長篠城は戦国時代の要衝。武田軍の猛攻を耐え抜き、織田・徳川連合軍の勝利に貢献。鳥居強右衛門の忠義は後世に語り継がれる。
三河国東部に位置する長篠城の名は、天正3年(1575年)の「長篠・設楽原の戦い」における壮絶な籠城戦の舞台として、日本の戦国史に不滅の刻印を記している。しかし、この城の歴史的価値は、単一の戦闘における英雄譚の背景に留まるものではない。奥三河の地政学的要衝として誕生し、今川、徳川、武田という三大勢力の思惑が交錯する中でその役割を絶えず変え、最終的に日本の戦史そのものを大きく転換させる触媒となった点にこそ、長篠城の本質的な重要性が存在する。
武田勝頼率いる大軍をわずかな兵力で食い止めた長篠城の籠城は、それ自体が戦術的な奇跡であった。だが、より大局的な視点に立てば、その真価は物理的な防御能力以上に、無形の戦略的価値を創出した点にある。すなわち、武田軍主力を長篠の地に釘付けにすることで、織田信長と徳川家康の連合軍に、万全の迎撃態勢を整えるための貴重な「時間」をもたらした。さらに、武田軍に長篠城攻略を強いることで、決戦の地を織田・徳川連合軍が周到に準備した設楽原という「空間」に限定させたのである 1 。
この籠城がなければ、武田軍はより自由に三河・遠江へと侵攻し、徳川家康は各個撃破の危機に瀕していたであろう。長篠城の抵抗があったからこそ、信長は3万という空前の大軍を動員し、馬防柵の設置や鉄砲隊の組織的配置といった、後の戦いの帰趨を決する準備を完了させることができた 2 。つまり、長篠城は単なる防御拠点ではなく、戦いの主導権を武田方から織田・徳川方へと引き渡す決定的な役割を果たした「戦略的触媒」であった。本報告書は、この視座に基づき、築城から廃城、そして現代に至るまでの長篠城の全貌を、あらゆる角度から徹底的に分析・解明するものである。
長篠城の歴史は、室町時代後期の永正5年(1508年)、駿河国の今川氏に属した東三河の国人領主・菅沼元成(すがぬまもとなり)によって築かれたことに始まる 2 。その立地は、軍事拠点として天与の条件を備えていた。豊川とその支流である宇連川(うれがわ)が合流する地点の、鋭く突き出した断崖絶壁の上に築かれており、城の三方が川に守られた天然の要害であった 7 。特に、城の背後(北側)は深い渓谷となっており、容易に大軍が接近できない「後ろ堅固」の地形は、この城の防御力を格段に高めていた 9 。
城の縄張りは、この地形を最大限に活用して設計された。断崖に最も近い場所に本丸を置き、そこから二の丸、弾正曲輪(だんじょうくるわ)、野牛曲輪(やぎゅうくるわ)といった郭(くるわ)を連ねる連郭式の構造が採用された 7 。この地理的優位性こそが、後に寡兵で大軍の猛攻に耐え抜くための最大の基盤となったのである。
築城主である菅沼氏は、同じく奥三河に割拠した奥平氏、田峯菅沼氏と共に「山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)」と称される有力な豪族連合の一角を成していた 5 。彼らの所領は、駿河の今川氏、三河の松平氏(後の徳川氏)、そして甲斐の武田氏という、当時を代表する三大勢力の勢力圏が接する緩衝地帯に位置していた。
この地政学的条件は、菅沼氏の統治に常に不安定な影を落としていた。彼らは長篠城という堅固な拠点を持ちながらも、単独で大国の軍事力に対抗することは不可能であった。そのため、時々の情勢を読み、より強力な勢力に従属することで家名を保つという、戦国時代の国人領主の典型的な生存戦略を採らざるを得なかった 5 。長篠城は、菅沼氏にとって地域の支配権を象徴する拠点であると同時に、大国の狭間で翻弄される彼らの宿命を体現する城でもあった。今川、徳川、武田と主家を変遷する長篠城の歴史は、まさにこの地域の国衆が辿った苦難の道のりを物語っている 2 。
