城主時代は、信長にとって単なる幼少期ではなく、彼の統治者としての思想と人脈の原点が形成された「実験場」であったと見ることができる。形式的ではあれ一城の主という立場は、彼に統治者としての自覚を促した。一方で、彼の型破りな行動は、林秀貞ら旧態依然とした家臣団との間に深刻な軋轢を生み、旧弊な体制への不信感を募らせた。同時に、身分を問わず市井の若者たちと交わることで、城の中では得られない民衆の活力や生きた情報を直接吸収し、前田利家のような新しい時代を担う人材との強固な絆を育んだ。この経験こそが、後の信長の政策の根幹をなす、身分によらない実力主義、そして民衆の動向を重視する統治思想を形成した重要な準備期間であったと解釈できる。
天文15年(1546年)、13歳になった信長は父の居城である古渡城において元服の儀を執り行い、正式に「織田三郎信長」と名乗った 37 。その後、父・信秀の政略により、隣国・美濃の戦国大名「蝮(まむし)」こと斎藤道三との間に和睦が成立。その証として、信長は道三の娘・帰蝶(濃姫)を正室として迎えることになった。那古野城は、この若き二人の新婚生活の舞台ともなったのである 24 。
那古野城は、後世に描かれるような壮麗な天守閣を持つ城ではなく、領主の館(やかた)の周囲を土塁や堀で防御した、戦国時代に典型的な「平城(ひらじろ)」であったと考えられている 39 。その遺構は、江戸時代に築かれた名古屋城の敷地内に完全に取り込まれ、現在では二の丸および三の丸の地下深くに埋没している 10 。しかし、近年の継続的な発掘調査によって、その秘められた姿が徐々に科学的な根拠をもって明らかになりつつある 3 。
名古屋城三の丸遺跡の複数の調査地点から、戦国時代に属すると考えられる堀や溝の跡が多数発見されている 3 。これらの遺構を詳細に分析した結果、那古野城の構造と変遷に関する極めて重要な事実が判明した。検出された溝は、その主軸が示す方位によって、真北に近い「正方位溝群」と、そこからやや時計回りに傾いた「準方位溝群」の二つに大別できる 3 。
そして、複数の調査区において、古い時代の準方位溝を埋め立て、その上に新しい時代の正方位溝が掘削されているという、明確な切り合い関係が確認されたのである 3 。これは、那古野城が一度に完成した静的な存在ではなく、築城後、特におそらくは織田信秀または信長の手によって、より計画的で大規模な改修・拡張工事が行われたことを示す強力な物証である 3 。当初のやや不規則な区画を整理し、より合理的で防御力の高い、正方位に基づいた城郭へと「アップグレード」されたことを物語っている。この計画的な空間設計思想は、後に信長が築く小牧山城や安土城といった、城全体を政治的・軍事的拠点として統合する「織豊系城郭」の思想的源流と見なすことができ、那古野城の改修はその先進的な築城思想が初めて現れた初期の事例として位置づけることができる。
以下の表は、主要な発掘調査地点における発見を整理したものである。これにより、城が段階的に、そして計画的に拡張されていった様子が具体的に見て取れる。
調査地点 |
確認された遺構(主軸方位) |
年代推定(出土陶器) |
示唆される事柄 |
合同庁舎1号館地点 |
正方位溝(堀) |
II期古段階(16世紀前葉) |
城の築城当初からの中心的区画であった可能性が高い。 |
中部電力地下変電所地点 |
準方位溝 |
II期(16世紀前〜中葉) |
当初は城の外縁部、あるいは計画外の区画だった可能性。 |
愛知県警本部地点 |
準方位溝を埋め、正方位溝を掘削 |
II期新段階(16世紀中葉) |
城域が南西方向へ計画的に拡張されたことを示す。 |
愛知県図書館地点 |
準方位溝を埋め、正方位溝を掘削 |
III期(16世紀中〜後葉) |
さらなる城域の拡張。合理的な空間改変の明確な証拠。 |
発掘された堀跡などからは、当時の人々の生活を物語る様々な遺物が出土している。特に、この地域の一大窯業地であった瀬戸・美濃地方で生産された陶磁器が多数を占めていることは、那古野城と地元経済との密接な結びつきを示している 3 。
中でも注目すべきは、「天目茶碗」の出土である 45 。天目茶碗は、室町時代に禅宗文化とともに広まった喫茶の風習に用いられる茶器であり、当時は上級武士や貴族の間で珍重された高級品であった 47 。このような遺物の存在は、那古野城が単なる殺伐とした軍事拠点ではなく、城主クラスが当時としては文化的で洗練された生活を送る、政治・文化の中心としての機能も併せ持っていたことを具体的に示唆している。