長篠菅沼氏の運命を大きく変えたのは、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いであった。主君であった今川義元が織田信長に討たれたことで、今川氏の権威は急速に失墜する。この権力の空白を突いて三河統一を進める徳川家康の台頭を見た菅沼氏は、今川氏を見限り、家康の麾下へと入った 2 。これにより、長篠城は今川氏の東三河支配の拠点から、徳川氏の対武田・対今川戦略の拠点へとその性格を変えることになった。
しかし、徳川氏の下での安定も長くは続かなかった。元亀2年(1571年)頃から、甲斐の武田信玄による遠江・三河への侵攻(西上作戦)が本格化する。信玄の圧倒的な軍事力の前に、奥三河の国衆は次々と屈服していった。長篠城主・菅沼正貞も武田軍の猛攻に晒され、懸命に抵抗したものの、最終的には降伏を余儀なくされ、長篠城は武田氏の支配下に入った 2 。研究によれば、この時期の菅沼氏内部には家督を巡る争いが存在しており、そうした内紛が徳川方への内通や武田への降伏といった複雑な政治的判断の背景にあった可能性も指摘されている 13 。
戦況が再び徳川方に傾くのは、天正元年(1573年)の武田信玄の急死による。信玄という巨星を失った武田軍が甲斐へ撤退したのを好機と見た家康は、すぐさま反攻に転じ、長篠城を攻撃、奪還に成功した 2 。
この時、家康が下した判断は、長篠城の歴史における決定的な転換点となった。彼は長篠城を単に菅沼氏の旧領として取り戻すのではなく、来るべき武田氏との決戦に備えるための最重要拠点と位置づけたのである。家康は城に大規模な改修を施し、巨大な土塁や深い堀を新たに築造して、その防御能力を飛躍的に向上させた 7 。この改修によって、長篠城は国人領主の居城から、大名間の総力戦に耐えうる近代的な要塞へと生まれ変わった。
そして家康は、城主に新たな人物を任命する。それは、かつて武田氏に属しながらも、信玄の死を機に徳川方へ寝返った奥平貞昌(後の信昌)であった 2 。これは、裏切り者には厳しい処罰が常であった戦国時代において、帰順した者を重要拠点に抜擢するという家康の巧みな人事戦略を示すものであった。こうして長篠城は、徳川の威信と奥平氏の存亡を懸けた、対武田防衛の最前線基地として、歴史の表舞台に立つ準備を整えたのである。
表1:長篠城略年表
西暦(和暦) |
主な出来事 |
1508年(永正5年) |
菅沼元成により長篠城が築城される 4 。 |
1560年(永禄3年) |
桶狭間の戦い後、菅沼氏は今川氏から離反し徳川家康に属する 11 。 |
1571年(元亀2年) |
武田信玄の三河侵攻を受け、菅沼氏は武田氏に服属する 11 。 |
1573年(天正元年) |
武田信玄の死後、徳川家康が長篠城を奪還。城の大規模改修を行う 7 。 |
1575年(天正3年) |
奥平貞昌(信昌)が城主となる。5月、武田勝頼軍が城を包囲し、長篠・設楽原の戦いが勃発 11 。 |
1576年(天正4年) |
奥平信昌が新城城を築いて移転したため、長篠城は廃城となる 2 。 |
1929年(昭和4年) |
城跡の重要部分が国の史跡に指定される 11 。 |
2006年(平成18年) |
日本城郭協会により「日本100名城」に選定される 11 。 |
天正3年(1575年)5月、父・信玄の跡を継いだ武田勝頼は、徳川領への大攻勢を開始した。その主目標こそ、徳川方の最前線拠点である長篠城であった。これは、単なる城の攻略戦ではなく、日本の戦国史の流れを決定づける壮大な戦いの序曲であった。
表2:長篠城攻防戦における両軍の兵力と主要人物
|
籠城軍(徳川方) |
包囲軍(武田方) |
総兵力 |
約500名 1 |
約15,000名 3 |
総大将 |
奥平貞昌(後の信昌) |
武田勝頼 |
主要人物 |
鳥居強右衛門 |
馬場信春、山県昌景、内藤昌豊 など |
勝頼は、1万5000と号する大軍を率いて三河に侵攻し、瞬く間に長篠城を包囲した 3 。武田軍は力攻めだけでなく、兵站と退路を確保するために城の東に位置する鳶ヶ巣山(とびがすやま)に砦を築き、長篠城を完全に孤立させる鉄壁の包囲網を完成させた 3 。戦力差は30倍。長篠城の運命は、文字通り風前の灯火であった。
この絶望的な状況下で、城主・奥平信昌は降伏勧告を断固として拒否し、わずか500の兵と共に徹底抗戦の道を選んだ 17 。その決断の背景には、武田から徳川へ寝返った際に、人質として武田方にいた弟や許嫁を残酷に処刑されたという、個人的な悲憤があった 3 。もはや後戻りはできず、徳川への忠義を貫き通す以外に生きる道はなかったのである。
籠城戦は熾烈を極めた。武田軍は、鉄砲の銃撃を防ぐための竹束(たけたば)を前面に押し立てて堀際に迫り 20 、さらには信玄の代から武田軍が得意とした金堀衆(かなほりしゅう)を使い、城の土塁の下に坑道を掘って爆破・崩落させようとする「土竜攻め」を敢行するなど、多彩な攻城戦術で城を揺さぶった 21 。しかし、奥平軍は地の利を活かし、決死の覚悟でこれを防ぎ続けた。
攻防が続く中、城内の兵糧庫が火災で焼失するという致命的な事態が発生し、落城は時間の問題となった 24 。万策尽きた信昌は、最後の望みを託し、岡崎城の家康へ援軍を要請する使者を募る。この九死に一生の任務に名乗りを上げたのが、足軽身分の鳥居強右衛門(とりいすねえもん)であった 15 。
5月14日の深夜、強右衛門は城の西側から闇に紛れて脱出。武田軍が川に張り巡らせた鳴子付きの網をかいくぐり、豊川の川底を潜行して包囲網を突破した 25 。翌15日には岡崎城に到着し、信長・家康に謁見。3万を超える連合軍が出陣するとの確約を得ることに成功した 15 。彼は脱出成功を城兵に知らせるため、カンボウ峠から合図の狼煙を上げ、城内を歓喜させたという 25 。
しかし、吉報を携えて城へ戻る途中、5月16日の早朝、城の間近で武田の兵に捕らえられてしまう 2 。勝頼は、捕らえた強右衛門を利用して城を降伏させようと企む。「援軍は来ない、と嘘を伝えれば、命を助けた上に家臣として厚遇しよう」と、破格の条件で懐柔を試みた 2 。
この懐柔策は、城兵の士気を内部から破壊しようとする巧妙な心理戦であった。強右衛門は一見、この取引を承諾したかのように振る舞った。そして、城兵が固唾をのんで見守る中、城の対岸に立てられた磔柱に縛り付けられる。だが、彼が張り上げた声は、勝頼の期待を粉々に打ち砕くものであった。
「援軍はすぐそこまで来ている。あと二、三日の辛抱だ!城を堅固に守り抜け!」 2
強右衛門は、武田方が用意した最大の心理攻撃の舞台を逆用し、最も信頼性の高い情報源(生還した使者自身)から、最も確実な吉報を城内に伝達するという、情報戦における完璧なカウンターを成功させたのである。これは単なる忠義の発露に留まらない。自らの命と引き換えに、敵の心理作戦を無力化し、味方の士気を極限まで高揚させた、極めて高度な軍事行動であった。彼の絶叫は、籠城兵に「強右衛門の死を無駄にしてはならない」という強固な結束と、援軍到着までの具体的な時間的目標を与え、最後の抵抗を可能にした 24 。
激怒した武田兵によって強右衛門はその場で槍で突かれ、36歳の壮絶な生涯を閉じた。その自己犠牲の精神と忠義の姿は、敵である武田方の武将・落合左平次道次(おちあいさへいじみちつぐ)さえも深く感動させ、彼は強右衛門の磔の姿を自らの背旗(さしもの)に描かせたと伝えられている 28 。
鳥居強右衛門の命を懸けた報告により、長篠城の士気は最高潮に達した。一方、設楽原には織田信長率いる3万、徳川家康の8千(諸説あり)からなる連合軍が到着し、武田軍と対峙していた。長篠城の籠城は、この大軍の衝突に至るまでの全ての前提条件を創造したと言っても過言ではない。
設楽原において、連合軍は馬防柵と三重の土塁を築き、鉄砲隊を前面に配置して鉄壁の防御陣を敷いていた。武田軍の精強な騎馬隊も、この陣地を正面から突破するのは困難であり、戦況は膠着状態に陥っていた。この均衡を破ったのが、徳川の重臣・酒井忠次が献策し、信長が即座に採用した鳶ヶ巣山砦への奇襲作戦であった 2 。