弘治元年(1555年)、父・信秀の跡を継いだ信長は、尾張下四郡の守護代であり、織田宗家の本流ともいえる清洲城主・織田信友を攻め滅ぼし、その本拠地であった清洲城を奪取した 8 。信長は直ちに居城を那古野城からこの清洲城へと移す。
この本拠地移転は、単なる引越し以上の、極めて重要な政治的意味を持っていた。清洲城は、長らく尾張国の守護所が置かれた、名実ともに尾張の政治的中心地であった 13 。そこを新たな本拠地とすることは、信長が父・信秀のような一地方の実力者の立場から脱却し、尾張国全体の公的な支配者としての地位を確立したことを内外に宣言する、象徴的な行為だったのである 9 。
信長が尾張支配の拠点を清洲に移した後も、那古野城が即座に廃されたわけではなかった。城にはまず、信長の叔父にあたる織田信光が入り、信光が家臣に殺害されるという悲劇の後は、信長譜代の重臣である林秀貞(通勝)が城主、あるいは城代としてその管理を任された 3 。
しかし、信長が尾張統一を成し遂げ、その戦略的関心が隣国・美濃の攻略へと移っていくにつれて、那古野城の相対的な重要性は著しく低下していった。尾張の政治・軍事機能は完全に清洲城へと集中し、那古野城は副次的な拠点へとその地位を落としたのである 8 。美濃侵攻のための兵站基地としてしばらく機能した可能性も指摘されているが 52 、尾張国内の戦乱が終息し、支配体制が安定するにつれてその役割も終焉を迎えた。
この一連の動きは、信長の支配体制が、父の代に見られたような一族や有力家臣が各地の城に拠点を置く「分割統治」から、権力を自身に一元化する「中央集権体制」へと移行していく過程を象徴している。尾張国内の副次的な拠点はその存在意義を失い、やがて廃城へと至る。那古野城もその例外ではなく、天正十年(1582年)頃には完全に廃城になったとされている 3 。廃城後の城跡は急速に荒廃し、徳川家康が新たな城の建設地としてこの地を訪れる頃には、鷹狩りに使われるような広大な原野と化していたと伝えられている 2 。
那古野城が廃城となってから約半世紀後、関ヶ原の戦いを制し天下人となった徳川家康は、自身の九男・徳川義直が治める尾張藩の拠点として、新たな城の築城を計画する。その際、当時の尾張の中心地であった清洲ではなく、かつて那古野城があったこの地を新たな築城地として選定した 9 。
家康が清洲を避けた理由の一つは、その地が五条川沿いの低湿地であり、水害に極めて弱いという地理的欠点にあった 9 。対照的に、那古野の地は堅固な台地上にあり、水害の心配がなく、かつて織田信秀が着目したように、経済の動脈である熱田湊に近く水運の便も良いという絶好の立地条件を備えていた 9 。これは、かつて今川氏や織田氏がこの地を選んだ理由と全く同じであり、那古野という場所が持つ普遍的な戦略的価値を、時代の支配者である家康が的確に再認識したことを示している 8 。
慶長15年(1610年)、家康は全国の諸大名に普請を命じる「天下普請」として、那古野城の故地に壮大な名古屋城の築城を開始した。それと同時に、彼は歴史上類を見ない壮大な都市計画を実行する。それが、清洲の町を武士、町人、寺社に至るまで、城下町ごと新たな名古屋城下へ移転させる「清洲越し」である 11 。
この計画により、約6万人の人々が移住し、碁盤の目のように整然と区画された「碁盤割」の町並みが形成された 11 。これは、戦国時代の城に付随して自然発生的に形成された城下町とは一線を画す、近世的な都市計画思想の現れであった。那古野城の跡地は、この壮大な計画の中心舞台となり、戦国的な「城と町」の関係性が終焉し、近世的な「計画都市」が誕生する、まさにその転換点に位置することとなった。
那古野城は、物理的には完全に近世名古屋城の郭内に取り込まれ、その具体的な姿を地上から見ることはできない 7 。現在では、名古屋城二の丸庭園の片隅に、その存在を後世に伝える「那古野城址」の石碑が静かに立つのみである 2 。
しかし、その歴史的遺産は計り知れない。戦国期の尾張における政治・経済の要衝として今川氏と織田氏の興亡の舞台となり、特に織田信長の天下取りの原点を育んだ。そして何よりも、その跡地が徳川名古屋城の敷地として選ばれたことにより、日本を代表する大都市・名古屋が誕生する直接的なきっかけとなったのである。那古野城は、まさに名古屋の歴史における「忘れられた礎石」であり、その地が持つ戦略的価値と歴史の連続性を静かに、しかし雄弁に物語っている。