5月20日の夜、酒井忠次率いる約4000の別働隊は、地元の地理に詳しい者の案内で険しい松山峠を越え、武田軍主力の背後へと静かに迂回した 31 。そして翌21日の夜明けと共に、武田軍の兵站拠点であり退路の要でもあった鳶ヶ巣山砦に奇襲をかける。不意を突かれた武田方は大混乱に陥り、鳶ヶ巣山砦を含む5つの砦は次々と陥落。これにより長篠城の包囲は解かれ、さらに重要なことに、設楽原の武田軍主力は背後を脅かされ、退路を断たれるという絶望的な状況に追い込まれた 2 。
この酒井忠次の奇襲作戦が成功した最大の要因は、武田軍主力が長篠城攻めに固執し、その場に釘付けにされていたことにある。武田勝頼にとって、父・信玄も落とせなかった長篠城を攻略することは、自らの威信を示す上で譲れない目標であった 1 。また、背後に敵の拠点を残したまま進軍することは軍事上の常道に反する。このため、勝頼は長篠城という「重し」から動くことができなかった。
まさにこの長篠城による「足止め」こそが、連合軍に全ての有利な条件をもたらした。連合軍は、武田軍が長篠城に手間取っている間に、設楽原という自らが選んだ決戦場に、馬防柵を二重三重に設置し 3 、3000挺(諸説あり)ともいわれる鉄砲を組織的に運用する戦術(いわゆる三段撃ち、その実在性には議論がある)を準備する、十分な時間的余裕を得たのである 39 。
結論として、長篠城の籠城は、設楽原の戦いという歴史的決戦のシナリオそのものを描いたと言える。もし長篠城が早期に陥落していれば、武田軍は得意の機動戦を展開し、連合軍は準備不足のまま野戦での決戦を強いられたであろう。長篠城が武田軍をその場に拘束したからこそ、酒井忠次の奇襲が活き、設楽原での組織的殲滅戦という、戦国史の転換点となる戦いが現実のものとなった。長篠城なくして、あの形の「長篠・設楽原の戦い」は起こり得なかったのである。
長篠城がなぜ大軍の猛攻に耐え得たのか。その答えは、英雄的な奮戦に加え、城そのものが持つ優れた防御構造にある。現存する遺構と近年の発掘調査の成果は、戦国末期の最先端の築城思想を雄弁に物語っている。
長篠城の縄張り(城の設計)は、本丸を中心に、東に野牛曲輪、北側に帯曲輪(二の丸に相当)、西に碁石川を挟んで弾正曲輪などを直線的に配置した「連郭式」と呼ばれる形式である 7 。それぞれの曲輪は、深く鋭い堀切(ほりきり)によって完全に分断されており、仮に一つの曲輪が敵の手に落ちても、次の曲輪で食い止め、連鎖的な陥落を防ぐ構造になっていた 9 。これは、地形を巧みに利用した中世山城の伝統的な防御思想を色濃く反映している。
しかし、長篠城の遺構で最も注目すべきは、その圧倒的な規模を誇る土塁と堀である。特に本丸の北東側に現存する大土塁と内堀は、徳川家康による大改修の痕跡と考えられている 7 。土塁は高さが最大で約7メートルに達し、発掘調査の結果などを踏まえると、築城当時は高さ約10メートル、堀の幅は約15メートル、深さは約6.3メートルにも及んだと推定されている 4 。
この大規模な土木工事は、従来の弓矢や刀槍による戦闘ではなく、鉄砲という新たな兵器の脅威を前提として設計されたものである。鉄砲の射程と破壊力に対抗するためには、防御ラインをより厚く、深くする必要があった。長篠城の巨大な土塁と堀は、まさに徳川氏の先進的な軍事思想と、対武田戦に懸ける並々ならぬ覚悟を物語る物証と言える。
近年の継続的な発掘調査により、長篠城の実像はさらに明らかになりつつある。城門の外側に設けられ、出撃時の拠点となる小郭「馬出し」の存在が確認されており、武田氏の城郭に特徴的な「丸馬出し」であった可能性も指摘されている 43 。また、城の外周部には「外堀」の痕跡も発見され、城全体が二重の堀で守られていたことが推測される 43 。さらに、籠城に不可欠な水を確保するための「貯水池跡」や、兵舎などの建物があったことを示す「柱穴」も検出されている 45 。
出土遺物もまた、籠城戦のリアルな姿を伝えている。特に、数多く発見された「火縄銃弾(鉛玉)」は、この城で激しい銃撃戦が繰り広げられたことを裏付ける直接的な証拠である 45 。加えて、天目茶碗や皿といった陶磁器類も出土しており、極限状況下にあった城兵たちの生活の一端を垣間見ることができる 45 。
これらの考古学的成果は、長篠城が単なる中世の山城ではなく、戦国末期の戦術の進化に対応してアップデートされたハイブリッドな要塞であったことを示している。城そのものが、戦国という時代の大きな転換点を体現する「生きた教科書」なのである。
長篠・設楽原の戦いという栄光の瞬間からわずか1年後、長篠城は突如としてその歴史的役割を終える。戦国乱世の激しさを象徴するかのような、あまりにも短い栄華であった。
天正4年(1576年)、長篠城の戦いを守り抜いた功績により徳川家康の長女・亀姫を娶り、信長から「信」の一字を与えられた城主・奥平信昌は、近隣の郷ヶ原に新たに新城城(しんしろじょう)を築いて居城を移した。これに伴い、長篠城は廃城となった 2 。
その理由は複合的であったと考えられる。第一に、籠城戦による城の損壊が激しく、修復が困難であったこと 16 。第二に、武田氏の脅威が遠のいたことで、最前線基地としての戦略的価値が低下したこと。そして第三に、断崖絶壁に囲まれた長篠城は、軍事拠点としては最適であったが、広大な城下町を形成し、平時に領国を統治する政治・経済の中心地としては著しく不便であったことである。一部には、城の北側に防御上の弱点があったためではないかという考察も存在する 46 。
この長篠城の放棄と新城城の建設という一連の流れは、戦国時代の「城の役割の分化」を象徴する出来事であった。戦時における軍事特化型の城は、平時が訪れると、統治機能を持つ新たな城にその座を譲る。これは、戦国大名の領国経営が、軍事一辺倒から恒久的な統治体制へと移行していく時代の大きな潮流を反映している。
廃城後、長篠城は歴史の舞台から姿を消すが、伝説の戦いの地として人々の記憶には残り続けた。江戸時代には、合戦の様子を描いた絵図や、城の縄張りを研究した図面が作成されるなど、歴史的な関心の対象となっていた 14 。
近代に入り、日本の歴史学が発展すると、長篠城の戦史における重要性が再評価される。そして昭和4年(1929年)、城跡の主要部分が国の史跡に指定され、公的な保護の対象となった 11 。
戦後、史跡としての整備はさらに進展する。昭和39年(1964年)には、帯郭跡に長篠城址史跡保存館が建設され、関連資料の収集・研究・公開の拠点として、今日までその役割を果たしている 11 。平成18年(2006年)には、日本城郭協会によって「日本100名城」の一つに選定され、その歴史的価値は全国的に広く知られることとなった 11 。
現在も、城跡では史跡保存活用計画に基づき、発掘調査や環境整備が継続的に行われている 45 。長篠城は、単なる過去の遺構ではなく、戦国の記憶を未来へと語り継ぐ、生きた歴史の現場として、今もなお息づいているのである。
長篠城の歴史は、永正5年(1508年)の築城から天正4年(1576年)の廃城まで、わずか68年という短い期間に凝縮されている。しかし、その短い生涯のうちに、この城は戦国時代という時代のあらゆる様相を映し出す鏡となった。
それは、大国の狭間で生き残りを図る菅沼氏のような国人領主の苦悩の舞台であった。徳川家康の天下取りへの布石となる、卓越した戦略眼が注ぎ込まれた要塞であった。奥平信昌と500の城兵が示した、絶望的な状況に屈しない不屈の精神の砦であった。そして、鳥居強右衛門という一人の足軽が、身分を超えて忠義を貫き、自らの命を燃やして歴史を動かした、壮絶な人間ドラマの劇場であった。
最終的に、長篠城が戦国史に刻んだ最も大きな功績は、物理的な城郭としてではなく、歴史の転換点において決定的な役割を果たした「触媒」としてであった。武田軍を足止めし、決戦の時と場所を定め、織田・徳川連合軍を勝利に導くことで、武田氏の衰亡と織田信長の天下布武の加速という、その後の歴史の流れを決定づけたのである。
今日、長篠の地に残る土塁と堀は、往時の激戦を静かに物語る。それは、単なる土の構造物ではない。日本の歴史を変えた人々の覚悟と犠牲、そして戦略の記憶が染み込んだ、永遠に語り継がれるべき歴史的遺産なのである。